第十七話
今日の夜空はやけに澄んでいる。
あまねく星たちの光の輝きはより脳まで浸透し、雲は一つもなく、空気も特段美味しい。
前世と違って文明が発達していないからこその環境。
不便なことも多いが、前世じゃ見られなかった景色がある。
「……戻るか」
地下にある使用人区画の自室に戻ると、中には母さんがいた。
大切な人が俺を待ってくれていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「聞きましたよ。訓練に巻き込まれたって。イザちゃんには頑張って欲しいですが、体は大切にしてくださいね」
「うん。そうするよ」
気持ちのステップが変わったせいか、視界が晴れたような感覚を覚える。
大きなしがらみが取り除かれたと言った方がいいか。
だが完全にフリーになった訳じゃない。
自分がやるべきことがより明確になっただけだ。
そうだ。
折角だし聞いてみるか。
「母さん……もし、久しぶりにあった人が別人みたいになってたらどうする?」
「……んー。そうですね……生まれ変わった別人として接するべきなのかもしれませんが、私だと完全に過去と切り離して見れないと思います」
「というと?」
「どうしてもイメージが付いてしまっていますから。犯罪者が出所して更生しましたと言われても、はいそうですかでは済まないでしょう? バイアスを断ち切るのは難しいです」
「確かに、元犯罪者ってもし言われたら警戒しちゃうかも」
「良い方向でも悪い方向でも同じことです。例え表面上は仲良くしていても心のどこかで抵抗感はあるはずです。他人に対する価値観っていうのは、簡単に塗り替わるものではありません」
そう言われると俺もそうだったのかもしれない。
お嬢様がヒールデイズのときの姿と違うのはもっと前から気付いていた。
ただ本当に別人なのかの確証が得られなく、見て見ぬふりをし続けていた。
今だって完全に悪役令嬢じゃないと判断した訳じゃないが、悪役令嬢じゃないかもしれない……と思えるくらいにはなった。
これは全て、俺がお嬢様を間近で見ていたからに違いない。
「どうする? という問いだと私は何もしないとしか言えないかもしれませんね。具体的にどのようなシチュエーションで、どのような人がどうなったと聞かないと……。役に立てなくごめんなさい。母さん失格です……」
「落ち込まないで母さん。いつも感謝してるよ」
本心を伝えたイザヤ。
微笑んだと思ったら、セレスティナは何かを思い出したようだ。
「そういえば知ってますか? ちょっと小耳に挟んだことなんですけど」
「どんな内容?」
「いつかは分かりませんが、有名なお客様が屋敷にやって来るそうですよ。ミュリエルお嬢様のご友人であるティガルディ家の御息女……名前忘れちゃった……」
「……もしかしてだけど、『ガブリエル=ティガルディ』って名前だったりしない?」
「あっ! そうですっ! そんな名前でした!」
マジか。
そうか、そうだったな。
お嬢様とガブリエルは親友、だった。
「流石聡明なイザちゃんですね。知っていたのですか?」
「まあ、知っているっちゃ知っている……ね」
「凄いですイザちゃん!」
「……褒められることでもないよ」
しかしそうか。
ガブリエルをこの目で見れる日が来るのか。
とても楽しみになって来た。
「……そろそろ寝るね。毎日早いし。おやすみ、母さん」
「ええ。おやすみなさい」
日にちは過ぎていき、護衛訓練当日。
裏庭には二人の人影があった。
「今日から訓練を始めるぞ」
「あっウユリさん」
「どうした」
「先日は庇っていただきありがとうございました!」
そうしてイザヤは頭を下げる。
「……先日? 何かしたか?」
ウユリはイザヤの行動にはてなを浮かべ、問いを返す。
「夜になって帰って来た挙句、ボロボロになった俺とお嬢様が理由を問い詰められた際庇ってくれたじゃないですか。『あたしの訓練につき合わせた結果だ』って」
「そのことか。別にあの程度、どうってことはない」
「例えそうでもお礼は言わせてください。ありがとうございました……」
だって冷静に考えてみて欲しい。
お嬢様を見失い、差し詰め見つかったはいいもののお嬢様は汚れていて、足は震えて覚束ない。
ウユリさんに庇ってもらわなかったら、俺は何かしら罰を受けていたはずだ。
「ふっ……そうか。イザヤも自分を俺と言うんだな」
「あっ、しまった……仕事の感覚じゃなくてつい気が抜けてしまいました」
「別にいい、それで。力を抜いた方がいいだろう」
「……じゃあ、甘えさせてもらいます」
「ああ。訓練を始めるぞ」
「はいっ」
「といっても、やる内容は前回の延長だ」
「筋トレをするってことですか?」
「それと走り込みもしてもらう。ただし仕事に影響が出過ぎない程度にしよう。疲れてまたあのようなことが起きてはよろしくない」
「ははっ……そうですね」
痛いところを突かれてしまった。
「じゃあ早速やってみせろ」
ということで俺は言われるがままに筋トレを行った。
腕立てにスクワットにバービージャンプ等々……。
結果、草の上に仰向けで動けない少年が一人完成した。
「グハァ……ハァ……死ぬ……」
「人間意外とタフだからな。その程度じゃ死なんぞ」
「ウユリさんらしい……台詞ですね……」
「そうか」
「はぁ……それで、この後は? 走って来るんでしたっけ?」
「ああ。今日の残りの時間は全て走りに費やそう」
「分かりました……ここで」
裏庭は草原と言えるくらいに広さがある。
走るだけなら十二分の大きさだが。
「それだと味気ないだろう。街まで行って帰ってくればいい」
「街まで行くんですか!?」
「時間は沢山あるんだ。ここから街まで何分くらいだ?」
「えっと……歩きで……四十分くらいですね」
「だったら大丈夫だ。今から日没までの間、街まで行って出来るだけ走って戻ってこい」
「うわぁ……頑張ります」
呼吸が落ち着いたのち、イザヤは屋敷を飛び出し街まで続く道を走り始める。
一面自然が広がる中で舗装された道の上を走り続ける。
マラソンだなこれは。
明日に支障が出ないようとウユリさんは言っていたが、これは絶対支障出るって。
だが直接的な問題はない。
だって俺がお嬢様にあのような態度を取ったのは嫌われようとしただけで、訓練による疲労は関係ないからだ。
エトワール家の邸宅は街から多少離れた場所にあり、イザヤが言っていたように歩きで約四十分ほどかかる距離にあった。
その為街に到着した頃には、筋トレの疲労も相まって、歩くのがやっとになってしまう。
「はあぁ……駄目だ……少し歩くか……」
もう少しペースを落とすべきだったか。
折角だし、歩いて休憩しながら街中を眺めてみるか。
エトワール公爵領の中で一番巨大で栄えている街『スギレン』。
人口は五万程度で、オリフィラ王国王都を除けば、トップクラスに大きい街だ。
物流の中心地として栄え、エトワール領の名産品の中にブドウがあることから、ワインの名産地としても有名な街である。
久しぶりにスギレンに来たが、やはり人の活気が凄い。
屋敷との人口密度の差が半端ないよ。
今の時間だと見れないが、毎日開催される朝市なんかは特に凄い。
道によっては人が多すぎて先に進めないくらい集まることもある。
「――スムージーはいかがですか?」
惹かれる言葉を聞き、イザヤが声のした方を見ると、女性が店の前で何やら宣伝をしている様子。
「スムージー。花のエキスを使って作ったスムージーはいかがですかー!」
うわ、凄いお洒落な飲み物だな。
というか、この世界にスムージーが存在しているのだか。
本来この時代レベルだと存在しないだろうが、ヒールデイズはゲームだ。
その為文明を超えた物が存在していたりするのだが……これもその一種か。
花のスムージー、興味はあるが買うほどではないな。
この調子で街を半ば観光気分で歩き体力を回復したのち、イザヤは人通りの少ない場所を走り続けた。
そしてへとへとになりながらも走って屋敷まで帰って来る。
既に太陽は夕日に変わり、時間は丁度いい。
裏庭まで向かうと、そこにはある光景が広がっていた。
「……ウユリさん。何をしているんですか?」
「……ああ。イザヤ、帰って来たのだな」
「ええ……それで何をやっているんですか?」
「……ん? 何かって見れば分かるだろう」
確かに見れば分かる。
裏庭に巨大な焚火を作り、その火で鹿と猪と熊を焼いていることくらい。
「分かったうえで言っているんですよ! 裏庭でやっちゃ駄目でしょそんなこと!」
「……そうなのか」
「それに……みんな師匠が取って来たんですか?」
「あ、あぁ……待っている間に森で修行していたら遭遇したからな。いやしかし熊の筋力が凄いな」
「筋力……ですか? そりゃ凄そうですけど」
「実際凄いぞ。熊と押し合いになったんだが、あたしでも簡単に押し倒すことが出来なかったからな」
「はっ!? 押し合い!? 熊と!?」
「何かおかしいか?」
「おかしい部分しかありませんよ! 普通人間熊と押し合いなんかしたら負けて惨殺されますよ、惨殺!」
「鍛えていないからだろう。イザヤもそのうちあたしのようになれる」
えー。
人間卒業するんですか俺。
「……取り合えず、裏庭でバーベキューはやめてください……。燃え移ったら大変ですし」
「分かった」
しかし熊大きいな。
間近で見ると二メートルくらいあるぞこれ。
それに、熊のインパクトで隠れていたけど、猪も十分やばい。
というかこれ猪か? 本当に。
五メートルくらい大きさあるぞこれ……。
「今日の訓練は終わりだ」
「分かりました。お疲れ様でした、師匠」
「……ああ」
ウユリの反応がいつもと少し違う。
何事にも冷静沈着で表情を動かさないのに、照れているように見える。
イザヤが訝し気な目で見ると、ウユリは遮るように咳をした。
「コホンッ……イザヤ、剣を握りたいと思うか? 今すぐに」
「剣、ですか? 男として憧れ自体はありますよ? ただ今の俺じゃ剣を持ったところで意味がないとは理解してます」
「何故そう思う?」
「体力づくりをしているのは剣を覚えるための下地でしょう? 単純に身体を鍛える意味合いもあるでしょうが。何の下地の無い段階でやっても効果が薄いのだと俺は思っています」
「そうだな。いきなり剣を握って変な癖を覚えられても困る。何かを極めたいなら、下地や基礎を万全にすることが一番の近道だ」
やっぱりそうだったか。
そんな気はしていた。
俺がもし剣に憧れを強く抱いていたら、剣を早く握らせて下さい! って言っていたかもしれないが、そこまで剣、護衛に対し強い気持ちはない。
熱がそこまでないからこそ、筋トレや走り込みをしろという意図を読み取れた。
「……ときにイザヤ。さっきあたしのことを『師匠』と呼んだが……」
「ええ。もしかして嫌でしたか? ごめんなさい。立場と雰囲気で流されて言ってしまって……」
「そうではない。ただ……その呼び方を続けて欲しい」
「はぁ……分かりました、師匠」
もう一度師匠呼びすると、即座に顔をそらすウユリ。
顔は見えないがウユリは喜んでいる。
そんな気がした。