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25 甘える相手

 その日の昼食以降は、ほとんどご家族と一緒に食堂や居間で過ごした。私の「家出」などなかったかのように皆様が普通に接してくれるのが有難かった。

 ただ、ご家族の前ではどうしても「ノア様」と呼んでしまい、そのたびに隣にいるノア様が口角を上げた。

 途中からはノア様の名前そのものを口にしないように会話をしていたら、当然のごとくそれに気づいたノア様に睨まれた。


 夕食後の隣国語の時間を終えてノア様と一緒にノア様の部屋に戻ると、「5回だ」と非情な宣告を受けた。きちんと数えていたなんて、さすがノア様。


「唇以外は数に入れないからな」


 訊くより先にきっぱりと言われてしまった。観念するしかない。


「ええと、ソファに、座ってもらえますか」


 ノア様は居間からずっと繋いでいる私の手を離さぬまま、ソファに腰を下ろした。私はその隣に。

 見上げた表情に期待が窺えて、余計に緊張した。心臓が飛び出しそうだ。


「目を、閉じて、ください」


 今度もノア様は素直に従ってくれた。


 ゆっくりゆっくりと顔を近づけ、直前に私も目を閉じて、ノア様の唇に自分の唇で触れた。

 少しだけ離れて、もう1度。

 3度目でノア様の手が私の背に回され、勢いで残り2回を終えた。


 ぐったりと疲労を覚え、顔を見られるのが恥ずかしいこともあって、私はノア様の胸に顔を埋めた。

 頭の上にノア様が頬を寄せ、大きな手が背中を撫でた。

 少し速いノア様の鼓動を聞いているうちに気持ちが落ち着いてきた。


「もう休みます。このままだと、またここで寝てしまいそうなので」


「そうだな」


 ノア様があっさりと私を解放したので、私は寝室を通り抜けて自分の部屋へ戻った。


 湯浴みをして就寝の準備を整えた頃、やはり寝室からノア様がやって来た。今夜はすでにノア様も寝巻姿だ。


「お休みなさいませ、ノア」


 せっかく間違えずに呼んだのに、ノア様はジロリと私を見た。


「一応訊くが、どこで寝るつもりだ?」


「もちろん、こちらです」


 私は1歩退がりながら自分の後ろにあるベッドを指さした。


「そのベッドでは小さいだろ。寝室を使え」


「先日まで実家で寝ていたものと同じくらいですから大丈夫です」


 ノア様の目つきが険しくなったので、慌てて付け足した。


「もちろん、寝心地の良さは比べものにならないと思いますし」


「駄目だ。そのベッドは仮眠用だ」


「でも、結婚前に夫婦の寝室を使うのは……」


「いいから来い」


 またもノア様に強引に抱き上げられて私は身を硬くした。

 初めてノア様に会った時のことを思い出す。あの時、あんなことを言ったのは私だけど、今は心の準備がまったくできていない。


 だが、ノア様はベッドの上に降ろした私の体を包むようにしっかりと布団を掛けた。


「私は自分の部屋のベッドを使うから、セアラは安心してここで休め」


 ノア様はそっと私の頭を撫でて微笑んだ。


「申し訳ありません。私、勘違いをして……」


「謝ることはない。セアラが構わないなら私もここで寝るつもりだったし、セアラが嫌がらないところまではしようと思っていた」


 さらりと口にされた言葉に私が絶句しているうちに、ノア様は「お休み」と私の額に口づけ、寝室を出て行った。

 この夜も、私はしばらく眠れなかった。




 翌朝。


 目を開ければ見慣れぬ天井が見えるはずだったのに、実際に見えたのはまたもノア様の顔だった。間近から私を見下ろしていたのだ。

 その距離があまりにも近すぎて、身を起こすのも躊躇した。


「おはよう」


「おはようございます。……ノア様、朝が弱いのでは?」


 ノア様はまだ寝巻のままだけど、眠そうな様子はなかった。


「ああ、どちらかと言えば苦手だな。だが、今朝はセアラが隣にいると思い出したら目が覚めた」


「そう、ですか」


「それより、さっそく今日の1回目だな」


 言われてから気づいた。


「寝起きの不意打ちなんて、まだ無理です」


 思わず抗議すると、ノア様は目を細めて笑った。


「仕方ないな。特別だぞ」


 今回は見逃してもらえるのだと考えた私は甘かった。ノア様のほうから私に口づけてきたのだ。

 掛布団の上から抑え込まれてほとんど身動きすることもできず、扉の外からケイトの声がするまでそれは続けられた。


 朝食後、しばしの交渉のうえ、「ノア様」と呼んだら口づけというルールはノア様の部屋と私の部屋、そして寝室のみに範囲を限定してもらった。


「まあ、すぐその場でするのでないと罰の意味も薄れるしな」


 ノア様は渋々という感じで言った。


「その代わり、明日からはセアラが私に目覚めの口づけをしに来てくれ」


「目覚めの……?」


 まだ生々しい今朝の感触を思い出し、顔が熱くなった。


「コリンに、部屋が隣になったんだしセアラの声で起こされたほうが良いだろうと言われてな。確かにそのとおりだ」


「昨日は私が声をかけても起きませんでしたよ」


「セアラの声を聞いた記憶はあるから、口づけられれば目が覚めるだろう。それで駄目ならセアラの好きにしてくれ」


 つまり、コリンのように手荒にしても構わないということなのだろうが、それならやはりコリンに任せたほうが早いのではないだろうか。

 そう思いつつも引き受けてしまったのは、寝惚けているノア様をまた見たいと思ったからだった。


 いつもの日曜日と同じように、この日もノア様は私を外へと連れ出した。私にとって初めての音楽会。

 採寸して仕立てていただいた深い緑色のドレスは、しっくりと体に馴染んだ。




 週が明け、久しぶりにノア様たちを送り出した後、私はお母様と一緒に別邸に向かった。

 お祖父様はご不在で、お祖母様が迎えてくださった。


「その後、ノアとはどう? 雨降って地固まったかしら?」


「はい。以前より近づけたような気がします」


 どちらかと言えば物理的にだけど。


「それにしても、ノアはセアラのことになると顔が変わるわね。面白い、なんて言ったら嫌がるでしょうけど」


 クスリと笑ったお祖母様に、お母様が同意した。


「私もそう思います。セアラのおかげでノアの色々な表情を見られるようになりました」


「そんな、とんでもないです」


「いいえ、本当にセアラには感謝しているわ。ノアは我が家の嫡男だという意識が強くて、子どもの頃から大人びた顔をしていて、厳しく育てすぎたかと後悔したこともあったの」


「そのあたりは、あれもこれもクレアに押しつけてしまった旦那様の責任もあるわね」


 申し訳なさそうに仰るお祖母様に、お母様は苦笑を浮かべた。

 

「その反動なのか、セアラにはすっかり甘えて」


「ノア様が私に、ですか?」


 思わず尋ねると、おふたりが揃って頷いた。


「あるいは、信頼しきっている、ね。セアラなら自分を受け入れてくれると本能で感じているの」


「本能……」


 ノア様の口からも、その言葉を聞いたばかりだ。


「だけどね、セアラ。別にノアの言うことを何でもかんでも聞く必要はないのよ。駄目なものは駄目でいいの。あなたたちはこれからが長いのだから、甘やかしてばかりいたら後が大変」


「はい」


 ふいに思い出したのは、ノア様の睨み顔だった。

 実家の父や異母姉に向けられた時には怖ろしくて直視できなかったけれど、私に向けられたものならまっすぐ受け止められる。

 私に対するそれには冷たさが感じられないから。


 今朝も睨まれた。

 約束どおり、目覚めてすぐにノア様を起こしに行き、かなりドキドキしながら顔を覗き込むと、ノア様の目が開いた。なので、「口づけは必要ないですね」と言ったら、眠そうな目でギロリと。そして結局、した。


 あの目は望んだものが与えられずに拗ねている子どものようで、むしろ可愛いかった。

 そう思えば、ノア様が私に甘えているということも腑に落ちた。頬が緩む。




 別邸から本邸へと戻りながら、私はずっとお母様に聞いてみたかったことを尋ねた。


「お母様は社交の場などで酷いことを言われた時、どのように対処なさってきたのですか?」


 お母様は私の顔を束の間見つめた。


「基本的にはあなたと同じよ。黙って聞く。でも、面と向かって言われたことって意外とないわね。わざと聞こえるように、というのもセディが傍にいればあまりないし。間接的に教えられるのが多いわ。今さら『コーウェン公爵家を牛耳る伯爵家の女狐』なんて言われても、『そのとおりだけど何か?』と思うくらいですけどね」


 陰口は悪辣だけど、今のコーウェン家にとってお母様の存在が大きいことは事実だ。おそらくは、外から見えているよりもずっと。

 だからこそ、堂々といられるのだろう。


「私もそんな風に強くなりたいです」


「結婚して、親になれば自然と変わっていくわ。私やセディもそうだったし、メリーもずいぶん逞しくなったわね」


 そこでお母様は悩むような表情になり、しばらくしてから再び口を開いた。


「実はセディと結婚した時、私のお腹にはもうメリーがいたの」


 私は驚いてお母様のお顔をまじまじと見つめた。


「あ、だから婚約から結婚までが早かったのですね」


「いいえ、違うわ。本当はもっと早くに結婚するはずだったのが色々あって延期になって、そのうちに妊娠がわかったので急いで結婚式を挙げたの」


 色々というのは、きっとノア様が話していた男爵令嬢に斬りつけられた事件のことだ。


「当然、あれこれ言われたわ。体で篭絡したんだろうとか、セディの子ではないのだろうなんてことまで。後のほうはメリーが生まれてからぴたりと止んだけれど」


 お母様がフフッと笑う。お姉様がお父様にそっくりなことを思えば、今では笑い話でしかないに違いない。


「何にせよ、子どもができたとわかった時、セディや周りは喜んでくれたし、私も嬉しかった。それだけで良かったの。セディと私の間のことをすべての人に理解してもらおうなんて思わないし、すべてを話すつもりもない」


 お母様がお父様と一緒に乗り越えてきたものを思う。

 私にはノア様がいる。


「これは子どもたちには話していないの。いつかはわかることだし、メリーやノアはもう気づいていると思うのだけど、ロッティはまだだったみたいね」


 言われてみれば、一昨日の朝、ノア様に苦言を呈したのはロッティとケイトだけだった。

 お父様など、ロッティの後ろで自分が叱られているような顔をしていた。


「そんなわけだから、ノアとセアラが寝室をどう使うかについて私からは口出ししないわ。ふたりで話し合いなさい。ノアはセアラの気持ちに沿うと思うけど、違うようなら相談してちょうだい」


「はい」


 お母様が私のお手本であり、味方だという事実は色々な意味で本当に心強かった。




 夕方になり帰宅したノア様を出迎えると、彼は安堵したような顔で私を抱きしめ、ポツリと呟いた。


「いた」


「ちゃんといますよ」


 私はあやすようにノア様の背を撫でた。


 ノア様が部屋で着替えてから、私は昼間考えていたことを話すため、敢えて今までどおり「ノア様」と呼びかけた。

 すぐに反応したノア様が口を開くより先に、私はきっぱりと告げた。


「と呼んでしまっても、もう口づけはしません」


 ノア様は眉を顰めた。


「どうして……?」


「罰として口づける、というのが嫌だからです。仕方なくするのではなく、もっと大切にすべきだと思うんです。だから、ノアが望んでくれるのなら目覚めの口づけはこれから毎朝します。それから、あとは……」


 私はノア様の肩に手をかけて背伸びし、彼に口づけた。意識して、罰でした時よりも長く。


「こんな風に私がしたいと思った時にします。それでは駄目ですか?」


 ノア様は呆気にとられたような顔をしていたが、やがてそれが崩れるように笑みに変わったかと思うと、私を抱き寄せた。


「いや、それが良い」


 以前から「ノアと呼べ」とは言われていたけれど、口づけがいつもノア様からだったのも不満で、だから罰なんて言い出したのだろうと思う。

 もちろん私からすることに恥ずかしさはあるけれど、こうしてノア様が嬉しそうに笑ってくれるなら……。

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