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9 コーウェン家の人々と

 お見送りを終えると、公爵夫人について来るよう言われた。

 向かった部屋には重厚な机と壁一面の書類棚があり、机の前のソファに座るよう促された。


「ここは我が家の当主の執務室なのだけれど、私も使わせてもらっているの」


 私の実家では、お母様が父の不在中に執務室に入ることはなかった。

 公爵の執務室を自由に使えるというのは、コーウェン家において公爵夫人がそれなりの権限を持っているからなのだろう。まさかこの部屋で、読書や刺繍をなさるはずはない。


「セアラがこの1年どんな境遇に置かれていたか、ノアから聞いたわ」


 公爵夫人は眉を寄せた。そこに怒りや哀しみ、嘆きなど様々な感情が表れているように見えた。


 公爵夫人が私の事情を知っていらっしゃることに驚きはなかった。だからこそ、あっという間にノア様との婚約が認められたのだ。


「セディと私は、家族は与え合うものだと思ってきたし、子どもたちにもそう教えてきたつもりよ。もちろん、この考えを他人にまで押しつけることはできないけれど、セアラとはそういう家族になりたいわ」


 コーウェン家と私の実家が本当に違うのは、食事や家具や寝具の質ではなく、当主の考え方なのだろう。


「突然のことだったにも関わらず私を受け入れてくださり、心から感謝しております」


「それはセアラに事情があったからではなく、ノアが本気だったからよ。あなたも私たちにきちんと頭を下げてくれたし、ノアが選んだ相手なら大丈夫だろうと思って」


 ノア様はご両親から信頼されている。私がそれを壊すわけにはいかない。


「ノア様に相応しい妻になれるよう、しっかり学びます。まず何をすればよろしいのでしょうか?」


 私の問いに公爵夫人は目を瞬き、それから表情を和らげた。


「しばらくはのんびりして、我が家での生活に慣れてちょうだい。あなたがあなたらしくここで暮らせるように」


「私が、私らしく……?」


 公爵夫人はゆったりと頷いた。


「でもその前に、お医者様に診ていただきましょう」


「痣はそれほど酷いものではありませんし、わざわざお医者様に診ていただかなくても大丈夫だと思いますが」


「念のためよ。我が家のかかりつけのお医者様だから、ご挨拶しておこうくらいの気持ちでお会いすればいいわ。セアラはこの1年慣れない生活をしていたのだから、自分でも気づかない不調があるかもしれないし、問題ないとわかれば安心できるわ」


 そうしてすぐにお医者様が呼ばれ、私は診察を受けた。優しそうな初老のお医者様だ。

 体の痣はしばらくすれば消えて、目立つ痕が残ることはないだろうと言われた。

 他も特に問題は見つからず、公爵夫人が仰ったとおり、一安心だった。




 その後はロッティ様にお屋敷の中を案内してもらいながら、使用人たちを紹介してもらった。やはり誰もが私を「若奥様」と呼んだ。


 ロッティ様は学園を卒業してご自宅で花嫁修業中。というのも、ロッティ様の婚約者はノア様が卒業した隣国のセンティア校に在学中で、結婚は卒業後の予定だからだそう。


 昼食の前に客間に戻ると、いくつもの箱が運び込まれてケイトが整理をしてくれていた。見れば下着や寝巻などの衣類や身の回り品だった。

 どれもこれも良質で高価そうなものばかりだ。生前のお母様が使っていたものの比ではないくらいに。


 私は改めて執務室を伺って、公爵夫人に恐縮してお礼を述べた。


「気にしなくていいと言っても、最初は戸惑うわよね。私も同じだったわ。そうね。良い物を使うこともコーウェン家の人間の義務だとでも思ってちょうだい」


 公爵の執務室で堂々と机に向かっていらっしゃる姿からは想像できないけれど、公爵夫人も伯爵家からコーウェン家に嫁がれたのだからそんな時があったのだ。そう考えれば、少しだけ心強かった。


「セディは仕立て屋を呼んで採寸してもらえと言っていたのだけど、もう少し落ち着いてからのほうが良いわよね」


 体の痣が消えてからと解釈して頷いたが、だとすると、ノア様は公爵にはお話ししていないのだろうか。


「既製品のドレスはすぐに届くと思うわ」


 公爵夫人はフフッと笑った。




 公爵夫人と一緒に食堂に行くと、テーブルの上にはサンドウィッチや焼き菓子が並んでいた。香り高い紅茶とともにいただく。


「やはりお父様はお帰りにならないですね」


「ええ、予想どおりよ。食事を忘れていなければいいのだけど」


 ロッティ様と公爵夫人は意味ありげに見交わした。


「いつもは父上も一緒に昼食をとるんですよ」


 メイ様がそう教えてくれた。

 今日はお仕事がお忙しくてゆっくりお食事をとられる暇がないということだろうか。


 食卓にはメイ様の家庭教師だという50代くらいの男性もいらっしゃった。

 留学前はノア様もこの先生から学んでいたそうだ。先生のお話によると、ノア様は小さい頃からとても優秀だったらしい。




 午後にはロッティ様にお庭を案内してもらった。


 メイ様のお勉強の時間が終わり、アリス様が学園から帰ってくると、4人で居間に集まってお茶を飲んだ。


「そう言えば、昨夜セアラ様とノアはどのように出会われたのですか?」


 ふいにアリス様から尋ねられた。アリス様の瞳は何だかキラキラしていた。


「あのノアがすぐに結婚を決めたくらいですから、運命的な出会いだったのでしょうね」


 同じく興味ありげな表情のロッティ様とメイ様。

 けれど、さすがに首飾りを盗もうとして捕まったなんて言えない。


「会場を出たら迷ってしまって、たまたま通りかかったノア様が親切に助けてくださったんです」


 ギリギリ嘘ではない、はず。


「出会った瞬間、恋に落ちたのですか?」


「いえ。むしろ、最初は怖い方なのかと思いました」


 そこは正直に話すと、3人はクスクスと笑い声を上げた。


「ノアはそう誤解されても仕方ないよね」


「コーウェン家の嫡男としての自負がああいう表情になるのかしら」


「でも、普段は女性に素っ気ないノアが親切にしたのだから、きっとノアはセアラ様に特別なものを感じたのよ」


 ノア様の言葉を信じるなら、出会ってすぐに私との結婚を決めたらしいけれど、それがどの時点のことだったのか私にはまったくわからない。


 やがて、別邸から前公爵夫妻がいらっしゃってお茶会に加わった。


「お祖母様、セアラ様も読書がお好きなんですよ」


 ロッティ様の言葉に、今度は前公爵夫人が瞳を輝かせた。


「あら、そうなの?」


「以前は母の本を借りてよく読んでいましたが、最近はまったくです」


 お母様の本はすべて処分されてしまったし、そうでなくともこの1年は本を読む余裕がなかった。


「図書室はもう見たかしら?」


「ロッティ様に案内していただきました。蔵書が充実していて驚きました」


 お母様が好んだような小説や物語もたくさんあって、そのほとんどは前公爵夫人が買い求められたものだと聞いた。


「好きなだけ読んでちょうだいね。特にお気に入りの本は私の部屋の本棚に置いてあるから、そちらも是非見に来て」


 ノア様の言っていたとおり、前公爵夫人は元王女様だからと身構える必要のない、気さくな方だった。

 前公爵も目尻を下げてお孫様方の話に耳を傾けていた。




 夕方になり、公爵が帰宅された。

 公爵とノア様は朝は同じ馬車で宮廷に向かわれたが、お仕事の終わる時間が異なるので帰りは別々なのだそう。


 ご家族とともに私も玄関ホールで出迎えた。


「ただいま。クレア、セアラは家族だから身につけるものを贈っても構わないよね?」


「私は構わないけど、ノアはどうかしら?」


「ノアも一緒に行こうって誘ったんだけど、断られた。でも、駄目だとは言わなかったよ」


 何の話なのかと首を傾げていると、公爵の後ろからいくつもの箱を抱えた使用人たちが現れ、それらは私の部屋になっている客間へと運ばれていった。


「今度はサイズも大丈夫だと思うんだけど、合わなかったら直してもらうから、とりあえず着てみて」


 公爵にそう言われて目を瞬いた私に、夫人が苦笑した。


「既製品のドレスよ。セディが昼休みに買いに行ったの」


「わざわざ私のために?」


「セディが好きでしたことだから気にしなくていいわ」


 部屋でケイトと確認すると、ドレスは普段着用のものからちょっとした外出に使えそうなものまであった。その中から緑色のドレスを選んで着替えた。

 居間に行くと、やはり宮廷服から着替えを済ませた公爵とご家族が待っていた。


「サイズはどう?」


「ぴったりです」


「良かった」


「とっても似合っているわ」


「うん」


「素敵なドレスをたくさん、どうもありがとうございます」


 公爵は嬉しそうな笑みを浮かべられた。




 そうこうしているうちに今度はノア様が帰宅した。公爵夫人に促されて、私はひとりで玄関ホールへと向かった。


 和かだった公爵とは対照的に、ノア様はむっつりとした表情で私を見下ろした。


「ただいま」


「お帰りなさいませ」


「朝とは違うドレスだな。父上が買ってこられたものか?」


「はい。他にも色々といただきました」


「そうか」


 ノア様の朝との温度差に、ご家族から良くしていただいて浮いていた気持ちが冷えた。

 ノア様は宮廷で仕事をしているうちに冷静になって、昨夜のことを後悔したのかもしれない。その可能性に思い至らず、すっかり婚約者気分で新しいドレスを着て呑気に喜んでいたなんて、居た堪れない。

 この状況で居間のご家族の中に戻るのは申し訳ない。客間でこれからどうすべきか考えよう。


「あの、失礼いたします」


 ノア様に頭を下げてから体の向きを変えようとしたけれど、できなかった。それより早く、両足が床を離れたから。

 ノア様がまるで幼い子どもをそうするように、私を抱き上げていた。私は短く悲鳴をあげてノア様の肩にしがみついた。


「どこに行くつもりだ?」


「客間に戻ろうかと」


「やっと会えたのにさっさと離れていくとは、冷たすぎないか? 一緒に私の部屋に来い」


 そう言いながら、ノア様は階段のほうへと歩き出した。


「一緒に行って、邪魔ではありませんか?」


「セアラが邪魔なわけないだろ」


 私は腕の力を緩めてノア様のお顔を見下ろした。私を見返してきたノア様の目は、ちゃんと温かくて優しい。

 そうだ、朝ははしゃいでいたのだっけ。今のほうが通常の、コーウェン公爵家嫡男のノア様のお顔なのだ。

 心変わりを疑うなんて、馬鹿だった。


 とはいえ、これは恥ずかしい。ご家族はいなくても、使用人たちには見られているのに。


「自分で歩きますから下ろしてください」


「絶対に落としたりしないから安心しろ」


 ノア様が階段を上りはじめてしまったので、私は大人しくしているしかなかった。

 私だけが落ちるならともかく、ノア様まで階段から落ちて怪我をするなんてこと絶対にあってはいけない。

 ある意味、ダークネイビーのドレスでこっそりここを上がった昨夜より緊張した。


 ノア様はお部屋に入るとようやく私を下ろしてくれた。

 安堵する間もなく、服を脱ぎ出したノア様から慌てて目を逸らす。


「おひとりで着替えをなさるのですか?」


「朝はコリンに手伝ってもらうが、3年も寮生活をしていたから身の回りのことはだいたい自分でできる」


「ああ」


 センティア校は全寮制の男子校。これも昼間ロッティ様に教えてもらったことだ。


「セアラは今日は何をして過ごしたんだ?」


 ノア様に訊かれて、私は今日したこと、というか皆様にしてもらったことをお話しした。ノア様は相槌を打ってくれる。

 学園から帰ってお母様に一日の出来事を話していた頃を思い出した。


 アリス様に私たちの出会いについて尋ねられた時のことを話すと、ノア様の笑う気配がした。


 ノア様のお祖母様と読書の好みが同じようだと話していると、着替えを終えたノア様が私の前に立った。さっきより表情が柔らかくなっている。


「セアラの母上の趣味は読書と刺繍だったな。お祖母様も刺繍をなさる。セアラもするのか?」


「私は刺繍は苦手です」


「それなら母上と同じだ」


「そうなのですか? 何でも出来る方なのだろうと思っていました」


 ノア様の着ているシャツの襟元にはイニシャルの飾り文字が刺繍されている。これはお母様ではなくお祖母様がなさったものなのか。


「そんな人間いないだろ。出来ないことを補ってくれる存在を得ればいいんだ」


 それこそ何でもこなしそうなノア様がきっぱりと言った。


「私は今日は一日セアラのことを訊かれた。朝一番に婚約届を手渡した陛下に始まって、外交官室の同僚から、いつもは廊下で会って挨拶するだけの顔見知りまで。宮廷中の人間が私の婚約を知っていた」


「宮廷中?」


 私の困惑をよそに、ノア様はすっかり楽しそうな顔になっている。


「父上が朝から嬉々として私の婚約の話をしていたらしい。秘書官室は宮廷の各部署と繋がっているから、広まるのはあっという間だったろうな」


「……私たち本当に婚約したのですね」


 まだ実感が湧かなかった。


「ああ。これからよろしく、我が婚約者殿」


 ノア様は目を細めながら私の頬を撫でた。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


「ところで、父上からはドレスを何着もらったんだ?」


「きちんと数えていませんが、10着ほどあったと思います」


「その中で、最初にこれを選んだ理由は?」


「ノア様の瞳の色に1番近かったので……」


「やはりそうか。よく似合ってる」


 エメラルド色が近づいてきたところで、扉の外から夕食の用意が整ったというコリンの声が聞こえてきた。

 ノア様は顔を顰め、それでも短く口づけた。

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