蚊と酒とうわばみ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うわ、くっせえ。つぶらや、また殺虫剤まいただろ? 独特の薬の臭いがプンプンするわ。
気持ちは分かるがね。俺んちのあちこちも、知らぬ間に夏の間でかいた汗がきいているのか、小バエが現れたりするし。
あいつら、ピンポイントに手や打撃で仕留めようとすると、よくかわすからなあ。寝ている時とか、片手間に相手をしなきゃいけないとき、めちゃくちゃ面倒だ。広範囲無差別爆撃に頼る気持ちも、めちゃくちゃよくわかる。
ひと昔前だったら、蚊取り線香が主力だったろう。現在でもサブウエポンとして重宝するこれらは明治時代に誕生して、俺たち人間の夏に、ひとつの安らぎ空間を提供してくれたといえる。
じゃあ、それ以前はどうだったのか? 効果的な武器といえば、古典に記述される「蚊火」なるもの。ヨモギをはじめとした、当時より破邪の力を伝えられる植物を燃やし、その煙で虫たちを退けたが、煙が立つのはわずかに数分だったとか。
だが蚊への関心は何もマイナスな方向ばかりじゃない。プラスに作用することも、いくらかあったとか。
最近、少し面白いものを聞いてな。つぶらやも、耳に入れてみないか?
蚊は多く、二酸化炭素に引き寄せられるといわれている。
新陳代謝の活発な子供や若者。汗をかき呼吸が荒くなった者。そしてアルコールを多く摂取している者。
今回はこの、第三者に関わる話だ。
江戸時代の中ごろ。飲みどころが増えていた時代に、「今うわばみ」とあだ名された巨漢がいたらしい。
関取を思わせる、縦にも横にも長い貫禄ある体格。その恵体にありながら、走りはたいていの男よりも速いときている。ぶつかられたらひとたまりもなかった。
そして、底なしかと思うくらいに酒をかっぱかっぱとあける。一升瓶に口付けて、二本、三本と一気飲みしていく様は、見ていて痛快。もはやひとつの娯楽と化していたとか。
そのうえ、自分が飲んだ分はきっちり払うものだから、店側としても文句をいいようがない。別の客だと、ツケにされ続けた結果、踏み倒されるなんてこともままあったらしいからな。
ただその男の難点というのが、酒臭さとそれに伴う虫たちの寄り付き具合だった。
少しアルコールが入っただけで、どこからともなく蚊の羽音が、店内の空気を震わせ始める始末だったとか。
これはいけないと、彼が通う店々で特等席を設けられたという。といっても、人通りの少ない店の裏手に、格別頑丈な腰かけが置かれたりや、雨よけの傘などが差されるくらいで、店の中の席とほとんど変わりない。
念のため、勘定をもらう店員が控えるものの、外ゆえに虫もかえって彼の周りをプンプン舞う始末。
その不潔さに嫌な表情をのぞかせるのが、大半の店員。彼の見張り役は回りに回って、一番の新入りの仕事となった。洗礼というか貧乏くじというか、下っ端に押しつけたい雑用の一環とみなしていたんだろう。
その新人は、特に虫へ嫌悪感を抱かない奴だったという。話に聞いていた「今うわばみ」が、次々と酒をあけて追加の注文をするのを、淡々と承っていく。彼が飲み干すたびに、その周囲へたかる蚊たちは、どんどんその数を増していった。
これまでの店員たちは、ある程度のところまでいくと我慢ならず、自ら蚊を追い払いにかかったらしい。今うわばみの彼自身は、そのことに反応を示さないまま、ひたすら酒をあおっていたと。そしてその身体に触れて、機嫌を損ねたりしないよう、店員たちは気をつけていたと。
今回の新人は特に手を出さなかった。
先に話したように、彼は虫に対しての抵抗感はない。それに、頼まれた以上のことをする気もなかった。
しばらく様子を見ていたが、「今うわばみ」は増え続ける蚊に対し、いささかも嫌そうな気配を見せない。そして、飲み始めて半刻あまり(約一時間)で、他の客たちもぽつぽつつまみをかじる頃になっても、彼の注文はひたすらに酒のみだったという。
彼の身体からはすでに、店にある酒を何種類も混ぜ合わせた、米酒やイモ焼酎などの臭いがたっている。そこを取り巻く蚊たちは、もはや彼の身体をほぼ隠してしまう、ヤブのごとき密集具合と化していた。
――ヤブをつついて蛇を出す。そんなことはごめんだ。その後ろにウワバミがいることが分かっているならなおさらだ。
そう考える新人が我慢を重ね、ようやくウワバミが椅子を立ったのが、閉店半刻前のこと。
一応、ちょうちんはそばに備え付けてあったものの、うわばみの周囲に漂う蚊たちは、いささかもそちらへ流れようとしなかったとか。
ほとんど付きっ切りの棒立ちだった新人は、足にかすかな痛みを感じながらも、彼から勘定を受け取ろうとする。蚊の作る藪の中から伸ばされた彼の手から、きっちり金はもらったものの、店内へ戻ろうとした新人を、うわばみは呼び止める。
「お前さん、初めて見る顔だな。なのに、ここまで長く付き合ってもらったからには、別に礼をせにゃいかんだろう。仕事からあがったら、ここへ来てくれんか」
うわばみから指示されたのは、ここから遠く離れていない、金物屋の前だったとか。
興味半分、疑い半分の新人だったが、もし言葉に従わないで、後日あの巨体に迫られたら生きた心地がしない。
閉店してから、真っすぐに件の場所へ向かった新人は、閉ざされた金物屋の戸の前で仁王立ちする、うわばみの姿を捉える。
少し時間が経ったものの、うわばみの巨大な体にはまだ、何匹もの蚊が飛び回り、まとわりついている。ちらりと姿が見えた時には、すでに羽音も耳に入っていたほどだったとか。
うわばみは新人が来たことが分かると、周囲の蚊たちにときおり横切られる顔に、ニヤリと笑みを浮かべ、「来てくれたか」とひとりごちる。
「まずは確認したい。お前さんの住むのは、三丁目の『だいこん長屋』だろう?」
うわばみは一発で新人の住む長屋を言い当ててきた。新人は動揺を隠せない。
「お前さんは明日の朝、長屋で火事に遭うだろう。いや、厳密にはそこでそのまま過ごしていたらだ。今からどこへ動き、どう過ごしても、明け六つにお前さんは、火をかぶることになる。死ぬか死なぬかは、運次第だが」
うわばみの身体が、左右に大きく振れ始める。それを見て「酔っ払いが……」と新人が心の中で毒づくと同時に。
「酔っ払いのざれ言と笑うか? それならそれで構わん。
だがな、酔わぬとやっていられぬのよ。なまじ、目の前の相手たちが死にゆく様が見えてしまうとな。とても『しらふ』ではいられん。それがお前さんのような若い者なら、なおさら」
うわばみが、ぐっと拳を握り込みながら顔の前まで持ってくる。ほどなく、そのすき間からとぽとぽと、透明な液体があふれてくる。
先ほどからかいでいる、鼻をつく臭いが更に強まった。
酒だ。彼は自分の手のひらからいま、酒を漏れこぼしているんだ。
先ほどまで、うわばみが手のひらを濡らしていた気配はない。なのに、やがて開いた手のひらに、なみなみと姿をたたえる酒の泉を見ては、新人も背筋がぞくりとした。
でもそれで終わりじゃなかった。うわばみが開いた酒の泉の中へ、彼の周囲の蚊たちが、先を争って身を沈めては、飛び立っていくんだ。
初めの数匹は、全身から酒をこぼしながら、新人の頭の上や顔の横をすり抜けていった。その動きに目を奪われた一瞬で、両腕にかすかな痛みが走る。
見下ろした先には、自分の腕にたかる無数の蚊たちの姿があった。とっさに腕同士を叩き合わせて潰そうとするも、すぐさま彼らは腕を離れて、一匹の犠牲も出さなかった。
そして手首から二の腕にかけて点々と、蚊に食われた痕が膨らんでいく。
「後は酔いが導いでくれるだろう。唯一のお前の活路へな」
うわばみの声がするも、新人が顔をあげたときには、彼の姿はすでになかったという。
狐につままれた心地で長屋へ戻った新人だが、玄関をくぐったとたん、ひどいめまいに襲われる。
新人は飲み屋で働いているが、本人は下戸だ。一滴でも酒を飲もうものなら、たちまち天地がひっくり返りかねないようなめまいが襲ってくる。そう、ちょうどいまのような感覚で。
――あの、うわばみの蚊たちか!
飛び去って行った蚊のまとう酒が入ったか。あるいは、刺してきた無数の蚊たちか。
蚊は血を吸うばかりでなく、その前に自らの唾液を獲物へ送り込み、その効果で痛みに気づかせるのを遅くさせるというが、代わりに酒を……?
そのまま倒れられたら、どんなに楽だったろう。だが新人の足は、勝手に入りかけた家を出て、建物近くの井戸へ向かってしまう。ここに住まう者が共同で使う水源だ。
身体が蓋を強引にどかし、それなりの水かさのある井戸の中をのぞき込む。いや、それだけにとどまらない。
次の瞬間には乗り出し過ぎた自分の足が、地面から離れていた。いくらか下にあった水面が顔を叩き、遅れて身体が一気に濡れていくのを感じながら、新人は意識が遠のいていく。
「おい、大丈夫か?」
頭上から声が響き、目を開くと、井戸のふちからこちらを見下ろす男の姿があった。
「気がついたなら、手伝ってくれ。そこの長屋のぼやを消したいんでな!」
つるべは、新人の浮かんでいるところのすぐ脇にある。そこに水を汲み、上の男と協力して、何度も運んでいった。
やがて新人も引き上げられたが、その長屋の被害は、ちょうど彼の借りた部屋から出ていた。玄関の障子戸が特にひどく焼かれており、放火の可能性が指摘されている。すでに屋内も半焼状態で、彼がいつも眠っている部分まで、火が燃え盛っていたとか。
新人はもう一度、うわばみと話をしたかったが、どうやら河岸を変えたらしい。彼の勤める店には、二度と姿を現さなかったらしいんだ。