11 妹の想い
それから数日は本当にのんびりと過ごさせていただいた。
初日と同じようにロッティ様とお庭をお散歩したり、アリス様とメイ様も加わった4人でお茶を飲んだり、ノア様から隣国語で好きなものを訊かれたり。
あるいは別邸に伺ってお祖母様の本棚を見せていただいたり、そこからお借りした本を読んだり、絶品のアップルパイやお父様の買ってきてくださった美味しいチーズケーキを味わったり。
時にはお母様に執務室に呼ばれてノア様の小さい頃のお話を聞いたり、私が子どもの頃のお話をしたりもした。
久しぶりに実母の生きていた頃をただ懐かしく思い出すことのできた私が泣き出すと、お母様は隣に座って私をそっと抱きしめてくださった。お母様も涙ぐんでいらっしゃるようだった。
お母様も私とあまり変わらぬ歳でご自身のお母様を亡くされたそうで、心情的に通じるものがあって、だけどそれを押しつけるわけでもなく、ただ私の悲しみをそのまま受け止めてくださった。
私が絵画に興味があると知ったお母様は、自ら案内してお屋敷中の絵を見せてくださった。ロッティ様も一緒だ。
応接間などには美術館に飾られていてもおかしくないような立派な絵があったけれど、やはり多いのは領地を描いた風景画だった。ご家族それぞれのお部屋とほとんどの客間に架けられていた。
10年ほど前、コーウェン家で支援している画家に描いてもらったそうだ。
お父様のお部屋にあったのは果実がたわわに実った林檎の木の絵。
さらにその隣には、お父様とお母様が並ぶ肖像画も飾られていた。肖像画というと硬い表情で居住まいを正したものが思い浮かぶけれど、この絵のおふたりは柔らかい表情で寄り添っていた。まだ最近描かれたもののようだ。
「これも素敵ですね。何となく見覚えのある画風ですが、有名な画家の絵なのでしょうか?」
そう尋ねたけれど、絵画に興味はあっても実際に鑑賞する機会のあまりなかった私に画風を見分けることなんてできるのだろうかと首を捻った。
ロッティ様と目を合わせてクスリと笑い合ってから、お母様が悪戯っぽく仰った。
「我が家においては最も高名なるシャーロット・コーウェン画伯の絵よ」
「ああ。だからこんなに優しい雰囲気なんですね」
ロッティ様の絵なら学園の美術の授業でいつも見ていたのだから、見覚えがあるはずだ。
「お褒めいただきありがとうございます。今度はセアラ様とノアを描いても良いかしら?」
「まあ、是非描いていただきたいです、シャーロット画伯」
今度は私もフフと笑った。
首飾りをお借りした時には周囲まで見回す余裕のなかったお母様のお部屋にも、2枚の絵が飾られていた。
ご領地の絵は森の中を流れる川と、そこで水遊びをしているご一家が描かれたもの。
もう1枚の絵には手を繋いで顔を寄せ合い、何か話しているらしいふたりの10代半ばくらいの人物が描かれていた。
女性は私も着ていた学園の制服姿。彼女よりいくつか歳下らしいまだ男の子という感じの男性が着ているのは、学園のものとは異なるけれどやはりどこかの学校の制服のようだ。
これもロッティ様の作品だとすぐにわかった。
「昔のお父様とお母様です」
言われてみれば、確かに男性にはお父様、女性にはお母様の面影があった。
お父様の衣装はきっとセンティア校の制服なのだろう。
「ノア様からおふたりは幼馴染だとお聞きしました。こんな風にずっと仲がよろしかったのですね」
「いいえ。この絵の歳の頃はセディは外国にいたから、実際にはまったく会っていなかったのよ。そうでなくても、私とセディが制服を着ていた時期は重ならないし」
「お祖母様や叔母様方のお話を参考にして、現実にはなかったことを描いてみたんです」
ロッティ様の言葉に、私はただただ感心するばかりだった。
ロッティ様とお庭を歩きながら、絵画の形でたくさん見せてもらったご領地の光景を頭の中に思い描いた。
「ご領地に連れて行ってもらえる日がますます楽しみになりました。私は都を出たこともほとんどなくて」
なかなかロッティ様からの反応がないので怪訝に思って窺うと、ロッティ様はこちらを見て眉を顰めていた。
「ロッティ様?」
「スウィニー伯爵のご領地に行かれたことはないのですか?」
「幼い頃には何度かありました。まだ祖父が健在で、母も元気だった頃。でも、最近ではいつも父がひとりで行っていました」
もしかしたら、あの人たちも一緒だったのかもしれないけれど。
「私、セアラ様に会えなくなって手紙を書いたんです。お返事は伯爵から来ました。セアラ様は領地にいるって。やはり、あれは嘘だったのですね」
ロッティ様の声には怒りが滲んでいた。
父は、そんなことは一言も言ってくれなかった。手紙のことを黙っていたうえ、嘘の返事を送るなんて。
私のことを心から案じてくださっていたのだろうロッティ様に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
再会してからロッティ様は私に何も尋ねなかった。私も何も話さなかった。
以前からお友達だったロッティ様にこの1年のことを知られるのは恥ずかしいような情けないような気持ちがあったのだ。だけど、このまますべてを隠しておくのも後ろめたかった。
「ずっと、都の屋敷の中にいました。父から外に出ることを禁じられて」
私がポツポツと語り出すと、ロッティ様が目を見開いた。
「継母や異母姉からは使用人のように扱われていました。でも使用人たちは私を気遣ってくれました」
「すぐ近くにいたのに、私は何も……」
苦しそうな表情になったロッティ様に、私は首を振った。
ノア様と同様にロッティ様も本当に優しい方だ。
「コーウェン家の夜会には異母姉の気まぐれで連れて来られて、だけど偶然ノア様に出会って助けていただきました。投げやりな気持ちになったこともありましたが、今では家族としてコーウェン家の皆様に受け入れていただいて、本当に有難く思っています」
「私こそ、セアラ様の妹になれて本当に嬉しいです。でも、1つだけ確認させてください」
そう言ってロッティ様はまっすぐに私を見つめた。
「まさかノアはセアラ様の境遇につけこんで、セアラ様の気持ちを無視して強引に婚約を了承させたわけではありませんよね?」
強引と言えば強引だった。私の意志を確認する前にご両親に紹介して、私が偽りではないと気づいた時には書類へのサインも済んでしまっていたのだから。
だけどノア様が強引に事を運んでいなかったら、きっと私は次期公爵との結婚を躊躇い、ノア様の手を取ることに二の足を踏んでいただろう。
「もちろん違います。私はこの先ずっとノア様のお傍にいたくて婚約を了承しました」
私がそう答えると、ロッティ様が私に抱きついてきた。驚きつつもその勢いをどうにか受け止めて、私もロッティ様を抱きしめた。
「セアラ様、ノアだけでなく、私ともずっとずっと仲良くしてくださいね」
「こちらこそ、お願いします」
その夜、ノア様にセンティア校の制服の実物を見せてもらった。とても大切に保管されていたのが一目でわかった。
今のアリス様くらいの歳だったノア様がこの制服を着て隣国で学生生活を送っていたことを想像すると、何だか微笑ましい。
でもその後で、異母姉に鋏で制服をズタズタに切り裂かれた時のことを思い出して、胸が痛くなった。
制服だけでなく、私の持ち物と言えるものは実家には残っていない。先日まで私が使っていた使用人部屋にだって、きっともうその痕跡すら残っていないだろう。だから、取りに行きたいものなど何もないし、あの人たちにも会いたくない。
ただ、あの家にまったく心残りがないわけではなかった。
「ノア様、一緒に実家に行ってもらえますか? 取りに行きたいものはないのですが、最後に使用人たちに挨拶をしたいです」
「セアラらしいな。それなら日曜に訪ねると私から伯爵に連絡しておこう。ついでにあの母娘とは顔を会わせずに済むようにしておいてもらうか」
「お願いします」
ノア様が私の頭をゆるゆると撫でた。心地良さに思わず目を閉じてその感触に浸っていると、ふいに唇を柔らかいもので塞がれた。
慌てて目を開けると、ノア様が目を細めて笑っていた。ノア様の手が今度は私の頬を撫でる。
「赤いぞ」
「誰のせいですか」
毎日、朝に夕にとされてもう何度目かわからないけど、未だに慣れない。
「私のせいでないと困るな。ああ、耳まで赤い」
ノア様は私の髪を除けて、耳朶をやわやわと弄りはじめた。
くすぐったくて、気恥ずかしくて、でももうこの手からは逃れられなかった。
土曜日にはマクニール次期侯爵夫妻がご子息たちを連れてコーウェン家にいらっしゃった。ノア様のお祖父様お祖母様も含めた家族全員でお迎えした。
5歳のヴィンスと2歳のジョシュアは一目散にお母様ーー彼らにとってはお祖母様に飛びつき、ふたりのお祖父様であるお父様はそれを蕩けそうなお顔で見つめていた。
メリー様が私をふたりに紹介してくださって、挨拶を交わした。さっそくヴィンスは「セアラ叔母上」、ジョシュアも「セアラ」と呼んでくれた。
皆で居間に移動してからも、ヴィンスとジョシュアはお父様とお母様に甘え、笑顔を振りまいていた。
可愛らしい甥っ子たちに私も自然と笑顔になった。
「セアラ、ここでの暮らしはどう? 何か困っていることはない?」
隣に座るメリーお姉様からの問いに、私は意識をヴィンスとジョシュアからお姉様へと向けた。
「皆様にとても良くしていただいています」
「だけど、あちらは良かれと思ってやってくれていても、こちらはありがた迷惑ということもあるでしょう。特にお父様はやり過ぎるところがあるから」
やや声を潜めたお姉様に、私は思わず「ああ」と肯定の声をあげてしまった。
「実は、私がチーズケーキが好きだと言ったらすぐに買って来てくださったのですが、一度に3店舗のケーキを食べ比べることになって驚きました」
私も声を抑えてそう言うと、お姉様は笑いを堪える様子になった。
「そのうえ、翌日にはお母様のお好きだというクッキーを買って来られて、お母様にしばらくの間はお買い物を禁じられてしまって」
「もう、お父様ったら。だから今日はあの子たちへの贈り物が少なかったのね。私としては助かったわ」
少ないと言っても、おもちゃや絵本がしっかり用意されていたのだ。普段はどれほどなのだろう。
お姉様はクスクスと笑ってから、ルパートお兄様とお話しているノア様をチラと窺った。
「ノアは冷静な子だと思っていたけれど、セアラに対してはわからないわね。出会ったばかりで迷わず結婚を決めるなんて、間違いなくお父様の血だわ」
私は首を傾げた。
「お父様とお母様は幼馴染ですよね?」
「そうなのだけど、お父様は外国で暮らしていた時期があって、お母様と6年振りに再会した直後に求婚したんですって。しかも、そこから実際に結婚するまで半年足らずよ」
「それは、早いですね」
「でしょう?」
そんな前例があっての、ノア様の「問題ない」だったのか。
「ですが、お父様とお母様は本当に仲がよろしくて、あんな夫婦に憧れます」
「そうね」
「それに、お姉様とお兄様も」
「ありがとう」
お姉様はふわりと笑った。
「セアラとノアもきっと大丈夫よ。万が一、ノアに不満があったらお母様にでも私にでもいいから言いつけてちょうだい」
「はい」
ふいに、自分が「お姉様」とこんな風に穏やかに会話していることを不思議に思った。
ひとりっ子だった私はずっと兄弟が欲しかった。だけど、ある日突然、存在を知らされた異母姉に対しては失望しかなかった。
今になってようやく、私はお姉様を持てた。