5 氷の茨
ざわり、ざわりと、身体の奥深くで何か熱いものが疼く。息苦しさに胸が詰まって、俺は思わず膝を突いた。
垂れた頭から、熱は血液に乗って、身体中を縦横無尽に駆け巡る。その度、腿に、臑に、足に、腹に、腕に、指に、鋭い痛みが走った。まるで血管の中に薔薇の茎を通されたかのような。
「あ、あ、あ、あ゛、あ゛、あ゛、、」
思わず口から零れる声も、途中から俺の物ではなくなっていく。濁り、淀んだ、低くて醜い声。俯いた視界、床の上に、汗とも涙とも血ともつかない黒い染みが広がっていくのを、ただぼんやりと眺めていることしかできなかった。
「エイス!? どうしたのエイス!!」
俺の尋常ならざる様子に驚いた母が駆け寄ってくる気配がする。視界に黄緑色のドレスの裾が映り、白く細い手が俺の肩に触れ、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「エイス?」
心配そうな声音で、彼女は俺の顔を覗き込む。白い肌、クリーム色の巻き毛。何より印象的なのは、緑色の瞳だった。大好きな、けれど何一つ同じものを得ることのできなかった姿。
体中に張り巡らされた荊が膨張し、暴れ回る。痛みが大きくなり、俺は自分で自分の身体を支えるように抱え、一層身を縮めた。だが、駄目だ。このままでは、もう抑えきれない。
母さん、…
「あ゛、あ゛、あ゛」
「エイス!?」
俺の気持ちは言葉にならなかったから、母が俺の真意を悟ることもなかった。彼女は変わり果てた俺を見ても側を離れずに、一層心配を深めて、俺の身体を優しく抱きしめる。
柔らかな身体、暖かな体温、頬をくすぐる巻き毛。そうした全てに、俺の中の何かが反応する。感じる甘い香りが強くなる。なんて美味しそうな匂いなんだ。
我慢出来ない。
俺の身体を食破って出て来たのは、幾百もの氷の刺だった。
開放された愉悦の叫びを上げながら、それは俺の身体を糧にぐんぐん成長し、俺の身体を抱きしめていた母をそのまま串刺しにする。母の血で、透明な刃が赤い薔薇に変わった。
甘い香りが更に強くなる。強い酩酊感に襲われて、俺の意識は完全に乗っ取られた。
*****
「あああああああああ!!!」
俺は自身の上げた悲鳴で飛び起きた。震える手で胸に手をやる。感じる鼓動はやけに早かった。気持ち悪くて額をかきあげる。冷や汗で前髪が額に張り付いていた。
「くそっ、また…」
俺は額を抑えて呻いた。自分の中の何かが制御しきれなくなり、母を殺し、父を殺し、兄を殺し、街を氷漬けにする夢を、ここ最近毎晩のように見るのだ。
だから俺は、きっと自分の魔力適性は氷なのだろうと悟っていた。それと同時に、そうでなければいいとも願っていた。
願いに反して、ドラウフが俺の魔力適性を氷だと断言したとき、俺は体内に氷の塊を差し込まれたような、冷たい恐怖と絶望を感じた。
頭をかきむしって起き上がる。一度目覚めてしまうと中々寝付けないことを、これまでの経験から知っていた。汗ばんだ素足を毛の長い絨毯に埋めて、立ち上がる。
室内をゆっくりと一周すると、大分心拍も落ち着いた。寝台の横のテーブルから水差しを取り、一口飲み込む。今は夏で、夜に汲んできてもらってから入れ替えていないのに、ぞっとするほど冷たい水だった。
「……」
強いて意識の隅に追いやっていたのだが、奴の銀髪は月光に晒されるとキラキラと光り輝き、視界に入れないのも難しかった。俺はまた一つ溜め息をついて頭をかきながら、諦めて彼女の前に立つ。
出窓の上の鞄の上に座った彼女は、幼い俺とほぼ同じ程度の高さに目線があった。
その瞼の奥にまだ瞳はないために、固く閉ざされている。髪と同じ銀の睫毛が縁取っている目は、人間であれば眠っている間も少し動くのだろう。しかし、物言わぬ人形である彼女のそれは、微動だにしない。
けれど俺は覚えている。彼女は確かにこう言った。
『これからは我が目覚めるまで毎晩抱きかかえて眠れ。さすれば我がお前を悪夢から守ってやる』
「〜〜〜〜〜ッ!」
俺は一人歯を食いしばって羞恥心と戦う。
「本当、だろうな」
疑いと期待を半分ずつ混ぜ込んで、彼女を睨みつける。けれどやはり、彼女が口を開くことはなかった。
何を迷っているんだエイス。あの夢を見なくて済むのなら、どんな方法でも試してみるべきだ。母を、父を、この手で殺して笑う夢なんて。他人の血に、痛みに、愉悦を感じている自分なんて。
頭では分かっている。分かっているのだ。
だが、人形を抱えて眠るなんて……っ!
「あぁもう、嘘だったら承知しねぇぞ!」
誰にともなく叫んで、ガッと乱暴にネモフィラを掴み取る。がくん、と腰掛けていた膝が伸び、ぶらり、と意志の無い両腕が揺れた。
艶々した青いローブに包まれた彼女の身体は小さく華奢で、幼い俺の腕の中にもすっぽり収まる。
俺はそのまま彼女を隠すように胸に抱きながら、再び布団の中へ潜った。
物言わぬ人形である彼女の身体は、人間のそれとは違い冷たい。けれど、いつまでも冷たかった水差しの水とは違って、少しずつ俺の体温に近づいて来たようだった。