14 結婚に向けて
カフェを出ると、ご家族へのお土産を購入するためにお菓子店に入った。入口の扉を潜った途端、甘くて香ばしい香りに包まれて至福の気分になった。
「セアラ、何が食べたい?」
「私ではなく、ご家族のお好きなものにしてください」
「どうせセアラも一緒に食べるのだし、ここの菓子は皆好きだから何でも大丈夫だ」
ノア様にそう言われて、私は迷った末に店員お勧めのマドレーヌを選んだ。
朝、実家で使用人たちに挨拶するだけのつもりでコーウェン家を出たのに、ノア様に連れられてあちこち回っているうちに日が暮れようとしていた。
馬車に揺られながら改めて1日を振り返ろうとして、はたと気づいた。
ドレスにケープ、靴に帽子、ユニコーンの置物、本、それからレストランで昼食、カフェでガトーショコラ。
ノア様に言われるまま、今日だけでどれだけの贅沢をしただろうか。しかも、ご家族にお土産をなんて、図々しいことまで言って。
ノア様の傍にいられるだけでいいと言っていた私はどこに行ってしまったの?
隣に座るノア様のお顔をそっと見上げれば、柔らかい笑みが私に向けられていた。
「どうした、そんな顔をして? 何か買い忘れたか?」
私が急いで首を振ると、ノア様の表情がわずかに曇った。
「それなら、やはり足が痛いか?」
私は再び首を振った。
「すっかり浮かれて、遠慮もせずにあれこれいただいてしまい、申し訳ありませんでした」
ノア様は溜息を吐いて眉を顰めた。
「ここで謝るくらいなら、浮かれたままでいろ。だいたい、今日は私が好き勝手にセアラを連れ回したということを忘れていないか?」
「好き勝手だなんて、お買い物もすべて私のものばかりだったではありませんか。私は色んなところに行けてとても楽しかったですが」
「それが本心なら、申し訳なく思ったりするな。妻になるセアラをその立場に相応しく着飾らせるのは、私の義務であり権利だ。セアラの喜ぶ顔が見られて、私も楽しかったしな」
最初の日に、お母様にも同じようなことを言われたのを思い出した。私の義務だ、と。
私はノア様の婚約者としてコーウェン家に温かく迎え入れられたものの、ご厚意を受けてばかりでまだ何の務めも果たしていない。
それはとても心苦しいけれど、今は開き直るべきなのかもしれない。私がコーウェン次期公爵夫人になるのはこれからなのだから。
「ノア様、今日は本当にありがとうございました。今は何もお返しできませんが、これからノア様の妻に相応しい人間になるようしっかり精進していきます」
ノア様に向かいペコリと頭を下げた。
「今度はずいぶん堅苦しいな。謝られるよりはいいが」
ノア様は苦笑しながら、私の頬にそっと触れた。
「気にすることはない。私はセアラから毎日もらっている」
「何を?」
私が首を傾げると、ノア様は目を細めた。
「宮廷から帰るとセアラが笑顔で迎えてくれてホッとする。あれで仕事の疲れを忘れられる。癒されるというのはああいうことなんだな。本当は今日みたいにずっとセアラを傍に置いておきたい」
ノア様はいつも帰宅時には不機嫌そうな顔で、だけど話しているうちに今のように柔らかい表情に戻る。
私はすっかりそういうものとして受け入れていたけれど、私の存在がノア様の日常に少しは必要とされていると、自惚れて良いのだろうか?
「私で良ければいくらでも、ノア様のためにお使いください」
「そんなことを言って、後悔するなよ」
ノア様は意味ありげに笑って、私の手を握った。
コーウェン家のお屋敷に戻ると、またもご家族で出迎えてくださった。皆様から口々に「お帰りなさい」と言われ、私の帰る場所はここなのだと実感する。
「父上、私が選んだドレスはどうですか?」
ノア様の問いかけに、にこやかだったお父様が眉を寄せて私を見つめた。
「良いと思うよ。セアラにはこういうのも似合うんだね。さすがノア」
「ありがとうございます」
ノア様はお父様から褒められて純粋に喜ぶ子どものような笑みを浮かべた。
その一方で、お父様は何となくソワソワした様子になって、隣のお母様に視線を向けた。
「ねえ、クレア……」
「まだ駄目よ」
お父様が訊くより先にお母様がビシッと撥ね退けてくださり、私は密かに胸を撫で下ろした。
ノア様の言ったとおり、お土産のマドレーヌは皆様に歓迎され、夕食後の居間でご家族と一緒に私もいただいた。
皆様から初デートについてあれこれ訊かれて、私は拙い隣国語で楽しかったことを伝えた。
就寝の準備を済ませてから、棚に飾ったユニコーンの置物を見つめた。
子どもの頃からずっと誰かに与えられるもので満足していた私にとって、お店でのお買い物は初めての経験だった。ましてや、あんな風にたくさんの素敵なものが並んでいる中から自分の好きなものを選べるなんて。
改めてノア様に感謝していると扉がノックされて、彼が客間にやって来た。
いつもご家族と居間で過ごした後はどちらかの部屋でふたりになるし、今夜もそうだったのだが、こんな時間に顔を合わせるのは夜会の日以来だった。寝巻姿のノア様は初めて目にする。
「どうかしましたか?」
「寝る前にもう1度顔を見たくなった」
さらりとそう言うと、ノア様は私を抱き寄せた。
「着飾ったセアラは皆に見せびらかしたいほど可愛いかったが、素のままのセアラも好きだ。こっちは誰にも見せたくない」
唇が重ねられた。ギュッと目を瞑ると、口づけはさらに私の顔中に降ってきた。
それがようやく止んだかと思うと、ふわりと私の体が浮いていつかのように抱き上げられた。
ノア様は部屋の奥へと歩いていって、私をベッドに横たわらせる形で下ろした。そのまま覆い被さるように口づけられる。
唇が離れてもノア様は至近距離から私を見下ろし、頭を撫でた。その手が、瞳が熱い。
胸の鼓動がどんどん早まって痛いくらいだけど、ノア様から視線を逸らすことはできなかった。
だが、ふいにノア様の表情が和らいだ。
「今日は疲れただろう。よく休め」
最後に頬に唇を落とすと、ノア様はベッドから離れていった。
私も慌てて身を起こし、ノア様に「お休みなさい」と声をかけた。
ノア様が扉の向こうに消えてからベッドの中に潜り込んだけれど、彼が残していった熱がなかなか去ってくれないせいで、しばらくは眠れなかった。
週明けからはお母様と過ごす時間が増えた。いよいよ次期公爵夫人になるための花嫁修行が始まったのだ。
といっても、普通の女主人以上の役割を担っていらっしゃるらしいお母様はお忙しくて、別邸のお祖母様、あるいは執事のトニーやメイド頭のベッキーをはじめとする使用人たちから学ぶことも多かった。
ちなみに、トニーはケイトの父親で、母親はお母様付きメイドのアンナ。
ついでに、コリンはもとはノア様の乳兄弟だそう。
つまり、ケイトもコリンもノア様とは物心つく前からの知り合いで、幼馴染とも言える間柄なのだ。
私の体の痣がすっかり消えた頃、ドレスの仕立て屋がお屋敷に呼ばれて、私は採寸をされた。
コーウェン家のご家族、主にお父様の意見をもとに仕立て屋の主人がウェディングドレスのデザイン画を描き、何度かの直しを経て、最終的なデザインが決まった。
本当にこんな華やかで美しいウェディングドレスが私に似合うのかと心配にもなったが、お父様やノア様たちを信じてすべてを委ねることにした。
ウェディングドレスだけでなく、社交用のドレスも仕立てることになった。
さらに、結婚後の私の部屋と私たちの寝室の改装も始まった。
結婚準備の合間には、これまでどおりにロッティとお庭を散歩したり、アリスやメイともお茶を飲んだ。
ノア様に買ってもらった本を読むこともできたし、ロッティとは王宮美術館に行った。
次の週末には、ノア様は観劇に連れて行ってくれた。もちろん、私は初めてだ。
仕立て屋のドレスはまだ出来上がらないので、場に相応しいものをお姉様からお借りした。お父様の指示で、わざわざ私に合わせて直していただいた。
劇場は大勢の人が集まる場所なので、その中にはノア様のお知り合いもいた。私は婚約者としてその方々に紹介された。
直接挨拶を交わさなくても、私たちを見つめる目は多かった。社交界の有名人であるノア様がどんな相手と婚約したのか、注目されるのは当たり前だ。
私は見た目に関してはお父様の選んでくださったドレスとケイトの腕、そしてノア様の「今夜は綺麗だな」という言葉を信じることにして、緊張しながらもノア様の婚約者に相応しい振る舞いを心がけ、どうにか微笑を浮かべ背筋を伸ばし続けた。
時おりノア様を見上げると、優しい目で見つめ返されて安心できた。
オペラの幕が開けば、私は先ほどまでの緊張を忘れてたちまちその世界に引き込まれた。
劇場から帰る途中、ノア様は先日の雑貨屋に寄った。
「2回目のデートの記念を選べ」
「今日はオペラだけで十分です」
「セアラが選ばないなら、私が決めるぞ」
そう言ってノア様が手に取ったのは、花柄模様の小物入れだった。私がユニコーンと迷ったものをノア様が覚えてくれていたのがどうにも嬉しくて、私はつい「それがいいです」と言ってしまった。
ノア様はさらに緑色の髪飾りをその上に載せて、店員に手渡した。