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山田卯多子の生涯  ある庶民女性の生涯より    小夜物語  第60話 a lifetime of Yamada yuTako .

作者: 舜風人




Than a life of the lady of common people who has that a lifetime of Yamada yuTako . Night story The 60th talk.















小序


庶民の人生なんてしょせんは、たかが知れたものなんでしょうね?

今までどれほどの庶民が名もなく、貧しく、生まれて

そして歴史のかなたに、埋もれたままで死んでいったことでしょうか?


これはそんな名もなきとある庶民女性の生涯を

時系列で

クロニクル(編年体)風に、つづった真実の物語?なのです。


実は、、

この女性はわたくしの親類(遠縁)にあたる人でして、

でも私は直接は見たことはありません。

なぜならば、

私がうまれたときにはすでにこの女性は亡くなっていたからです。

ですから以下の叙述は

あくまでも伝聞で知りえただけのことです。

つまり、

しんぴょうせいは保証しません。

信じるか?しんじないか?

それはあなた次第です。




それでは、、、、、。





「山田卯多子の生涯  ある庶民女性の生涯より」


私にしか語れない物語がある。それは遠い消え去った故郷の原風景。

今はもうどこにもない異空間世界。

今、もし?私が語らなかったら、それはなかったことになってしまうような物語。

だから私にそれを語らせてくれないだろうか?

語りたいんだよ、

だってもし私が語らなかったら全部なかったことになってしまうんだよ。

そんなのって私は我慢できないんだよ、

確かにこれらの人々は生きていたし

痛みもその体に感じていたんだよ、

でもあまりにも無名の十パひとからげの庶民だから

まるで最初からいなかったかのごとく

記録からも抹消されて消えてゆくだけなんだよ、

だから語らせておくれよ。

だって私はもう老い先が長くは無いんだよ、

できるうちに

手が動くうちに

ボケないうちに

どうか語らせておくれよ。

この人たちには確かに生きていたんだよ、

無名の庶民で名もなき人々だけどね、、。

え?

それで、、、どういう人たちだったかっていうのかい?


そうかい、、、じゃあ聞いてくれるんだね?

じゃあ思い出の糸を手繰って語ってみようかね?





山田卯多子は明治43年に、落人伝説のある、とある地方の山村に生まれた。

そこはまだ電気すらないような、山村で、生家は、そのころ、中規模の百姓家だった。


この家はそもそも落人で武士の末裔だという伝承もあり、江戸時代には名主も務めたくらいの名家でこの地方では旧家に属していたが

明治のご一新で名主職も奪われて、零落し、その当時(明治43年)では中規模の、ただの百姓に過ぎなかった。

この家には当時すでに、3人の男子が生まれていたが4番目に、

女の子が生まれてその子は卯多子となずけられたのである。


この家の戸主、宗吉は、、卯多子の父であるがその当時の家長宗吉は日清・日露の戦役にも従軍して、

従軍記章が床の間に飾ってあるというのが自慢だった。

卯多子の母は同村の、旧家の出で名は「サト」といった。

子供は4人で、長男が平三郎、次男が弁吉、三男が義三といった、

そして卯多子である、

長男は家を継いで痩せ畑を耕し家を守った。

次男は、農業を手伝っていたが、18歳の時に家を出て東京で一旗揚げようと村を後にしたのである。

三男は製糸業の盛んな上州の機屋に住み込みで奉公に出て行った。

さて、卯多子であるが、尋常小学校でてからは利発であったので、勉強がしたいというので、高等小学校にも行かせてもらったのである。高等小学校を出てからは


長兄の子供の世話をしたり、家の農家を手伝っていたが、

長兄のお嫁さんと折り合いが悪くて早く嫁に出てゆけとうるさいので、

嫁ぎ先を探したのだがどうも卯多子の気に食わない縁談ばかりだった。

普通農家の女子は、どこかに嫁に行くか、あるいは、

尋常小学校を出るとすぐに口減らしで、製糸工場の女工とか、町の商家に、子守、兼、追廻し(雑用)で奉公に出されるのが通常だった、

山村の中規模の農家では、卯多子の家はまあまあ、比較的恵まれていたが、それにしても、女の子はどこかに嫁ぐか、奉公に出るか

いずれにして実家にずっと嫁にも行かずに、置いとくわけにはいかなかったのである。

それでもこの家は中規模農家で、使用人(作男)なども数人いるようなまあ田舎では恵まれた方であったから、卯多子も尋常小学校出てからも家の農家の手伝いで実家に居残っていたのである、

時には村の小学校の代用教員みたいなこともしていたそうである。

だがこれといって嫁ぎ先もないままでいよいよ、

昭和2年ころのことである、卯多子が18歳のころのことである。

卯多子が18歳になった時、卯多子の希望もあって、東京に出ることになった。

ところで卯多子には兄さんが3人いて、もちろん長男は家を継いでいたのであるが、

2・3男は、早くから実家を出て、はたらいていたのである、


次男の弁吉が東京で所帯を持ち,荷駄の運送というか、まあ運送業の会社の仕事をしていてそれなりに生活も安定していたのでそこを頼って、卯多子も東京へ出たのである。

当時女性の働き口といえば、裁縫か、家政婦、(派出婦)くらいしかなかった時代である。

家が豊かで師範でも出れば、教員ということもあったが、、貧しければ、、、

女工か、裁縫か、派出婦か、、

まあそれ以外にも水商売というか、そっちの系統もあったがそれはいわゆる、娼妓でありまともな仕事ではなかった。

卯多子は次兄のあっせんで、さる商家の女中になった。女中といえば聞こえがいいがまあ、追廻というか、住み込みの雑用係である。洗濯・掃除・子守・商家の雑用全般である。

とはいえ、近くに次兄がいてそれなりの稼ぎで棲んでいるので心強かったことは確かだった。

この次兄はすでに結婚もしていて、奥さんという人はなんでも関西の方の田舎の村の出で、この運送屋に賄で働いていた女性だったとか。運送屋の社長の仲人で結婚したそうである。名前は「トヨ」である。


弁吉は借り家とはいえ一戸建てに住んでいて、二階を、人夫の独身男に間貸しして、また借り家の前に、

夏場は団子屋、冬は

焼き芋の大カメを置いて小商いを妻トヨにさせて、生活費の足しにした。

初めて卯多子が東京に来たときはまずこの次兄の家に居候して、小商いの手つだいをしたり、次兄の子供の世話をしたりしていた様である。その後、次兄がどっかから女中奉公先の商家を見つけてきて卯多子が

この家を出たのが1年後だった。

住み込みの女中奉公の商家は割と大きな商いをしていて、木綿・絹。薪炭など手広く商っていた。

そこでの奉公にも慣れて数年たったころ、その商家に中国人の若い男が取引でやってきたという。

ハルビン出身で、いなせな、ハンチング帽子をかぶった、結構いいおとこ?だったそうである。

そこで卯多子とその男が知り合い、気が合って半年後にとうとう結婚するということになり、

なんと卯多子はその中国人のおとこと、はるばる中国はハルビンに向かったのである。

でも?言わゆる正式の結婚ではなかったようです。口約束だけの結婚?だったようです。

だが、聞くと見るとは大違いということわざどおり、

行ってみたハルビンは、想像以上の環境だったという。

一般庶民は日干し煉瓦の家に住み、床は地べたである。

食事も合わないものばかりで、特に水がひどかったという。

まるで、泥水同然を錆びたバケツで、平気で飲んでいるのである。

男は商売で商店をやっていたが、なんとそこにはすでに現地妻?がいたそうである。

つまり卯多子は第二夫人?だったわけである。

卯多子は話が違うと男に詰め寄っては見たが、らちが明かずに、

しばらくは我慢していたがとうとうそういう環境に耐えきれず、卯多子は着のみ、着のままで

半年後には、男の留守の時に、

旅費を店の金庫から失敬して、東京に逃げ帰ってきたという。

幸いにも子供も生まれなかったので、中国人の夫の親には、離縁するので

私は二度と帰ってこないと、きつくいいおいておいたそうである。

そのためか、その中国人が卯多子の前に現れることは二度となかったそうである。

こうしてその中国人男性とは縁がきっぱりと、切れたのである。


かくして東京に戻ったのが、昭和12年だった。卯多子は、28歳になっていた。

久しぶりに帰ってきてみると、なんと末弟の義三が、群馬の機屋で奉公にいっていたのが

若くして亡くなっていたことを知らされたのでした。


卯多子は再び、次兄の弁吉の家に転がり込み、今度は通いの家政婦(派出婦)としてはたらくことになった、派出婦というのが一番手っ取り早い当時の女性の仕事だったからです。

派出婦紹介所に家政婦先を紹介してもらうのである。

そんな派出婦の仕事としては今でいう訪問看護のような訳アリの病人の世話も多かったようです。

当然、訪問看護は看護婦の資格がなければできませんが、まあ、派出婦がモグリというと語弊がありますがそのまねごとみたいなことまで請け負っていたという実態だったのでしょうか?

資格持った正式の看護婦なんて、需要においつきませんものね?


派出先にはいろんな家があり、もちろん当時、派出婦を雇うくらいですからみんなそれなりのお金持ち?ばかりだったようです。

お屋敷の華族様の息子の肺病人の介護とか、もしたことがあったそうです。

下の世話から、話相手までも誠実にこなして、その方がお亡くなりなったときにはその華族様の御

当主様から感謝されて、銀の花瓶をいただいたそうです。ちなみに、、その銀の花瓶はその後お金に困って質入れして、質流れしてしまったそうですが、、。


まあそのほかにも、もし卯多子が生きてたら、いろんな様々な派出先でのいろんな興味深い話が聞けたことでしょうにね。


卯多子自身も、この仕事にやりがいを感じて

結婚にも懲りたので?家政婦(派出婦)で生きてゆこうとしたようです。


そんなある日。東京の下町の教会に派出婦でいったことがあったそうです。

そこで初めてキリスト教というものに触れて、何度か通ううちに、神父様から誘われて教会の集会にも出るようになったそうです。

そして若い神父様から聖書ももらって、その後彼女は死ぬまでそれを大事に、もっていました。

黒い表紙の小さな聖書。その小口は赤く色づけされていて、、。びっしりと小さな活字が並んだ

荒い、紙質の聖書です。


さてそれから時代はめまぐるしく移り変わり、やがては戦争の時代へと移り変わり、

やがて、東京にも空襲警報が鳴り響くようになり、

次兄の弁吉一家は勤めていた運送屋の社長が店をたたむというので、、妻のトヨの実家に疎開することで関西の田舎に行くことになり

卯多子がそこへついてゆくこともはばかられたので、卯多子は仕方なく

とうとう卯多子は、次兄の家から、長兄の平三郎の家に、つまり生家に疎開することになったのです。懐かしい生家、、まるで変らぬままの実家でした。久しぶりの生家でした。

そのころ宗吉はまだ存命でしたが母親のサトはずっと以前に亡くなっていたのでした、。


だが、疎開して間もなく、長年の労苦が触ったのでしょうか?にわかに、卯多子は肺病になり、

病の床に臥せるようになったのです。

当時の戦時中では、こんな山村に医者もなくて、実家でただ寝てるだけでしたから、病はすすむばかりだったそうです。病気で疎開で居候で、さぞ、

いずらかったことだったと思います。


その後の便りが関西の弁吉から平三郎のもとにきて、召集令状が来て弁吉は出征していったそうです。弁吉はその後再び生きては帰ってきませんでした。南方方面某所で戦死だそうでした。


卯多子は病床に伏しながらいつもあの聖書を気分のいい時には、起き上がって、大事そうに広げては読んでいたそうです。たまに気分がよい時は縁側に出ては遠くの風景をぼんやり眺めたり、物思いにふけってる様な様子だったそうです。、

しかし医療も受けることもなく

ただ寝てるだけですから、病気はどんどん進行して、、

もう起き上がることもできなくなり、

食べ物も薄いおかゆを啜るように飲み込むだけとなり、

とうとう、昭和20年6月のある日、、、あと2か月で、、、終戦を待たず、帰らぬ人となったのです。


享年36歳の生涯でした。


遺骨は村の共同火葬場で焼かれて、実家の先祖代々の墓に収められました。

かくして無名の庶民の女性の生涯が誰にも知られることもなく終わったのでした。




それから29年後、のある日。


私がその卯多子の家を、とあることで訪ねた時

ふと何気なく仏壇の引き出しを開けると、、。

仏壇の引き出しに、古びた、聖書が入れてあったのです。

仏壇に聖書?って、、私は怪訝に思い


そこで私はこの聖書はいったいだれのものなのかと、当主に尋ねたのです。

当主は平三郎がまだ生きていたのでくわししく懐かしそうに思い出をかみ砕くように話してくれたのです。

問わず語りのように、かたってくれたのが、以上のような物語だったというわけです。

話を聞き終わったわたくしは

その聖書をあらためて手に取り、ぱらぱらとページをめくってみると、、、

、何か所かに、赤鉛筆の線がいっぱい引いてあるところがありました。

おそらく卯多子が。読んで、感動したところにひいたのでしょう。


例えば、、こんなところ朱線が引いてありました。



「すべて神の御靈に導かるる者は、これ神の子なり。

汝らは再び懼を懷くために僕たる靈を受けしにあらず、子とせられたる者の靈を受けたり、之によりて我らはアバ、父と呼ぶなり。

御靈みづから我らの靈とともに我らが神の子たることを證す。

もし子たらば世嗣たらん、神の嗣子にしてキリストと共に世嗣たるなり。これはキリストとともに榮光を受けん爲に、その苦難をも共に受くるに因る。

われ思うに、今の時の苦難は、われらの上に顯れんとする榮光にくらぶるに足らず。」



                               ロマ書、8章14~18


肺病の床に伏し、しかも戦時中ただなか、

医療も無いような

山村でただ一つだけ、この聖書だけが彼女の心の支え、「神の慰めの書」だったのでしょうね。


おそらく、

あの下町の若い神父様からいただいた、この小さな聖書だけが、、。




名もなき庶民の女性の一生は、かくして、名もなきままに、閉じられたのです。


そうして、かろうじて彼女が残した、生きた証が、、つまり、この仏壇の引き出しに残された一冊の古びた聖書だけだったのでしょうね。




終り



















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(注)この物語は完全なフィクションであり現実の一切とは全く関係ありません。

   全くのフィクションです。

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