6 寝坊
「エイス様〜! 起きてくださ〜い!」
「…? コルダ…?」
朝から耳障りな声に、俺は起こされた。身体を横たえたまま、人影を確認する。朝日に照らされてきらきらと輝く金髪。声で同定できていたが、やはりそこにいたのは青い騎士服に身を包んだコルダだった。
しかし何故コルダがここにいるのだろう。朝起こしに来るのは近侍のイオンの役目なはずなのに。
というか、一応コルダの主人なのにこんな寝起きのどうしようもない所を見られるなんて超恥ずかしい。しかもコルダは女だし。俺は寝癖を気にして頭に左手をやりつつ起き上がった。途端に、コルダが「ぷっ」と吹き出しかけて、慌てて堪える。くそっ、やはり寝癖がついていたのか?
「どうした」
ふてくされつつ尋ねると、コルダは「い、いえ、なんでもございませんっ」と取り繕い、誤摩化すように笑った。動機はどうであれ、家族や親しい間柄のもののみに向ける優しい笑みだった。反則だ。
「モフィちゃんも、おはようございます」
…え?
彼女はそう言うなり、白い手袋に包まれた手を俺の右腕の方に伸ばす。彼女の腕の先を見て、俺はやっと彼女が笑いを堪えていた理由を悟った。
太陽の光を浴びてきらきらと輝く銀髪を指で漉きながら、コルダは笑みに毒牙を隠す。
「エイス様がお寝坊するなんて珍しいな〜と思っておりましたが、愛しの彼女との初夜では仕方がないですね?」
血色のよい唇の端を吊り上げながら、上目遣いでからかうような調子で言う。よりによって一番見られたくなかったやつに見られてしまった、なんてこった。四六時中この話題を出してからかってくるに決まってる。というかそういう艶っぽい事、冗談とはいえ10歳の子供に対して言っていいのかよ!?
「五月蝿い黙れ。それよりどうしてお前がここにいる?」
「はいはい。いつも通りイオンが呼びに参ったのですが、いつもより深く眠ってらしたので、揺り起こそうとしたところ、怪我を負ったとか。詳しい事情は聞かなかったので、何故怪我を負ったのかさっぱりでしたがね。それでこれまたよく分かりませんが、旦那様に私が用命仕ったわけです」
コルダは不思議そうに首を傾げる。話を聞きながら、俺は冷や汗が止まらなかった。親父の時と同じように、ネモフィラが何かしたに決まってる。
「そ、そうか。悪い事をした。それで、今は何時だ?」
「十時です」
「十時!?」
「だから初めに申し上げたではありませんか、エイス様がお寝坊するなんて珍しいですねと」
ここのところは毎日、悪夢を見て目が覚めて、それからは中々寝直せず、とろとろと浅い眠りを繰り返していた。だから近侍が呼びに来た時にもすぐに起き上がれたし、呼びに来る前から起きだしてコルダが庭で朝の練習をしているのを眺めていたことも多かった。
結局のところ、ネモフィラの言ったことは何もかも本当だったということだろう。ネモフィラを抱いて寝直してから、俺はここ数ヶ月なかった安眠を手に入れて爆睡していたのだろう。
それにしても二時間の寝坊とは…。
「ふふっ、昨日は学用品を揃えるために長時間外出しましたし、きっと疲れていたんですね。では、イオンを呼んで参ります」
「あ、ああ。頼む」
コルダは名残惜しそうにネモフィラの頭をもう一撫でしてから、退室した。なんであいつはこんなにこいつのことを気に入ってるんだろう。何だか面白くない。
頬を膨らませつつ、俺はイオンにこれ以上怪我をさせないために、ネモフィラを慎重に出窓の上に戻した。戯れに、その銀髪に指を通してみる。
「エイス様、おはようございます」
イオンが背後から俺を呼び、俺は慌ててネモフィラに伸ばしていた手を引き戻した。「お、おはよう」と振り向きつつ、誤摩化すように手を後ろに回して組む。
彼の指先にはぐるぐると白い包帯が巻かれている。
「おはよう。今朝は、驚かせてしまってすまない」
イオンに誘導されて鏡台の前に腰掛けつつ、どこか怯えた顔の彼に声をかける。
「いえ、私こそ、エイス様のシーツを汚してしまってすみませんでした。あとで取り替えておきます」
そういえば、掛け布団に赤い染みができていたっけ。あれは彼の手が傷ついた際についたものだったのか。
「その、指はもう痛くはないのか?」
イオンはおそるおそる、といった様子で櫛を取り、俺の髪に入れる。初めは怯えた様子だったが、何も起きないことが分かると普段通りのてきぱきした様子に戻った。指先に包帯を巻いているのに、器用なものだ。
「細かい切り傷がいくつかできただけなので、もう平気です。すみません、この包帯が大袈裟ですよね。驚きましたが、御館様によると、魔術師の子供には珍しいことではないそうですね」
紙で切ったような裂傷ということだろう。それはきちんと包帯を巻いていないと日常作業をするのにも、常にチクチク痛みそうだ。
それにしても、魔術師の子供には珍しいことじゃないって本当だろうか。どうも親父が誤摩化すために嘘をついている気がする。ネモフィラがやったことじゃないのか? 怪我の様子も親父がネモフィラに手を触れようとした時に似ているし。あいつ単品だとあいつに手を出すと攻撃され、俺が抱えていると俺まで保護の対象が及ぶといったところなのではないだろうか。
ゆったりとした部屋着から、ぱりっとしたシャツとズボンに着替えて、イオンに誘導されるがまま階下に下りる。リビングでは、俺を待ってくれていたのであろう母が編み物をしていた。親父は仕事に、兄は学校に出かけていて不在のようだ。
「エイス、おはよう」
俺の足音を認めて、クリーム色の髪を揺らしながら母が顔を上げる。若葉のような、澄んだ緑色の瞳に俺を映すと、ふわりと微笑んだ。
「おはようございます、母さん」
俺は悪夢を思い出して、罪悪感と安堵を覚えつつ答え、示されるがまま席に着く。パーティの時にも使う大きな机に、いつもは等間隔に距離を置いて座っているのだが、母は自分の隣の席を示した。
「エイスが寝坊をするなんて、本当に珍しいわね。昨日の入学準備はそれほど大変だった?」
「いや、そういうわけじゃ」
母はにこにこして俺を眺めながら、さりげなく侍従を呼び、朝食の手配を申し付ける。
「いつもより大分遅いけれど、昼を減らせばよいでしょう」
「すみません、ありがとうございます」
すぐに、ジャムの添えられたスコーンにサラダ、スープにデザートの果物が運ばれてくる。親父と兄貴は朝からもりもり白パンに肉やら魚やらを食って出かけるが、俺には無理だ。そのせいでいつも兄貴には「エイスはお子様だなあ」と笑われている。
「エイスは私に似たのかもしれないわね」
俺の朝食のメニューを眺めて、自身も紅茶に手を伸ばしつつ、母が言う。白く細く長い、華奢な指先が、カップの柄を絡めとるのを、俺は惚れ惚れと見つめた。
息子の俺が言うのもなんだが、母は美しい。彼女が表情を変える度に、緩く巻かれたクリーム色の髪はゆらゆらと波打ち、若葉のような淡い緑色の瞳はきらきらと輝く。小柄で童顔なせいもあり、二児を持つ母とは思えないほど若く見える。
「そうだとしたら、嬉しいです。貴女の髪も目の色も、俺は受け継ぐことができなかったので」
俺は自身の焦げ茶色の瞳に手を翳しながら口にした。母は驚いたように緑色の目を見開いて、紅茶のカップを置いた。そうして代わりにその手を俺の頭に伸ばす。
「私はエイスの髪も、目も、大好きよ。あの人と同じだもの」
茶髪に手櫛を漉き入れつつ、愛おしそうに口にする。あんなチビでデブな親父のどこがよかったんだろう。いや、二人が結ばれなかったら俺も兄貴もここにはいなかったんだし、政略結婚も多い中、母が幸せな結婚をしたなら何よりなんだけどさ。
それにしても、母さんに頭を撫でられるなんて、久しぶりだ。恥ずかしいし照れくさい。
「父さんと同じだなんて、嫌だな。あんな風な体型にはなりたくないよ。魔術師なのに」
誤摩化すように、少し拗ねた口調で言う。
「こらこら、お父さんにそんなこと言うもんじゃありません」
口ではそうたしなめながらも、母さんは笑みを浮かべている。と、その表情が不意に陰った。
「でも、そうね…。エイスは、魔術師になるのね」
「母さん?」
怪訝に思って尋ね返すと、彼女はぎこちなく微笑み、「なんでもないの」と首を横に振った。どことなく気まずい雰囲気が流れ、俺は空気を変えるために、わざと明るい口調で、ずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「ねえ、母さんはどうして父さんと結婚したの? 父さんのどこが好きなの?」
子供らしい無邪気さを装って尋ねると、彼女は先ほどよりもずっと驚いたように目を開き、白い頬をたちまち赤く染めた。誤摩化すように咳払いをし、紅茶を一口二口含む。
「もう、エイスったら急にどうしたの? 恋をした途端に、ませちゃって」
珍しい反応に内心にやにやしていたら、カップを置いた母は平然を装い強気な上目遣いで、とんでもない爆弾を投げて来た。
「なっ?! 俺が恋をしてるって?」
「聞いたわよ〜。あのお人形。エイスが一目惚れして連れて返って来たのでしょう」
「ね、ネモフィラは、そんなんじゃ」
頬の熱さを自覚しながら、先ほどの母と同じように紅茶のカップに手を伸ばす。誤摩化すように口に含んだけれど、熱い紅茶が頬の火照りを冷ましてくれることはなかった。くそう。
母はそんな俺の様子を楽しそうに目を細めて見ていたが、不意に寂しげな表情になった。
「そうね、あの子は、恋の対象になるようなものではないかもしれないわね。それでもあの子は、エイスにとって、きっととても大切な存在になるわ。大事になさい」
「え…?」
母は父から、どこまでの話を聞いたのだろうか。ネモフィラがただの人形ではなくて、マギ・スフィアだと知っているかのような口ぶりに、俺は戸惑う。でも、俺が一目惚れして連れて来ただとかなんだとか、父がコルダとイオンに説明したのと同じ理由を知っているし。どっちなのだろう。
疑問に思って母の瞳を見つめたが、彼女は「?」と首を傾げるばかりだ。
「そうだね、ネモフィラは…只の人形じゃない、特別な人形だ」
「これまでお人形遊びになんて全く興味を示さなかった貴方が連れて帰って来たのですもの、そりゃあ特別だわ?」
真意を確かめようと口にしたが、どうにも母の返答は要領を得ない。
「そうそう、そういえばエイス、聞いたわ。貴方、王都の学校への進学を勧められたのですって」
「え? あ、うん」
父からどこまで聞いたのか確認したかったのだが、母はさりげなく話題を変えた。いや、繋がっているといえば繋がっているのだけど。
「デルタは渋っている様子だったけれど、私は賛成よ。エイス、貴方は広い世界を知るべきなの」
いつもはぽわぽわっとした柔らかな雰囲気を纏っている母が、いつになく強い口調で断言した。その緑色の瞳も、言葉を裏付けるように強く煌めいている。
何故母は、そんな風に言うのだろう。俺のためを思っての発言だということは分かるのだが、何故そうまで強く勧めるのか。
翠の瞳の奥にある真意が、俺には見通せない。