ステージにて
どれ?
『あぁ、なぜあなたはロメオなの』
マイクを超えて会場に響くのはとある女性の感極まる美声。その声は会場にいる観客に涙を流すために響く。それのためだけに響く。
悲劇の合間にあるその感動はそれまでの悲劇やそのあとに続くであろう悲劇を思うとよりその感動は増幅される。
本来ならばこんな状況に陥ることなどなくとも出来のよい脚本家によって作られた脚本は観客を飲み込んで離さない。もちろんそれには出来のよい演者も必須だ。
そしていまステージで堂々と演じている彼女はその出来のよい演者の代表格である。彼女自身はそのことに違和感を感じ、幾度となく辞めると言ったそうだが、その度に周りにいる誰かが彼女を止めていた。
大丈夫。自信を持って。
「言葉じゃなにも伝わらない」
彼女はいつもそう言っていた。言葉なんてものじゃ伝わらない。思いも感情も表情も。そのどれもが伝わらない。
言葉に込められているのがどんな思いでもそれを受けとる側が理解できないとそれはただの言葉でしかない。
それを理解しないのは逃げだ。
それを理解しないのは自分だ。
それを理解しないのは脳みそだ。
それを理解しようとしないのは意思だ。
理解できないのはだめじゃない?できないのだから仕方がない?不可抗力?議論の余地はない?
なにを言っているのかわからない。理解できないことだ。
みなが告げる言い訳はどれもが支離滅裂で狂ったように自己正当化を促している。
周りに肯定されないのならば次は自分でそれをするしかない。つまりはそういうことだ。それがそうであるように、これがそれであるように、それがあれであるように、どれがこれであるかわからないのだろう。
座って過ごすこの時間はつまらない。
舞台裏でただそれが終わるのを待つのは本当につまらない。どうせいつかは終わるのにそれがいつまでも続くかのように自分の脳が見いだしてしまうのが憎い。
なぜこうも自分の脳は自分の言うことをきかないのか。いや、なぜ脳は自分の言うことをきくようになればいいとか、そういう考えを浮かんでしまうことを良しとしてしまったのか。
それがとても不安定に感じてしまい、それを憎んでしまう。
「ただいま」
白いドレスを真っ赤に染めた彼女はそう言って帰ってきた。
「それから僕らは舞台の袖へと逃げていきました」
それから逃げるためには舞台から降りなければいけないことをきちんと理解していた。
それがどれでもないものであったとしてもそれが確実にそれであり、彼女が赤く染まっているのも観客の拍手が聞こえなかったとしてもそれはそれであり、それでしかない。
では、さよなら。それから僕らは消えた。