6 私の衝動(ノア)
コーウェン公爵家の嫡男である自分が、社交界である程度注目を集めるのは仕方ないとは理解していた。
それでも社交の場で誰かと言葉を交わすたび婚約はまだかと訊かれ、令嬢たちから鬱陶しい視線を浴びせられる状況には以前から辟易だった。
幼馴染だった母上に自ら求婚したという父上が、子どもたちもそれぞれ望む相手と結婚してほしいと考えてくれるのは有難い。
だが、もういっそのこと両親が適当な令嬢を選んで私に宛てがってくれないかと、近頃はたびたび考えた。
そんな中、我が家で夜会が開かれた。
始めのうちは迎える側として積極的に人々の輪の中に加わっていたものの、普段よりもさらに結婚の話題を投げられて早々にうんざりしてしまった。
両親は大勢の客たちに囲まれて姿が見えない。つまり、向こうからも私は見えていない。そう判断し、しばらく会場を離れることにした。
庭か休憩室に行っても良かったが、万が一次期公爵夫人の座を狙う令嬢がついてきて面倒なことになるのは避けたかった。
少し考えて、メイの様子を見に行くことを思いついた。
昔は我が家での夜会のたびに行方不明になったり、会場にこっそり入りこんだりして私たち家族を慌てさせた弟も、ここ数年はすっかり大人しくなった。
だが、今年から下の妹アリスも社交界デビューし、留守番はメイだけになってしまった。寂しい思いをしているかもしれない。
階段ホールの手前まで行くと、ケイトが柱の陰に隠れて階段のほうを窺っていた。
どうしたのかとその視線の先に目を向ければ、ひとりの女がそこを上っていく後ろ姿が見えて、呆気にとられた。
纏っているドレスからお年を召した女性が迷いこんだのかと考えてみたが、そんなはずはない。ドレスを別にすれば、間違いなく若い女だ。
「ケイト」
驚かさぬよう声をかけると、振り返ったケイトが眉を寄せた。
「若様、こんなところで何をなさっておいでですか?」
「メイの様子を見に来ただけだ。すぐに戻る。そんなことより、今はあれだろ」
「ああ、そうでした。どういたしましょう?」
「私が適当にお引取り願うから、ケイトは持ち場に戻っていいぞ。下手に騒ぎにしたくないから、母上にも黙っておいてくれ」
「承知いたしました」
私はそっと怪しい女の後を追った。
女は2階に着くと左右に伸びる廊下を眺めてから左に向かい、迷う様子もなくある扉を開けた。私の部屋の扉だ。
それで女の目的が知れた。部屋で私を待ち伏せし、ありもしない関係を捏ち上げて騒ぎ、次期公爵夫人に収まるつもりなのだ。
それにしても、なぜ私の部屋の場所を正確に知っているのだと、ゾッとした。
私は静かに女に近づき、彼女が扉を動かせぬよう抑えた。
ようやく私の存在に気づいた女が勢いよく振り向いた。
その焦げ茶色の大きな瞳に見つめられた瞬間、彼女に私の中のどこかを強く掴まれた気がした。
生まれて初めての感覚に戸惑いながらも、彼女から目を離せなかった。
美しさということなら彼女は私の姉妹に到底敵わないし、彼女より綺麗な女性もたくさん見てきた。
だが、彼女の顔は愛嬌があって可愛らしかった。例えて言うなら、一目見たら手を伸ばして触れずにはいられない小動物だ。
そんな風に考えたせいか、私の本能は彼女を捕獲しようと働き出した。彼女を部屋の中に追い込み、ソファに押し倒す。まさに私が最も避けたかったはずの状況だ。
そのうえ、いつも周囲に寄ってくる女たちの纏う香水や化粧の匂いとはまったく異なる彼女の甘い香りに誘われて、首筋を舐めることまでした。
せっかくの据え膳、このまま食ってしまうか。
だが、彼女が震えていることに気づいて冷静さを取り戻した。
彼女はこんな無粋なドレスしか用意できない貧乏貴族の娘で、自分の意思ではなく父親の命令でここに来たのかもしれない。
ところが、もう一度触れたくなる前に追い返してやろうとすると、彼女は「私をあなたの好きにしてください」などと口にした。
やはり彼女は訳ありらしかった。
名を問えば、こんな大胆なことをした令嬢だとは思えないほど綺麗な礼をしてから、スウィニー伯爵家のセアラだと答えた。
私は心中で首を傾げた。
スウィニー伯爵令嬢と聞いて私が思い浮かべたのは、少し前にしつこく私に近づこうとした女だった。
たが、あの女は派手好みで礼儀知らず。私がもっとも厭う種類の人間だ。無垢な見た目のセアラとは重なるところが少しもない。
同時に、スウィニー家についていつか聞いた話も思い出した。
スウィニー伯爵は1年ほど前に夫人を亡くし、直後に愛人だった女と再婚した。愛人との間には娘もいた。
そして同じ頃から、先妻の娘が姿を見せなくなったのだと言う。セアラはその消えた娘だった。
だが、腹違いの姉妹だとしてもやはりふたりの印象はあまりに違った。
あの女がスウィニー伯爵令嬢だというのは、あの女が嘘を吐いたか、私の覚え違いだろうか。記憶力には自信があるのだが。
不思議なことに、セアラを疑う気持ちは少しも湧かなかった。
とにかく、私はセアラから詳しい話を聞くことにした。
セアラは感情的になることもなく淡々と、この1年自分が置かれていた境遇について語った。それが彼女なりに自分を守る方法なのだろうかと思うと胸が痛んだ。
それにしても、この優しく触れて愛でるべきセアラの顔を、腫れあがるほど殴れる人間がこの世にいるなど信じ難い。
私がセアラを救わなければ。
だが、そのための手段に結婚を選んだのは、多分に私欲が含まれていた。
とにかくセアラが欲しい。
目の前のセアラに対して感じる、この体の奥がジリジリするような、だが少しも不快でない感情は何なのか。
その答えを考えているうち、ふいにひらめいた。きっとこれが、父上が母上に抱くのと同じものなのだ。
自分の中には父上のように一途にひとりの相手を求めるほどの強い感情は存在しないのだと思っていたが、違ったようだ。
今まで出会っていなかっただけなのだ。私の唯一に。
自分の気持ちを理解してしまえば、もはや躊躇うつもりはなかった。
セアラを理不尽な家族から引き離して、この腕の中に捕らえて、幸せにしよう。
その時、コリンがやって来た。つまり、私の不在が母上に気づかれたということだ。
だが、ちょうど良かったのかもしれないと思い直し、母上に部屋に来てもらうことにした。
先にセアラの意思を確認しなかったのは、ここで正攻法で求婚しても断られるだろうことが容易に想像できたからだ。
やがて母上が部屋にやって来た。その後ろに父上もいたのは私の予定どおりだ。
セアラを紹介した時の様子では、やはり母上もスウィニー家の噂は知っていたようだ。
セアラはふたりの前でも綺麗な淑女の礼をして、そつなく挨拶をこなした。おかげで母上のセアラに対する印象は悪いものにならなかったはず。
しかし、私が不安だったのは父上の反応のほうだった。
父上が家族として受け入れられる女性。それが私が結婚相手を選ぶにあたって最重視する条件なのだ。
部屋に入ってセアラに気づいた瞬間に、父上の顔からは表情が消えていた。だが、それは初対面やあまりよく知らない人間を前にした父上の常の態度だ。
問題はその後だったが、私の心配は杞憂に終わった。
私がセアラと結婚する、出会ったばかりだが彼女だと確信していると告げると、父上は私を祝福してくれた。
さらに、セアラが抗議や拒絶を口にしなかったどころか、私の両親に「よろしくお願いいたします」と頭を下げてくれたので、私は大いに安堵した。
こうして無事に私とセアラの結婚が両親とセアラに認められたので、私はもうひとつ考えていたことも実行に移した。
もっとセアラに相応しいドレスを着せてみたい。
そのためには父上の力が不可欠だった。父上は瞬く間にドレスを選んでくれた。
母上には首飾りを貸してほしいと頼んだ。
セアラの異母姉が欲しがったというものはセアラに似合わなかったが、代わりに母上が出してくれたものは彼女にぴったりだった。
母上にその首飾りの石は私の瞳の色だと言われ、そういう形で特別な女性に自分の印をつけることの悦びを初めて知った。
セアラの着替えはケイトに任せることになった。母上について来て廊下で控えていたケイトは、セアラを見ても知らぬふりをしてくれた。
ケイトにセアラの体にある痣の状態の確認も頼み、父上母上とともに部屋を出た。
「セアラには何か事情があるのでしょう?」
母上から想定どおりの問いが来た。
「前にロッティが話していたスウィニー家の消えた令嬢は、セアラのことよね」
そうか、あの話はロッティに聞いたのだった。
セアラの境遇についてふたりに隠すつもりはなかったし、隠したままでは次に進めない。だが、彼女が継母から暴力を振るわれていたことまでは、父上の耳に入れたくなかった。
もしも父上が知ったら、どんな反応をするのか読めない。衝撃のあまり2日くらい寝込むか、母上の胸の中で泣くか、膝を抱えてひたすら呪いの言葉を呟くか。
少なくとも目には目をという考え方をする人でないことはわかるが。
やはり、後で母上にだけすべて話そう。
「実は、家族から非道な扱いを受けていて、そのうえ継母がセアラを家から追い出そうとしているようなんです」
それを聞いただけで父上は目を潤ませてしまい、母上がその背を優しく撫でた。
母上にとってはおそらく予想の範囲内、私がぼかした部分までだいたい察したかもしれない。
「セアラを家に帰したくありません。今夜中にセアラと婚約を結び、このままここに迎えさせてください」
ふたりに向かって頭を下げた。
「うん、いいよ」
すぐに頭上から父上の声が聞こえて顔を上げた。
「ノアの大事な人は、僕たちにとっても大事な人だよ。今夜からは僕たちがセアラの本当の家族になってあげよう。必要な書類は、トニーにすぐ作ってもらうから」
まさにそれだと思った。
スウィニー家の人間をセアラの家族と呼ぶことには違和感しかない。
「そうね。だけど、ノア、できるだけあなたが自分でやりなさい。 必要なところは私たちも手を貸すわ」
母上は父上にはとことん甘いくせに、私のことはなかなか甘やかしてくれない。まあ、期待されているということだから最大限応えたいとは思っている。
それに、セアラと結婚して家族になりたいのは、他の誰でもなく私自身だ。
「ありがとうございます」
「とりあえず、皆にノアの結婚相手が決まったと伝えておくから、戻ったら紹介してあげて」
皆というのは、姉上夫婦とふたりの妹たち、それから叔父夫婦と叔母夫婦のことだ。
そう言えば、メイの様子を見に来たはずがすっかり忘れていた。もう寝てしまっただろうか。
そんなことを考えた途端、廊下の向こうで扉が開き、メイが顔を出した。
「やっぱり皆いる。どうしたの? まだ夜会終わってないよね?」
メイは嬉しそうに駆けて来ると、母上の腰に抱きついた。
「ノアが結婚することになったのよ」
母上が言うと、メイが目を丸くした。
「ええ、誰と?」
「今、中で着替えているから、終わったら紹介してもらいなさい」
「うん、わかった」
「僕も着替えたセアラ見たいな」
「もちろん、最初におふたりにお見せします」
「父上と母上はもう広間に戻るわ。メイ、挨拶したらベッドに入るのよ」
「はあい」
そうしてメイとふたりで待っていると、やがて部屋の中からセアラが出てきた。
やはり父上のドレスを選ぶ目は確かだった。
鮮やかな黄色のドレスは姉上のために作られたものだけど、セアラにもよく似合っていて、彼女の可愛いらしさを何倍にも引き立てた。
セアラとメイが言葉を交わしている間にケイトに確認したところによると、セアラの痣は思っていたほど酷くはなさそうで安心した。
さらに、私の部屋からできるだけ近い客間をセアラの部屋として用意することも頼んだ。
しかし、セアラに見惚れながら「女性は化ける」などという言葉だけでセアラを褒めた気になっていた私は、敗北感に打ちのめされることになった。
「セアラはとても可愛いですね。まるで花の精みたいです。僕が夜会に出られれば、ダンスに誘いたかったのに」
メイの言葉で、セアラは恥ずかしそうに頬を染めて微笑んだ。
父上母上と挨拶をしていた時にも微笑んでいたが、それとは明らかに異なる自然と溢れたような笑みだ。
とても心惹かれる表情だし、セアラがそんな風に笑えることは喜ぶべきなのだが、それを引き出したのが私ではないと思うとかなり口惜しい。
メイはいつの間に女性をさらりと褒める技術を身につけたんだ。そのうえ、私より先にダンスの約束をするなんて。
その約束が果たされるのは4年は先だと考えても、何の慰めにもならない。
メイを部屋に追い返したものの、今さら言葉を尽くしてセアラを褒めてみたところで、メイの後塵を拝すだけに違いなかった。




