26 進んでいく日々
ノアを起こして口づけることが私の朝の日課になり、私を寝室のベッドまで送り届けることがノアの夜の日課になった。
ただ週末などには、ノアはそのまま私の隣に潜り込んでくる。
「あの、ノア?」
「たまには良いだろう。何もしないから」
「……約束、ですよ」
「ああ、約束する」
そう言いながら、ノアは私を抱き寄せて口づけた。
「このくらいはいつもしていることだし、許してくれ」
答える前に、再び口を塞がれた。
私が「たまに」とか「このくらい」という曖昧な言葉が示す範囲についてノアと話し合う必要があると気づくまで、あまり時間はかからなかった。
ノアが改まった様子で私に尋ねたのは、半月ほどたった頃。
「他家に養子に入る気はあるか?」
そんなこと考えてもみなかった私は戸惑った。でも、ノアが考えた理由はわかった。
スウィニー家と完全に縁を切り、堂々と名乗ることのできる家名を得る。
「それで社交界がセアラの出身を忘れてくれるわけではないが、家名が変われば見る目も変わる。セアラに後ろ盾ができる」
「養子に迎えてくださるお相手はもう決まっているのですか?」
私の問いに、予想どおりノアは頷いた。
「ウォルフォード家だ」
何度かお会いしたウォルフォード侯爵ご夫妻の姿が頭の中に浮かんだ。
いかにも温厚そうなユージン叔父様。お母様の妹であるレイラ叔母様は、さっぱりとした印象だった。
ウォルフォード家には何の利もない、ただただ私のためだけの養子縁組だ。
「どちらにせよ今後スウィニー家と関わるつもりはないし、どうしても必要なわけではないが、1つの選択肢として考えてみてくれ」
一時は潰れてしまえと本気で思っていた実家。父たちのことは今もあまり考えたくない。
それなのに、いざスウィニー家と完全に縁を切ることができるとなっても、手放しで喜べない自分がいた。
思い出すのは、スウィニー家で本当に私の家族だったと言えるふたり。亡くなった母と祖父だ。
それを正直に告げると、ノアが首を傾げた。
「スウィニー前伯爵はどんな方だったんだ?」
「私がまだ小さい頃に亡くなってしまったので、あまり覚えてはいないのですが、とても優しい人でした」
祖父は息子と孫娘の現在の状況をどう思っているのだろう。悲しんでいるのか、腹を立てているのか。
だけど浮かんできたのは相好を崩した祖父の顔だった。
私が小さく「あ」と声を上げると、ノアがどうしたと言うように私を見つめた。
「祖父に抱きあげてもらったことを思い出しました。多分、1度ではなく何度も」
いくら考えても、父にそうしてもらった記憶は出てこなかったのに。
「そうか。……もっと長生きしていただきたかったな」
私は頷く。
「ですが、祖父が今も生きていたら、きっと私はノアの婚約者になっていませんでしたね」
「いや、それは変わらない。セアラとの結婚を許してもらうためにすることが違っただけだ」
目を細めたノアにそう断言され、納得してしまった。
その場合、スウィニー家を継ぐのは異母姉とアダムではなく、親戚から迎える養子になっていたのだろうか。
いくらメイがいても、コーウェン次期公爵でないノアは想像できない。
「ともかく、亡くなった方ではなくセアラ自身を第一に考えろ。私やコーウェン家のためにどうすべきかなんてことも気にしなくて良い」
「はい」
先回りして釘を刺されたなと思った。
養子縁組の件に私が答えを出す前に、私の世話をしてくれるメイドがひとり増えた。
彼女に引き合わされた時、私は驚き、それから彼女と抱き合って泣いた。
彼女はスウィニー家で長く母のメイドを勤め、私のことも何かと気にかけてくれていたスーザンだった。
スーザンの話によると、母が亡くなってスウィニー家を辞めさせられた後、同様の仕事に就くことはできず、賃金の安い食堂で働いていたそうだ。
そこにコーウェン家から声をかけてくださったのだ。
もうひとり、母についていたメイドは元々働いていたキャンベル家に戻っていた。
私付きだったメイドは、どうやら結婚したらしい。
スーザンと同じようにスウィニー家を追い出された他の使用人たちも、それぞれコーウェン家の口利きで新しい仕事を得ることができたそうだ。
さらに、最近になってスウィニー家を自ら辞めてきた古くからの使用人たちが何人もコーウェン家を訪れた。
お母様は私から聞いた彼らの働きぶりや為人をもとに職場を紹介してくださったり、推薦状を書いたりしてくださった。
これほど多くの使用人に去られて、これからスウィニー家はどうなるのかと少しだけ考えてやめた。
それはもう、私が気にすることではなかった。
実家で使用人として暮らしていた頃、何度か繕い物をしようとしたが、端から見た私の手つきが余程危なっかしかったらしく、毎回メイドの誰かしらに取り上げられていた。
お父様の刺繍に感化されてお祖母様から習いはじめ、別邸の居間でステッチの練習をしていると、そんなことを思い出した。
隣に座っているお祖母様が、私の手元を見てかなりハラハラしていたからだ。
お祖母様もアリスも、スルスルと針を動かして美しい作品を作る。亡くなった母もそうだった。
1度だけ見せていただけたお父様の針を刺す手は、ゆっくりだけどとても丁寧。
私もあんな風にやれば良いのだと思っても、実際に手を動かすと何かが違う。
それでも数日後にはハンカチに刺繍をすることになった。
最初に縫うモチーフを決めたものの絵心のまったくない私は、ロッティに下絵を描いてもらった。
そのとおりに手を動かしたはずが、直線は波になり、曲線はカクカクし、最終的にできあがったものを見て、自分でも「これ、何?」と首を傾げるしかなかった。
お祖母様やアリスも何とも言えない表情をしていた。
「セアラは刺繍ができなくても大丈夫よ。コーウェン次期公爵夫人になるのに必要ではないもの。ノアだって気にしないわ」
ロッティはあっけらかんと笑った。
「それはそうかもしれないけれど、本当に不器用で嫌になるわ」
「私も絵を描くだけでなく、少しは刺繍をやっておくべきなんでしょうね」
ロッティは渋い顔になった。
ロッティは約束していたノアと私の絵を描きはじめたところで、私はとても楽しみにしている。
「ロッティの婚約者は気にする方なの?」
「いいえ。私が好きなことをすれば良いと言う人よ。でも、彼の周りも同じように考えてくれるかはわからないわ」
「ロッティは刺繍も上手そうだけど、絵はずっと描いてほしいわ」
「もちろん、私はそのつもりよ」
ロッティはにっこりと力強く笑った。
最初の作品はどんな出来でもノアに贈る、と約束してしまっていたため、かなり投げやりな気持ちでハンカチをノアに差し出した。
「これは、何の花だ?」
赤と緑のモヤモヤにしか見えないそれを花だろうと推察してくれたノアは、やはり優しい。
「花ではなく、林檎です」
「林檎か。なるほど」
しげしげと眺められて、居た堪れない気分になる。
「それ使わなくて良いです。むしろ使わないでください」
「ああ、使わない。セアラに初めてもらったんだ。使えない」
それが本心からの言葉であるかのように、ノアは微笑んだ。
「ありがとう。大事にする」
刺繍は諦めてこれきりにするつもりだったのに、もっと練習して上手になって、きちんとしたものをノアに贈りたいと思ってしまった。しばらくは続けてみよう。
そんな日々の合間に考え、結論を出した。養子縁組のお話を受けよう、と。
「本来なら、私はノアの婚約者になれるような身ではありません」
ノアが反論しようとするのはわかったが、私は続けた。
「それでもノアは私を選んでくれて、ご家族も受け入れてくださいました。ですが、今の状況ではスウィニー家と名ばかりでも姻戚になることは、コーウェン家にとって利がないどころか不利益になりかねません。だから、私はスウィニーの名を捨てます」
「私や家のことは考えなくて良いと言っただろ」
「ノアは私の一番大切な人で、コーウェン家は私の守るべき家です。だからこれは、私自身の将来を考えて出した結論です」
「そうか」
ノアはフッと笑みを浮かべた。
すでに準備は整っていたようで、その後はあっという間だった。
養子縁組のための書類にはスウィニー家の父のサインは必要ないそうで、私がサインをすれば宮廷に提出できる状態になっていた。
ノアとの婚約の届も、私の保護者の名が変更された。
改めてお会いしたウォルフォード侯爵夫妻は和やかに私を迎えてくださった。
と言っても、私はこれまでどおりコーウェン家で暮らす。呼び方も公式な場以外では「ユージン叔父様、レイラ叔母様」のままだ。
それからすぐにウォルフォード家で夜会が開かれた。
夜会そのものは以前から決まっていたものだが、そこでユージン叔父様から、私がウォルフォード家の養女になったこと、さらにノアと私の婚約が正式に発表された。
この夜、私が纏ったのは淡いピンクのドレス。仕立て屋に頼んで先日できあがった、コーウェン家のお父様が選んでくださったものだ。
それに、お母様も婚約披露で身につけたというお祖母様のエメラルドの首飾り。この首飾りを、今度は私が譲られることになった。
今回はウォルフォードご一家はもちろん、コーウェン家のご家族とお姉様夫婦、それにバートンご一家まで揃っていたので、私がひとりになることはなかった。
それ以前に、ノアが私から離れようとしなかったのだが。
夜会中に私がノアと離れたのは、お父様とダンスをした時だけだ。
メイにダンスを申し込まれたことは面白くなさそうだったノアも、「父上なら」と快く送り出してくれた。
今まで妻や娘としかダンスをしなかったコーウェン公爵が、息子の婚約者とはいえそれ以外の相手と踊ったということで会場にいた方々は驚いていた、というのは後で聞いた話だ。
私はそんなことには気づきもせず、生まれて初めての「お父様」とのダンスを楽しんでいた。




