おまけ 林檎の木の下で
満開の林檎の花が一面に広がる光景は本当に素晴らしかった。できることなら、しばらくはこの白い花の世界に浸っていたい。
だけど、私の意識をお花見に集中させてくれない存在がいる。
「ノア、もう少し離れてもらえませんか」
「大切な妻に寒い思いなどさせたくない」
私の耳にノアの唇が触れる距離で返事が来た。ノアは私を後ろから抱きすくめているのだ。
コーウェン公爵領は都より北に位置し、さらに山が近いので標高もやや高く、その分気温が低い。
とはいえ、すでにこちらも春の盛り。決して寒くはない。
「お気遣いは嬉しいのですが、たくさんの方たちに見られていますから」
私たちがこの林檎農園を訪れることは周知されていたようで、多くの領民が遠巻きに様子を窺っていた。
「皆、初めて見る次期領主夫人に興味津々だな」
「初めてがこれでは、きっと私は優秀な次期領主を堕落させた悪女と認識されますね」
私は暗澹たる気持ちで言ったのに、ノアは私の耳元で笑い出した。
「悪女? セアラが?」
「何が可笑しいのですか? そもそも私は首飾りを盗もうとしてあなたに捕まった女ですよ」
「そういえばそうだったな」
ノアはひとしきり笑ってから、私を腕の中に囲ったまま私の前へと回り込んできた。おかげでノアの体に林檎の花がほとんど隠されてしまった。
「いいか、セアラ。彼らは長年、父上と母上を見てきたんだぞ。ここで暮らす者たちにとって、領主夫妻の仲が良いのは当たり前。だから私たちもこういう姿を見せて、安心させてやらなければならないんだ」
確かにおふたりはとても仲睦まじい。
それに、こんな風にたくさんの人に見られているところではお父様が固くなってしまい、お母様がさりげなく助ける形になるのも想像に難くない。
けれど…….。
「お父様は決して人前でむやみにお母様に抱きついたりはなさいません。おふたりはきちんと場を弁えていらっしゃいます」
私たちの前でだって、朝晩のお見送りやお出迎えの時だけだ。
「さすが、よくわかっているな」
ノアはむっつりとしながらも、どこか嬉しそうだ。
「では、私たちも父上と母上に倣うとしよう」
そう言ってノアはようやく私の体を解放し、横に並んでしっかりと手を繋いだ。
このくらいなら、きっとお父様とお母様もしているだろうと納得できる。
再び視界いっぱいに白い花が広がり、私は今度こそうっとりとそれを見つめ、たいのにノアが横から邪魔するように囁いた。
「言っておくが、領民たちの前でこれ以上離れたら、不仲を疑われるからな」
思わず花からノアの顔へと視線を移してしまった。
「そんな大袈裟な」
「事実だ。母上は『早く仲直りしてください』と言われていた」
ノアは目を細めて笑った。
「わかりましたから、そろそろ林檎に集中させてください」
私は再び目を林檎の花に戻し、だが何となく気になってまたノアを見ると、じっとりと睨まれていた。
「新婚旅行だというのに夫より花に夢中とは、確かにセアラは悪妻だ」
私は目を瞬き、体ごとノアのほうを向いた。
「私に満開の林檎の花を見せたいからと結婚を春に決めたのは、ノアだったと思いますが」
「ああ。まったく、冬のうちにしておけば妻を花に奪われたりせず、寒さを理由に抱き合っていられたのにな」
寒い中の長旅は大変だから普通は冬に新婚旅行などしないし、どんなに寒くても人前で抱き合うことはありえない。
もちろん、それらをノアが理解していないはずがない。
おかしい。私の夫は、隣国の名門校を首席で卒業した優秀で将来有望な外交官と社交界で噂だったはず。
その人に拗ねた子どもみたいな顔をさせて、ちょっと可愛いなどと思ってしまう私は、やはり悪妻なのだろうか。
「そんなこと言わないでください。ノアにここに連れて来てもらえてとても感動しているんです。林檎の花だけでなく、今まで絵で見るだけだった景色を実際にこの目で見ることができて、本当にノアの妻に、コーウェン家の人間になれたんだなって思えて」
ノアの表情が少しだけ柔らかくなった。
「コーウェン領の景色が見たかったから、私と結婚したのか?」
「違います。大好きな人と同じものを見たかったからです。ノアが私の手をしっかり握っていてくれるから、私は安心してお花見もできると、ノアだって知っているでしょう?」
私だって人目のないところでなら、ノアの腕に捕われることが嫌なはずない。
多分、林檎の花よりもノアの顔のほうがいつまでも飽かず眺めていられる。
こんなこと、口には出せないけれど。
「仕方ないな。私がしっかりセアラを見ているから、セアラは好きなだけ花を見ればいい」
「ノアも花を見てください」
「セアラが私の花だ」
大真面目な顔で言われて、頬が熱くなった。
「せっかく我慢しているのに、そんな顔で惑わすな」
結局、また抱きしめられてしまった。




