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23 初めて知ること

 朝、目を開けると見えたのは、今まで一度も見たことのなかったものーーノア様の寝顔だった。思わず見入ったのは一瞬。


 ノア様と同じベッドにいる状況に驚き、咄嗟に跳ね起きようとしてできなかった。私の体に回されたノア様の腕と、ノア様のシャツを握りしめていた私自身の手のせいで。


 私が身動ぎしたからか、小さな呻き声とともにノア様の瞼が微かに震えた。

 だけど目は開かぬまま、モゴモゴと口が動いた後は深い呼吸音が続いた。目を覚ましてはいないようだ。


 そうしているうちに、私は昨夜のことを思い出した。

 ノア様が私に会いにバルコニーから来てくれて、抱きしめられて、ベッドの上で深く口づけられたところまでで私の記憶は途切れている。おそらく寝てしまったのだろう。

 ここ数日、寝不足が続いていたけれど、久しぶりにぐっすり眠れた気がする。


 そう言えば、今は何時くらいなのだろう。ノア様と一緒にベッドにいるところを誰かに見られたら拙いのではないだろうか。

 ケイトが来る前にノア様を起こして……。でも、ノア様がまた木を伝って下りるのも問題が……。


「ノア様、起きてください。ノア様」


 とりあえずノア様を起こすことにして、体を揺すった。


「ノア様」


 ノア様はなかなか手強かった。

 私はノア様を揺する力を強め、さらには頬を軽く叩き、耳元で名前を呼んだ。

 ノア様はようやくわずかに目を開いた。


「セアラ?」


「ノア様、起きてください。朝です」


「うん、もう少し」


 そう言うとノア様は私を抱き寄せた。


「駄目です。もうケイトが来てしまいます」


「うん」


 答えるだけで、ノア様に動く様子はない。私も動けない。

 だけど、寝惚けているらしいノア様は表情も言葉も仕草も普段より幼くて、無理に起こすのが申し訳ないくらいに可愛い。


 もしかして、ノア様も朝が弱いのだろうか。いつも食堂に来る時には身支度が整ってシャキッとしていたのに。


 どうしようと思っているうちに、ノックの音が聞こえてしまった。


「若奥様、お目覚めでしょうか?」


「少しだけ待って」


「若奥様、まさかそこに若様はいらっしゃいませんよね?」


 ケイトの声が少し低くなった。


 ああ、すでにノア様が自分のお部屋にいないことは知られているのだ。だとしたら、隠すのは余計に拙い。


「いるわ」


 私が答えると同時に扉が開き、客間にケイトの声が響いた。


「若様、ここで何をなさっておいでですか」


 私は思わず身を竦めた。でもノア様は煩わしそうに顰めた顔を私の肩に埋めただけ。


 結局、ノア様は「失礼いたします」とやって来たコリンに強引にベッドから引きずり下ろされ、それでもほとんど目の開かない状態で客間の外へと連れ出されていった。

 朝だけは着替えをコリンに手伝ってもらう本当の理由がやっとわかった。




「何度、別邸を訪れても愛しいセアラに会うことができず、痺れを切らしたノアは、とうとう玄関に立ち塞がった祖母を強引に押しのけ、屋敷の中へと踏み込む。


『セアラ! どこにいるんだ、セアラ!』


 自分を呼ぶ愛しい人の声に気づき、セアラも部屋を飛び出す。


『ノア!』


『セアラ!』


 互いの姿を認めて駆け寄り、固い抱擁を交わすふたり。


『セアラ、私が悪かった。二度と君を離さない』


『ええ、ノア、絶対に離れないわ』


 そして、ふたりは熱い口づけを……」


「お祖母様、もう結構です」


 ノア様の何度目かの制止で、立ち上がって身振り手振りを混じえて語っていたお祖母様の動きが止まった。

 いつもはお祖母様のお話を楽しく聞かせていただく私も、この時ばかりはホッとした。


「あら、そう? とにかく、そんな展開を期待していたのに、夜中にバルコニーから忍び込んでしまうなんて、せっかくの劇的場面を見逃してしまったわ」


 椅子に座り直しながら、お祖母様は心底不満そうに仰った。


「そんなことのために私をセアラに会わせなかったのですか? 勘弁してください」


 ノア様は溜息交じりに言いながら、チラリと私のほうを見た。


 私が身支度をして食堂に来ると、先にいたノア様はもうすっかり普段どおりのシャキッとしたノア様だった。

 そうして、私たちは久しぶりに一緒に朝食をいただいているところだ。席は向かい合わせなので、たびたび目が合う。


「お祖母様は心配していたんだよ。ノアがセアラをこちらに連れて来た時、ふたりとも酷い顔をしていたからな」


 お祖父様が取り成すように仰ると、お祖母様は深く頷かれた。


「そうよ。だから私が一肌脱いだのじゃない」


「どうせなら別の形が良かったです」


 そう呟くノア様の顔には諦めの色が浮かんでいた。




「お世話になりました」


「またいつでもいらっしゃいね」


 お祖父様とお祖母様に見送られ、ノア様と私は別邸を出た。


 ノア様の差し出した手に迷うことなく手を重ねると、指を絡めて繋がれた。私もしっかりと握り返す。

 この温かい手から離れられるなんて、どうして思ったのだろう。


「ノア様、申し訳ありませんでした」


 隣を歩くノア様を見上げると、彼は首を傾げるように私を見つめた。


「昨夜、口づけの途中で寝てしまったことなら……」


「違います」


 私は顔が赤らむのを感じながら首を振った。


「あ、でも、ノア様がせっかく来てくださったのに、たいしてお話しもしないうちに寝てしまって申し訳ありませんでした。このところあまり眠れていなかったのですが、ノア様に会えて気持ちが弛んだみたいで」


 私の言葉を聞きながら、ノア様は何だか複雑そうな表情をしていた。


「あの状況で安心されるのも……。まあ、とりあえず気にするな。で、最初に謝ったのは何のことだ?」


「あの夜、心にもないことを言ったことです」


 ノア様の目がスッと細くなった。


「それは、別の相手を選べと言ったことか?」


「そうです」


「……私だって、冗談でもあんなことを言われれば傷つく」


 むっつりとしたノア様に、私は身を縮めた。


「はい。ごめんなさい」


「本当にわかっているか? 私はセアラに言われたから傷ついたんだ。他からなら多少苛立っても聞き流せる」


 ノア様は私に言い聞かせるように、そう口にした。


「私はセアラに同情して婚約したわけじゃない。どうしてもセアラが欲しかったからだ。そもそも先に私を捕らえたのはセアラだ」


 その言葉に私が目を瞬くと、ノア様はうっそりと笑んだ。


「最初に目が合った瞬間、セアラは私の一部を奪った。心とか魂とか本能とか、目には見えないが人にとって大事な何かだ。そのまま逃げられたら私はきっと駄目になる。だから私もセアラを捕まえることにした。セアラの境遇を聞いて怒りは湧いたが、都合が良いとも思った。……引いたか?」


 私はまた首を振った。


「引いたりしません」


 あの時、ノア様が何を思っていたのだとしても結果は同じ。むしろ、同情よりもずっと良い。

 だけど、まさかノア様の気持ちがそんなに早い段階から始まっていたなんて想像もしていなかった。そちらのほうが落ち着かない気分にさせられた。


「それならいいが、改めて言っておく。セアラを放してやるつもりはない。私から逃げられると思うな」


 自然と溢れるまま笑みを浮かべたつもりが、涙も溢れていた。昨夜も泣いたばかりなのに、近頃すっかり涙腺が緩んでしまった気がする。

 ノア様が私の頬を優しく拭ってくれた。


「セアラ、私の前ではどんな涙も我慢するな。それから、心にあることは何でも話せ」


 私はコクリと頷いた。


「あんなことを言ってしまって、もう取り返しがつかないと思って、でもノア様に会いたくて、迎えに来てくれて本当に嬉しかったです」


「そうか」


「だけど、夜中に木登りなんて危ないことは二度としないでください」


「ああ。二度と家出をさせるつもりはないが、今度似た状況になったら堂々と玄関から入ってお祖母様を押しのけよう」


 ノア様が悪戯っぽく笑うので、私もつられて笑ってしまった。




 本邸の玄関を入ると、奥からロッティ、アリス、メイが出てきた。「お帰りなさい」という声が重なる。


「ただいま帰りました」


 少しの気恥ずかしさと、ここに戻ってこられたことへの大きな安堵を感じながら答えた。

 3人の後から、お父様とお母様もやって来られるのが見えた。


「まったく」


 ノア様を睨みつけたのはロッティだ。


「ノアったら信じられないわ。いくら婚約者とはいえ勝手に淑女の部屋に入り込んで、あまつさえ同じベッドで一晩過ごすなんて」


「ただ隣で寝ただけでそんなに目くじら立てられると、それ以上もしておけば良かったと後悔するぞ」


 ノア様の口ぶりは冗談なのか本気なのか判断しづらかった。

 あの口づけはそれ以上には含まれないのか、という疑問が私の頭に浮かんだが、そっと飲み込んだ。


「何てことを言うのよ」


 ロッティは目を剥いた。

 その後ろでは、なぜかお父様がソワソワなさり、お母様まで明後日の方向を見ていらっしゃった。


「セアラ、まだ間に合うわ。ノアよりメイのほうが紳士よ」


 ロッティの言葉で、私はようやくメイの求婚に返事をしていなかったことを思い出した。

 私はメイのほうへと近づいた。


「メイ、ごめんなさい。私はやっぱりノア様と……」


「セアラ、大丈夫だよ。僕、言ったでしょ、『ノアと結婚しないなら』って。ノアからセアラを奪うつもりはないよ。セアラがノアを好きなことも、ノアがセアラを大好きなこともちゃんとわかってる。ただ、僕もセアラが好きだから悲しそうな顔は見たくないし、ずっとここにいてほしかったんだ」


 メイの笑顔はいつもよりずっと大人びて見えた。


「ありがとう、メイ」


「まだしばらく、あの言葉は有効にしておくから、セアラの気持ちが変わったら言ってね」


「そんな日は来ない」


 私とメイの間に割り込んだノア様がきっぱりと言った。


「ほら、大人げない」


 やれやれというようにロッティが呟いた。


「メイ、もう行きましょう」


 ロッティがメイを促して、屋敷の奥へと歩き出した。


「セアラが戻ってきてくれて本当に良かった。セアラがいないとノアの顔が怖くて。セアラ、私たちのためにもずっとここにいてね」


 そう言って微笑むと、アリスもふたりの後を追っていった。


 私たちは改めてお父様、お母様と向き合った。


「色々とご心配をおかけしました」


 先にノア様がそう言って頭を下げたので、私も急いで倣った。


「本当に申し訳ありませんでした」


「いいのよ。親が子どもの心配をするのは当たり前なんだから。あまり長引かなくて良かったわ」


 お母様が仰ると、お父様がコクコクと頷かれた。


「うん、良かった」


 そうして、次には私はお父様にふわりと抱きしめられていた。

 お父様に、いや、私が父と呼ぶ相手から抱きしめられるのは、記憶にある限り初めてのことだ。


 お父様はすぐに離れてニコリと笑った。


「セアラ、お帰り」


 お母様も柔らかく微笑んだ。


「お帰りなさい」


 ノア様が私の腰に腕を回して抱き寄せた。


「お帰り」


 私は3人の顔を順に見つめた。


「ただいま帰りました」


 また泣き笑いになってしまった。

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