1:微睡み
ーーー。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッと無機質な機械音が連続的に続く。
絶えることない音は無表情で軽薄、冷たさえ感じる程に単調だ。
段々と覚醒した嗅覚にツンとした薬品の刺激臭が刺される。
アルコール…?塩素?
消毒関係の薬品だろうか。
ずっと昔に嗅いだような気がする。
いつだったかは…、思い出せない。
記憶を巡らせる。が、どんなに巡らせても漂白された永遠が連なるだけだ。
はて…?
いつ嗅いだ匂いか思い出したかったが、昨日までの記憶が抜けていることに気付く。
昨日まで、というのは少しざっくりしすぎたかもしれない。
正確には、性別、生まれ、名前、家族、友人...。
自分の情報から人間関係の情報までさっぱり抜けているのだ。
言葉の意味は分かる。が、しかし肝心な過去の記憶がなにもない。
本当に言葉のまま、真っ白い空間にポツンと取り残されている感覚になるのだ。
いくら熟考しても、神経が焼き切れそうになるまで思考を重ねても。
な に ひ と つ わ か ら な い
やがて真っ白な空間はひび割れて、黒い亀裂が入る。
自分は誰で、自分は何者、性別はどちらなのか。
不の感情は心を大きく揺るがす。
そもそも自分は人間なのか。
嫌な考えが過るごとに黒い亀裂から、くすんだドロドロとした液体が流れ出る。
ドク、ドク、ドク、ドク、ドク、ドク
心臓が息をするかのように黒い液体の体積が増えていく。
自分はいったい「 」なのか。
湧き出る不安は止まず、氾濫した川のように溢れでる。
暴走した感情は、心から滲むように胸、腕、足へと順に包み込み全身を冷たい暗闇を感じさせる。
漆黒の粘着質のヘドロにも似たものが体を縛って離さない。
精神状態の不安定さから生じた異常は脳だけが認知し、偽りの感覚が四肢を支配した。
「ーーッ! 」
本人は声に出したつもりだろうが、そこには無音の叫びが響くだけである。
また同時に頭上にあろう機械が警戒色に染まった音で喚く。
叫びのない叫びに異常を感じ取ったのか、それとも単に脳波に異常が見られたのか。
もちろん理由は後者だが、誰かがその光景を見ていれば必ずしも前者になる。
それほどに異様な空気が漂っていたのだ。
それらによる二つの現象が何かを読んだのは間違いない。
証拠に数人の足音と焦りが見える声色で話し合う音が聞こてきた。
しかし、叫びをあげた本人は気付くことなく、もがき苦しみながら今の意識を繋ぐことで精一杯だった。
苦しみの連鎖から抜け出すこともできず、その終わりのない螺旋をめぐる。
地獄のような圧迫に押しつぶされ、意識を段々と意識が削がれる。
自分の身が分からない時に意識がなくなるのがどんなに恐怖か。
死にも感ずるほど、心の奥底を死神に握られたようにも感ずるだろう。
しかし、せめてもの抵抗と襲い狂うヘドロに牙を剥こうにも、その抵抗は無意味に等しく牙をも黒く染め てしまうのだった。




