19 家出
「何を言われたのだとしても、気にしては駄目よ。ああいう方たちはノアが誰を選ぼうが同じことをしたに決まっているのだから」
一緒に会場を出たお姉様は、私を慰めるように言った。
あの時、お姉様はたまたま私が令嬢方に囲まれているのに気づき、お兄様にノア様を探すよう頼んで、私のもとに駆けつけて来てくださったのだそう。
お兄様はどこからかタオルを借りてきてもくださった。
「でも、私がこれはお姉様のドレスだなんて言ったから、あの方たちは異母姉と勘違いして……」
「さっきも言ったけれど、ドレスのことは気にしなくていいのよ。10年も前に作ったドレスを2回も続けて着せたお父様だって悪かったのだし」
「そんな、とんでもないです」
最終的に決断したのは私だ。
「でも、今思えば、母上は危ぶんでいたんですね。同じドレスを続けて着ていれば、攻撃材料にされやすくなる、と」
ノア様が言った。
お姉様はドレスを決める場にはいらっしゃらなかったけれど、経緯は聞いていたのだろう。
「そうでしょうね。どちらにしても、ノアは彼女たちを鬱陶しく思うだけでなく、もっと社交界における自分の立場を自覚するべきだったわ」
「はい」
ノア様は項垂れるように頷いた。そんな姿は初めて見る。
お姉様夫婦に見送られて馬車に乗り、帰宅の途についた。馬車の中でもノア様は私の肩に腕を回したままだった。
その手は労わるように優しかったけれど、馬車の中の空気は重く感じられた。
私はノア様に問われて、令嬢方に言われたことを話した。ノア様の顔を見ることはできず俯いたままで。
コーウェン家のお屋敷に着くと、まず私たちの帰宅が予定よりだいぶ早い時間だったことで、それから私たちが揃って衣装を汚していたことでさらに、驚かれた。
皆が何があったのか聞きたい様子の中、お母様がそれを制した。
「疲れたでしょう。湯を使って、今夜は早めに休みなさい」
私たちはその言葉に従い、それぞれの部屋に戻ることにした。
ノア様は律儀に私を客間まで送ってくれた。扉の前で向き合ったノア様は何か話したそうに見えたけれど、「じゃあ」と言っただけで去っていった。
湯浴みをし寝巻に着替えたものの、すぐに眠れそうにはないのでベッドの端に腰かけて今夜のことを考えていると、客間にノア様がやって来た。
ノア様も湯浴みは済ませたようだけれど、まだ寝巻姿ではなかった。顔には笑みが浮かんでいたけれど、どこか固く見える。
「もう寝るところだったか?」
「いえ」
「それなら、少しいいか?」
「はい、どうぞ」
ソファに並んで座ると、「セアラ」と名を呼ばれた。
「私に何か言いたいことがあるんじゃないか?」
私は膝に置いた手に落としていた視線をノア様に向けた。
「私のせいで嫌な思いをさせて申し訳ありませんでした」
そう言って頭を下げると、少し強い調子で「違う」と返ってきた。
「セアラは何も悪くないだろ。姉上も言っていたとおり、私の考えが甘かったんだ。まさか私の婚約者にあんな場所であんなことをする人間がいるとは……」
ノア様は忌々しそうに顔を顰めた。
「だから、セアラは気の済むまで私を責めればいい。駄目な婚約者だと」
「そんなこと少しも思っていないのに、無理です。あれは上手く対応できなかった私が悪いんです」
お姉様も私のことはまったく責めなかったけれど、私は不甲斐ない気持ちでいっぱいだった。
「あんなのにいちいち対応する必要はない。さっさと逃げるなり助けを求めるなりしろ。もちろん、二度とああいうことがないよう気をつけるが」
「でも、ことあるごとにノア様を頼ってばかりで、私こそノア様の婚約者として情けなくて」
優秀で誰からも一目置かれる名家の嫡男であるノア様。そんな彼にたまたま出会って、なぜか気に入られて婚約者になれた私。
お母様のようにとまではいかなくても、せめて胸を張ってノア様の隣に立てるようになりたい。だけど、今のままではノア様の足を引っ張ってしまう。
「どこが頼ってばかりなんだ? 少しも甘えてこないくせに」
ノア様の不機嫌な低い声に、私は目を瞬いた。
「甘えています。ここに置いていただけなかったら、私は今頃どうなっていたか……」
「そういうことじゃない。そんなのは結婚すれば当たり前だろう」
苛立った様子のノア様に、私は戸惑う。
「私はまだ婚約者です。本来なら、こんな風に何から何までお世話になれる立場ではありません」
「そこが気になるなら春まで待ったりせず、今すぐ結婚するか」
「は?」
ノア様の言葉に耳を疑った。
私はまだ次期公爵夫人として全然足りない。今夜のことでノア様だってわかったはずなのに、なぜそんなことを言い出すのだろう。
「今すぐ結婚なんて、無理に決まっているではないですか」
「ドレスや参列者は間に合わないかもしれないが、後で結婚披露パーティーをすればいいだろう。正式な妻となれば、周りの目も変わるしな」
結局、私がノア様の隣に相応しいかどうかは、私自身の出来不出来どうこうではないのだ。
ノア様はそれに気づいて面倒になり、手っ取り早く私に立場を与えてしまうことにした、ということ?
「それなら、最初からノア様に釣り合う方を選べば良かったのに」
私の力ない呟きは、ノア様の耳に届いたらしい。
「セアラ、何を言ってるんだ?」
「ノア様はたまたま捕まえてしまった私に情けをかけたりせず、誰もが納得するような令嬢を選ぶべきだったんです。いえ、ノア様なら今からでもそういうお相手を選べます」
私との婚約を解消しさえすれば。
「もう私の妻にはなりたくない、という意味か?」
ノア様の声が冷たくなった。
私は首を左右に振りたいのを必死に堪えた。
そんなわけない。ずっとノア様と一緒にいたい気持ちは、この1月半で強くなったくらいだ。
婚約解消なんてしたくない。他の女性がノア様の隣に立つなんて想像もしたくない。
だけどーー。
「ノア様の足手まといになりたくないんです」
目頭が熱くなって、慌てて眉間に力を入れた。
「セアラが私の足手まといだなど、いったい誰が言ったんだ?」
「誰に言われなくても、自分が一番わかります。私が次期公爵夫人になるなんて、やっぱり無理だったんです」
堪えたつもりだった涙が溢れてきてしまった。視界が歪んでノア様の姿がぼやけた。
それでも、どうにか言葉を続ける。
「できるだけ早く、明日にでもこちらから出て行きます」
なぜ、私はこんなことを言っているのだろう。
ノア様にエスコートされて夜会に行って、ダンスをしたり婚約者だと紹介されたりとても幸せだったのは、つい数時間前なのに。
「まさかスウィニー家に戻るつもりなのか?」
今度ははっきりと首を振った。
たとえこの先何があろうとも、実家に戻ることだけは絶対にない。
「しばらくは伯父様のところでお世話になれると思うのでご心配はいりません」
いつまでもというわけにはいかないから、今度こそお仕事を探さないと。
私は涙を拭い、一つ息を吐き出してから立ち上がると、ノア様に向かって深く頭を下げた。
「本当に色々と良くしていただいたのに至らず、申し訳ありませんでした。受けたご恩は必ずお返ししますので、どうぞお許しください」
「許さない」
短い答えとともに、ノア様も立ち上がる気配がした。
私はゆっくりと顔を上げた。ノア様がこちらをきつく睨んでいた。
私はもう一度頭を下げようとしたけれど、それより先にノア様が動いた。
私の足が浮き、ノア様の顔を見下ろす形になって、抱き上げられたのだとわかった。
「ノア様?」
ノア様は私の声を無視して大股で歩き出し、客間を出た。2階に行くのかと思ったけれど、階段も私の「どこに行くんですか?」という問いかけも素通りして、玄関の扉を開けた。
途端、流れ込んできた冷たい空気に私が体を震わせると、ノア様の腕の力が強まったように感じた。
出て行くなんて言ったから、今すぐ追い出されるのだろうか。私がノア様を怒らせてしまったのだから仕方ないけれど。
そう考えたけれど、ノア様はそのまま外に出て庭園も通り過ぎた。そうして、到着したのは別邸だった。
執事のウォルターが開けてくれた扉から中に入って、ようやくノア様は私を床に下ろした。
「どうした? 今夜は夜会ではなかったのか?」
お祖父様とお祖母様が驚いた表情で出て来られた。私は訳がわからないまま、肩を竦めた。
「遅くに申し訳ありません。セアラが家出をしたいと言うので、しばらくこちらで預かってもらえますか?」
「ノア様、私は……」
慌てて訂正しようとしたが、ノア様の一睨みで口を閉ざした。
「ああ、それは構わないが」
「では、よろしくお願いします。お休みなさい」
ノア様はおふたりに頭を下げてから私をもう一度睨みつけると、さっさと踵を返して出て行ってしまった。
私は音を立てて閉まった玄関扉を呆然と見つめた。
「その格好だと、湯浴みは済んでいるのかしら? だけど、こんな薄着で外は寒かったでしょうに」
お祖母様が嘆息交じりに仰った。
確かに、私は寝巻にかろうじてガウンを羽織っているだけで、足元は室内履き。ノア様だって、寝巻ではないだけで外に出るのに相応しい格好ではなかった。
「ご迷惑おかけして申し訳ありません」
私もおふたりに頭を下げた。
「いいのよ。すぐに客間を用意するから、それまで居間にいらっしゃい」
「そうだな。詳しい話は明日聞こう」
「ありがとうございます。お世話になります」
ノア様を追いかけたところで話を聞いてもらえるとは思えないし、今から伯父様のお屋敷に行くのは無理だろう。とりあえず、今夜はここに置いていただくのが一番良いに違いなかった。
私は居間の暖炉の前でしばらく過ごしてから、2階の客間へと案内された。
客間の広さは本邸のほうとあまり変わらないが、物が少ない分淋しく見えた。
疲れを感じ、すぐにベッドに入った。寝具の心地良さも同じだった。
だけど、目を閉じると様々なことが浮かんでしまい、眠りはなかなかやって来なかった。
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