婚約破棄された令嬢は監獄で胃袋を摑みます
強いヒロインが好きだとあらためて自覚しました。
「ソレイユ・アースティン公爵令嬢! 貴様の非道の数々、もはや看過できん! よって私、リュンダル・ペントーレはここに婚約を破棄する!!」
「あら、まあ」
学園の卒業パーティで婚約者のリュンダル王子に婚約破棄を宣言されたソレイユは目を丸くした。
気持ちよさそうにソレイユの罪状をペラペラ読み上げているリュンダルの隣には、見知らぬ少女がひっついている。少女を守るようにリュンダルの側近たちが囲い込み、ソレイユを睨みつけていた。
薄い金の髪に潤んだ蒼い瞳。さくらんぼのように艶やかでちいさな唇は恐怖にかわななき、庇護欲をくすぐった。優越感たっぷりに少女を抱き寄せ、教科書を破いて捨てただの転ばせただの果ては暴漢に襲わせただのと断罪しているリュンダルは、すっかり骨抜きにされているようだ。
そんな稚拙な罪状で断罪しようなど笑止いこと。いじめなどというどうでもいいことに時間を割いている暇などソレイユにはなかったというのに、彼らは何を証拠に言っているのだろうか。
呆れと軽蔑のため息を吐きだしたソレイユに苛立ちがピークに達したのか、リュンダルはこめかみに血管を浮き上がらせた。
「こやつを連行しろ! 牢獄で頭を冷やすと良い!」
パーティの護衛騎士もグルだったのか、リュンダルの命令に戸惑うことなくソレイユを取り囲み、拘束しようとした。
ニタニタ笑うリュンダルの狙いは読めている。牢に入れて、女に飢えた男たちにソレイユを辱めさせようというのだろう。傷物にしてしまえば冤罪であろうと王子に嫁ぐことは不可能だ。
同じ想像をした数人の女生徒が悲鳴を上げ、急ぎ足で会場を出ていくのが見えた。
「わたくしには今殿下がおっしゃった罪などと言うものを犯した記憶はございません」
「とぼける気か! 私のアマレットがそう訴えているのだぞ!」
「名も知らぬ女生徒をわたくしが苛める理由がありませんわ。……ですが、殿下の仰せなれば従いましょう。行きますわよ」
とりあえず罪状の否認はしておく。後で「どうして否定しなかった」と言わせないためだ。ついでに全責任はリュンダルにあると言っておくのも忘れなかった。
ソレイユはまるで女王のような足取りで自分を連行するために呼ばれた護衛騎士を引き連れ、用意されていた護送の馬車に乗りこんでいった。
*****
ソレイユが収容されたのは重罪人が収監される最悪の監獄と名高いヴェルメイル監獄だった。
その最下層、鉄格子はおろか鍵さえも壊れて囚人たちが闊歩している階層の独房に、ソレイユは大人しく入った。
リュンダルの予定では抵抗するソレイユを放り投げるはずだったがソレイユは無駄な抵抗などせず、石を敷いただけの寝台とチャンバーポット、腐った水の入った水壺などを珍しげに眺めていた。
女性が来たことがなかったのかそれとも男性専用の階なのか、衝立すらなかった。ここで過ごせという命令が少女にとってどれほどむごいことか、連行した騎士でさえ眉を寄せるほどである。
薄汚い、苔の生えた寝台に腰掛けたソレイユを痛ましげに見つめ、黙って頭を下げると来た道を戻っていった。
「やれやれ。あの王子様、本当にわたくしに興味なかったんですのね」
一人になり、呟いたソレイユは小首をかしげた。
「……わたくしもね」
少し寂しげに、言った。
ソレイユは本当に、アマレットなる少女を知らなかった。そもそもあまり学園に通えていなかったのだから、リュンダルの寵愛がアマレットに向かったところで嫉妬のしようがない。そんなことを知りようもないところに彼女はいた。
「まあ、あんなのでも、あの三人がいない時じゃないと婚約破棄できないとわかるだけの頭はあったのね」
雑に言い捨ててごろりと寝台に横になる。石の台は冷たく、少し湿っていた。暗い天井を見上げたソレイユの眉が寄る。なんだかわからない虫が角に集っていた。
あの三人、というのはもちろん国王、宰相、外務大臣であるアースティン公爵である。ソレイユを便利使いしてまともに学園に通えなくしたのはあの三人狸だ。
「……?」
ぞろぞろと人の気配を感じてソレイユは身を起こした。ここの囚人だろう、どう見ても汚い以外の感想が出てこない男たちが、ソレイユの独房を覗き込んでいた。
「お……女だ……」
「女の匂いがするぞぉ……」
「へへへ……女……」
薄ら笑いを浮かべた男の群れは、淑女には恐ろしく見えるものだろう。だが、ソレイユはただ汚いと思った。食事も風呂も最低限なのか、とてもソレイユをどうにかできるとは思えなかった。
そういえばヴェルメイル監獄の別名は『死を待つ部屋』だったわ。ソレイユはのんびりと立ち上がると、男たちに向かって優雅に一礼した。
「ごきげんよう、死を待つみなさま」
顔を上げる。男たちの後方、わずかに表情を変えるまだ若い男を見つけた。
「わたくしと、パーティいたしましょう?」
にっこりと笑ったソレイユは、死に寄り添う乙女のような無垢な微笑みのまま、魔法を使った。
ソレイユと男たちの空間が切り離され、どこからともなく湧き上がってきた水が足元からせり上がる。
「な、なんだぁ……っ?」
「水、水が……」
水はどんどん増えて男たちの胸元まで迫ってきた。背の低い男は喉元まで来た水に溺れそうになっている。
「そんな薄汚い姿でレディの前に出るものではなくてよ。きちんと身を清めなさい」
真水なので冷たいだろうが、ソレイユの知ったことではない。
ソレイユの言葉に水責めで死ぬことはないとわかった男たちは、久しぶりの清潔な水に喜んだ。ざぶんと潜り込んで顔や手を擦り、大きく口を開けて飲む者もいた。
国王、宰相、公爵の三狸がソレイユを使う理由、それがこの空間魔法である。
他の魔法はたいして使えないが、この大容量の魔法空間があればソレイユは無敵だった。
この国は宝石、鉱石、魔石などが採掘されるものの、食料自給率が極めて低いのだ。
山の幸と獣肉、魚などではとても国民全員は賄えず、食料は輸入だよりである。
厳しい山岳越えも、過酷な海運も、人件費や食費その他を含めればそのぶん荷が増えて経費がかさむ。しかも往復だ。
それがソレイユ一人で全部解決、となれば、国が使わないはずがなかった。
せっかく学園に入学したのに通えていないのは、買い付けに同行していたせいである。
時間のある時にテストを受けて進級だけはできたが、ソレイユが期待していた友達はついぞできなかった。
せめて卒業パーティだけでも、と一人帰国を早めて、取るものもとりあえず出席したらこれである。ソレイユはなぜ今まで我慢していたのかわからなくなった。
国のためだと言われ、公爵令嬢の義務と押し付けられ、王妃にしてやると鼻先にニンジンをぶら下げられて、不満をなんとか堪えてきた。王妃になればそうたやすく外国に行くことができなくなる、その一心だった。
わたくしがどれほど国に尽くし、どれほどの価値があり、どれほど怒りを溜めているのか、あのアホ王子は知らなかったのでしょうね。
それどころか、ソレイユが休学して働いていたことに気づいていない可能性が高い。
何年も婚約者やっていて交流が片手で数えるほどしかないのを、おかしいと気づいて欲しかった。人が運んだ食料むしゃむしゃ食べて疑問にも思わないなんて、アホで充分である。
代わりといってはなんだが人夫たちとの交流でいささか口が悪いソレイユである。荷運びの救世主として幼い頃から可愛がられていたのだ。疲れにくい歩き方や馬の乗り方、気配の探り方にサバイバルなど、公爵令嬢として生きていくなら必要のない知識が増えた。それが今回は役立ちそうである。
「おーい嬢ちゃん、そろそろ出してくんねぇか?」
水風呂に入っていた男が言った。さっきの、後ろで眉をひそめていた若い男だ。見れば唇が紫になっている。
「あら、そうね」
ソレイユは水を消すと、空間魔法の中からタオルを取り出した。
「これで体をお拭きになって。新しい服はこちらに置いておきますわ」
男たちを閉じ込めていた空間は元に戻してある。濡れていない独房内にドサッと服を置いた。鉄格子の隙間から手が届く位置だ。
公爵家に仕える使用人への土産だったが、まあいいだろう。買った者がどうしようと本人の勝手だ。
「それにしても……貧相な体つきですわね」
びしょ濡れの服を脱ぎ捨て、タオルで体を拭いている男たちを見たソレイユは、恥ずかしげもなく言ってのけた。
頭どころか体まで冷えた男たちがぎょっとする。
豊かな金緑色の髪をハーフアップにして簪をいくつも差し、青から紫へとグラデーションになっているドレスには財力を見せつけるようにレースや宝石がついている。胸元を飾る大きなエメラルドと揃いの耳飾りは少女が着けるには重たい印象だが、不思議と違和感なく似合っていた。
あきらかに高貴とわかる令嬢が男の裸体を恥じらいもなく眺めているのだ。男たちのほうが恥ずかしくなる。
「……嬢ちゃん、アンタ何者だ?」
「ただの極悪人ですわ。パーティにしようと思いましたけれど、これでは消化に良いものにしたほうがよさそうですわね」
ため息と共に言って、ソレイユは片手鍋と魔法コンロ、ミルク缶を取り出した。コンロの魔石に魔力を流して火をつける。鍋にミルクを注ぎ込み、少し温めたところでパンを取り出した。ちぎって鍋に投入する。
「パンと……ああ、チーズがよろしいかしら? 蜂蜜もありますわよ」
突如はじまった料理に目を丸くした男たちの腹が鳴った。
「く……食わせてくれるのか?」
「パーティはみんなで楽しむものでしてよ」
「肉! 肉食いてえ!」
「お肉はまだいけません。お腹がびっくりしてひっくり返ってしまいますわ」
旅の道中で聞いた話である。その昔、大飢饉が起きたとある国のとある村では、死者が相次ぎ遺体を弔う体力も残っていなかった。やっと救援の食料が届き、痩せ細った村人たちは夢中で食べ――そして食べ物を消化できずに死んだ、というものである。
買い付けの旅では充分な食料を用意し街に宿泊するが、予期せぬ災害や魔獣に遭わないとも限らない。ソレイユはその話を忘れず、常に備えていた。
「そ、それは俺の村の話だ!」
「あら、まあ」
手を挙げた男にソレイユは魔法空間から一通の手紙を取り出した。
「ビソーク村のサンデルさんをご存知かしら? お母様からお手紙を預かっておりますの」
「お袋から!? 字が書けないのにどうやって……」
サンデルの震える手に手紙を乗せると、ごわごわとしたぶ厚い中身にハッとした。封を開ける。ソレイユの知る手紙と違い、蝋で留めたものではなく糊で貼り付けられていた。
現れたのは、便箋代わりの葉に包まれた、木彫りのお守りだった。葉はまるで今しがた摘んできたようにみずみずしさを保っている。サンデルが握りしめると良い匂いがした。
「母ちゃん……」
安全祈願のお守りだ、と言ったサンデルの目から涙が溢れた。
「あなた、何をしてここに?」
泣いているサンデルの代わりに仲間の男たちが答えた。
「俺たち、貴族の令嬢を襲うふりをしろって、金を渡されたんだ」
「鉱山で一旗揚げようとこの国に来たけど、出稼ぎ外国人ってだけで賃金下げられてさ……」
「都会に出てみたけど結局スリとか、裏仕事しかなくて」
彼らが言うには名前も知らない若い男が令嬢を襲えと依頼しに来たらしい。金に目が眩んで引き受けたもののすぐに捕まり、依頼人はどこにいるかも摑めなかった。
依頼人に見覚えはなく、顔も口元までフードを深くかぶっていて見えず、逮捕された彼らはそれを訴えたがロクな捜査もなくここの監獄に入れられてしまった。しかも受け取った金は使う間もなく逮捕時に没収されている。
嵌められたのだ、とソレイユは思った。
「しかも、依頼したのはなんとかって女だと言えって命令されてよぉ」
「そう言えば釈放してくれるって話だったのにこんなところに入れられて、満足に飯も食えねえ」
男たちのぼやきに、ソレイユはどこかで聞いたことがあるわ、と記憶を探った。そういえば、あのアホ王子は隣にひっついていた少女をソレイユが襲わせた、とか言っていた気がする。あまりにもどうでもいいので聞き流していた。
「……ソレイユ・オースティンという名前ではなくて?」
「あーそうそう、そんな名前だった」
「よくわかった、な……」
話の流れで気づいたのだろう、男たちが固まった。
「わたくしが、ソレイユ・オースティンですわ。あなたたちもあのアホの犠牲者ですのね」
充分ミルクを吸ってやわらかくなったパンをミルクごと皿によそい、そこにチーズを削って振りかけた。スプーンをつけて差し出す。
「ヴェルメイル監獄の最下層に入れるということは、生かして出すつもりはないのね。……外国人犯罪者に分ける食料はないと言いたいのでしょう」
味付けがチーズだけでは塩味が足りないだろうが、何日もまともに食べていないのならむしろ濃く感じるものだ。一口食べた男が目を潤ませ、泣きながらがっついた。
「うめぇ……。うめぇなあ……」
「あったけぇメシなんざ何日ぶりだ……」
「これで肉があったら最高だけどな」
ミルクとパンを追加し温めながらソレイユは男たちの事情を聞いた。
やはり、というべきか外国人ばかりで、犯罪といっても未遂や軽犯罪だった。厄介払いで入れられたとしか考えられない。
「……犯罪者は鉱山奴隷や農奴などの過酷な労働を課せられるのが一般的です。賠償金支払いのためにも労働が義務付けられています。監獄にいるのは裁判待ちか、死刑囚のみのはずですわ」
「貴族絡みの犯罪、外国人はここで口封じか」
「その場で始末するほどの度胸がなくて良かった、というべきでしょうか?」
「どうかな……。心が壊れるのが先か、死ぬのが先か。最悪なのに変わりはない」
一人だけいた若い男はマ・シュリと名乗った。黒い髪に褐色の肌、瞳は蒼いが見るからに外国人だ。
「それで、嬢ちゃんは何をやらかしたんだ?」
「わたくしはリュンダル王子の婚約者なのですけれど、王子の婚約者を殺そうとした罪でここに入れられましたの」
「……ん?」
マ・シュリの口がひん曲がった。言っていることはわかるが意味がわからない。
ちなみにソレイユが話しているのは大陸共通語である。訛りの強い言葉を話す者もいるが、旅慣れているソレイユは不便ではなかった。
「リュンダル王子の婚約者ってのはアンタだろう?」
「ええ」
「アンタがアンタを殺そうとしたのか?」
「殿下の言葉ではそうなりますわね」
ソレイユは優雅にミルクパンを口に運んだ。男たちが味の薄いミルクパンを食べている横で、自分一人だけ肉汁滴るステーキを食べるほどソレイユは図太くない。
チーズではなく蜂蜜を入れたミルクパンはほんのり甘かった。長い旅路でソレイユが体調を崩すと人夫はこれをよく作ってくれたものである。
マ・シュリがガリガリと頭をかいた。
「あーなんだ、つまり、王子は浮気して、そっちを婚約者にしたいってことか?」
「そのようですわねぇ」
どうなることやら。国王たちが帰国すれば特大の雷を落とされるだろう。それだけで済めば良いが、ソレイユをヴェルメイル監獄の最下層に入れたと知られれば、廃嫡どころか全員まとめて処刑もあり得る。
「……ずいぶん落ち着いてるな?」
「とんでもない。怒ってますわよ? ただ、ここにいればやりたくもない仕事をやらずに済むんですもの。わたくしの怒りが収まるまで、せいぜい困ればよろしいのですわ」
なにしろソレイユはこの国の食糧庫なのだ。
学園を卒業すればリュンダルとの結婚式、王子妃の公務が予定されていた。今後数年間、少なくとも一年はスケジュールが詰まっており、食料の買い付けには同行できない。
そのため数年分の食料がソレイユの魔法空間に収納されていた。もちろん食料は随時輸入しているが、なかなか行くことのできない海を越えた新大陸の香辛料はそうはいかない。個人的なものを含めて各地で買いこんできたのだ。
「買い付けに行くにも魔獣が出ますし、簡単にはいきませんわよね。わたくしがいれば空間魔法に収納してしまえば済むことでも、魔獣は冒険者に依頼することになりますし、運搬の荷馬車や船がいくつも必要になりますわ」
ふふふ、とソレイユは悪い顔で笑った。
ただでさえこの国の食料は高いのに値上げ待ったなしだ。それを引き起こしたのが王子の浮気となれば、民衆の怒りはリュンダルと浮気相手に向かう。どう言い訳するつもりなのか、とても楽しみである。
肩を揺らして笑うソレイユに、マ・シュリは蒼ざめた。
*****
ソレイユがいるからだろう、翌朝嫌がらせのように食事が出た。
焼いてから数日経過していそうなカチコチのパンと、野菜クズとベーコンのコマ切れがちょっぴり浮いた塩のスープである。もちろん冷めていた。
食事を持ってきた牢番はソレイユが『無傷』であることにホッとしたような、がっかりしたような表情を浮かべ、鍋とパンの入った籠を無造作に置いた。いつものことなのか囚人たちの様子を確認することもなく黙って去っていった。
ソレイユ以外は着替えているので見回りにこなくて助かった。それにしても、食事だというのに誰も何も言わなかったことをおかしいと思わないのだろうか。
昨夜で最下層の扱いはわかったつもりだったが、本当に死んでもいいと思われているのだ。
それを実感しながらソレイユは独房を出ると、パンとスープを味見した。
「……食べ物への冒涜ですわね」
噛みきれないパンはともかくとして、スープは余りを継ぎ足したのか塩辛すぎて飲めたものではなかった。残り物を食べさせてみじめさを味わわせようというのだろう。なんというか、やることがちいさい。さすがアホ王子なことはあるわ、とソレイユは呆れていた。
「どうするんだ嬢ちゃん。捨てるか?」
「まさか! そんなもったいないことできませんわ!」
空間魔法内に入ったソレイユは動きやすいつなぎに着替えると、彼女の膝までありそうな寸胴鍋を持って出てきた。もう一つ魔法コンロを出すとそちらには蒸し器を乗せる。
食べ物は空間魔法内に充分あるが、ここで食べ物を捨てたら負けたような気分になる。なによりこんな粗末なものでも命に繋がる一口なのだ。
「パンは蒸し器で温めて、少しでもふっくらさせましょう」
それから、と寸胴鍋に水を入れてタマネギ、じゃがいも、ニンジンを切った。
「ちょっと待った!」
マ・シュリがストップをかけてきた。
「なんですの?」
「なんですの、じゃねーよ! 今どうやって野菜切ったんだ!?」
ナイフもまな板も、調理台すらない。ソレイユは取り出した野菜の皮を手で一撫でして剝き、それをカットしたのだ。マ・シュリたちにはソレイユが触れただけで切れたように見えた。
「空間魔法の応用ですわ。こちら側とあちら側は時空が断絶されていますので、やろうと思えば何でも切れますのよ」
ソレイユには慣れた方法だったがマ・シュリたちはゾッとした。
昨日は空間に閉じ込められただけだったが、ソレイユがその気になれば真っ二つにされていたのかもしれない。貧相になっていて良かった、と心から思った。
「塩と野菜だけでは物足りないですわね。鳥も入れて出汁を取りましょう」
そう言って取り出したのは、首のないコカトリスだった。
鶏の頭に蛇の尻尾が付いた、猛毒を吐く魔獣である。最高ランクである白金級冒険者が数人がかりでも死者が出るといわれている。巨体のわりに素早く、コカトリスに出会ったら懺悔の準備をしろというのが冒険者のジョークだ。
首を落とした直後に収納されたのか血抜きもされていない。それどころかまだ蛇の尾がピクピクと動いていた。
「……嬢ちゃん、それは俺らがやる。アンタはパンとスープに集中してくれ」
マ・シュリの言葉に蒼ざめた男たちが激しくうなずいた。
コカトリス入りのスープは野菜の甘さ、鶏肉のコクと脂の甘さが合わさって深みのある味になった。
「鶏肉もほろほろになっていて美味しいですわね」
「鶏……? コカトリスって鶏でいいのか?」
「一応鶏じゃね?」
「いや、あれは蛇が本体だったような……」
「美味えからどっちでもいいわ、俺」
「久しぶりの肉がコカトリスたぁ贅沢だな」
「パンを浸して食うと美味いぞ」
上品にコカトリスのスープを食べるソレイユに男たちはこそこそ話し合っている。今頃になってソレイユが規格外であることがわかってきた。
コカトリスは大きいので使ったのはモモ肉の一部だけだ。残りはまた魔法空間に収納されている。
「マ・シュリさん、どうやって捌いたんですの?」
「刃物は取り上げられなかったんだよ。解体は慣れてるしな」
最下層なだけあって、自刃用喧嘩用に刃物の持ち込みは許可されているらしい。実に不愉快だが同志討ちでもしてくれたら費用が浮くと思っていそうだ。
ソレイユが宝石類を取り上げられなかったのは、彼女が公爵令嬢で一応まだリュンダルの婚約者だからだった。
「ときにマ・シュリさん」
マ・シュリは昨日でずいぶんとソレイユと距離を縮めてきた。今も隣に座ってパンをスープに浸して食べている。
「んー?」
「あなたのお国に行きたい、と言ったらどうします?」
マ・シュリが口の中の物を飲み込んだタイミングでソレイユが切り出した。こういうところにマナーの良さが出ている。
「…………」
マ・シュリは答えずに目だけでソレイユを窺った。
「なんとなく見覚えがあるのですけれど、お名前で確信しましたわ」
ソレイユは香辛料を買い付けた新大陸の国家を囁いた。
「……いいのか? この国はどうする?」
偽名を名乗ることもできたのに本名を告げたマ・シュリに、ソレイユは賭けてみようと思ったのだ。
「わたくしがいない十年前に戻ればいいだけですわ。……公爵令嬢として、と言われ続けて頑張ってきましたが、今回のことで萎えましたの」
同じ歳の令嬢が恋に学業に楽しんでいるのに、自分だけが国のために働いている。
平民の子供なら幼い頃から稼業を手伝ったり、学校にも行けずに働きに出るのは知っている。それでも、彼らには出迎えてくれる家族がいるではないか。感謝してくれる家族がいるではないか。親に決められた婚約者ではない、自由な恋愛ができる。
この国の人々が、貴族が、お腹いっぱい食べられるように。義務と使命感だけで頑張ってきた。
「ですが、ここはどうでしょう? わたくしはこの国の隅々まで恩恵が受けられるものと信じていました。外国人だからというだけで国元に帰すこともせず、勝手に死ねといわんばかり……。我が国は食料を輸入に頼っているのです。たとえ犯罪者であっても蔑ろにしていい理由にはなりませんわ」
しかもそれがリュンダルたちの企みに利用された被害者というならなおさらだ。平民であろうと国際問題に発展する。
「あなた、わたくしを攫うつもりでここに来たのでしょう?」
「……どうしてわかった?」
ソレイユとマ・シュリの不穏な会話に男たちが顔を見合わせる。
「まず、お若いこと。あまり痩せておらず、しっかりした体つきであったこと。手が綺麗で剣だこがあったこと。そして、お顔がとてもよろしいことですわ」
「顔?」
意外なことを言われたマ・シュリが目を丸くした。
「あなたのお国で、わたくしさんざん求婚されましたの。婚約者がいる、とお断りしましたが。よほどに魅力的ですのね、わたくしの空間魔法は」
その求婚者の中にマ・シュリもいた。見覚えがあったのはそのためである。
ソレイユを先回りしてこの国の社交界に潜り込み、色仕掛けをしようと思っていたところにリュンダルが婚約破棄する、という情報を摑んだのだ。さらに計画を調べてみればなんとヴェルメイル監獄に投獄するというではないか。急遽先回りしてここで待っていた。
笑って言い当てられたマ・シュリは渋い顔になった。
マ・シュリは新大陸にある大国に仕える男である。
亜熱帯のその国は大半がジャングルに覆われ、大型魔獣も多く出没する。そして、貴重な香辛料はジャングルで採れるのだ。
魔獣を瞬殺、収納できるソレイユの空間魔法は、喉から手が出るほど欲しい能力だった。
「何が望みだ」
ソレイユを連れて帰ることが国王命令だったマ・シュリには願ったり叶ったりだが、彼女が何の目的でそんなことを言いだしたのか、先程の理由だけではわからなかった。
「あら、言いましたでしょう? 萎えたんですの」
失望したと言い換えても良い。感謝して崇めろとまではいわないが、せめてもう少しくらい、こちらの気持ちを考えて欲しかった。
「殿下と結婚したらゴールと思っていましたけど、あちらが勝手にコースを変更してきたのです。しかもわたくしを悪人に仕立て上げて。でしたらお望みどおりに悪人になってさしあげるのが親切というものではなくて?」
「そうではない。あなた個人の望みはなんだと聞いている。我が国は遠く、気候も風習も違う。亡命したところで苦労は目に見えている」
「あら、まあ」
ソレイユはマ・シュリを見て目を細めた。
リュンダルに恋をしていたわけではない。好きになる時間すらなかった。
だが、期待はしていたのだ。夫となったリュンダルが、守ってくれることを。
裏切られた今、冷静に考えると、国の命令だろうと最悪の監獄と呼ばれるところに先回りしてまでソレイユを求めた男のほうが良く見えるのは当然ではないか。
それを思いつかないマ・シュリは基本的に善人なのだ。
「おわかりになりませんの? では、そうですわねぇ……わたくしの行動を制限しないこと、というのはどうでしょう」
ソレイユの細まった目に見つめられたマ・シュリは、蛇に睨まれたかのような寒気を感じた。
「こちらのメリットは?」
「あら、攫うつもりだったくせに、見返りを求めるんですの?」
マ・シュリはぐっと唇を引き結んだ。
「要相談で依頼を受け付けますわ。こき使われるのはもううんざり!」
強く吐き捨てた。自覚はなかったが長年のストレスが溜まっていたらしい。
「誰かのために料理をして、美味しいと言ってもらえるのがこんなに嬉しいなんて! わたくし、これから自分の「好き」を探します」
スープ皿におかわりを盛り付けて、男たちがやっているように直接皿に口をつけて飲み干してみる。行儀が悪いと叱る人はいないのだ。男たちは微笑ましそうにソレイユを見守っている。
「陛下たちが帰国するまであと五日……。誰かが連絡を入れていたら最短で三日ですわ。それまでに体力を取り戻して、全員でここを出るのよ!」
ソレイユの宣言に数人がスープを吹き出し、数人が噎せ返った。ビソーク村のサンデルは「鼻が! 鼻がぁ!」と叫んで転がった。
鼻からスープを噴出したサンデルは、赤くなった鼻を袖で押さえながら聞き返す。
「お、お嬢様! 俺らもご一緒できるんで!?」
サンデルは母からの手紙を律儀に保管し渡してくれたソレイユに恩義を感じ、純粋に懐いている。元は母に楽をさせたくて鉱山で宝石掘りになったのだ。大きな宝石が出て来れば商人が高値で買ってくれる。身を持ち崩しても素直さは失われていなかった。
「もちろんよ。あなたたちは、いってみればこの国にいちゃもんつけられてこんなところに捨てられたのよ? 出るのなら一緒だわ」
男たちがざわざわと顔を見合わせた。
それが本当なら嬉しいが、いったいどうやって全員で脱走するつもりなのか。一人ずつ逃げてもいずれ気づかれて監視が厳重になるだろう。
「待ってくれ嬢ちゃん、いくらなんでも全員は無理だ」
マ・シュリが言った。ソレイユだけなら連れて逃げられるが、さすがに全員で逃げたらすぐに足がつく。
「あら、大丈夫よ。空間魔法に収納すれば良いだけだもの」
だが、ソレイユはあっさりと解答を示した。
「それって普通に死なないか?」
「死なないわよ。わたくしが着替えたりお風呂に入ったりしているのはどこだと思ってるの」
「あ……っ」
そういえばそうだった。ほっと肩から力が抜けたマ・シュリににんまりと笑う。仲間意識を抱きはじめた男たちを見捨てて脱走することに、罪悪感があったのだろう。やはりそういう男なのだ。
「あなたの国に行くのはわたくし一人。それまで旅を楽しみましょう?」
みんなを故郷に帰す旅だ。はたしていつマ・シュリの国に着くのかはソレイユにもわからなかった。
「まだ連れて逃げるとは言ってないぞ」
「あら、まあ。それなら別にかまいませんわ。あなたを置いて逃げますから」
大言壮語ではなく実行できるのがソレイユである。してやられたことにマ・シュリが顔を歪めた。不快なわけではない。が、囚われの姫君を救出する騎士になるはずが、どうしてこうなったのか理解できない。理解の及ばない女に惹かれはじめたことが悔しかった。
「……まずは胃袋を摑むところからかしら」
頭を抱えるマ・シュリに微笑み、ソレイユが呟いた。
ソレイユ:口癖は「あら、まあ」。おっとりしているように見えるが周囲を良く観察して判断する。この度めでたくぶちぎれました。
脱獄後は男たちを家まで送っていき、なぜか隊商を組んで一大商会を築く。
空間魔法はほぼ無限大の大きさ。生きてるものから死んでるものまで収納可能。水は船に乗る前に大量に入れておきました。海水の中で魚も泳いでる。新鮮な魚介が楽しめます。
国庫で買い付けた食料は今までの給料と退職金として貰っておきますね。
マ・シュリ:祖国の社交界で好みのタイプを探った。実は王子の一人だが、ハーレムがある国なので王子はたくさんいる。王に命令されてソレイユを口説いたが、追いかけてきたのはマ・シュリ一人。見どころのある男だと思われてソレイユに惚れられる。この後胃袋を摑まれます。
リュンダル:宝石を売ってやっているんだから食料くらい売って当然、と考えていた。採掘し尽くした後のことなんか考えてない。
学園にいないソレイユに疑問を抱くことなくアマレットに骨抜きに。愚王一直線だったが廃嫡される前に各国から監獄の説明と賠償を求められて国がなくなった。
三狸:ソレイユがいれば費用削減できる、と甘く考えていた。最近採掘量が減ってきたので費用削減と外交努力でなんとか輸入していた。やっと帰国したら食糧庫が消えててびっくり。十年分の給料と退職金だと言われて帰ってこなかった。
これはいかん、と賠償を求められたのを機に国を分割譲渡。国民だけは守った。