観客席で
それは彼女?
「あなたはなぜ──」
美しい声が会場に響き渡る。伝説の彼女の姿はこの目に収めるに留まることをせず、網膜まで引っ張っていきそうな程だ、、
「ねぇ、あの人?」
隣に座っていた彼女に小声で尋ねられた。彼女と付き合ってもう5年になるが、最初と変わらず今でも気持ちは変わらない。
「あぁ、彼女だ」
俺は別にここに舞台を楽しみに来た訳では無い。いや、半分は楽しみに来たんだが、もう半分は全く別の理由である。
「彼女が俺の─」
ふと、目線を舞台に移すとその彼女が血だらけになっていた。
「何があったんだ?」
彼女は目を離した隙に血だらけになっていた。
なぜ?一体何があった?
「あーあ。もしかしたらだけど、あれの餌食になったんじゃない?」
隣から声を聞く。
「あれ?あれってここにもあるのか?」
こいつはよく怪しい噂を持ってくる。しかし、その全てが大方根拠を持っているため馬鹿にできない。
「あるよ。しかも、最近活発になってきてるの」
「だ、だとしたら俺たちは……」
「うん。逃げないといけなかった。でも、もう遅いよ。彼女は既にそれに呑まれてしまった」
彼女を見るとそれであることが伝わった。周囲にすでに人は無く、静寂がその場を支配していた。
「俺たちはどうなっちゃうのかな?」
俺はふと隣に聞いてみた。しかし、俺の声に答える音はなかった。ただ、静かで無駄に広い空間に俺の声が響いただけだった。
「……おい?」
隣を見ても彼女はいなかった。
それは俺の想像を超えていた。それに支配された彼女は舞台から未だに声を響かせていた。
「助けて。私をここから助けて」
彼女は助けを求めていた。
両手を天に向かって掲げて、目を見開いてありえない方向に首を曲げて、それで尚、俺に向かって助けを求めていた。
「私は一体何を──」
なぜ?彼女はなぜあそこにいるんだ?
俺はついさっきまで、隣にいた彼女と舞台の彼女について話していたじゃないか。
ん?待て。一体彼女はどっちだった?いや、そもそも俺の言っている彼女は誰だったっけ?
「た、助け──」
その時、音が聞こえた。
生魚を手で無理やり握り潰したような、生肉を無防備に投げたような、そして、頭と胴体が首を境に捻じ切れた音が聞こえた。
「や、やめてくれ…」
なんの支えもなくなった体がゆっくりと倒れていく。
「なんでこうなったんだよ」
舞台の上で彼女が死んだ。
観客席で座る俺はずっとその死体を眺めていた。
いや、眺めさせられていた。
それは認識を狂わせる
次回→交差点で