16 母の心(ノア)
スウィニー家の玄関を出て馬車に乗りこもうとしたところで、門の近くに見覚えのある男が立っているのに気づいた。
視線が合うと会釈をされた。どうやら私に用があるらしい。
彼とも1度くらいは話してみるか。これが最後の機会に違いない。そう考えてそちらへ足を向けると、彼もこちらに歩み寄ってきた。
残念ながら、セアラから聞いた彼の名前もしっかり記憶していた。アダム、だ。
「何か?」
スウィニー家で溜まった疲労感もあって、思ったよりも低い声が出た。
「セアラは変わりありませんか?」
スウィニー伯爵からそれを尋ねられなくて苛立たしかったが、アダムからは尋ねられたことが腹立たしい。
「変わりありますよ。抑圧された生活から解放されたのですから当然でしょう。ですが、今さらそれを訊いてどうするのですか? もうセアラはあなたとは無関係の人間です」
もう私の婚約者なのだから軽々しく名を呼ぶな、とも言いたいところだが、かといって今さらセアラを「スウィニー伯爵令嬢」と呼ばせる気にはなれない。
「そうは思いません。セアラは私にとって妹のような存在です」
「妹? それだけですか?」
「セアラはずっと寂しそうでした。伯爵は家にいないことが多く、伯爵夫人は病気がち、そのうえひとりっ子。だから、せめて私ができるだけ一緒にいてやりたいと思っていました」
婚約者の異母妹だからではなく、そうなる以前からの「妹」だということのようだが、アダムの話し方は淡々としていて、本心が見えにくい。
セアラはこんな男のどこが好きだったのだろうか。
「だったら、なぜもっと早くセアラの状況に気づいてあげられなかったのです? セアラにとって、あなたは数少ない頼れる人間だったでしょうに」
「私は何も知らなかったのです。あの日、馬車の中で1年ぶりに会って驚きました」
「セアラのことはわからないまま放置して、その姉と婚約したのですか。妹のようなセアラより爵位を選んだということですね」
「それを決めたのはスウィニー伯爵と私の父です。貴族の結婚なんてそういうものではありませんか」
アダムのその言葉には、苦笑するしかなかった。
「確かに、出会ったばかりの相手との結婚を認めるなんて、私の両親くらいのものでしょうか」
「あなたは、本当はセアラと以前から知り合いだったのではないのですか?」
「いえ、私たちが出会ったのはあの夜会です。そうでなければ、もっと早くにセアラをここから連れ出していましたよ」
「あなたならきっとそれができたのでしょうね。……私から頼むことではありませんが、セアラをよろしくお願いします」
アダムが今度は深く頭を下げた。
もし私が出会うまでセアラが母上の生前と変わらぬ生活を送っていれば、彼女をもらい受けるために私のほうがいくらでも伯爵やこの男に頭を下げただろうし、キャンベル男爵に代わってスウィニー家に援助することも惜しまなかっただろう。
今となってはあり得ないことだが。
「私が今日こちらを訪ねたのは、援助はしないと伝えるためです。我が家がスウィニー家をセアラの実家として特別に扱うことは決してありませんし、できるだけ関わらないつもりです」
「そうですか」
「それでも、あなたはこのまま次期伯爵になるのですか?」
「少なくとも私から婚約の解消を言い出すつもりはありません」
アダムははっきりと断言した。
苦境に立つであろうスウィニー家を継ぐことは、彼なりのセアラに対する贖罪なのだろうか。
あるいは、この男はセアラには抱かなかった感情を異母姉には抱いているのだろうか。婚約者などお構いなしに他の男に色目を使うような女なのに? 妹のような幼馴染を虐げていたと知っても?
まあ、誰に心を動かされるかは理屈ではない。これ以上口を出すべき義理もない。
帰宅して玄関ホールで待つことしばし。屋敷の奥から足早にセアラが出てきた。
そんなに急がなくても私がセアラから逃げるはずないだろ、と言ってやりたいが、私目指してまっすぐに歩いてくるセアラは可愛いので、いつも黙ってその場に立っている。
以前は母上が出迎えてくださっていたが、婚約してからその役割はセアラのものになり、すっかりこの光景が日常だ。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
セアラの笑顔に、強張っていた気持ちが解れるのを感じる。
「今日はお仕事が大変だったのですか?」
いつもより疲れて見えたのか、セアラは少し心配するように私を見上げた。
「いや。セアラにいくつか話すことがある」
セアラの手を取って部屋へと向かった。
さて、セアラにどこまで話そうか。
とりあえず、夜会の時にセアラから「あれで充分」と言われたにも関わらず、今日もスウィニー家でついやってしまったことは話さずおこう。
着替えの間はいつものようにセアラのほうの話を聞いた。
最初の頃は私に背を向けて待っていたセアラが、最近では視線は逸らしたままながらも脱いだ服を受け取ってハンガーに掛けたりと手伝ってくれる。
着替えを済ませてからセアラと並んでソファに座った。
「キャンベル男爵にお会いしてきた」
私がそう言うと、セアラの表情が明るくなった。
「伯父様に? 都に戻っていらっしゃるのですね」
「ああ。だが、実はそれより前に手紙をいただいていたんだ。黙っていて悪かった」
セアラは何度か瞬きしてから、ゆるゆると首を振った。
「いえ。ノア様は私のためにそうなさったのでしょう。気になさらないでください。それで、伯父様は何と?」
「セアラのことを心配なさっていたが、私との婚約は喜んでくださった。日曜にはセアラを連れて行くと約束した」
「伯父様にお会いするのは久しぶりなので楽しみです」
セアラにとってキャンベル男爵は、1年に1度程しか会えないが、いつもたくさんのお土産をくれる優しい伯父様だったらしい。
だが、スウィニー家がキャンベル家から援助を受けていたことは知らなかったという。
「それから、キャンベル家には母上が結婚前に使っていたものが残っているらしい。セアラが望むものをくださるそうだ」
セアラの目が見開かれ、次には潤みだした。
「本当ですか?」
私は頷きながら手を伸ばし、セアラの頭を撫でた。
「良かったな」
「はい、ありがとうございます」
「礼は伯父上に言えばいい」
セアラが落ち着いてから、残りを話していった。
スウィニー家の借金の真相、伯爵に援助はしないと伝えたこと、そしてアダムにも会って話したこと。
「セアラのことをよろしくと頼まれた。セアラを妹のように思っていたそうだ」
「妹、ですか」
セアラは束の間、考えてから口を開いた。
「アダムは優しくて、いつも私を気にかけてくれて、一緒にいると穏やかな気持ちになれました。言われてみれば、確かに兄妹の関係に近かったのかもしれません。ノア様とは全然違います」
「どう違うんだ?」
私が訊くと、セアラは恥じらうように視線を下げた。
「ノア様と一緒にいると、いえ、ノア様のことを考えるだけで、ドキドキしたりアワアワしたり気持ちが忙しいです。でも、決してそれが嫌ではなくて。こんなのノア様だけです」
私は自然と口元が緩むのを感じながら、セアラを抱き寄せた。セアラは大人しく私に身を任せた。
「セアラ」
「はい」
「セアラは、私のことがかなり好きだな」
覗き込んだセアラの顔は赤く染まっていた。
「そう、です、よ」
小さな声で肯定が返ってきた。
「私をこんな気持ちにさせるのも、セアラだけだ」
私はセアラに口づけた。食むように2度3度と重ねる。
だがそこに、夕食の用意ができたというコリンの声が割り込んできた。
仕方なくセアラの体を放して立ち上がると、同じく立ち上がったセアラが慌てた様子で言った。
「ノア様、私のために色々とありがとうございました。でも、お仕事は大丈夫だったのですか?」
「大丈夫だ。それに、セアラのためは私のためでもあるからな」
セアラはふわりと笑って頷いた。
日曜日、約束どおりセアラとともにキャンベル家を訪問した。
出迎えてくださった男爵とセアラはどちらからともなく抱擁を交わした。
「セアラ、元気そうで安心したよ」
「色々とご心配をおかけして申し訳ありませんでした。伯父様も相変わらずお元気そうですね」
「それにしても、すっかり綺麗になったな。ノア殿のおかげかな?」
応援間に通されてから、男爵とセアラは近況を報告し合った。おそらく、年に一度の再会の度にそうしてきたのだろう。
セアラが話したのは最近の、私と婚約して我が家で暮らし始めて以降のことだった。男爵も敢えてスウィニー家を話題にはしなかった。
一方、男爵からは商いのために訪れた国内外の様々な場所での様子を聞かせてもらった。外交官である私にとっても興味深い話だった。
その後、部屋を移動して母上の遺品を見せてもらった。
ドレスや靴、アクセサリー、本に雑貨、学園の制服まで綺麗な状態であった。
「こんなにたくさん」
セアラも驚いた声をあげた。
「これでもずいぶん減らしたんだよ。残っているのはフィオナが特に気に入っていたものばかりだ。好きなものを選びなさい」
セアラは1つ1つを手にとって見つめていった。
そうして選んだのは、赤い靴、本を数冊、手鏡、くまの人形などなど。アクセサリーは男爵の勧めですべてセアラが受け取ることになった。
「これも持って行きなさい」
そう言って男爵が出してきたのは、小さな肖像画だった。どことなくセアラに似た女性が赤児を抱いて微笑んでいる。
「ありがとうございます」
セアラは震える声で礼を述べ、少し逡巡しながら尋ねた。
「伯父様、お母様はあの人たちの存在を知っていたのですか?」
それは、私も何となく考えていたことだった。
何不自由なく暮らしていた母上が結婚し、しかもキャンベル家からスウィニー家には援助がなされていた。それなのに母上が慎ましい生活を送っていたのは、病弱なことが後ろめたいからだとセアラは思っていたが、本当の理由は違うのではないか。
「ああ、フィオナは知っていて知らない振りをしていたんだ。私は何度もセアラを連れて帰って来いと言ったんだが、頑として頷かなかった。それどころか、あの男が愛人とその娘のために金を使っているのを承知の上で、援助を続けてほしいと頭を下げた」
「どうして、そこまで……」
「貴族の娘らしくと育てられたからな、夫がどんな人間でも嫁いだ以上は最期まで添い遂げるのが矜持だと考えていたのだろう」
セアラは哀しそうに言った。
「それだけではなく、お母様はお父様を愛していたのではありませんか? だからお父様が別の人を愛していても、別れられなかった」
男爵が苦々しい表情になった。
「まったく、フィオナは馬鹿だ。あんな男を……」
「お父様を捨てるような真似をした私を見て、お母様は嘆いているでしょうね」
「そんなことはない。フィオナは自分が死んだ後のセアラの身を案じ、私に頼んでいた。私はあの男が愛人と再婚したと聞いてすぐにセアラを引き取ろうとしたが、領地で療養中だなどと誤魔化されて、本当にすまなかった」
セアラは「いいえ」と首を振った。
「セアラ、もし良かったら、結婚まではここに住まないか?」
唐突な男爵の提案に、私は「駄目だ」という言葉を飲み込んだ。
キャンベル家なら何の心配もないはずだ。男爵だけでなく、男爵夫人もセアラを可愛がってくれている。
頼もしい伯父がいるのに我が家にセアラを留めておきたいのは、私の我儘だろう。
セアラは戸惑っているようだったが、やがてゆっくりと答えを口にした。
「私は、このままコーウェン家で暮らしたいです。ノア様はもちろん、ご家族にも本当に良くしていただいていますし、あちらでの生活にもずいぶん慣れてきたので」
それからセアラは私のほうを振り返った。
「構いませんか?」
私は安堵を覚えながら頷いた。
「当たり前だろ。セアラこそ良いのか?」
「ノア様は帰宅して私が出迎えると安心すると言ってくださいました。私も同じです。毎朝ノア様をお見送りして夕方にはお出迎えしたいんです」
さすがに男爵の前ではセアラを撫で回せないのが辛い。
男爵はハハッと笑った。
「すでに夫婦のようだな。それほど仲良くやっているのを無理に引き離すつもりはないよ。ノア殿、姪をどうぞよろしくお願いします。近いうちにコーウェン家を伺って、公爵夫妻にもご挨拶させていただきます」
「はい、セアラのことはお任せください。両親にも伝えておきます」
男爵からセアラへは、たくさんの外国土産もいただき、帰りの馬車は荷物が山積みになった。
この日ばかりはセアラを雑貨屋に連れて行くことはせず、まっすぐに帰宅した。




