おおばあさまと僕
鬱蒼とした森の中。びくりびくりと歩を進めるユーアは、突如聞こえた鳥の声にびくっと大きく身体を震わせた。
乱れた息を吐き出して、ユーアは天を見上げる。陽の光は高い木々に遮られ、木漏れ日すら届かない。ここでは母さまが綺麗だと言ってくれたユーアの金色の髪も真黒だ。まるでお日様に見捨てられたかのようで、それが幼いユーアにとってはとても怖く、心細い気持ちにさせた。
「うう……」
この辺りに危険な獣はいない。だが、それでも怖いものは怖い。少しでも早く森を抜けようと、ユーアの足が少しずつ早くなる。
「あうっ」
木の根に躓いて転びそうになりながらも、ユーアは走る。そして、ようやく木々の向こうから光が見えて来る。――出口だ。ユーアは涙を溢れさせながら光に飛び込んだ。
光りの向こう側は森の中だというのに開けている。まるで村を切り取ったかのように切り広げられた空間だった。その中には、ユーアの記憶通り小さな小屋と畑だけがぽつんと寂しく用意されていた。
森を抜けたことに安堵したユーアは立ち止まり、膝に手を付いて上がった息を整える。視線の先は自ずと小屋に向かい、そして小屋を見ると居ても立っても居られず、ユーアは小屋までの短い間を全速力で走り出した。
「おおばあさま!」
息を切らしながら、小さな手で扉を開ける。ノックも何もしない。自分の家では無いが勝手知ったるお方の家だからだ。小屋の主はユーアに気付くと、白い――真っ白ではなく、ユーアの大好きなクリームスープによく似て少し黄色がかった――髪の房を揺らして振り返った。
「ああ、また来たのかいユーア」
鷹揚に呼びかけてきた彼女は、一見するとただの少女にしか見えない。だが、ユーアは知っている。彼女は村の誰よりも長生きだ。その容貌は少女にしか見えないが、彼女はユーアの両親よりも、両親の年齢を足した数よりもずっとずっと長生きしている神様のような人だ。
村から外れた森の向こうの一軒家。そこに住む彼女は、おおばあさまと呼ばれていた。
「おおばあさま、おおばあさま!」
「ほれ、泣くな泣くな。森が怖いならわざわざ来んでもよかろうに」
来いとでも言うように、おおばあさまは椅子から立ち上がり手を広げた。ユーアは駆け出し、ぽすっとその小さな胸に飛び込む。ユーアを迎え入れたおおばあさまの手が背中と頭を撫で回す。暖かく、安心する気持ちにさせるその手が、ユーアはとても好きだった。
おおばあさまはユーアを抱き締めたまま椅子に戻ると、ユーアの向きを変えて膝の上に座らせる。二人とも同じ向きを向いているが、この膝の上がいつものユーアの定位置だった。
「で、今日は誰に泣かされた? お隣のアルノルトか? それとも村長の孫娘か?」
「……ちがうもん。今日は泣かされてないもん」
おおばあさまの物言いに、ユーアは反射的に顔を赤らめる。この小屋に来る前に怖がったせいか、その目尻には少しばかり涙があった。
認めたくはないことだが、ユーアは泣き虫だった。今日はたまたま違うが、お隣のアルノルトや村長の孫娘のケーネに負けてここに逃げて来ることは多かった。
「ほう、偉いじゃないか。それじゃあ泣かしたか?」
「泣かしてもないよ。今日はちがうの!」
ユーアは涙を振り払い、必死になっておおばあさまの顔を見上げる。だが、そんないじらしいユーアの様子を見てもおおばあさまの表情を変わらず、ころころとした笑みを浮かべていた。
「それじゃあどうした? 怖がりなお前さんがこんな所までわざわざ来る理由なんぞ、それくらいじゃろう?」
「うっ……今日はちがうもん。……ねえ、おおばあさまはすっごく物知りだよね?」
「うん? まあ、長く生きておるからそれなりの世事には通じておるが。何が聞きたいんじゃ?」
「じゃあ、こどもってどうやって出来るの?」
ユーアが身体ごと振り返りながら真剣に尋ねると、おおばあさまはそっぽを向いた。少し困ったような、気まずそうな横顔だ。
「あー、ユーアよ。そう言ったことはもう少し大人になってからな……」
「皆そう言うんだ。お母さんもお父さんも、ジェミーナお姉ちゃんも。ケーネはもう知ってるのに」
「……女の子は早熟だのう」
「そうやって他人事みたいに言う。いつもいつも、僕は後回しにされるんだ……」
ユーアは落ち込んだ。幼馴染が知ってることを知らないと言うのは、ユーアが劣っていると言っているようなものだ。おおばあさまなら教えてくれるかと思ってここまで来たのに、これじゃあ期待外れもいいところだった。
だが、ユーアの内心は全く理解されず、それ所か揶揄うように、おおばあさまは口角を釣り上げた。
「この、愛い奴め。あんまりそうやって不用意なことを言うと、こわぁいお姉さんに食べられてしまうぞぉ」
ふざけてユーアを思い切り抱き締めるおおばあさま。その様子は、はっきりに言って気持ち悪い。いや、気味が悪いだろうか。とにかく、突然の変化にユーアには付いていけず、ユーアは真顔になった。
「……お姉さんなんてここにはいないじゃん」
「ほう。言うようになったな小童が」
がしっと、ユーアの頭がおおばあさまの手で掴み上げられる。その小さな手のどこにそんな力があったのか、まるで木の実割りの万力のように締め上げられた。
「痛いいたい。止めて、ごめんなさい! 僕が悪かったです!」
堪らず、ユーアは謝罪の言葉を口にする。
「よろしい。儂はまだまだ若いんじゃ」
ふんっと唸り、おおばあさまの手がユーアの頭から離れた。それでもまだ掴まれてるような感覚が残っていて、ユーアは痛みの元を揉んだり触ったりとする。
「……それで。最近村はどうじゃ? 変わったことでも無いかいの?」
切り替えるようにおおばあさまは口にしたのは、いつもの質問だ。その質問はユーアがおおばあさまの元に通うようになってから毎回欠かさずされているものだ。おおばあさまは村外れのこの小屋に一人で住んでいて、村にも出ることは滅多にない。だからこそ、何か変わったことがあれば教えるようにとおおばあさま自身が言っていた。
ユーアは見上げる。膝の上に座っているので、おおばあさまの顔が逆さにあった。その顔は真剣で、どこか寂しそうだった。
――おおばあさまは、村の守り神のような人だ。
その見た目は村人と変わりないが、中身はユーアたち村人とは全く出来が違う。
元は別の場所に住んでいた偉い人で、村が出来た頃からお世話になっていたと村の祭りで大人たちが語っていたのをユーアは覚えている。
最初は一緒に森を切り開き、村を作り上げ、子を産み育てたんだそうだ。
おおばあさまは凄く物知りで、凄く力持ちで、凄く長生き。とにかく凄い人なんだってことは村に住む者は皆が知ってる。
だけど、凄いおおばあさまと一緒にいられる人はいない。誰もが先に死んでしまうのだ。それはおおばあさまの血を引く僕たちも同じだ。
だから、子も孫も死んだ後、何百年も前に隠居して村から森の中に引っ越したんだ、とおおばあさまは前に言っていた。
村の誰よりも物知りで、頭がいい。そして村が出来た頃から生きており、今でも村を見守って下さっている。おおばあさまはそんな、生きた神様なのだ――
そんな村の守り神様を前に、ユーアは少し迷う。言いたいことはあるが、それを言ってもいいものだろうか、と。変わったことと言うよりもユーア自身のことで、そして少しばかり恥ずかしいことなのだ。
だがしかし、そんなユーアの葛藤は筒抜けだったようで。おおばあさまはユーアを揶揄うときのケーネそっくりな顔でにんまりと微笑んだ。
「ほう。言いたいことはあるが言えんという顔じゃな。呵々、愉快じゃ。ユーアも男に近付いて来ておるのう」
「僕は男だよ」
「そういう意味じゃあ無いさね。『歯を食いしばって耐えてこそ男の本懐』と儂が子供の頃はよう言うておったんじゃよ。しかしこの婆には遠慮は無用じゃ。ほれ、何でもいいから言うてみい」
「……笑わないでね」
「ああ、約束しよう」
その顔はケーネが意地悪するときの顔そっくりで、お世辞にも信頼できるとは言えなかった。
だけども、今更止めたとも言いたくなかった。恥ずかしいからあんまり話したくは無いが、それでも誰かに聞いて欲しかったのだ。
「……お祭りで手を繋ぐ人がいなくて、僕は留守番になっちゃったんだ。僕より年下のヒューリックでも相手がいるのに、僕だけ相手がいないんだ」
ユーアはとつとつと語り出す。それは昨晩のこと。祭りで組む相手を探す場で、相手を見付けられなかったのだ。
子供のユーアは今まで参加したことが無いので又聞きだが、男女が二人一組になって踊るのだと大人たちは言っていた。その組み合わせは大体が夫婦や恋人だ。ユーアの年代の子供たちは当然まだ結婚相手や恋人はいないが、そんな子供たちにとってもこれは将来の相手を考える催しだった。
「祭りというと、あれか。火を焚いて手を繋いで回る奴か」
「うん。あれに参加できるのは、男女一組になった人だけだから。僕たちはようやく参加できるようになったんだけど、僕は相手が見付からなかったから……」
「ほう、そうじゃったのか。儂も遠目に見ただけで参加したことは無かったから、相手がいないと留守番になるというのは初めて知ったわ」
「うん。だから一週間後の祭りで、僕は今までと同じように途中で家に帰らないと行けないんだ……」
そこまで話して、ユーアは「あれっ?」と首を傾げた。
「……ずっと村にいたのに、知らなかったの?」
「あの祭りが出来たのは二百年くらい前のことじゃぞ。儂が村の中にいた時代には影も形も無かった物よ」
「へー。最初からあったんじゃなかったんだ」
それはユーアも初耳だ。てっきりずっとずっと昔から、それこそ村が出来た頃からあるものだとばかり思っていた。
「それで、村長の娘は誰を選んだ?」
「……ケーネの相手はアルノルトだって」
「ほう。なるほどの。お前のお気に入りはあの乱暴者に惹かれたか」
「べ、別にケーネはお気に入りってわけじゃない!」
そうユーアは必死に返した。心なしか頬が熱い。だが、おおばあさまはユーアの様子を見て、思う所があったのか納得したようにうんうんと頭を上下させる。
「図星、と。鎌掛けにこうも易々と掛かるとは、呵々、まだまだ青いのう」
「うぇっ」
そう、それは罠だったのだ。ユーアは反射的に言い返したことを後悔した。
そうして頭の中の見られたくない所が見破られるのは、どうしようもなく恥ずかしい。かと言ってもうバレてしまった。今から違うと言っても、きっとこの老獪なおおばあさまには隠し通せないはずだ。
ユーアはそこまで考えて嘆息すると、もうどうしようもないなと諦めた。
ならば、方向を変えよう。知っているのはおおばあさまだけだ。おおばあさまの口を封じなければ。これ以上広まることだけは避けたかった。
「……誰にも言っちゃ駄目だよ」
「にしし、分かっとる分かっとる」
「……うん。お願いね、本当に」
「疑い深い奴じゃのう。ここに来るのはお主だけじゃ。言う相手もおらんから安心せい」
話す相手がいないと聞いて、ユーアはやっと安心する。
ケーネならこんなことを知ったらきっと村中に言いふらす。だからこそ、ケーネと似た雰囲気を持つおおばあさまは同じように面白がって村中に広めるんだろうと、ユーアにはそんな気がしてならなかった。
「それにしても、今日は来るのがちと遅かったな。菓子を焼いたが食べる時間は……」
そうおおばあさまが掛け時計に目を向けたると同時に、カラーンと小さな鐘の音が聞こえた。おおばあさまの家の絡繰り時計が時間を知らせる音だ。この鐘が鳴るのは日暮れの少し前で、ユーアが帰る目安にされていた。
残念じゃの、と言うと、おおばあさまはぽんぽんと軽くユーアの頭を撫でた。
「今日はここまでじゃな。また明日遊んでやるから今日は帰れ、ユーア。じゃないと、森の中が真っ暗になって家まで辿り着けなくなるぞ」
頭にあった手がユーアの脇に入れられ、抱き上げられて床に着地する。おおばあさまの太ももの柔らかな感触が名残惜しかった。
しかし、おおばあさまの言う通り、これ以上暗くなれば帰り道も分からなくなってしまう。ユーアは促されるまま玄関に向かい、不承不承に扉の取っ手を握った。
「じゃあまたね。おおばあさま」
「ああ、またの」
玄関の前まで見送りに来てくれたおおばあさまにユーアは元気良く手を振る。おおばあさまはそんなユーアを軽く笑い、指先を揃えて優雅に手を振り返した。
――いつも思う。おおばあさまは別れるのが悲しそうだ。形だけの笑顔は寂しげに見えた。
村人が同じ表情をしていたら、きっと見て取った通り寂しいのだろうとユーアは思う。だけれども、おおばあさまは神様のような人で、普通の人とは違ってとても強い。だからそんなおおばあさまが弱音を吐くとは思えなかった。だからこそ、その寂しげな表情の裏で何を考えているのか理解できず、ユーアはその顔を見ると少しだけ不安になった。
ユーアは森の入り口で振り返ると、おおばあさまに向かってもう一回大きく手を振る。おおばあさまの顔には変わらず不安になる笑顔が張り付けられていた。
◆
一週間はあっという間だった。
村は一年に一度の祭りの準備で活気に満ち満ちていたが、その日が近づくにつれてユーアはどんどんと気落ちしていった。
そして、祭りの当日となり。村の集会所に村中の人が集まって祭りが始まる。
昼間から皆が楽しく飲めや歌えやと楽し気に騒いでいる中、ユーアは一人だけその流れに乗ることが出来ていなかった。
おおばあさまの所へも四日前に行ったっきり。それからはとてもおおばあさまに会えるような元気が無かった。
目の前にあったスープを口に運ぶ。いつも食べるものより芋と肉が多く入っていたが、噛んでも味がしなかった。
ユーアは窓の外を見やる。日は中天から傾いて来ており、あともう少しで日が暮れる。そうなると、相手がいないユーアは家に帰らなければならない。幼馴染たちが参加している中で、ただ一人だけ。自分よりかなり幼い子供たちに混じって帰らなければならないのだ。それが悔しくて悲しくて、そのことを考えるだけでユーアはどんどんと顔が下へ向いて行った。
「ちょっと、なに暗い顔してるのよユーア。ご飯が不味くなるじゃない」
その声は幼馴染のケーネのものだ。顔を上げると斜め向かいに座っていた彼女と目が合った。その言葉は辛辣だが、綺麗に波打った赤毛の髪も、くりくりとした目も、女の子らしい晴れ着と合っておりとても可愛らしかった。
「ケーネには分からないよ、僕の気持ちなんて」
「……なによそれ」
ユーアはまた俯いてしまう。だって、そうじゃないか。ケーネには相手がいるんだから、相手がいない惨めさなんて分からないよ。そんな心の声が喉元まで出掛かったが、流石にそれを言うのはみっともなさ過ぎるとユーアは意志の力で何とか飲み込む。
「よく分からないけど、とにかく。しゃきっとしなさい、しゃきっと。場に合わせた振る舞いが出来なきゃ大人とは認められないわよ」
「……そうだね。君の言う通りだよ」
ユーアは顔を持ち上げ、頑張って笑顔を作った。気持ちは落ち込んでいるが、ケーネの言う通りでもあると納得したからだ。
「変な顔。まあいいわ。もっと上手く笑えるようになりなさい」
「ああ、努力するよ」
ケーネはそれきり興味を無くしたかのように、ユーアから目を外した。彼女の見る先は食事であったり、別の幼馴染であったり、隣に座る今日の相手のアルノルトだった。
ユーアは話が終わってからもそんなケーネの様子を見ていたが、もう彼女と話すことも無いと分かって視線を外した。ユーアの目が向かう先はまた、味のしないスープしか無かった。
ユーアはスプーンをゆっくりと口へと運ぶ。相変わらず味はしないが、それでも気を紛らわせるには丁度良かった。
ゆっくりと一口ずつ、入ってる野菜や肉を吟味する。この芋は大きい、当たりだな。この肉は小さくて筋張ってる。きっと蜥蜴肉のあんまり良くない部位だ。黒パンは固いけど焼き立てだけあっていつもよりは柔らかくて食べやすいな。そんなどうでもいいことを考えながら食べるが、それでも食べてばかりでは当然順調に無くなっていく。
「……空だ」
そして、遂にスープが入っていた器の底が見えてしまう。だが、今日は祭りの日だ。おかわりくらいは用意されてるだろう。そう考えるとユーアは顔を上げ、違和感に気付いた。
「ん?」
さっきまで騒がしかった集会所が、やけに静かだった。軽く見回すが誰も話をしていない。そして、彼らの目は皆がユーアに向けられていた。
「えっ、なに? どうしたの、皆?」
「随分と熱心に食べておったの、ユーアよ」
「ええっ!」
斜め左後ろから聞こえて来たそんな声に、ユーアは驚いて飛び跳ねた。その声の主は知っている。だが、彼女の声を聞くのはいつも森の奥のあの小屋の中で、ここに来ることは無いはずだった。
ありえない。そう混乱しつつ振り返るが、そこにいたのはおおばあさまに間違いなかった。
だが、その姿はいつもとは全然違った。
夕日を受けた白い髪はさらさらと風に揺れて煌めき、太陽以上に真っ赤な瞳は硝子細工のように濡れ輝いていた。華やかな刺繍が鏤められた淡い緑のドレスは、いつも見るゆったりとした服とは違う。美を強調するようなそのドレスを纏った彼女は、まるでおとぎ話に出て来るお姫様みたいで。その完璧な美しさは人の美と言うより物の美で表現する方が適切な気がして、名工の彫刻を見て感動するのはこんな気持ちなんだろうな、と聞き齧りの話がユーアの頭を過った。
「どうした、美しいじゃろう? 箪笥の奥から引っ張り出して来た自慢の一品じゃ。世辞の一言でも言っていいんじゃぞ?」
「……うん、とても似合ってるよおおばあさま」
ふふんっと不敵に無い胸を張るおおばあさま。その言動で、色々と台無しだった。
「それで、なんでおおばあさまがここにいるの?」
「なんじゃ、儂が来てはいかんかったか?」
「別にそうは言ってないけど……」
「なら、良いじゃろ。……ほれ、ユーアと隣の。儂が入る席を開けよ」
そう傍若無人に言い放ったおおばあさまの言葉に従って、ユーアの左側に一人が座れるだけの空間が空いた。そこに当然のようにおおばあさまは座る。少し狭いのか、ユーリとの間には隙間がほとんど無かった。
「ふむ、こうして村で食事を見るのは久方ぶりだが、食べ物は余り変わっておらんようじゃな。……む、ユーアよ、もうスープが無いではないか。おかわりをよそって来てやろう」
ユーアの椀を取るととせわしなく立ち上がり、とたたと軽い足取りで奥の台所へとおおばあさまは向かっていった。
その後ろ姿を眺めながらも、ユーアの頭の中は絶賛混乱中だった。
「ねえ、何でおおばあさまがここに来たの、ユーア?」
「知らないよ。僕が聞きたいくらいだよ」
ケーネから投げ掛けられた問いにユーアは思ったままを返す。本当に何故なのか分からない。こちらからおおばあさまに会いに行くことはあっても、おおばあさまが村の中に立ち入ることは無かったのだ。ユーアだっておおばあさまが村の中に入った姿を見るのは、これが初めてのことだった。
「どうしても何も、儂は一歩も村に入らんと言っていた訳では無いのでの。気まぐれでこうして数十年に一度は足を踏み入れたりはするのさ。……確か前回村に来たのは、儂の畑に手を出したどこぞの悪戯小僧を折檻したときじゃったか、のうシュペルルスト村長どの?」
おおばあさまは台所から戻ってくると、そう答えて村長を流し見る。村長はいつもの偉そうな姿が嘘のように縮こまっていた。「ほれユーアや、よそって来たぞ」と軽い口調でユーアの隣に座り直したおおばあさまとは全く対照的だ。
「そ、そうでございましたか? 何分昔のことで、余り記憶が定かでは……」
「あの『村始まって以来のうつけ者』と言われておったお主が、こうして立派に村長としての役を果たしている姿を見ると、儂は感動も一塩じゃよ。どれ、呆けを治してもう少し活躍できるよう、思い出話をしてやろうかいの。……まず最初は、森で獣を狩ろうと落とし穴を掘ったら己が親父殿を引っ掛けてしまった話からでどうじゃ?」
「お、思い出しました。はっきりと、それはもうくっきりと。もう大丈夫でございます、その節は大変申し訳ございませんでした! ですのでどうか、どうかお怒りをお静め下さい」
「怒ってはおらんよ、ああ、決して怒ってはおらんとも。どこぞの糞餓鬼に収穫前の作物がボロボロにされた上に捨てられたことも、儂の家に火を付けようとしたことも、ええ、もう怒っておらんとも」
ああ、これはまだ怒ってるなとユーアは察した。低頭平身、謝る村長に対しておおばあさまは見たことも無いほど冷ややかだ。
「……村長にそんな過去が」
「……流石にそれはちょっと引くわ」
「……俺を糞餓鬼って怒ってた村長の方がずっと糞餓鬼じゃねえか……」
大人たちから口々に言葉が出ては静まり返る。場の空気が何とも居た堪れない。
「まあ、それは済んだことじゃ。それより! 火を囲んで踊るのはまだかの?」
その空気を察したか、それともやり過ぎたと思ったのか。おおばあさまは早口で話を切り替える。
「……おおばあさま、それは日が暮れてからだよ」
「おお、そうか。ではちと早く来すぎたかの」
おおばあさまの苦し紛れな話題転換でこの後のことを考えてしまい、ユーアの顔はどんどんと机の上のスープに向かってしまう。
そんなとき、俯いたユーアの頭を優しく撫でる手があった。おおばあさまの右手だ。仰ぎ見ると、優しい眼差しでユーアを見詰めていた。そして慰めるように、宥めるようにユーアの頭を往復する掌に、ユーアはおおばあさまがここに来た理由にようやく思い至った。
おおばあさまはユーアを慰めに来てくれたのだ。ユーアがこうして一人落ち込んでると思って、その様子を見に来てくれたのだ。そう気付くと、ユーアは心の中がぽかぽかと暖かくなって来るのを感じた。そうすると、自然に目から涙滴が溢れ出しそうになって、ユーアは上を向いて必死に堪えた。
「え、ええ。ユーアの言う通りです。本日は火送りの儀に参加されるので? 本来であれば相手がおらぬ者は参加できない儀式ではありますが、おおばあさまであれば勿論そんなことは言いませんとも。どうぞ御照覧下さいませ」
その話題転換に飛び乗るように、村長が続く。
「……御照覧? 何か勘違いをしている気がするが。まあ、そうだとも。思えばあれが始まってから二百年ほど、一度も参加したことも無かったのでな」
「……あれは村が始まったときからの祭事では無かったのですか」
村長が以前のユーアと同じように驚いた。他の村人たちも同様だ。
「そうじゃとも、そうじゃとも。あれは確か、塔都から流れて来た坊主が始めたものだ。それまでの祭りでは火を焚くことも踊ることも無かったの。こうして皆で飯を食べ、実りに感謝したり実りを祈ったりして、結束を深めておった」
そのしみじみとした口調には、実際に見て来たからこそ感じさせる説得力があった。
「なるほど。流石はおおばあさまにございます。我らが先祖、その遥か昔日の出来事をこうして知る機会を得られ、我ら村人一同、感謝の言葉もありませぬ」
「良い。そなたらに思い出話をするのは儂の楽しみの一つだ、可愛い我が末裔らよ」
その言葉には、確かな愛情が籠っている。それは偉大な母の愛だ。深く深く村人たちを慈しんでいるのだと言うのは明らかで、疑う気は全く起きなかった。
ユーアたちが生まれる前から村を見守り続けて来た、我らがご先祖様。そんな守り神にも等しい人にそう言われ、嬉しくないことなどあろうか。
啜り泣く声がした。それも、集会所の至る所から。しくしくと、さめざめと。
大人も子供も、勿論ユーアも。皆が泣いていた。特に歳のいった大人たちは、おんおんと激しく咽び泣いていた。
「なっ、何故泣く? もういい、泣くのを止めよ!」
ただ一人、この状況に付いて行けなかったのは、ユーアたちを泣かせたおおばあさまだけだった。
おおばあさまは必死に泣き止ませようとしたけれど、村人たちはすぐには泣き止まず。場の雰囲気が元に戻るのは暫く経ってからだった。
「……随分余計なことで時間を食ったのぅ。これは、早く来て正解だったわ」
「皆がおおばあさまのお言葉に喜んでのこと。どうかご容赦をば」
「分かった分かった。それより、もうそろそろ日が暮れそうじゃぞ。用意は良いのか?」
おおばあさまの視線を追って窓の外を見ると、確かに夕日がもう山の頂に近付いていた。
「おお、もうこんな時間ですか。……では皆の衆、準備をせよ! おおばあさまが見ておられる、決して失敗するでないぞ!」
村長の呼び掛けに、男たちは立ち上がり「応!」野太い声で吠える。気合十分な声の残響が煩いほど部屋中に木霊した。
そうして大人たちは動き出す。ユーアの同年代たちも、アルノルトたちは男組に、ケーネたちは女組に混ざり、大人と一緒に出て行った。残るのはユーアと幼い子供たちだけだ。
「子供たちはこれまでじゃ、家に帰りなさい」
そうして席に残ったユーアたちを向いて村長は言った。
ユーアは太ももの上にある手をぎゅっと握り締める。それはユーアにとって無慈悲な宣告だった。元気良く「はぁい」と返事をする声は、ユーアより幼いものばかりで、ユーアと同年代の子供たちの声は無い。
だが、ここで留まることは出来ない。悔しさに耐え、ユーアは立ち上がる。せめて泣くことなく帰ってやろう。そう決めて。
「ん? ユーアよ、どこへ行くのじゃ?」
そんなユーアの決意に気付かないのか、おおばあさまは能天気な声でユーアの裾を掴んだ。
「……どこって、帰るんだけど?」
今更何を言っているのか。ユーアは訝しむ。相手がいないと少し前に直接言ったはずだ。
「儂を一人にして帰るのか?」
「……おおばあさまには大人たちがいるじゃん」
「なぬっ!」
大人も子供もいなくなり、おおばあさまとユーアと村長の三人だけとなった部屋で、おおばあさまは一人驚いた。本当におおばあさまはどうしたのか。
「ええ、その通りですおおばあさま。ささっ、どうぞこちらへ。おおばあさまの席をご用意致します」
「村長、お前もか! ……しかしこれは、ユーア一人の問題ではなく村全体で儂の立ち位置がおかしいことになっておるのか? さっきの村人大号泣と言い、御照覧なんぞと言う妙に改まった物言いと言い、何がどうなってこうなった!?」
長い独り言を呟くおおばあさまに、ユーアと村長は顔を見合わせて肩を竦めた。「何言ってるか分かった?」「いいや、全然分からん」そんな思いは言葉にせずとも伝わった。
「じゃあ、とにかく僕は行くから。またね、おおばあさま」
「ま、待て。ちょっと待て」
「うん? そんなには待てないよ。皆の迷惑になるからね」
ユーアはおおばあさまの顔を見詰める。その肌は朱を注いだように赤らんでいた。
「ええい、お主らは何故分からんのじゃ。これは酷い! 酷過ぎる! 鈍感なんてもんじゃないの!」
隣の村長を見ると、目を閉じて首を横に振った。完全にお手上げだ。
「……ごめん、おおばあさま。何を言いたいかさっぱり分かんないや」
「揃いも揃って……! ああ、分かった。分かったとも! お主らには回りくどいやり方では通じんと! なら直截的に言ってやる。耳かっぽじってよおく聞け!」
「はい!」
ユーアと村長は揃って姿勢を正した。この村の誰もの高祖、守り神様とでも言うべきおおばあさまだ。そのお考えが理解できないのはおおばあさまの子孫として不徳の致す所だし、申し訳無い気持ちで一杯だ。だがしかし、おおばあさまは子孫の不出来に怒りつつも、寛大にも知恵を授けてくれるという。ならばその十全を理解するのは村人にとっての義務だ。
「ユーア!」
「はい!」
ユーアは元気良く返事をする。おおばあさまの子孫として、どんな無理難題だろうと解いて見せるという覚悟を声に込めた。
「儂と一緒に祭りに出るぞ!」
「はい! ……はい?」
一度反射的に返事をしてから、つい疑問の言葉が口を衝いた。ユーアはおおばあさまが何を言ったのか、すぐには理解が出来なかった。
おおばあさまと一緒に? 祭りに出る?
「不服か?」
「ううん、そうじゃなくて。……付き添って侍れってことだよね。何か持つ物でもあるの?」
「違わい! ここまで言っても分からんとは。……なあ、ユーアよ。この祭りは、誰と誰が出るものじゃ? そして、誰が出れないものじゃ?」
話に聞いた小姓のような役目をさせられるのだろうかとユーアは当たりを付けたが、どうやらユーアの解釈は間違っていたようだ。おおばあさまは呆れつつも、不出来な子供を諭すように、ゆっくりとユーアに問う。その答えは何かとを考え、ユーアは以前おおばあさまに言った通りのことだと思い至った。
「……この祭りに出るのは男女一組になった人だけ。相手を見付けられないか、子供は出れない」
「じゃあ、儂はどっちじゃ?」
「……女?」
「疑問形なのが気に入らんが、そうじゃ。じゃあ、お主は?」
「男」
「そこまで言ったら分かるじゃろ。男と女が手を繋ぐ祭りじゃ」
おおばあさまはユーアに手を差し出した。そこまで言われれば、その手の意味は分かる。誘われているのだ。ユーアは顔が熱くなるのを抑えられなかった。
「……おおばあさまが僕と手を繋いでくれるの?」
おずおずと、呟くような小さな声でユーアは言葉を絞り出した。そして、そっとおおばあさまの掌に己の手を宛がうと、期待通りにぎゅっと優しく握られるのを感じた。
「そうじゃよ。ようやく分かってくれたか。儂がお主のお相手じゃ。……それにしても、真っ赤じゃのう。もっと早く分かってくれればもっと良かったがのう」
にひひと笑い、おおばあさまはユーアの頬を突く。ユーアは嬉しさと恥ずかしさが綯交ぜになり、されるがままだ。
「そ、それでは、おおばあさまはユーアと共に出ると? ご覧になるのではなく?」
頬を突かれ続けているユーアの代わりに焦ったのは村長だった。
当然のように「そう言っておろう」と首肯するおおばあさまを見て、村長の顔からは血の気が一気に引いて蒼白になった。
「た、た、大変じゃあぁぁぁああ! おおばあさまがご参加なされるぞぉおおおお」
そして、村長は悲鳴のような大声を上げて走り去ってしまった。向かう先はきっと準備をしている大人たちの所だ。
「……あれほど驚かなくても良いと思うのじゃがのう」
おおばあさまは顎に手を当てて頭を捻った。村の誰より物知りなおおばあさまが分からないと頭を捻っている様子が何ともおかしくて、ユーアはつい笑みが零れる。
「おおばあさまは僕たちが生まれる前からこの村を見守ってくれてる、僕たちにとっては神様みたいに凄い人なんだ。だからおおばあさまが僕たちを見てくれてるのはいつものことだけど、一緒に何かすることって全然無かったからね。それで驚いたんだと思うよ」
「……確かに村の子らは老人から子供まで皆が我が子孫じゃし、これまで一緒に何かの行事を催したことは無いが、神様とは。随分遠い所に置かれたもんじゃの」
ユーアが見上げると、おおばあさまはいつもじゃあねと別れを口にするときと同じ顔で、寂しそうだった。
(……おおばあさまは、自分を神様とは思っていない?)
そう考えたとき、ユーアに一筋の閃きが落ちて来た。
おおばあさまが自分自身を神様ではなく人なのだと考えているなら、ユーアと同じように寂しがったり怖がったりしてもおかしくは無いのではないか。そして、おおばあさまもユーアたちと同じ人なのだと考えれば、その表情から何を思っているかは大体分かる。これまで寂しそうな顔をしていたとき、ユーアが寂しかったのと同じようにおおばあさまも寂しかったのだ。そう、ようやく気付いた。
そうして気付いてしまうと、大好きな人が物悲しそうな顔をしていることに耐えられず、ユーアの手を握っていたおおばあさまの手にもう一方の手を重ね。そして、精一杯の笑顔を浮かべておおばあさまの顔を覗き込んだ。
「大丈夫、僕はそばにいるよ」
相手がおらず帰ろうとしていたユーアを引き留め、一緒に参加すると言ってくれた優しい人を慰めたくて。おおばあさまは一人じゃないんだとユーアはその手一杯に念を込める。
心なしか、そうするとおおばあさまは少し寂しそうな気配が減っていた。
「元気出た?」
「ああ、出たとも。お前のおかげじゃ、ユーア」
それまであった陰を吹き飛ばすように、おおばあさまは快活に笑った。おおばあさまを笑顔にさせたことが嬉しくて、ユーアもつい口元が緩む。
「それにしても、楽しみじゃのう。こうして人の輪に入って踊るのなぞ、何百年振りかのう」
おおばあさまの視線は、走って行った村長の先。踊りの場となる村の広場の方向を向いていた。
「……昔はおおばあさまも踊ってたの?」
「そうとも。これでも歌と踊りには自信がある。……いや、あった、か。もう大分昔の話だからの、今ではうろ覚えじゃ」
「そうなんだ。じゃあ、今度思い出したら見せて」
「ふむ、たまには昔を馳せ踊りに興じるのも良いか。いいじゃろう。楽しみにしておれ」
「うん、約束だよ!」
「ああ、約束だ」
おおばあさまとユーアは頷き合う。
そのとき、ぜえ、はあと息を切らせて村長が戻って来た。顔にはだらだらと汗が粒となって流れており、崩れた白髪が所々顔に張り付いてしまっている。
「おおばあさまぁあああ! し、しばし、もうしばしお待ちを。完璧に準備を整えておりますので!」
「あ、ああ。ゆっくりでいいぞ。怪我をしないようにな」
「ありがとうございます。それでは、もうしばしお待ちをぉお!」
来たときと同じように全力で走り去り、すぐにその後ろ姿が小さくなる。壮年だと言うのにその走りっぷりは若い大人と変わらない。元気な村長だった。
「ちょっと焦り過ぎじゃないか? 昔のあいつは相手のことなんぞ全く考えておらなんだと言うのに、人は歳を取ると随分と変わるものじゃな」
「おおばあさまのためだから頑張ってるんだよ。分かってあげて」
「そんなものかのう」
「うん、そんなものなんだ」
おおばあさまは嘆息した。理解はしたが納得は出来ていないとでも言うようだ。村人としては当たり前のことだが、おおばあさまには共感し難いことなのだろう。
「それじゃあ、僕一人が行くわけにも行かないし、村長が来るまでもう少し待とっか」
「ああ、そうじゃな。……そう言えば、まだ大事なことを言っとらんかった」
「大事なこと?」
ユーアはおおばあさまが言った通りに繰り返す。それが何なのか、全く見当が付かない。だがおおばあさまは悪戯な顔で白い歯を見せた。
「ああ、そうじゃ。一夜とは言え、手を繋いで踊るのじゃ。なら、『おおばあさま』ではなく、儂の真名を教えてやらんとな」
「おおばあさまの本当の名前……?」
「そうじゃ。『おおばあさま』と呼ばれ続けてかれこれ、一体どれだけの時が過ぎたことか。最早儂の名を知る者は、この地には誰もおらん」
そう言って、おおばあさまは暗い空の向こう、ずっとずっと遠くを見た。その向こうの先はあの世なのだろうか。そう考えると、誰にも名前を呼んで貰えないおおばあさまがとても可哀想に思えた。
「うん、分かった。じゃあ、僕が憶えるよ。僕が生きてるのはおおばあさまにとっては短い間だろうけど、それでも僕は、死ぬまでおおばあさまの名前を忘れないから」
「……ああ。どうか忘れないでおくれ。儂の名前は――」
おおばあさまの名前が、稜線に落ち行く夕日と同時に溶けて消えた。
真っ暗になってしまった部屋の中で、ユーアはその綴りを一文字一文字を大事に大事に心に刻み付ける。何があっても、絶対に忘れないように。せめて己が生きている間だけでも、この寂しがりな人を寂しがらせないように。
村長が呼びに戻って来たのは、日が落ちてから少し経ってからだった。
村の広場の中央で燃え盛る火を取り囲み、大人の祭りは始まった。
楽器の弦が引かれ、笛が吹かれる。その軽快な音楽に合わせるように、ユーアは一礼しておおばあさまの白い手を取る。彼女の顔が赤かったのは、火に照らされたせいだけではないだろう。
踊りは子供のユーアにもすぐ覚えられる簡単なものだったが、繰り返し繰り返し、幾ら踊り続けても飽きることがなかった。向かい合うおおばあさまの顔が凄く近くて心臓がばくばくして、照れたりはにかんだりしたおおばあさまの様子には見ているこっちがどきどきした。
それから火が消えるまで。この時間がもっと長く続けばいいのにと思いながら、ユーアはおおばあさまと踊り続けた。
楽しい時間は、それが過ぎ去ってしまえば一瞬の出来事だったのかと勘違いしてしまうほど。心地良い疲労感だけが、それは決して幻では無かったと教えてくれた。
◆
それから。
今日もユーアは、おおばあさまの家へ向かい、鬱蒼とした森を進んでいた。
森は怖いが、それでもおおばあさまに会いたいという気持ちが勝り。通う頻度は、少し多くなった。
歩いているうちに、光りが差し込む森の切れ目がユーアの目の前に表れる。
しかし、以前のように駆け出したりはしない。
これ以上鼓動が早くならないように、ユーアはゆっくりと小屋の扉の前まで歩いて行く。そして、服に乱れは無いか、髪に寝癖は無いかと簡単に確認すると、走るよりもバクバクしている心臓を抑えようと一度、二度と深呼吸した後にようやく、コンコン、とゆっくりと扉を叩く。
「はーい、ちょっとお待ちなさいな」
とたた、と中を歩く音を暫く聞いていると、扉が開かれる。出て来た白い顔はユーアの顔を見て嬉しそうに表情を綻ばせた。
「いらっしゃい。よく来たの」
「うん、お邪魔します」
ユーアはそう挨拶すると、おおばあさまの顔ではなくその胸元で視線が固定された。おおばあさまの服装は見慣れた普段着で、あの祭りの夜に来ていたドレスではない。でも、その顔を直視するとあの日の出来事が思い出されそうで、気恥ずかしくて顔を上げられないのだ。
「今日は何を教えてあげようかいね」
「おおばあさまに任せる」
「ほう、そうかそうか。なら、飛び切り難しいのにしようかいね」
「……ちょっとは手加減して欲しいかな」
おおばあさまに付いて中に入って行く。勝手知ったるおおばあさまの家だが、勝手に動き回るよりおおばあさまのそばにいたかった。
「それじゃあ、今日は面白いことを教えてやろう。遠い遠い国の昔話だ」
「うん。色んな国の話は好きだ。勉強になる」
「ふふん、そうじゃろうそうじゃろう。お前さんならそう言うと思うて、地下室の奥から本を引っ張り出して来た」
おおばあさまが得意気に取り出したのは、一冊の古惚けた本だった。その豪華な装丁に、ユーアは己の内で期待がどんどんと膨らむのを感じる。
「ありがとう、おおばあさま」
おおばあさまはきっと、ユーアが好きな話を用意しておいてくれたのだろう。そう考えると、率直な感謝の言葉が口から出た。
「感謝しているというのなら、ちゃんと名前で呼べ。……折角二人きりで、誰も聞いておらんのじゃ」
少し不満そうに、おおばあさまはもじもじと言う。その仕草がとても愛らしかった。
「分かった。……ありがとう、エルネスタ」
「うん、うん」
おおばあさまは胸の前で手を握り合わせ、本当に嬉しそうに何度も何度も頷いた。
目尻には浮かんでいるのは一滴の涙だ。その小さな雫を、窓から差し込んだ朝日がきらきらと輝かせていた。
ユーアはそんな彼女の手に己の手をそっと重ねた。
「……ユーア?」
不審がる彼女の深紅の瞳の更に奥をユーアは覗き込んだ。
「エルネスタ。僕が貴女の手を繋いでいるから。多分僕の方が先に死ぬと思うけど、それまでは貴女のそばにいるから」
それはユーアの誓いだ。
誰もが彼女の名前を呼ばなくても、ユーアだけはその名を呼ぼう。この命が尽きるその日まで、優しく寂しがりな彼女の手を握り続けよう。
「だから、寂しがらないでほしい。それだけが僕の願いだ」
「えっ? えっ! ……それって……そんな……ええっ!?」
赤面し、文章にならない単語を呟くだけで要領を得ない彼女に抱き付く。自分の胸の中と同じく、彼女の薄い胸から聞こえる心音も大きく早鐘を打っていた。
森の奥には村の守り神が住んでいる。そんな彼女が実は普通の女の子とそう変わらないと知っているのは、ユーアただ一人だけだった。
「ロリババア物を書きたくなってカッとなってやった。(おねショタっぽくならなかったけど)反省はしていない」などと意味不明な供述をしており、このような作品を作った真意の解明には時間が掛かると見られております。