番外編 未来はつゆと知らずに(ロッティ)
学園で1年先輩のセアラ様と知り会ったのは、選択科目で選んだ美術の授業でのこと。
教室でのセアラ様は物静かでそれほど目立つ方ではなかったけれど、私には気になる存在だった。
見た目は手を伸ばして撫でてみたくなる小動物のように可愛らしいのに、挙措は落ち着いていて美しい。
だから私は公爵家の娘らしい図々しさを発揮してセアラ様の隣の席を陣取り、話しかけてみた。
最初こそキョトリと可愛いらしい表情で私の行動の真意を伺っているようだったセアラ様も、そのうちに私がただ仲良くなりたいだけだと理解してくださった。徐々にセアラ様からも私に親しく接してくださるようになった。
ある日の授業中、誰よりも真剣な顔で筆を握るセアラ様がどんな絵を描いているのか見てみたくて、私はそっと横から覗き込み、そして首を傾げた。
課題は静物画だった。教室の真ん中に置かれた机の上には白い花瓶と色とりどりの果物。
セアラ様のキャンバスに並ぶのは、白い四角と色とりどりの丸。抽象画?
セアラ様の筆がキャンバスから離れて、一息吐いたタイミングで声をかけた。
「意外と独創的な絵をお描きになるのですね」
セアラ様はわずかに肩を揺らしてからゆっくりと振り返った。
「はっきり下手だと仰って構いませんよ。自分でもどうしてこんな風になってしまうのかわからないのです。ロッティ様はお上手ですね。それに何だか暖かい感じがします」
「ただ見たままを描いているだけですよ」
「私も見たままを描いているつもりなのですが」
セアラ様は困ったように眉を下げた。やっぱり可愛いらしい人だと思った。
それからしばらくして、課外授業で王宮美術館を訪れた。
先生の引率に従いいくつかの有名な絵を見てから、自由見学の時間になった。
といっても王宮美術館はかなり広いので見学する範囲を指定されていて、皆その中に散っていった。
しかし、私は気づいてしまった。セアラ様が見学を許可されていないほうへと足を向けていることに。
私は咄嗟にセアラ様を追い、指定範囲の外に出たところでその手を捕らえた。
「セアラ様、どちらへ?」
振り返ったセアラ様は、やっぱり眉が下がっていた。
「どうしても見たい絵があるんです。集合時間までには必ず戻るので、見逃してもらえませんか?」
私は数日前にセアラ様が話していらっしゃったことを思い出した。
王宮美術館はお母様から話を聞いてずっと行ってみたかったのだが、機会がなかった。昨年の課外授業でようやく行くことができたのに、想像以上に広くて見たかった絵をすべて見ることはできなかった、と。
「どの絵ですか?」
「『受胎告知』です」
「それなら、こちらです」
私はセアラ様の手を引いて、足早に歩き出した。
「ロッティ様?」
「私も好きな絵です。最短距離でご案内します」
私はお父様とお母様に連れられて、王宮美術館には数え切れないくらい訪れていた。館内の地図もおおよそ頭に入っている。
「それは嬉しいですが、もし先生に知られたらロッティ様まで叱られることになりますよ」
「ここで知らない振りをするほうが我が意に反しますわ」
「……ありがとうございます。よろしくお願いします」
目的の「受胎告知」に辿り着くと、セアラ様はまるで絵の中の聖母様のように恍惚とした表情で、飽きることなくそれを見つめていた。
その後、私たちは何事もなかった顔で無事に集合場所へと戻ることができた。
私は時折、仲の良い方たちを放課後に家に招いたり招かれたりしていたけれど、セアラ様がそこに参加されることはほとんどなかった。
ご両親が厳しかったりして毎日まっすぐ帰宅される方は他にもいたので、それほど気にはしていなかった。
社交界デビューして、セアラ様があまり社交の場に出席されていないことを知った時も同じだった。
そもそも、お父様が社交が苦手なので、私の両親もそういう場に顔を出すことは少ないのだ。
そんなセアラ様だが、我が家の夜会に来てくださった。セアラ様をエスコートしていたのは幼馴染で婚約者候補だという伯爵子息。学園でもお会いしたことがあった。
セアラ様ならもっと良いお相手が見つかるのではないか、というのが彼に対する私の正直な印象だ。セアラ様のお父様が彼を選んだのだから仕方ないけれど。
私が男なら、絶対にあの人からセアラ様を奪うのに。
セアラ様は私の家族と波長が合いそうな気がする。引っ込み思案なところのあるアリスもすぐに懐いていた。
ああ、私の代わりにメイはどうかしら。
メイならスウィニー家に婿入りできる。それに、お父様を見て育ったメイは結婚したら絶対に妻を大切にするはず。
セアラ様とメイの年齢差は、7つ? うん、全然ありだわ。
そんなことを妄想しているうちにセアラ様は帰宅してしまい、私はセアラ様を家族に紹介する機を失った。
セアラ様が学園を卒業してから程なくして、セアラ様のお母様が亡くなったという報せが届いた。
その時になって初めて、セアラ様のお母様がずっとご病気だったことを知った。
ご葬儀でのセアラ様は泣き腫らした目をしながらも、いつも以上に美しい挙措で参列者に頭を下げていた。
驚いたことに、それから間もなくセアラ様のお父様が再婚なさった。
お相手は昔も噂になった女性だとか、長いこと愛人関係にあって隠し子もいたらしいとか、様々なことが耳に入ってきた。
セアラ様の姿が社交界から消えてしまった。
心配になってセアラ様に手紙を出すと、スウィニー伯爵のお名前で返事が来た。
セアラ様はお母様を失った悲しみで気持ちが不安定なので、しばらく領地で暮らすことになったのだという。
セアラ様がそんな状態なのにどうして再婚したのか、なぜセアラ様をひとり領地にやるのか。スウィニー伯爵に不信感を覚えた。
もう1通手紙を書いて、領地にいるセアラ様に届けてほしいとスウィニー家に頼んだが、セアラ様からの返事はなかった。
ある夜会でセアラ様の幼馴染を見かけた。彼は別の女性をエスコートしていた。
その女性が他の方とダンスをしている間に、私は彼に問い質した。
「セアラ様は本当にご領地にいらっしゃるのですか? 」
「私にもわかりませんが、セアラにはもうずいぶん会っていません」
「あの女性は何なのですか? あなたはセアラ様と婚約するのではなかったのですか?」
「イザベルはセアラの異母姉です。私は多分、イザベルと婚約します」
「あなたはそれで良いのですか?」
「セアラの父上が決めることです」
結局、モヤモヤが増しただけに終わった。
お友達に会えなくなってしまったことはお母様たちにも話したけれど、いくら我が家が公爵家でも、他家の中にまでおいそれとは踏み込めないことくらいわかっていた。
その後、セアラ様の異母姉という方はノアの周囲をうろちょろしていたけれど、当然、ノアはまったく相手にしていなかった。
留学を終えて宮廷に入って以来、ノアがどんな女性を妻に選ぶのかは社交界で注目されていたけれど、本人はあまり関心がなさそうに見えた。
いつの日か、あのノアの心を射止める女性が現れるのだろうか。いまいち想像できない。そのうちに義務感だけで適当な相手に決めてしまわないかと少し心配だった。
セアラ様に会えなくなっておよそ1年。
お母様の口から突如セアラ様の名前が出たのは、我が家での夜会の真っ最中だった。
「ノアがセアラ様と結婚?」
思わず聞き返すと、お母様は「ええ」と頷いた。
「ノアとセアラ様はお知り合いだったのですか?」
アリスが尋ねると、お父様が答えた。
「さっき出会って、すぐにセアラと結婚するってわかったって、ノアが言ってたよ」
「ノアにもそんな情熱的なところがあったのですね」
そう言って笑ったのはお姉様。
「セアラはロッティのお友達よね? アリスも会ったことあるの?」
今度はお母様にアリスが答えた。
「2回ほどですけど。優しくて良い方でした」
「僕もそう思ったよ」
「ロッティは反対なの?」
お母様の問いに、すっかり言葉を失っていた私は慌てて首を振った。
「あのノアに、女性を見る目があって驚きました」
まさかノアが、たくさんの女性の中からセアラ様を選ぶなんて。いや、さすがセアラ様と言うべきかしら。あのノアの心を掴んだのだから。
そこで、私は大事なことに気づいた。
「セアラ様はここにいらっしゃるのですか? 私も会えますか?」
「もうすぐノアと一緒に来るわ」
「全然似合ってないドレスを着てたから、着替えてるよ。メリーのドレスを貸したんだ」
「まあ、どのドレスですか?」
「見てのお楽しみだよ」
ようやくお会いできたセアラ様は予想していたよりはお元気そうで、笑顔も見られた。
外ではいつも顰め面のノアが、上機嫌でセアラ様をエスコートしていたのが可笑しかった。ちゃんとセアラ様を大切にしてくれそうね。
おそらくこの1年、セアラ様には色々あったのだろう。そうでなければ、出会ったその日に婚約して家に住まわせるなんてお母様が許すはずない。
何にせよ、私がセアラ様と一緒に暮らせる時間は短い。その間、セアラ様がノアと幸せになるのを見守りたい。
もちろん、私も思う存分セアラ様との仲を深めたい。
「セアラ様、近いうちにふたりで王宮美術館に行きませんか? 1日かけてゆっくり見て回りましょう」
「それは是非、行きたいです」
「ちょっと待て。何でロッティとふたりで行くんだ。そこは私とだろう」
「大丈夫よ。ノアがお仕事の日に行くから」
「そういう問題ではない」
「セアラ様は私のお友達でもあるのだから、独り占めしないでちょうだい」