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2 瞬く間に

 ノア様は私の話を憮然とした顔で聞き終えた。


「どこにでもある、つまらない話で申し訳ありません」


 私は頭を下げた。


「よくある話でも、当事者にとっては一大事だろう」


 声が少しだけ柔らかくなったように感じられた。私の話を信じてくださったようだ。

 それだけで、少し気持ちが軽くなった気がした。


「はい。自分の身の上にこんなことが降りかかるなんて、1年前には思ってもみませんでした」


 しばらく沈黙が続いたが、それを破るようにふいに扉が叩かれた。ノア様は「見つかったか」と呟いて顔を顰めた。


「若様、こちらにいらっしゃいますか?」


 聞こえてきた若い男性らしき声に、ノア様は渋々といった様子で答えた。


「いる」


「入ってもよろしいですか?」


「今は、駄目だ」


「何をなさっているのか知りませんが、早くお戻りください。奥様がお探しです」


「わかっている。……ああ、ちょっと待て。母上にお話ししたいことがあるからこちらへ来ていただきたいと伝えてくれ」


 もしかしたら公爵夫人の前に首飾り泥棒として突き出されるのだろうか。あるいは、公爵夫人なら私の家を潰すこともできるとか?


「今すぐですか?」


「そうだ」


「承知しました」


 扉の向こうから人の気配が消えると、ノア様が改めてというように私を見つめた。


「顔は、今は腫れていないようだが」


「姉が私を夜会に連れて行くと言ってからは、母も見える場所に痣ができないよう気を使っていましたから」


 果たして継母は異母姉の目的を知っていたのだろうか。


「見えない場所にはあるのだな」


 ノア様は不快そうに言った。


 ノア様が先ほどソファの上で私のドレスの襟元をずらすなり裾を捲るなりしていれば、実物を目になさっていただろう。


「醜い体を晒そうとして、申し訳ありませんでした」


「そんなことは言ってない」


 ノア様が声を荒げ、落ち着くためか溜息を吐き出した。


「で、セアラはそれでいいのか?」


「え?」


 何を訊かれているのかわからず首を傾げた。


「盗人として捕まって、家と家族にまでその科が及べば満足できるのか?」


「それは……」


 私は答えに詰まった。満足できるのかと訊かれても、よくわからないというのが正直なところだ。逆に虚しくなるのかもしれない。


「訊き方を変えるか。家族を自分以上の不幸に引き摺り落とすのと、自分が家族より何倍も幸せになって見返すのと、どちらが良い?」


「でも……」


 ここからどうすれば幸せになれるのか、私にはわからない。


「どちらだ?」


 有無を言わさぬ調子で尋ねられ、私は正直に答えた。


「私だって、できれば幸せになりたいです」


「それなら、今から私の言うとおりにしろ」


「え?」


「セアラを私の好きにさせてもらう。その代わり、首飾りでも何でも強請るといい。姉ではなく、セアラが欲しいものを」


「あの、つまり、ドレスを脱いだほうがよろしいですか?」


 少しの間の後で、ノア様は答えた。


「セアラは私と先ほどの続きをできるのか?」


 そんなことを訊かれても、答えられない。


「いや、その前に口づけだな」


「口づけ……?」


 戸惑っておそらくは赤くなっているであろう私の顔を見て、ノア様が笑った。初めて見た笑顔は意外にも人懐こくて、私の胸がドキリと鳴った。


「その様子だと満更でもなさそうだな。良かった」


 何が良いのかまったくわからないが、ノア様が笑ってくださるなら何でもいいような気がしてきた。


 そこで、再び扉が叩かれた。


「ノア、入るわよ」


 今度聞こえたのは、落ち着いた女性の声だった。


「どうぞ」


 答えながらノア様が立ち上がったので、私もそれに倣った。


「とりあえず、私に話を合わせてくれ」


 ノア様に早口に言われて、反射的に頷いた。


 扉を開けて部屋に入ってこられたのは、やはりコーウェン公爵夫人だった。さらにその後ろにはコーウェン公爵のお姿もあった。


「ノア、いったいどうしたの? そちらは?」


 夜会の最中に会場を抜け出したご嫡男が、知らない娘と部屋でふたりきりでいたのだから、公爵夫妻が驚くのも当然だろう。怒って私を叩き出したっておかしくない。

 だが公爵夫人は穏やかな表情を崩さぬまま、ノア様と私を順に見ただけだった。公爵のほうは無表情で私をきつく睨みつけているけれど、怒鳴りだす様子はなかった。


「スウィニー伯爵家のセアラ嬢です。セアラ、私の両親だ」


 ノア様に親しい知人ででもあるかのように紹介されて、とりあえず私は公爵夫妻に淑女の礼をし、挨拶を交わした。

 驚くことには、公爵から「初めまして」と頭を下げられた。無表情のままだけど。


「それで、話というのは?」


「彼女に決めました」


「いったい何のこと?」


 私の戸惑いを代弁してくださったのは公爵だった。


 公爵は男性としては他に見たことのないほどお綺麗な顔立ちをなさっている。そのためにお歳がいまいちわからないが、ノア様にはお姉様がいらっしゃるから、どんなにお若くても40代だろう。

 国王陛下の従弟で、有能な秘書官でもあるという方だ。


「結婚相手です」


「ええええ」


 ノア様の返答に驚きの声をあげたのも公爵だった。目が丸くなって、先ほどまでとは別人かと思うくらい表情が崩れた。

 私も声をあげそうになったが、こちらをチラと振り向いたノア様の鋭い視線にきつく口を閉ざした。

 公爵よりノア様のほうがずっと迫力があるかもしれない。


「ノア、この娘と結婚するの? 今まで何も言ってなかったよね? ええと、名前何だっけ?」


「セアラです、父上」


「ああ、そうだった。セアラとはいつ知り合ったの?」


「今夜です。さっき偶然出会って、すぐに私が結婚するのは彼女だと確信しました」


 そんな口から出まかせな話を誰が信じるのだろうかと思ったが、公爵は感嘆の声をあげた。


「へえ、そうなんだ。出会えて良かったね」


「はい」


「ノアの気持ちはわかったけれど、セアラ嬢はどうなのかしら?」


 公爵夫人にジッと見つめられて、私は思わず背筋を伸ばした。


 公爵夫人はどこにでもいそうな普通の女性にしか見えないけれど、社交界では「コーウェン公爵家を牛耳る女狐」などという陰口が実しやかに囁かれている。

 異母姉はあんな失礼なことを言っていたが、公爵夫人も品があってお綺麗な方だ。ただ、お隣にいらっしゃる公爵が美しすぎて霞んでしまうのは否めない。


「私も、ノア様と同じ気持ちです」


 とにかくノア様の言うとおりにする。この場でそれ以外の選択肢は浮かばなかった。


「ようやくノアが見つけた相手にあまり脅すようなことは言いたくないけれど、伯爵令嬢が生半可な想いで公爵家に嫁ぐと後で苦労するわよ」


 おそらく公爵夫人が仰っているのはご自身の経験を踏まえてのことで、私を心配してくださっているのだろう。


「え、クレア、苦労したの? 僕と結婚したこと後悔してるの?」


 公爵が不安そうに尋ねると、公爵夫人はそちらを振り向いた。


「セディ、今さら何を言ってるのよ。私はきちんと覚悟してあなたと結婚したわ。後悔なんてするわけないでしょう」


 途端に公爵が嬉しそうな笑みを浮かべた。私のお父様と同年代の男性がこんな表情をするのを初めて見た気がする。

 おふたりは、おしどり夫婦という評判どおりに本当に仲の良いご夫婦のようだ。私もおふたりのご子息のノア様と結婚すれば、こんな幸せそうな夫婦になれるのだろうか。


「至らないことは多々あると思いますが、ノア様とおふたりに導いていただけたら嬉しいです。どうかよろしくお願いいたします」


 気がつけば、私は深く頭を下げていた。


「いいわ。私がセアラを次期コーウェン公爵夫人にしてあげましょう」


 公爵夫人の力強い言葉に、私は「ありがとうございます」ともう一度頭を下げた。


「母上、ありがとうございます。セアラをお願いします」


「セディも良いのね?」


「ノアが決めてクレアが許したんだから、僕はもちろん応援するよ」


 自分で頭を下げておいて何だが、公爵家嫡男の結婚というのはこんなとんとん拍子に決まってしまって良いものなのだろうか。


「それじゃあ、もう夜会に戻りましょう。私たちまでいなくなって、きっと皆が困っているわ」


 公爵夫人は急かすようにそう仰ったが、それに待ったをかけるようにノア様が右手を上げた。


「申し訳ありません。その前におふたりに頼みたいことがあるのですが」


「何かしら?」


「父上、屋敷にあるドレスの中で一番セアラに似合うものを選んでいただけますか?」


 公爵家の夜会に参加するにはまったくもって地味すぎる私を憐れみ、せめて別のドレスを着せてやろうとノア様は思いついたのかもしれない。

 それにしても、なぜノア様はそんなことを公爵に頼むのかと不思議に思うが、公爵の瞳は輝いた。


「セアラが今すぐに着られて、ノアの隣に相応しいドレスってことだね」


 そう言うと公爵はしばし私の姿を見つめ、それから足早に部屋を出て行かれた。


「母上、セアラに母上の首飾りを貸していただけませんか? できたら王宮の夜会の時につけていたものが良いのですが」


 私は思わず息を呑んだが、公爵夫人はあっさり頷いた。


「そのくらい構わないわよ」


 公爵夫人とノア様とともに、私も部屋を出た。向かったのはノア様の部屋とは階段を挟んで反対側にある公爵夫人の部屋だ。

 私の本当の目的地はここだったのかと心の中で呟いた。


 部屋の中に入ると、公爵夫人がご自身でクローゼットから首飾りを出してきてくださった。

 それを受け取ったノア様が、私を鏡の前に立たせて首にかけてくれた。


 ノア様の指が肌に触れて、そう言えばさっきはノア様に首を舐められたなと思い出してしまい、顔が熱くなった。


 そんな私の横で、公爵夫人が唸った。


「駄目ね。これはセアラにはまだ似合わないわ」


「残念ながら、母上の仰るとおりですね」


 私の首にかけられているのは、大きなエメラルドのついた本当に素敵で豪華な首飾りだった。

 きっと公爵夫人がこの首飾りを身につければとてもお似合いなのだろうけれど、私では完全に宝石に負けている。


 公爵夫人は再びクローゼットへと姿を消した。


「こんな首飾りを欲しがるなんて、身の程知らずとしか思えません」


 私が囁くと、ノア様は苦笑した。


 戻ってきた公爵夫人は、別の首飾りをノア様に渡した。


「こちらをつけてみて」


 言われるまま、ノア様は首飾りをつけ替えてくれた。

 今度の首飾りについている石もエメラルドだが、先ほどのものよりはずっと小さい。その分、意匠が華やかで、私くらいの年齢の女性向けという感じがする。


「うん、いいわね。これにしなさい」


 公爵夫人が満足そうな顔で仰った。


 その時、勢いよく扉が開き、公爵が入ってこられた。


「ノア、これがいいよ」


 公爵が掲げてこちらに見せたのは、鮮やかな黄色のドレスだった。

 すぐさまノア様がそのドレスを受け取り、私の体に合わせた。


「あら、良さそうじゃない。さすがセディね」


「でしょう? メリーがデビューした年に作ったものだけど、成長に合わせて何度か直したからサイズも大丈夫だと思うよ。あ、その首飾り、懐かしいね」


 公爵が私の首元を見て明るい声で仰った。


「何か特別なものなのですか?」


「僕たちの婚約披露の時にクレアがつけたんだよね」


「ええ。ノアのお祖母様にいただいたのよ。もともとはお祖母様の瞳の色に合わせてこの石が選ばれたそうなのだけど、セディは同じ色だからちょうどいいわねって。ノアも、さっきの首飾りが良かったのはそういう理由でしょう?」


「ああ、はい、そうです」


 笑顔で肯定したノア様のお顔をそっと見上げた。

 お母様似の整った顔立ちだが、通った鼻筋や輪郭は男っぽい。その中で、瞳だけはお父様と同じ深いエメラルド色。


 あら、そう言えば……。


「ノア様のお祖母様ということは、つまり、この首飾りは王女様がつけていらしたもの?」


 そんな特別な首飾りを私がお借りしてしまって、本当に良いのだろうか。


「確かに元王女だが私のお祖母様だから、そんなに堅苦しく考える必要はない。何なら隣の別邸にいらっしゃるからすぐに紹介しよう」


 私が首を振るより早く、公爵夫人が口を開かれた。


「それはまた後日にしてちょうだい。私たちは先に戻るから、セアラの支度ができたらあなたたちもすぐに来るのよ」


「じゃあ、セアラ、外で待ってるから」


 3人が出ていって急に静かになった部屋に私と、公爵夫人付きのメイドだというケイトが残された。


 ドレスを着替えさせてもらいながら、幾分冷静になった頭で考える。

 すっかりノア様に流されてしまったけど、本当にこれで良かったのだろうか?


 一時的に結婚の約束をした振りをするだけだと思うけれど、ノア様のご両親まで騙している。

 今夜初めて会ったばかりの、しかも首飾りを盗もうとしていた女のためにそんなことまでしてくださっても、ノア様には何の得にもならないのに。

 ノア様は最初の印象よりずっと優しい方のようで、だからこそ申し訳ない。いや、そもそも最初のあれも悪かったのは私なのだ。


 束の間、考えに耽っていただけのつもりが、いつの間にやら私の支度はすっかり整えられていた。

 ドレスと首飾りを替えただけでなく、髪の毛を纏め直したうえに首飾りとお揃いの髪飾りまでつけてもらい、最後に薄く化粧を施された。


 鏡に映る自分の姿に、私は目を瞠った。私って割と可愛い、と勘違いしそうだ。


「どうもありがとう。自分自身なのに見違えたわ」


 ケイトに礼を言うと、彼女は笑って首を振った。


「私は、大したことはしておりません。お礼は若様に仰ってくださいませ」


 彼女は間違いなく目にしたはずの私の体の痣については何も言わなかった。

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