第113話 冬の魔王
真白は夢を視ていた。
いつもの、悲しみに満ちた夢ではない。
魂に刻まれた、とある愚かな男の記録だ。
その男は魔導の深淵に踏み入りたかった。
動機は大した問題ではない。
純粋な知的好奇心だろうとも。
世界を救うためだろうとも。
どんな理由にせよ、魔導の深淵に踏み入るということは、人としての一線を越えるということである。
人が人であるための領域を越えなければ、魔導の深淵に踏み入ることはできない。
ならば逆説的に、人を辞めることができるのならば、それは魔導の深淵に近づくことにはならないだろうか?
そのように男は考えたらしい。
才能が足りず、魔力も足りず、挙句の果てには頭が足りない愚かな思考だった。
だがしかし、その男は口先だけは詐欺師の如く巧みだったのである。
「君のような美しい存在が、孤独に消えていくなんて認められない。どうか、君の一部になる栄誉を私に与えて欲しい」
男が狙ったのは、冬の大精霊だった。
冬の大精霊は文字通り、冬を司る精霊――その中でも特に力の強い個体である。
季節を正しく巡らせるため、秋の力を殺し、冷たい雪で実りを奪い去ってしまう悪い精霊。
それが、人々が冬の大精霊に向ける認識だった。
たとえ、冬の大精霊が正しく季節を巡らせるために活動していたとしても。
冬の大精霊は誰の、どんな生き物からも忌み嫌われる存在だったのだ。
だからこそ、その男は冬の大精霊に目を付けたのである。
「大丈夫! 私は他の有象無象と違って凍えたりはしないよ! 君への愛で心身が燃え滾っているからね!」
男は冬の大精霊が弱っている、春の時期を狙って声をかけた。
冬の大精霊は秋に復活し、春の始まりに死ぬ生態の存在である。生命と呼ぶには、自然に寄った存在である。
外見は髪も肌も真っ白な少女であるが、まともな人間が触れれば、それだけで凍えるような冬の化身だった。
それ故に、冬の大精霊の傍には誰も近づけない。
近づけたとしても、すぐに凍えて命を失ってしまう。
だから、冬の大精霊はいつも孤独だった。一人で生まれて、誰からも忌み嫌われて、孤独に死ぬ。そういう存在だった。
その男が付け込むには、絶好の『痛みを抱えた少女』だった。
「ほ、ほら! この通り、なんでもないさ!」
男は凍えながらも、精一杯の耐冷魔術を自身に施して、冬の大精霊を口説き落とした。
どれだけ強い力を持っていようとも、その心はろくに他者との交流がない少女に過ぎない。口だけは達者な男にとっては、篭絡するのは実に簡単だったようだ。
そう、男の計画通り、冬の大精霊は男の言葉ならば何でも信じるようになった。
「冬の間だけではなく、ずっと君と共に暮らしたい。そのための実験に協力してほしい」
男は躊躇いなく、冬の大精霊を騙した。
己が人間の領域を超えるための実験材料として使った。
冬の大精霊を取り込み、魂魄を強化することで、人間としての在り方を超越する。
そのはずだった。
「い、嫌だ!? 違う! 私! 私は! 止めろ! 私を消さないでくれ――」
誤算だったのは、男自身の器の無さ。
冬の大精霊を取り込むなんて無謀、男の脆弱な魂が耐えきれるはずが無かったのである。
その上、半端に取り込もうとした所為で、男の虚言が冬の大精霊にバレてしまったのだ。
『なんて愚か』
冬の大精霊は男と自分自身の愚かさを嘆いた。
『こんなに愚かなら、消え去ってしまえばいい。あの人も、私も』
嘆きのあまり、男の存在を消し去るだけではなく、冬の大精霊自身の存在も消し去ろうとした。こんな屈辱と後悔を抱えたまま、生きていくのも、もう一度復活するのも御免だと。
けれども、半端に混ざってしまったのが良くなかったのだろう。
冬の大精霊は完全に消し去ったつもりだった。
男の存在も、自分自身の存在も。
けれども、混ざり合った『何物でもない』部分は、冬の大精霊の消却から逃れ――結果として、二つの存在が消え去った後、生命として誕生することになったのである。
「愚かな有象無象ども、その全てを冬に埋もれさせてやろう」
男の傲慢と、冬の大精霊が抱いた失望。
それらが混ざり合って生まれた、世界を滅ぼす者――冬の魔王として。
後はお決まりの物語。
悪い魔王を倒すため、数多の人類の英雄たちが犠牲になって。
最後の最後に、『陽光の乙女』と契約した勇者が、紅蓮の剣で冬の魔王を打ち倒したという物語。
しかし、冬の魔王は季節がある限り不死身。
冬という季節が消え去らない限り、数百年単位で転生を繰り返し、世界を滅ぼそうとしてしまうのだ。
そして、冬の魔王が世界を滅ぼそうとすれば、紅蓮の剣を持つ勇者がそれを討つ。
そんないたちごっこを何度も繰り返してきたのが、真白が生まれた世界で。
――――音無真白という少女は、冬の魔王の転生体だった。
そういう夢を、真白は視た。
己の魂に刻まれた存在理由を思い出すための夢を視た。
「…………あー、なるほど」
真白は保健室のベッドの上で目を覚ます。
隣には付き添いの女子生徒――と見せかけた退魔機関の人間が一人。ベッドの下には、大翔が忍ばせた不可視の召喚獣が一体。
厳重な警備の中で目覚めた真白は、まず冬の権能を使った。
誰もに気づかれないように、そっと退魔機関の人間と、召喚獣の認識を凍らせる。
ほんの少しの間、愚痴を吐くために。
「確かに、私は冬の魔王だ。でも、世界を滅ぼすなんてしたくない」
今の真白は完全に冬の魔王としての力を使える。
冬の権能だけではなく、過去に冬の魔王が習得した数多の異能、魔術すら使いこなせるようになっている。
だから、真白は恐れながらもその力を使った。
魔人、九重美冬のパフォーマンスがどれだけ周囲に影響を与えているのかを知るために。
『音無さんが元凶だって? 馬鹿言うんじゃないよ』
『そうそう。そもそも、あの子が居ないと俺たち死んでいたわけで』
『いや、でも怖くないか? あの子が居た所為でこんな……』
『おいおい、敵の言葉を素直に信じるなよ?』
『つーか、仮に本当だったとしても、大翔の馬鹿がどうにかするだろ』
真白が拾い集めた言葉は、概ね真白の存在に肯定的だった。
かつての孤独のままだった真白ならば、このような反応にはならなかっただろう。大翔と共に、周囲に対して尽力したからこそ、真白を信じようとする動きがあるのだ。
故に、だからこそ、真白はくしゃりと顔を歪める。
「私は世界を滅ぼすなんてしたくない。でも、私が生きている限り、魔物が尽きないのは本当だ。私は、冬の魔王は、存在自体が世界を滅ぼす害悪だから」
声を震わせて、誰にも聞かれないように小さく。
誰にも見せないように、顔を掌で覆って。
弱音という名前の愚痴を、白い吐息と共に吐き出した。
◆◆◆
「音無真白は殺すべきだ」
「はい、駄目ぇー」
苦渋の表情で告げた九郎の言葉を、大翔は呆れたように切り捨てた。
退魔機関の人間が、幾重にも防音の結界を施した教室内での会話である。
会話を交わす二人以外、教室内には誰も居ない。
まだ薄暗い早朝の教室で、ろくに明かりも点けずに言葉を交わしている。
「佐藤大翔、俺は杞憂の類でそう言っているんじゃない。忌々しいが、あの魔人の言葉が真実だと理解してしまったからこそ、言わざるを得ないんだ」
薄暗い教室の中でも、はっきりとわかるほど九郎の表情は苦々しく歪んでいた。
「我々の組織が、音無真白と冬の魔物たちの類似性に気づいた。世界中に発生する魔物の根源は、間違いなく音無真白の中にある異能が原因だ。それを断たない限りは、ほぼ無尽蔵に魔物は発生し続ける……お前は勇者同盟と繋がりがあるようだが、それでも無尽蔵に増え続ける魔物と戦い続けるのは不可能だ。いずれ限界が来て、圧倒的物量に潰されてしまう」
九郎が語る想定は間違ってはいない。
無尽蔵に湧き続ける魔物の大群。
それをまともに相手にしようとすれば、勇者同盟でも息切れは避けられないだろう。
ましてや、退魔機関など、この世界の組織が冬の魔物の大群には耐えられない。
真白を放置すれば、世界が滅びる。
これは正しい予測だろう。
正しいからこそ、九郎の表情は苦渋に満ちているのだ。
「もはや感情論や、個人の事情を考慮する段階ではない。音無真白は危険すぎる」
「だから、俺にも手伝って欲しいと?」
「…………ああ、この状況で音無真白の不意を突けるのはお前しかいない。お前が音無真白の不意を突き、動揺に陥った数秒の間で、俺が殺す。奥の手である権能を使って、即死させる。それしか方法が見つからない」
加えて、今の真白を殺すには大翔の手助けが必要である。
奥の手を真白の前で晒した九郎では、ただ不意を突くだけではあっさりと動きを凍結させられてしまうだろう。魔人である九重美冬にそうされたように。
「三上君、君の凍結を解除したのは音無さんなんだぜ? そこら辺はどうよ?」
「…………恥知らずなのは承知の上だ。彼女を殺したら、返す刀で俺も腹を切って詫びよう」
今、九郎を満たしているのは悲痛なる覚悟だった。
より多くの人間を守るため、知人であり、恩人である少女を排除する。
それは、人間としてまともな感性を持つ九郎にとっては苦痛に値することだ。その後、本気で自害を検討してしまうほどに。
「はぁー、まったくもう」
その悲痛なる覚悟に対して、大翔が見せた表情はやはり呆れたものだった。
ただし、それは九郎を小馬鹿にするような意図の表情ではない。
「なんでネガティブな方向ばっかりに真面目なのかなぁ、君は」
真面目過ぎる故に、自縄自縛に陥ってしまっている九郎に対する、割と本気の怒りが込められた表情だった。
「なんで相談に来た最初から『殺そう』って結論になっているの?」
「いや、だが、それは急を要する問題で――」
「音無真白を何とか助けられないか? だろうが、最初は。なぁーに、勝手に結論を決めて、ネガティブな悲劇に俺たちを巻き込もうとしているんだか。まったく、失礼しちゃうぜ、本当にさぁ」
「えっ?」
思わぬ言葉に目を丸くする九郎を、大翔は強く睨みつける。
勝手に決めつけるな、と。
俺たちの結論を、勝手にお前たちのものと同じにするんじゃない、と。
「音無さんを助けて、世界も救う。まずはこれだろうが」
佐藤大翔という勇者は、当たり前のように前提を覆してみせるのだ。
「……そ、そんなこと――」
「そんなことできっこない、なんて言葉は聞き飽きたぜ。というか、基本的に俺の勇者としての仕事は、無理とか無茶とか、無謀と言われることばっかりだからね? この程度の理不尽に屈することの方が難しいのさ!」
戸惑う九郎に対して、大翔は力強い笑みを浮かべる。
無論、虚勢の笑みだ。いつだって確実に世界を救える手段などはなく、それでも虚勢を張りながら世界を救ってきたのだ。
故に、大翔は虚勢だろうが笑ってみせる。
――――冬の魔王を滅ぼすことが勝利条件だったとしても。
大翔は今、真白を殺して終わらせるようなつまらない結末にするつもりは無かった。
「安心しろ、三上君。君の目の前に居るのは勇者なんだ。君たちが怯える最悪なんて、鼻歌交じりに踏み潰してやる」
「…………っ!」
大翔の言葉に、九郎の覚悟が揺らぐ。
この緊急事態でなければ、九郎は揺らぐことは無かっただろう。
だが、今は違う。真白の異能制御から、襲撃して来た冬の魔物たちの撃退。その他、様々な出来事で退魔機関の予想を覆す存在。
様々な実績があるからこそ、九郎は大翔の言葉に――否、大翔という勇者に希望を見出してしまいたくなったのだ。
そう、今までの大翔の仲間たちと同じように。
「まぁ、心配しなくてもその方法は何通りかニコラスと一緒に考えているんだ。そのためにはまず、君の協力も――――ん?」
「ん? その、どうかしたのか?」
「…………」
従って、このままいけば九郎もまた、今までと同じように大翔に賭けてみようと思っただろう。そうするだけの期待が生まれていたはずだった。
「なんか、音無さんが行方不明になったみたい」
「――――は?」
真白が、このタイミングで姿をくらませなければ。




