第100話 ゲームセット
黒幕――浅井 結衣の記憶は、『お腹が空いた』から始まる。
狭くて臭い、アパートの一室。
床一面が見えないほどの生活ごみ。
ぶんぶんと部屋の中を飛び回る虫たちには、嫌悪感すら抱かないほど慣れ切っていた。
服装は粗末なTシャツと短パン。もう何日もまともに洗えていない。
食事は、それ以上にまともに取れていない。
鏡に映る自分自身の姿は、他の子供たちと比べて痩せていて、それ以上に汚い。肌を擦れば垢が落ちるし、野良犬のような臭いをしていた。それに、容姿だってろくなものではない。ぎょろぎょろと動く大きな瞳は、母親らしき何者かから『気持ち悪い』と殴られる口実になる程度には、歪なものだった。
つまり、浅井結衣という少女は――――どこにでもいるような、ありふれた生い立ちの子供だった。
どこでも耳にできるような、ありふれた悲劇の中の一人だった。
「お前みたいな奴が、俺の子供なわけがないだろうが」
父親は存在を否定した。
「貴方さえいなければ、私だって!」
母親は責任を放棄した。
従って、結衣は僅か五歳の時から、一人暮らしを始めることになったのである。
五歳の一人暮らし。
住処は、狭いアパートの一室。
資金は387円。
食料は生ごみが幾つか。
とてもではないが、まともに生きていくことができない。三日過ごせれば御の字。一週間も経てば餓死は確実。一か月は絶対に生き延びることができない。
そういう環境での一人暮らしだった。
「ごはん、たべる」
けれども、結衣は普通の子供ではなかった。
ありふれた悲劇の登場人物ではあったが、悲劇のままで終わらないだけの能力が、結衣にはあったのである。
「もらって、たべる」
運命の観測。
まだ幼かった結衣には、能力の全容は理解できていなかったが、それを使って『ばれないような盗み』をすることは朝飯前だった。
何せ、周囲の誰もが無能力者だ。
やせ衰えた子供でも、異能者ならば一般人をどうとでも転がすことができる。
無論、何でもできる万能の異能ではないが、それでも子供一人が騙し騙し生きていくことができる程度には、その異能は強力だった。
この異能が無ければ、結衣は子供時代を生き延びることができなかっただろう。
――――だから、結衣は己の異能を、運命を恨んだことはない。
結衣は賢い人間だった。
狡猾、と言い換えても問題ないかもしれない。
やせ衰えた肉体へと、十分な栄養を行き渡らせることができれば、その頭脳は子供とは思えないほどの活躍することになる。
資金の調達。
戸籍の偽造。
配下の手配。
大体、半グレと呼ばれる悪党たちにできることならば、結衣は五歳の時点でも悠々とこなすことができた。
そこから数年も経てば、地元の裏社会では立派な悪党の一人。
姿を見せないフィクサーとして、街を牛耳る程度のことは余裕で可能だった。
「や、やめろ! やめてくれ! お、俺はお前の父親だぞ!? 親を殺すのか!?」
そう、余裕ができたから、結衣は『後始末』をすることにした。
『復讐』と言い換えても問題ないかもしれない。
「ひ、ひぃいっ! 怪物! やめてよ! あ、アンタなんて! 産まなきゃよかった!」
あるいは、『自分の身元を特定できる人間』を消そうという、悪党としての合理的な判断だったのかもしれないが。
結衣はあっさりと自分の両親を殺した。
当時、同じぐらいの年齢の子供たちは『人殺しはいけません』などと、道徳の教科書を朗読していたかもしれないが、結衣はこの殺人を後悔していない。
喚く父親を。罵る母親を。
両親を殺したことに関して、結衣は珍しく『良いことをした』と気分を良くしていたのである。
何せ、両親は屑だ。
結衣の価値観ではなく、一般的な価値観で判断しても、結衣の両親は人間の屑だった。
まさしく、『生きている価値のない人間』だった。
生きているだけで、周囲を害し、誰かを貶めることしかできない人間。
ありふれた悪性の人間。
故に、子供時代のほとんどを悪として生きて来た結衣が、唯一己の善行として誇れることが、『両親を殺したこと』だったのである。
更に数年経てば、結衣は無敵の悪党として国家の闇に君臨していた。
住処は薄汚いアパートなどではなく、高級マンションの一室。
偽造した戸籍により、周囲から疑いの視線を向けらえることもない。
食事は毎日最高級の一品――と言いたいところだが、結衣の貧乏舌に高級品は合わなかったので、普通にスーパーで買った食材で料理を作って。
結衣は、概ね満足した生活を送っていた。
悪党として他者の人生を踏みつけて。
自分の障害となる悪党や正義漢を排除して。
運命を観測し、干渉することができる結衣は、まさしく無敵の存在だったのである。
「なんだ、子供だったのか」
朝比奈久遠という、勇者に出会うまでは。
●●●
朝比奈久遠について、結衣が知っていることは意外と少ない。
家族構成や、趣味趣向。行きつけの喫茶店。お気に入りの漫画や小説。人生で一番と決めている映画のタイトル。その他、久遠に関しての色々なことを調べ上げた結衣であるが、それでも少ない、と感じていた。
少なくとも、その本心を知ることはできないと。
何年も『相棒』として過ごしていてもなお、結衣は久遠について――自分が愛する存在のことを、何も知れていないと感じていたのだ
しかし、だからこそ結衣は久遠と共に在りたいと望んだのだろう。
不確定だからこそ、興味深い。
それは、結衣が久遠と初めて出会った時から続く、想いの形だった。
「子供、子供かぁ。子供を殺すわけにも……かといって、機関には手に余る異能だろう、これは」
「うぐぅ……」
久遠との初めての邂逅は、初めての敗北も伴っていた。
自分の運命観測にも見えず、運命干渉にも囚われない。そんな、流水の如き力を持った久遠の襲撃に、結衣は全く敵わなかった。
そもそも、異能に頼りきりで、他の技能を鍛えていない結衣の性能では、勇者として鍛え上げていた久遠の性能に太刀打ちできるわけがない。
久遠に異能が通じなかった時点で、結衣の敗北は決定づけられていたのだ。
「ぐ、う……そっちだって! 子供だろうが! 何を偉そうに!!」
「ほう?」
故に、結衣は吠えることしかできなかった。
久遠に組み伏せられ、一切の自由を失った結衣にできるのは、負け犬の如くきゃんきゃんと吠えることのみ。
「子供……そうか、子供か。確かに、俺は子供だったな……働きすぎて、自分でも忘れるところだった。思い出させてくれてありがとう、悪党」
「はぁ!? 何を訳が分からないことを!」
結衣は久遠が気に入らなかった。
自分と同じぐらいの年齢であるというのに、自分よりも遥かに強いことが。
自分と同じぐらいの年齢であるというのに、自分よりも遥かに大人びていることが。
「殺すなら、さっさと殺せ! 覚悟はできている!!」
「ほうほう、覚悟ねぇ?」
「なんだよぉ!?」
にやにやと笑う姿も気に入らなかった。
透き通るような茶髪も、天使みたいに整った顔も。
とにかく気に入らなくて、この後に来る自分の結末よりも、久遠に文句を言うことだけで頭がいっぱいになってしまったのである。
「わかった。なら、こうしよう――――悪党、君は俺の仲間になれ」
「…………は?」
だから、突如としてこんな提案をされてしまえば、結衣の思考が止まってしまうのも無理はなかっただろう。
そして恐らくは、この時すでに、結衣は久遠に心を奪われていたのだ。
結衣は久遠の下、観察処分を受けるという建前で働かされることになった。
運命の観測と干渉。
この異能の有用性に加えて、結衣がまだ小学生程度の年齢の子供でしかないことも踏まえて、特例としての処分である。
勇者として、既に過去に一度世界を救ったことのある久遠の進言もあり、結衣は己が犯した罪に反して、比較的軽い処罰を受けることになったのだった。
――――しかし、それは表向きの話である。
「うわぁああああああ!!? 世界最強クラスが!? 世界最強クラスの怪獣が襲ってくるんですがぁ!? 私たちの運命がほとんどデッドエンドに固定されたのですがぁ!?」
「そうか。じゃあ、今からその運命を覆しに行くぞ」
「一人で行ってください! 私は異能が使えないと無力!」
「はい、お前に『流動』でストックの一部を与えたから。一緒に戦うぞ」
「一人で戦ってよぉおおおおおお!! そっちの方が効率いいでしょぉおおおお!?」
勇者である久遠の仲間になること。
これが結衣に対して下された、本当の処罰である。
もっと生臭いことを言えば、久遠から『容赦なく使い潰せる仲間として、この悪党を起用したい』と頼まれたので、機関と呼ばれる組織がそのように融通したのである。
従って結衣という悪党は、名実ともに久遠の仲間として働かせることになったのだ。
そう、世界救済という、地獄の戦場を共に駆け抜ける仲間として。
「さぁ、行くぞ、結衣。失敗したら俺たちも死ぬし、世界が滅ぶ」
「うわあぁああ! 運命で保障されていない未来が怖すぎる!」
結衣は久遠に引きずられるような形で、幾度も冒険をすることになった。
異世界から来訪しようとしている怪獣の撃退。
隕石の到来と共に発生した、謎の生命体の駆逐。
滅びかけの異世界からやって来る、侵略者たちの排除。
それはもう、たくさんの冒険をすることになった。
運命を観測できる結衣でさえ、『運が悪かったら死んでいた』というしかない、そんな絶体絶命を何度も潜り抜けるような日々だった。
「ふぅ。今回もなんとかなったな、結衣。明日からは一か月ほど休暇が貰えるから、一緒に学校に行くぞ」
「嫌だぁ! ゆっくり休みたい! 学校なんかに行かずに休みたい! というか、絶対に休暇の予定だって切り上げられますよ!? だって、久遠さんの仲間になってから、休暇中とは何かしらの問題が起こりますもん!」
「その時は一緒に頑張るぞ」
「嫌だぁ!」
そんな地獄が、朝比奈久遠という勇者にとっての日常だった。
だからこそ、結衣は連れ合いとして選ばれたのだろう。善人を引きずり込むほど身勝手でもなく、悪人ならば死んでも問題ないと考える程度にはドライな勇者に選ばれて、結衣は久遠の相棒となったのだ。
過酷な日々だった。
結衣が過ごしていた幼少時代が、まだ生温く感じるほどの地獄だった。
世界の滅びは、何度も久遠の下にやってきた。
時に、久遠と共に異世界を回って解決方法を探さなければならないような案件もあった。
――――辛くも、楽しい日々だった。
例え、罪人としての観察処分中であったとしても、結衣にとって地獄の日々は間違いなく青春そのもの。
美しい少年と共に、世界の滅びに抗うジュブナイル。
運命を観測して干渉しても、思い通りに行かないような非日常。
いつしか結衣は、そんな日々を愛するようになっていた。
久遠という相棒と共に過ごす、破天荒な毎日を。
――――けれども、久遠にとっては?
結衣は自他共に認める悪党だ。外道だ。
他者が傷つくことに何の痛痒も覚えない。
世界を救う過程で、『どうしても殺さなければならない善人』がいたとしても、平然と殺して見せる。運が悪かったですね、程度の一言は付けるかもしれないが、特に感傷を抱くことはない。そういう精神構造ではない。
けれども、久遠は違う。
久遠は聖人と呼べるほど他者を尊ばないが、悪人と呼べるほど他者を見捨てない。
当たり前のように傷ついて。
当たり前のように裏切られて。
当たり前のように罵倒を浴びせられて。
それでも久遠は、何度だって世界を救うのだ。
そうすることが『良いこと』であると、信じているために。
「…………本当にそうなのですか?」
だが、久遠はそうは思っていなかった。
久遠の仲間となり、数多の人々と交流することになってなお、結衣の精神は変わらない。ずっと悪党のままだ。
だから、結衣にとって大切なのは久遠だけだった。
自分にとっての未知を教えてくれて。
自分にとっての心地よい既知も教えてくれて。
共に過ごしたいと思えたのは、久遠だけだった。
故に、結衣は耐えられなかったのだろう。
「本当に、世界は存続すべきなのですか?」
世界を救い続ける勇者が、傷ついていく姿に。
「――――いいえ。この世界は、久遠さんが擦り切れてでも存続させる価値なんてない」
だからこそ、世界崩壊は起こったのだ。
二体の超越存在を招き入れて。
邪魔者は全部排除して。
朝比奈久遠さえも打倒して。
一片たりとも希望は残さずにすり潰して。
たった一人の愛しい人へ、長い休暇をプレゼントするために。
●●●
これでチェックメイトだった。
黒幕である結衣は、仮想世界の中でほくそ笑む。
驚きの表情を浮かべる大翔へ、勝利の笑みを見せつける。
奇襲は失敗したが、そもそも結衣が単独の大翔に接触できた時点で、勝敗は決まったもの。
騒いで余計な奴を呼びかねない周囲の群衆も、結衣の魔術によって洗脳済み。
群衆を盾にしながら魔術ですり潰すのも。群衆を波として使い、そのまま踏み潰させるのも。何もかもが結衣の思いのままだ。
「お生憎ですが、佐藤大翔。私はこのような茶番に手間暇をかけません。そうですとも。こんなゲームはRTA染みた最速攻略で終わらせてやりましょう」
だからこそ、結衣は勝利を告げた。
死刑宣告のつもりで、勝利を告げた。
鬱陶しかった後日談もこれで終わり。
後は冬の女王を上手く使って、世界を滅ぼせばいいだけの簡単なお仕事。
これでようやく、朝比奈久遠にとっての休暇が始まる。
安らかな時間を与えることができたのだと、結衣はほくそ笑む。
事実、その通りだっただろう。
ここまで電撃的に動き、大翔にほとんど準備をさせないままに襲撃したのは、まさしく最善手と言ってもいい動きだったかもしれない。
「…………はぁー。なんだ、この程度か。ビビって損したぜ、まったく」
「えっ?」
そう、天涯魔塔を踏破する前の――成長する前の大翔が相手だったのならば。




