5 これは始まり
家族と別れ、ノア様に手を引かれて大広間へと戻りながら、安堵の吐息が漏れた。
「あんな感じで良かったか?」
ノア様のほうを見ると、ノア様もこちらを見ながら首を傾げた。何となく可愛い。
「もっと徹底的に罪を暴いて、完膚なきまでに叩きのめして、2度と社交界に顔を出せないようにしても良かったが、セアラはそこまで望んでいない気がしたから止めておいた」
前言撤回。さらりと怖いことを言われた。
やっぱりノア様がその気になればそういうこともできるんですね。
「あれで充分です。本当にありがとうございました。それにしても、まさかあそこで婚約の書類にサインをするとは思ってもみませんでした」
「セアラをこのまま保護するにはあれが1番簡単だったんだ」
「ですが、 私の家族だけでなくノア様のご家族や他の方々にまで私と婚約するかのように誤解されてしまって大丈夫なのですか?」
私がそう言った途端、ノア様の表情が固まり、足も止まってしまった。
「セアラ、何か勘違いしていないか?」
ノア様の言葉で、私は自分の思いあがりに気づいた。
「申し訳ありません。ノア様が私と婚約なんて、どなたも信じていらっしゃいませんよね。私もノア様やコーウェン家にこれ以上ご迷惑をおかけしないよう、すぐに住み込みの仕事を探します」
お願いすればこのお屋敷で働かせてくださるかもしれないけれど、ノア様が本当の婚約や結婚をなさるところを近くで見るのはちょっと、かなり、ものすごく辛い。
でもいつか、ノア様やご家族に親切にしていただいた恩返しはしたい。
そんなことを考えていると、盛大な溜息が聞こえた。見れば、ノア様が思いきり顔を顰めていた。
「セアラは仕事などできない」
「この1年で色々できるようになりましたし、どうにかなるかと……」
「次期公爵の婚約者を雇うところなんかあるはずないだろ」
私が瞬きすると、ノア様の目が据わった。
「明日、陛下に書類を提出すればセアラは正式に私の婚約者だ。結婚もできるだけ早くするからな」
今度は私が固まった。
「あの、本当に私と結婚するつもりなのですか?」
「嘘の婚約では幸せになってスウィニー家を見返せないだろ」
「今、私、結構幸せですよ」
私は本心からそう言ったのだが、ノア様に睨まれた。
「このくらいでは全然足りない。セアラはこれからもっと幸せになる。私が幸せにする」
「ノア様が私のためにそこまでしてくださる必要はありません」
「セアラが言ったのだ。セアラを私の好きにしていいと」
「それは確かに言いましたが、私と結婚しても面倒ばかりで、ノア様の利にはなりません」
「生まれて初めて欲しいと思った女性が手に入る以上の利が、結婚にあるのか?」
「は?」
ノア様の言葉を理解するのには、少し時間がかかった。
ノア様が私を欲しい? それこそ勘違いでは?
「だいたい、本当に結婚するつもりがなかったら、両親には正直にそう話していた。セアラに対しても同じだ。今夜、私が吐いた嘘は、セアラの姉を覚えていない振りをしたことくらいだ」
私は瞬きした。
今夜、ノア様の口から聞いた様々な言葉を思い出す。あれらは全部、ノア様の本心?
「ええ?」
驚きのあまり思わず一歩退がろうとすると、ノア様に引き寄せられて逆に一歩近づく形になった。
「私のところに自ら捕らわれにやって来たのはセアラだからな。放してやるつもりはない」
ノア様の手が私の頬を撫でた。不機嫌そうな声とは裏腹の、まるで壊れ物を扱うような優しい手つきだ。
戸惑いが薄れると、次に私の心を満たしたのは悦びだった。真剣な眼差しで訴えてくるノア様の手を振り払うことなんて、私にできるはずがない。
「本当に私で良いのですか?」
「セアラが良い。もうセアラ以外は考えられない」
ふいにノア様の表情が歪んだ。
「セアラ、すまなかった。1年前に見つけてあげられなくて」
私は急いで首を振った。
「そんなこと、謝らないでください。今夜、ノア様に出会えた私は本当に幸運です」
「幸運なのは私だ。だからこそ、悔やまれる」
「ノア様、1年前に出会っていても、私を捕まえてくれましたか?」
「当たり前だろ」
「私も、ノア様を幸せにできますか?」
ノア様は一瞬目を瞠ってから破顔した。
「私も今、結構幸せだ。このままずっと傍にいて、私をもっと幸せにしてくれ。その代わりに、セアラがこの1年で失ったより多くのものをあげると誓う」
「ノア様のお傍にいられるのなら、他には何も望みません」
「それではつまらない。セアラのためなら何でもするつもりなのに」
そこで私はふと思い出した。
「あの、ですが、私の実家に援助していただくのは……」
ここで「申し訳ない」と続けたら、また怒られそうだ。
「いや、両親には報告するが、援助をすることはない」
ノア様はきっぱり言った。
「あの家は金に困ってなんかいないだろう。でなければ、この1年で何着もドレスを新調することなどできない」
私は目を見開いた。あの時の違和感はそれだったのか。
「だいたい、セアラの母上は本当に浪費家だったのか?」
「母はもともと体が弱くて、そのことを父に対して後ろめたく思っておりました。ですから私の知る限り、母が求めたものは新しい本や刺繍糸くらいだったと思います。ただ、母の持ち物は質の良い高価そうなものが多かった気がします。それから、薬代は決して安くはなかったかと」
ノア様は何やら思案する様子だった。
「スウィニー家を少し調べてもいいか?」
どうやって? とは思ったが、きっとノア様にとってそのくらいのことは簡単なのだろう。
「ノア様にお任せします」
私が言うと、ノア様は小さく頷いた。
再び歩き出し、大広間へと入った。
「さて、夜会ももうすぐ終わるし、最後に1曲くらい私と踊ってくれるか?」
「喜んで、と言いたいところですが、何せ1年振りなので上手く踊れるかどうか」
「大切なのは私とセアラが踊る姿を会場中に見せつけることだ。セアラはただ私だけを見つめていればいい。あとは私がリードする」
ノア様が大真面目に言うので、私は笑ってしまった。
「わかりました。喜んでお受けいたします」
そのままノア様に手を引かれ、ダンスの輪に加わった。
ノア様に言われたとおり、私はノア様のお顔を見つめることに集中した。ノア様も私を見つめていた。
「何だ、ちゃんと踊れるんじゃないか」
「はい。体は覚えているものですね」
私は嬉しくなったが、なぜかノア様はムッツリとした。
「1年前はあの男と踊っていたのだな」
「アダムのことですか?」
「あいつが好きだったのだろう?」
これって嫉妬? ノア様が?
「もう何とも思っていませんよ」
「向こうはそうでもなさそうだったぞ。化けたセアラを見て目を丸くしていた。何と言っても、幼馴染は油断できない」
「なぜですか?」
「父上と母上が幼馴染だからだ」
なるほど、と納得しかけるが、ノア様のご両親と一緒にされても困る。
「それなら、マクニール次期侯爵夫妻も幼馴染なのですか?」
「いや、あのふたりは夜会でお互いに一目惚れしたんだ」
それも素敵な馴れ初めだ。いつか詳しいお話を聞いてみたい。
「でも、とても仲がよろしいように見えましたが」
「そうだな」
少しは安心してもらえただろうか。
そのうちに、曲が変わった。でもノア様にその場から離れる様子はなかった。
「もう1曲踊るぞ」
同じ相手と2曲も踊れば、ここにいる方々にふたりが特別な関係だと示すことになる。ノア様は本当に見せつけるつもりのようだ。
もちろん、私には拒否できない。笑って頷くだけだ。
ほんの数時間前まで、私を待っているのは暗い未来だと思っていた。
素敵なドレスを着て、たくさんの令嬢たちが憧れる次期公爵の婚約者になって、その人と笑いながらダンスをするなんて想像もできなかった。
鼻の奥がツンとして、堪える間もなく涙が溢れた。
「セアラ?」
途端にノア様が不安そうな表情になった。
「ノア様、これは一夜の夢ではないですよね? 夜会が終わって、このドレスを脱いで、一晩眠って明日の朝が来ても、まだ続きますよね?」
ノア様が柔らかく微笑み、私の目尻をそっと拭った。
「これが永遠に醒めぬ夢なら、セアラからずっと離れずに済んだのにな。だが、残念ながらこれは現実だ。明日の朝になれば、私はセアラをこの家に残して宮廷に行かなければならない。セアラ、大人しく私の帰りを待っているんだぞ」
私の頬が緩んだ。
「はい。そういたします」
「そうそう、これも伝えておかないとな。私の部屋の隣には夫婦用の寝室がある。さらに隣がセアラの部屋になる」
私はこくりと頷いた。
「しかし、残念ながらこの2部屋はまだ用意が整っていない」
それはそうだ。こんな唐突にノア様が婚約して、しかもその夜から相手が同居するなんて誰にも予想できたはずがない。
「そんなわけで、セアラには当分の間、客間を使ってもらうことになる」
「こちらに置いていただけるだけで有難いのです。もちろん客間で構いません」
ノア様が不満そうに口を尖らせた。
「何なら、私の部屋のベッドにふたりで寝ることは可能だぞ」
この人は、また可愛い表情でとんでもないことを言った。
「いえ、結婚までは客間を使わせていただきます」
「そうか、わかった」
ノア様は肩を落とした。
夜会が終わると、ケイトが客間に案内してくれた。
きちんと整えられたベッドの上に寝巻が置かれていた。クローゼットの中には普段着のドレスなども用意されていると説明された。
湯浴みをし、寝巻姿になったところでノア様がやって来たので、慌ててその上にガウンを羽織って迎えた。
ノア様のほうはお客様のお見送りなどをなさっていたので、まだ正装のままだった。
何だか、私だけ魔法が解けてしまったような気分になった。
すぐ自室に戻るつもりだからか、ノア様は扉から数歩入っただけで足を止めた。私はその傍に立った。
「寝巻のサイズは大丈夫か? ロッティ用の未使用のものらしいが」
「はい。問題ありません」
丈はやや長めだが、胸やお腹は苦しくない。
「父上が、あのドレスは窮屈だったみたいで申し訳ないと仰っていた」
私は目を瞠った。
「気づかれていたのですか」
ノア様は少しだけ口惜しそうな顔をした。
「父上はそのあたりよく見てるからな。家族限定だが」
私はもうコーウェン家の家族だと思ってもらえているということだろうか。何だか胸のあたりが温かくなった。
「セアラ」
ふいに低い声で名を呼ばれ、ノア様が距離を詰めてきた。
その両手が私の肩に添えられ、ノア様のお顔がさらに近づいた。私はギュッと目を閉じたが、予想していたものはこなかった。
間違えたかと思いそっと目を開くと、ノア様は鼻が触れ合いそうな位置にいた。
「いいのか?」
ノア様の口から出た言葉が吐息として私の唇に触れた。
「ここで訊くのですか?」
「今はただ、いいと言ってくれ」
「……いい、ですよ」
ノア様の口づけは触れたかどうかわからないほど短かった。と思ったらすぐにもう一度唇が重ねられた。
それは少しずつ角度を変えながら何度も何度も繰り返された。
最後にペロリと唇を舐められてようやく口づけが終わった時には、私はすっかりノア様の腕の中に捕らえられていた。胸の鼓動が壊れそうに速い。
足元がふわふわしてしまい、ノア様の背中に両手を回してしがみついた。
やがて、ノア様が私の耳元で囁いた。
「セアラ、やはり私の部屋に来ないか?」
「それは、また今度にします」
「何もしないと約束しても?」
「約束しても」
「そうか。そうだな」
ノア様は嘆息しながら私の体も解放した。
「じゃあ、おやすみ、セアラ。また明日」
「はい、おやすみなさいませ、ノア様」
もう一度だけ私の唇を奪い、ノア様はようやく客間を出ていった。
扉が閉まると同時に、私はへたり込んで火照った顔を両手で覆った。
まだ始まったばかりでこれなんて、これから大丈夫だろうか。