24 新しい部屋
私の腰を抱いたまま、ノア様は階段を上っていった。
帰ったばかりなので一旦客間に行きたい気持ちと、しばらくはノア様から離れたくない気持ち。2つを天秤にかけると後者に傾いたので、黙ってノア様の部屋について行くことにした。
だけど、ノア様は自分の部屋の前を通り過ぎ、1つ先の扉を開けた。
その部屋にも数度入ったことがあったけれど、以前とは扉の中の景色がすっかり変わっていた。
絨毯やカーテンは重厚だけど華やか。壁紙は落ち着いた淡い黄色。家具は白で統一され、大きな飾り棚と本棚も並んでいる。
「今日からセアラの部屋はここだ」
私が足を止め、目を見開いて部屋を眺めていると、ノア様がさらに中へと背中を押した。
「セアラは『結婚までは客間で』とか言っていたが、もう荷物はすべて運んでしまったからな。諦めろ」
「……はい」
確かにそんなことを言った覚えもあるが、今はそれよりも、こんな部屋が私の部屋になるということに呆然としていた。
「気に入ったか?」
「はい。すごく素敵で、夢みたいです」
私は飾り棚に並ぶユニコーンやくまに触れてから、壁に掛けられた絵画を見つめた。
この絵は改装前からこの部屋にあったもの。領地で放牧されている羊が描かれている。遠景で赤い屋根の領主館と、客間の絵にも描かれていた山が見える。
まだほとんど本の並んでいない本棚の近くには、美しいタペストリーが飾られていた。火を噴くドラゴンと戦う騎士を刺繍してあり、まるで私の好きな物語の一場面を切り取ったようだ。
「それ、セアラの部屋にはちょっと不釣り合いじゃないか?」
てっきりノア様が私の好みそうなものを選んでくれたのかと思ったのに、違ったようだ。
「私は好きです」
「それなら良いが。お祖母様が作ってくださったんだ」
「お祖母様が? さすがですね」
それなら、本当に物語をモチーフにしてくださったのだろう。お祖母様も好きな本だと仰っていた。
「こちらもお祖母様の作品ですか?」
私が示したのは、ソファに置かれていた2つの濃い緑色のクッションだ。1つには一面にピンクの花が、もう1つには舞うように飛ぶ2匹の黄色い蝶が刺繍されていて可愛らしい。
「いや。ピンクの花はアリス、黄色い蝶は父上だ」
「お父様? お父様が刺繍を?」
思わず声を上げた私に、ノア様はニヤッと笑って頷いた。
「なかなかの腕だろ。忙しくて小さいものしかできないのが悩みだそうだ」
「なかなかどころか、すごくお上手です。もしかして、ノア様のシャツの刺繍もお父様だったんですか?」
私が尋ねると、ノア様は着ているシャツを見下ろした。今日のシャツは襟元に鳩が刺繍されている。
「ああ。この手のものはだいたい父上だな」
「……もしかして、今までわざと私に黙っていたんですか?」
「そのほうが驚くだろうと思って」
「とっても驚きました」
しばらくは悪戯が成功したような顔で笑っていたノア様が、ふいに表情を改めた。
「うちの夜会の時に、あのドレスを着たセアラを母上が『花の精』と言っただろう。そこからのモチーフだったらしい」
初めて黄色いドレスを着た時のふわふわした幸せと、それを汚された時の哀しみが交互に蘇ってきて、胸が痛んだ。
「あのドレス、どうなりましたか?」
「メイドたちが染みを落とすために色々してくれて薄くはなったが、やはり完全に消すのは無理だったようだ。そのうち綺麗な部分を使って何かに再利用すると思う」
私はコクと頷いた。
「あの5人の家からは、こちらが抗議する前にそれぞれ詫び状が届いた。ちなみに衣装代を請求すると言ったのはあの場だけの脅しだ。真に受けて金を持って来た家もあったらしいが、母上が『我が家はそんな吝ではない』と笑って突き返したら、平身低頭謝られたそうだ」
おそらく、私がいつも見ている笑顔とは違う種類のものだったのだろう。深く考えるのはやめておこう。
「ドレスと言えば、クローゼットも見るか」
空気を変えるようにノア様が明るい声で言ったので、私も気持ちを切り替えて「はい」と答えた。
クローゼットはウォークイン型なので客間のものの何倍も大きい。
その中に入ってみて、私は首を傾げた。
「気のせいか、ドレスが増えていませんか?」
「そのあたりのは仕立て屋に注文していたものが届いたんだ」
ノア様が指差したところには、確かに形や色などデザイン画で見た覚えのあるドレスがあった。夜会用、昼のパーティー用、お茶会用などなど。
「このあたりも初めて見ますが」
「昨日の昼休みに『クローゼットが大きくなるからドレス買いに行こう』と父上に誘われて、一緒に買って来たものだ。案の定、ほとんど父上が選んだが、これは私が選んだぞ」
ノア様が手に取って見せてくれたのは、クリーム色の普段着用のドレスだった。
「どうだ?」
「可愛いです」
「せっかくだから、着て見せてくれ。ケイトはまだ向こうか。代わりに誰か呼ぼう」
「大丈夫です。このドレスならひとりで着られますから」
ノア様に外へ出てもらい、クローゼットの中でドレスを着替えた。
背中の釦には少し苦労したけれど、思ったとおりひとりでも無事に着替えることができた。
クローゼットから出ると、ソファに座って待っていたノア様が満足そうに笑った。
「良かった。似合ってる」
「ありがとうございます」
「何となく微妙な表情に見えるんだが、本当は気に入らないのか?」
ノア様の問いに、私は首を振る。
「私はもうここに戻れないと覚悟していたのに、皆様は私は戻ると当然のように考えてくださっていたんだな、と思って」
「まあ、私がバタバタしていたのを見られていたからな」
「ノア様は私に会うために何度も来てくれたんですよね。私はすぐに諦めてしまったのに」
「そんな立派なものじゃない。普段ならお祖母様の考えそうなことくらいわかっただろうに、セアラに会えなくて苛々して、母上からメイが求婚したと聞かされてさらに焦っていた。一昨日の夜にこの部屋の改装が終わったと言われて、何でもいいからセアラをここに連れ戻そうと決めたんだ」
「私も、これからは簡単に諦めたりしません。やっぱりノア様の隣は誰にも譲りたくないから」
私がかなり思い切って決意を告げると、ノア様は目を細めて笑いながら私を手招きした。
私がノア様の傍まで近づくと手を取られてグイッと引き寄せられ、彼の膝の上に横向きに座る形になった。慌てて降りるよりも先に、ノア様の両腕にしっかりと捕らわれてしまった。
「あの、恥ずかしいので下ろしてください」
「隣も良いが、こっちも慣れてくれ」
ノア様は楽しそうに笑っているけれど、私はただ固まっているしかできなかった。
「ああ、そう言えば、さっきの父上には驚いたな。多分、母上も驚いてた」
ふいにノア様がポツリと呟いた。
何のことかと、私はノア様を見つめた。
「セアラを抱きしめただろ」
「はい」
私も初めてだったので驚いたけれど、ノア様たちが驚いた理由は異なるようだ。
ノア様は考える表情になった。
「少し重い話になるが、いいか?」
私も少し考えてから頷いた。
初めて会ったばかりで私の暗い話を聞いてくれたのはノア様だ。
ノア様はゆっくりと口を開いた。
「父上は社交が苦手だと話したが、正確に言えば人が苦手なんだ。一度親しくなってしまえば大丈夫なんだが、初めて会う人やよく知らない相手の前では固くなる。特に女性相手だとそれが顕著で、恐怖の対象と言っても過言ではないと思う。でもあの顔だから女性のほうは隙あらば父上に近づこうとするので、社交の場では母上から離れられない。家族の中にいるとまったくそうは見えないだろうけど」
私は戸惑いつつ頷いた。
公爵としては迫力に欠けるかもしれないけれど、優しくて温かいお父様だ。私に対しても。
「原因は……」
そこでほんの一瞬、ノア様は言い淀んだ。
「子どもの頃ある国で事件に巻き込まれたこと。その主犯が女だった」
想像もしていなかった話に視界が歪み、無意識のうちにノア様に縋りついていた。ノア様が安心させるように背中を撫でてくれる。
「父上が事件後に知り合ってすぐに親しくなれた女性は、エマ叔母上くらいだろう。父上が触れられる相手となれば家族だけで、親戚でも駄目だ」
エマ叔母様はお母様の義妹で、私はまだ2回しか会ったことがないけれど、とても穏やかで優しい方だった。
「私は結婚するなら父上が家族になれる相手でないと無理だと思っていた。だから最初にセアラを会わせた時、大丈夫そうでホッとした。それだけでなく、セアラの境遇を知って父上は『自分たちがセアラの家族になろう』と言ってくれた。ああ見えて頑固な人だから、一度セアラは娘だと思えばそれを簡単には変えたりしない」
私がコーウェン家に家族として受け入れられたことは、私が考えていたよりずっと特別なことだったのだ。
「ちなみに、事件のことは我が家の最重要秘匿事項の1つだ。知っているのは母上、お祖父様、お祖母様、トニー、ウォルター、それから陛下と前陛下くらいか。父上は婚約中に男爵令嬢に襲われた母上を庇ってナイフで斬りつけられたこともあって、姉上なんかはそっちが理由だと思ってるはずだ」
あのお父様が大変な経験を何度もされていたことに愕然とする。
「私が聞いてしまって良かったんですか?」
「セアラには父上のことをきちんと理解してほしかったんだ」
「ありがとうございます」
自惚れかもしれないけれど、大切なお父様の秘密を話してくれたのはノア様が私を信頼してくれているということだと思う。
「礼を言うのはこっちだ。ありがとう。でも、これで何があってもセアラを逃がすわけにはいかなくなったな」
ノア様は笑ったけれど、その言葉は冗談には聞こえなかった。
「もう逃げません、から、そろそろ放してください」
「ああ、まだ部屋を見ている途中だったな」
ようやくノア様の膝から降ろしてもらえると思ったのに、ノア様はソファから立ち上がっても私を解放してはくれなかった。
今度は初めての横抱き。
「ノア様、降ろしてください」
慌てて言うが、流されてしまった。
「浴室は、とりあえずいいな。あとは寝室か」
クローゼットとは逆の壁面に寝室への扉はあった。ノア様はそちらへと歩いていき、扉を開けた。
中はベッドとサイドテーブルがあるだけで極シンプル。ただ、ベッドはかなり大きい。客間のベッドの倍はありそう。
部屋の反対側にはノア様の部屋に繋がる扉が見える。
廊下から見るとノア様の部屋の扉の次に私の部屋の扉があったけれど、実際にはその2室の間にもう1つ部屋がある。それがこの「夫婦の寝室」だ。
今朝はノア様と同じベッドで目を覚まし、今現在ノア様に抱き上げられて「夫婦の寝室」にいるのは何だか落ち着かない。
でも、ノア様はずっと部屋のベッドで寝ていたのだし、私の部屋にも寝室への扉の脇に小さなベッドがあった。私たちが実際に「夫婦の寝室」を使うのはまだまだ先のことだろう。
そう考えて少しだけ安心しながらノア様を見上げると、まるで待ち構えていたように口づけが降ってきた。
「あの、ノア様」
「ノア」
「え?」
「『ノア』と呼べ。そうしたら降ろしてやる」
「狡いです」
私は小さく抗議するが、私をジッと見つめる瞳は揺らいでくれない。
「……ノア」
さらに小さな声でその名前を絞り出すと、ノア様はもう一度私に口づけてからやっと降ろしてくれた。でも、まだ腕の中だ。
「今度『ノア様』と呼んだら、罰としてセアラから私に口づけることにしよう」
「そんな、ノア様……」
咄嗟に口にしてしまい、ノア様の笑顔を見て気づいた。
堪えきれずに俯くと、頭上から拗ねたような声が聞こえた。
「セアラは私と口づけするのは嫌だったのか?」
そんなことを訊かれたら、首を振るしかない。
「……頬でいいですか?」
おそらく真っ赤になっているであろう顔を少しだけ上げて尋ねると、にべもなく「駄目だ」と返ってきた。
「……と言いたいところだが、今回だけはいいことにしてやる」
そう言いながら、ノア様は私の頬を撫でた。
「ほら、早くしないと気が変わるぞ」
すっかりノア様の望むまま踊らされている気がしたけれど、私は覚悟を決めて背伸びをすると、ノア様の頬に口づけた。




