18 黄色いドレス
1月半ぶりに、あの黄色いドレスを身に纏った。どこも苦しかったり緩かったりしないのは、私に合わせて直してくださったからだ。
「今度こそ、セアラにぴったりにするから」
私が夜会に出席すると決まってすぐに、まるで何かに挑むようなお顔でそう仰ったのは、もちろんお父様だった。
「確かにあれはセアラによく似合っていたけれど、今回は違うドレスにしたら? 他にもセアラに合いそうなものはあるでしょう?」
お母様がやんわりと仰っても、お父様は諦めきれない様子で反論なさった。
「でも、次の時にはこの前注文したドレスができあがるだろうから、もうセアラがあれを着る機会はないかもしれないし」
ノア様が私に向かって首を傾げた。
「セアラはどうしたい?」
実家では夜会のドレスに迷うことなどできなかったので、メリーお姉様のドレスをお借りするのだとしても選択肢があるだけで贅沢な状況だ。別のドレスを着てみたい気持ちもある。
だけど、あの翌朝にシュンとしたお父様に「ごめんね」と謝られたことを思い出し、答えを決めた。
「私もあのドレスをまた着たいです」
途端にお父様のお顔にパアッと笑みが浮かんだ。
「では、あのドレスにしましょう」
ノア様が言うと、お母様も頷いた。
「だけど、せめてアクセサリーは別のが良いわね」
「キャンベル男爵にいただいた中に、あのドレスに合いそうなものがありました」
「ああ、そうね」
コーウェン家の夜会の時には、ケイトがひとりで手早く化けさせてくれたけれど、今回はさらにふたりのメイドが加わって、あの日の何倍もの手間暇をかけて私の身支度が整えられた。
自身も正装に着替えて客間にやって来たノア様は、私の姿を見て目を細めると、額に口づけを落とした。
「いくらでも眺めていられるな」
そう言って、今度は私の手を取ってそこにも唇を寄せた。
「ありがとうございます。ノア様こそ、とても素敵です」
内心でアワアワしながらもそう返すと、ノア様はくるりと体の向きを変えて私の腰に腕を回した。
玄関ホールでご家族に見送っていただいて、ノア様と私は馬車に乗り込んだ。
私たちはコーウェン家の夜会で出会って婚約し、ノア様の希望どおり春には結婚すると決まったが、正式な婚約披露の場は設けないことになった。
短期間のうちに3度も大規模な会を開催する余裕はない、というのが理由だ。余裕がないのはもちろんコーウェン家の経済面ではなく、主催者の立場になるお父様の精神面のこと、らしい。
そんなわけで、私をエスコートして何度か社交の場に出て婚約を公のものにしてきなさい、との指令がお母様からノア様に出されたのだ。
だから、今夜の夜会に行くのはノア様と私だけなのだが、会場でお姉様ご夫妻と落ち合う予定になっていた。
会場の大広間に到着してすぐ無事にお姉様方と合流し、一緒に今夜の夜会の主催者である侯爵夫妻にご挨拶をした。
侯爵も宮廷に出仕なさっていて、ノア様やお父様とは顔見知りだそうで、ノア様がエスコートして来た私が彼の婚約者だと当然のように理解していらっしゃった。
「公爵が自慢していらっしゃるだけあって、可愛いらしい婚約者だね」
侯爵のお言葉と微妙な笑みに、私は肩を竦めた。お父様は宮廷でいったいどんな風に私のことを話していらっしゃるのだろうか。
侯爵の前を退がってからそれを口にすると、ノア様とルパートお兄様が顔を合わせて笑った。
「父上は宮廷でもあのままだから、セアラはとても良い娘で私に相応しい相手だと言ってるよ」
ノア様にそう言われて、安堵と気恥ずかしさを覚えた。
「まったく羨ましいよ。私なんか、今だに娘を奪っていった男だと思われているんだから。ヴィンスとジョシュアを可愛いがってくださっているから構わないけど」
嘆息するお兄様に、お姉様が苦笑した。
「お父様はああ見えて、ルパートのことちゃんと好きよ」
「でも父上はセアラを本当にすんなり受け入れてくださった、とは思います」
「ノアは嫡男でずっと一緒にいられるから、少なくとも奪われるという感覚はなかっただろうな」
「それなら、同じ息子でもメイが結婚する時は違うのかしら?」
「相手にもよるんじゃないですか」
「メイもセアラみたいな良い娘を見つければ良いのね」
「それは、かなり難しいでしょうけどね」
お姉様たちとは一旦分かれ、私はノア様に誘われてダンスを2曲踊った。
それから、ノア様に連れられて大勢の方々と挨拶を交わした。
会場中を歩き回って私が足に痛みを感じはじめた頃、ノア様が私の顔を覗き込むようにして言った。
「疲れたか?」
敏感に察してくれたノア様に、私は正直に頷いた。
「足が少し」
ノア様は私を会場の隅の食事が用意された一角へと連れていき、そこに置かれていた椅子に座らせ、飲み物まで取ってきてくれた。
「セアラはここで休んでいろ」
「よろしいのですか?」
「もう大方済んだから、あとは私ひとりで大丈夫だ。一応言っておくが、他の男に誘われても絶対に着いて行くなよ」
「ここから動かずに、ちゃんとノア様を待っています」
「良し」
満足げに頷くと、ノア様は再び会場の中心のほうへと戻っていった。
私を誘いに来る男性などいないだろうと気楽に考え、ノア様から渡されたグラスを口に運んでいたのだが、グラスが空にならないうちに数人の方々に囲まれていた。全員が若い令嬢だが。
彼女たちは私を遠巻きに見つめながら、私の耳に届く程度の声でコソコソ話をはじめた。
「本当にあの方ですか?」
「間違いありませんわ。先ほどコーウェン公爵子息と踊っていらっしゃいましたもの」
「コーウェン家の夜会でも、一緒にいるのを見ましたわ」
私は一つ息を吐き出すと、近くのテーブルに飲みかけのグラスを置いて立ち上がり、彼女たちに対し淑女らしく礼をした。
「私に何かご用でしょうか?」
令嬢方はしばらく視線を交わし合っていたが、そのうちにひとりが口を開いた。
「あなたがコーウェン次期公爵の婚約者だと仰っているというのは本当かしら?」
「はい。ノア・コーウェン様の婚約者セアラ・スウィニーと申します。どうぞ、お見知りおきを」
「スウィニー伯爵令嬢、ね」
ノア様はどなたにも私を「婚約者のセアラです」と紹介してくれた。だけど、私が自ら名乗るのなら、家名を省くのはおかしいだろう。
そう思って私が仕方なく名乗った家名を、令嬢のひとりは嘲るように口にした。
「お姉様はお元気かしら? 少し前まではどこに行ってもお顔を見たけれど、最近は全然お見かけしなくて皆清々していましたのよ。それなのに、まさか姉より厚かましい妹が現れて、よりによってコーウェン次期公爵の婚約者を名乗るなんて、おこがましいにも程がありますわ」
初対面の相手の口から、まるで世間話をしているかのような口調で、流れるように悪意ある言葉が出てくる。
婚約してからずっと、私は優しいノア様やご家族に守られてぬくぬくと暮らしていたけれど、きっとこれがその外にいる方々の本音なのだ。
「婚約者なんてあなたの妄言なのでしょう? コーウェン次期公爵にこれ以上ご迷惑をかける前にあなたも消えたら?」
大丈夫。こういうことは慣れている。ジッと黙って、相手が飽きるのを待てばいい。反論したり逃げたりしたらもっと酷いことになる。
「ですが、あなたのそのドレスはなかなか素敵ですわね」
唐突にドレスを褒められて、私はつい答えた。
「ありがとうございます。お姉様のドレスをお父様が私のために直してくださったのです」
「いやだ、お姉様のお下がりなの?」
嘲るような表情に、自分の失敗を悟った。
「しかも、それ、前回と同じドレスでしょう? ドレスも買えないような貧乏貴族がよく次期公爵の婚約者面しているわね」
「その一張羅が着られなくなれば、もうあなたは夜会に出られないってことかしら?」
意味を理解するより先に、その言葉を吐いた令嬢がテーブルからグラスを取って中の液体を私に向かってぶち撒けた。
見下ろしたドレスの胸元には大きな赤紫色の染みが広がっていた。私は自分の顔も同じ色になっていくように感じた。
私に対する言葉だけなら我慢できたが、大切なドレスを汚されて呆然となった。
令嬢方はクスクスと笑っている。
「お姉様にも伝えてもらえるかしら、いい気味って」
令嬢方の笑い声が大きくなった時、その後ろから穏やかな声がした。
「セアラ、ここにいたのね」
令嬢たちを掻き分けるようにして現れたお姉様は、私を見ると目を見開いた。
「まあ、どうしたの?」
「お姉様、申し訳ありません。お姉様のドレスが……」
「ドレスより、セアラは大丈夫なの? 怪我は?」
お姉様は無事を確かめるように、私の頬、肩、腕と触れていった。
「大丈夫です」
「本当ね? ああ、ノア、ここよ」
お姉様の視線の先を見ると、ノア様が足早に歩いて来るのが見えた。お兄様も一緒だ。
「姉上、何かありましたか?」
「あったわ。まったく、セアラを放って何をしていたのよ」
ノア様は怪訝な顔をしていたが、私が振り向くと瞠目し、残りの距離を一気に詰めて私を腕の中に捕らえた。
多くの人目があるうえ、ノア様の服まで汚れてしまう。私は急いで離れようとしたが、ノア様は逆に力を強めて私を抱きすくめた。
「ひとりにして悪かった」
悔いの滲む声で言われ、温かい手が頭上に置かれた。
私は抗うことは諦めてノア様の胸に顔を埋めたけれど、気が緩んで溢れそうになった涙はグッと堪えた。
「説明していただけますか?」
ノア様が低い声で問うのが聞こえた。
「わ、私たちはそちらの方がコーウェン次期公爵の婚約者だとお聞きして、お話しさせていただいていたのです」
答えた声は、明らかに動揺していた。
「そのうちに、持っていらした飲み物を溢してしまわれて……」
「おかしいですね」
ノア様の声が一段と冷えた。きっと、顔にはあの怖しい笑みが浮かんでいるのだろう。
「私の婚約者は酒を嗜みませんので、私は彼女に葡萄ジュースを渡しました。が、これは香りからしてワインでしょう」
令嬢方が息を呑むのが聞こえた。
「ワインをかけたのはブリジット様です」
ひとりが早口で言うと、別の令嬢が慌てて口を開いた。
「先に絡んでいったのはダイアナ様ではありませんか」
「それを言うなら、ナタリー様のほうが酷いことを仰っていましたわ」
頭上から深い溜息が降ってきた。
「つまり、あなた方は寄ってたかって私の婚約者を甚振ったわけですか」
「私は何もしておりません」
「私も、ここに居合わせただけですわ」
今まで黙っていたふたりの令嬢が口々に言った。
「シャロン・マイラー子爵令嬢、ティナ・アダムズ子爵令嬢、あなた方はご友人であるブリジット・ターナー伯爵令嬢、ダリア・アンカーソン伯爵令嬢、ナタリー・ハーシェル侯爵令嬢の暴挙を止めもせずただ見ていただけということですね?」
ノア様は悩む風もなく令嬢方の名前を並べてみせた。彼女たちもノア様の婚約者になりたいと望み、以前に挨拶をしたことがあったのだ。
「いいえ、見ていただけではありません。笑っていましたわ」
「もう結構です。私はあなた方に順位をつけるつもりはありません。このことを父に報告した後、あなた方の家に平等に抗議させていただきます」
ノア様はうんざりした様子で言ってから、腕の力を緩めて私を見下ろした。
「セアラ、帰ろう」
打って変わって優しい声に、私は頷いた。
ノア様の白いシャツはやはり赤紫色に染まり、黒い上着も濡れていた。
ノア様は私の肩を抱いて出口へと促した。だが、数歩進んだところで令嬢方を振り向いた。
「ああ、もし衣装代を請求する場合はふたり分になることは覚えておいてください」
返事をする方はいなかったけれど、ノア様は気にせず再び歩き出した。




