第四章 なぜなら僕はストーカーだから
わたしがあの後どうやって家に帰ったのか、よく覚えていない。
目が覚めた時、ベンチに横になってたのは覚えてる。すぐ横に座っていた小熊先輩がすっごく怖い顔をしていて、その顔を見て何があったのかを思い出して、また気絶してしまいたい気分になった。
ううん、本当に気絶しちゃったのかも。だって、その後のことを思い出せないから。
気がついたら、家の畳の上に横になってた。珍しく台所のほうから包丁の音が聞こえてきて、ああ、お母さんが料理してるんだなあ、って思った。
だけどすぐに気付いて、それから跳び起きて台所に行った。
「だめじゃないお母さん! 寝てなくちゃ!」
そうだ。今のお母さんに料理なんかさせちゃいけないんだった。ついこないだ疲労で倒れて入院したばかりなのに。
だけど当の本人は、まるで平気そうな顔してこんなことを言ってきた。
「だってあなた、帰ってくるなり横になってしまうんだもの。ただいまもなしで。もうこんな時間だっていうのに」
その言葉を聞いて、わたしは時計を見た。うっそ、もうこんな時間? わたし、何時間寝てたんだろ……。
「かるたときららも、お腹空いたって言うし」
「そうだぞー姉ちゃん」
「わ、わたしはまだそんなに……」
強気な弟かるたと、弱気な妹きららが声を上げた。様子を見た感じだと、二人ともお腹が空いてることは確からしい。
「で、でもお母さんはまだ寝てないとだめだよ! また入院することになったら、その……、わたしたちが困るんだから!」
「それはそうだけどね……」
「だけどじゃなくて、お母さんは寝てて」
まだ何か言おうとする母親を無理矢理押しのけて、わたしは台所に立つ。みそ汁の具を切っていたらしく、まな板の上には切りかけの大根が乗っていた。
「あ、グリルの中に干物が入ってるから、気をつけてね」
「うん、わかった」
「えー。干物かよー」
「だ、だめだよわがまま言っちゃあ……」
わたしはグリルの中を覗いてから、切りかけの大根に手をつけた。
お母さん、魚の干物好きだなあ。わたしたち子供三人はあんまり好きじゃないから、わたしが料理する時はあんまり献立には入れないけど、お母さんが料理すると週に一回ぐらいは魚の干物が出る。だからわたしの家には、いつでも結構な量の干物があって、そのおかげで、そこからいくらか持っていっても、バレることはなかったんだけど……。
は、いけないいけない、ぼーっとしてた。あ、そういえばみそ汁のダシは取ったのかな? 普段は粉末のダシで済ませるけど、最近は煮干しを使ってる。わたし自身は違いがよくわからないんだけど、お母さんはそのほうが喜ぶ。それに、ダシを取った後の魚が……。
ううん、なんでもない。早く作らないと、みんな待ってるんだ。料理に集中するんだ。他のこと考えちゃだめだ。料理料理。次はお味噌を……。
――ポタ。
「……あれ……?」
大根の上に、水滴が落ちた。なんだろう、これ。変なの。
――ポタ。
水滴がまた落ちる。ほんと、なんだろね、これ。雨漏りかな? はは、この家ももうだめだね。
――ポタ。
だめだね……。ほんとに……。
――ポタ、ポタポタ。
水滴はとめどなく零れる。
わかってる。もうだめだ。自分を騙しきれない。
お料理してたら気が紛れるかなって、心のどこかで思ってた。それか、楽しい晩御飯の時間になれば一瞬でも忘れられるかも知れないって。
でもだめだ。何を見ても、あの子のことを思い出してしまう。あの子との楽しい思い出を。あの子の哀しい結末を。
「うぅう、はぅぅ……、う、、う、ぅぅ」
涙で目が見えない。どうしよう。これじゃあ大根が切れないよ。
だめだ。泣いちゃだめなんだ。お母さんに、みんなに心配かけたくない。でも……。
「ううぅ、あ、あぁ……、うぅひっ、うぅ」
止まらない。どうしても止まらない。
心配をされてないかが心配で、わたしは泣きながら後ろを見た。
お母さんはこちらに背を向けて、テレビを見ていた。布団の上にあぐらをかいた姿が、ずっと前に出ていったお父さんそっくりだった。
「お姉ちゃん、大丈夫……?」
下から声がした。きららだ。わたしは涙を袖口で拭って、笑おうとした。でも多分失敗した。
「だ、大丈夫だよ。ごめん、ね、心配かけて」
嗚咽混じりのわたしの言葉に、妹はふるふると首を振った。
「無理してご飯作らなくていいよ……? わたしも、がんばったら料理できるから……」
「ううん、本当に大丈夫だから」
「くるる」
急にお母さんに名前を呼ばれて、わたしは少し驚いた。
「な、なに?」
「学校、やめる?」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
お母さんはテレビのほうに目を向けたまま、言う。
「別に心配しなくても、くるるが中退したぐらいじゃ私はちっとも心配しないから」
なんでわたしが、学校やめたがってるって思うんだろう。お母さんには、イジメのことなんて少しも話してないのに。
もしかして、バレてた? イジメのことも、わたしが今泣いてることも、今日辛いことがあったことも。それなのに、気を遣う言葉なんて少しもかけてくれなくて、まるで知らない振りして……。
「………………ふふっ」
思わず笑いが漏れた。
気を遣う言葉なんて少しもかけてくれなくて、まるで知らない振りして、それでも、心の中ではすっごい心配してくれてたんだ。そうじゃないと、このタイミングでこんな風に言ってくれるはずがない。
お母さんの言うことは、嘘ばっかりだ。心配しない、だなんて。今だってすごい心配してくれてる癖に。
でも……。
「ううん。わたし、学校に行く」
そこで初めて、お母さんがこっちを見た。わたしの言葉に、少し驚いてるみたいだった。
「どうして? 言っておくけど、学校なんてそこまで無理して行くほどのものじゃないわよ。中退じゃ進路が心配だって言うなら別に……」
「ううん、そうじゃないの。無理なんてしてない」
わたしの心の中には、可愛い子猫ちゃんの顔が浮かんでいた。その顔を思い浮かべると、涙が出そうになる。
でも、子猫ちゃんが目の前にいる時、わたしの隣にはいつも……。
「わたしね、好きな人ができたの」
いつもあの人がいた。優しくて、勇敢で、ヒーローみたいで、でもちょっとエッチなあの人が。
「その人と一緒にいると、すごく楽しいんだ。すごくわくわくする。前までは学校に行くのが辛かったけど、あの人に会ってからは、あの人に会えるんだって思うと、辛いことも全部吹き飛ぶの。あの人がいるなら、わたしは学校に行ける。ううん、あの人のいる学校に、わたしは行きたいの。だから、ちっとも無理してない。わたしは自分の意思で、明日学校に行く」
「……そう」
お母さんは、またテレビのほうに目を戻した。
「やるな、姉ちゃん」
「きゅー……」
弟のからかいの声と、妹の恥ずかしそうな鳴き声(?)が聞こえた。なんかわたし、家族の前ですごいこと言っちゃったような気がする……。
「ま、それならいいわ。頑張りなさい。頑張りすぎない程度に」
「うん。ありがとう、お母さん」
「どういたしまして。それより……」
「なに?」
お母さんは横目でこっちを見ると、すっとわたしの後ろを指差した。
「魚……、焦げてない?」
「え……きゃああああ!」
急いでグリルを開けて中から出てきたのは、さっきまで干物だった、今ではただの黒い炭。
「うわ、くっせー」
「…………」
かるたの無邪気な言葉と、きららの責めるような視線が、心に痛かった。
* *
次の日の朝、六時三十分。我が家の静かな朝が始まる。
今日の髪型は、ちょっと手間をかけて編み込みにしてみた。話題に上ったことはないけど、先輩がわたしの髪型をどう思ってるのかはいつも気になる。
二人分のお弁当を作って、片方をピンクの包みに、もう片方はちょっと渋めの紺色の包みにする。このお弁当も、包みも、お父さんが昔使ってたものだ。捨てようとしないところを見ると、ひょっとしたらお母さんはまだ未練があるのかもしれない。それともただ貧乏性なだけ?
「……行ってきます」
「あ、きらら。かるた、起こしていってくれない?」
先輩には、三人分が四人分になっても大して変わらないから平気、なんて言ってあるけど、実は下の二人は小学生で、給食だ。先輩に少しでも罪悪感を与えない為の、わたしの些細な嘘。
「……だって、起こすと蹴るんだもん」
ちょっと泣きそうになっているきらら。これで小学六年生なんだから、ちょっと信じられない。学校で大丈夫なのかと心配になる。
あれ? でも他人事じゃないのかな? わたしも学校じゃこんな感じだったっけ?
「じゃあいいや。わたしが起こしとく。行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
ぺこりと腰を折ってお辞儀をするわたしときらら。母親のしつけの賜物だ。
きららを見送った後、わたしはかるたを起こしに居間へ行った。ほんの五歩も歩くだけで布団の横に着くんだから、狭い家も悪くないと思う。
「かーるーたー、起きてー! 朝だよー!」
「むぅー……、あと五分……」
「じゃあ、五分だけね」
「そこで納得しちゃだめじゃないの?」
「あ、お母さん。起きてたの?」
「うるさくて目が覚めたの。それより、もっと激しく起こしなさい。布団引っぺがすくらいで」
「え、でも……」
「いいから」
強く言われて、わたしは渋々……、
「かるたー! 起きてー!」
「どぅわあぁ!!」
布団を引っぺがした……はずが、間違えて敷布団を捲り上げてしまい、転がったかるたが家の壁に頭をぶつける。ごん、と結構大きい音がした。
「ああ! 壁にへこみが! この家は賃貸なのに!」
「いや心配するのはそっちじゃないだろ!」
「あ、かるた。おはよう」
「おはよう、姉ちゃん……じゃなくて!」
「早く準備しないと、遅刻するよ」
「え、あ! もうこんな時間! やっべ!」
七時五十分。我が家の慌ただしい朝が始まった。
出会った次の日は、なぜかわたしも先輩もかなり早い時間に登校したけれど、よくよく話し合ってみたら、普段の先輩は、結構ギリギリの時間に登校しているらしい。
そのことがわかってからは、集合時間を一気に遅らせることにした。子猫ちゃんにご飯をあげる時間を入れて、ちょうどチャイムと一緒に教室に入れるぐらいの時間。少しでも学校にいる時間を減らしたいわたしとしては、すごく助かる。
でも今日は、その時間になっても先輩は来なかった。子猫ちゃんのご飯の時間だけ余裕があったから、しばらく待ってみたけど、それでも先輩は来なかった。仕方なく、わたしは学校へ向かう。
やっぱり、昨日のことを気にしてるのかな……。先輩は優しいから、その分余計に傷ついてるのかも。だとしたら、わたしが支えてあげないと。恩人だもの。
そんな風に意気込んでみたけれど、先輩のいない登校時間は寂しくて、支えられてるのはわたしのほうなんだなあって実感した。
今日もイジメはいつも通りだった。最近は物が失くなったりするのは減ってきたけど、その分あからさまに無視されるようになってきた。
無視しないのは、長崎さんたち三人だけ。そのことが、すごく嬉しかった。
「くるくるー、りんごジュース買ってきて。はい、お金」
「あ、アタシも。紅茶。ミルクの入ったやつ」
「じゃあわたしはぁ、ブラックコーヒーお願ぃね、くるちゃん」
「わかりました!」
三人分のお金を受け取って、校内の自販機へと走るわたし。パシリにされて嬉しいって、なんか変かな?
そんなこんなでいつも通りの一日が終わって、わたしは家に帰った。小熊先輩のことが心配だったけど、家の場所を知らないからお見舞いにも行けない。
携帯に電話することも考えたけど、なんだかいつ掛けても相手の迷惑になるような気がして、踏ん切りがつかなかった。明日も来なかったら今度こそ電話してみようって心に決めて、その日は眠った。
* *
翌朝、T字路にわたしが行った時には、もうそこに先輩はいた。
「せーん……っ」
明るく挨拶しようとしたわたしの手が、止まる。
わたしはぞっとした。
だって先輩の顔が、見る影もないほどにやつれていたから。頬が窪んで、目の下には青黒いクマができていた。表情もぼーっとしていて、どこを見ているのかわからない。
「先……輩……?」
わたしは近くに寄って、おそるおそる声をかけた。大きい声を出したら、それだけで倒れてしまいそうな気がした。
先輩の目の焦点がわたしに合うのに、一呼吸できるぐらいの時間がかかった。
「あ……、くるるちゃん、おはよう」
「先輩、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だよ。ごめんね、昨日は連絡も入れずに休んだりして」
「いえ……」
「さ、行こっか」
先輩がふらふらと歩き出して、わたしはそれについていく。先輩の元気がないだけで、いつもと同じ朝の街が、いつもより暗いように感じられる。
「先輩、やつれてますよ。本当に大丈夫ですか?」
「うん、猫のことがショックでさ。それで昨日も休んだ」
本当にそれだけ……? なんだかもっと他に理由があるような気がした。
でも訊き直すのもはばかられて、結局それ以上一言も口を利くことなく、わたしたちは学校に向かった。
「おっさん!」
校門をくぐるなり、男の人の声が聞こえた。その後、ピアスをつけた不良っぽい人がわたしたちのほうに走ってくることに気がついて、わたしはとっさに顔を隠す。わたしと小熊先輩の仲がいいってことが噂になったら、先輩までイジメられてしまうから。
でもその人は、まるでわたしのことなんか見えてないみたいに、小熊先輩につかみかかるようにしながら怒鳴りつけた。
「お前!」「わかってるよ、光輝」
その声を、小熊先輩が遮った。
「光輝は頭がいいからさ、真っ先に感づくと思ってた」
先輩が、わたしのほうを見る。
「くるるちゃん、先に行ってくれる?」
「は、はい」
そう答えるしかなかった。
一人で下駄箱へ向かうわたしの耳に、ピアスの人の『お前昨日……』という声が聞こえたけど、それ以上は距離が離れてしまってよく聞き取れなかった。
異変に気付いたのは、その直後。下駄箱の前を通った時だった。
「……あれ?」
上履きは鞄に入れて持ってきてるけど、なんとなく見るようにしている自分の下駄箱。その下駄箱に、何かが入っていた。
最初は新しい嫌がらせかと思ったけど、よく近づいてみるとそうじゃなかった。
「手紙……?」
そう、手紙。それもぱっと見はラブレターみたいだった。それが何通も。嫌がらせにしても、その目的がわからない。中を開けたら虫の死骸でも入ってるのかもしれないけど、それならこの前みたいに机の中に入れられるような気がする。
「なんだろ?」
とりあえず鞄の中に入れて、教室に向かった。
教室に入ると、またおかしなことが起こった。
「おはよう、月城さん」
「え……? え……?」
挨拶、された。
嬉しいよりも、戸惑いが先にあった。だって挨拶してきたのは、昨日までいくら声をかけても視線すら寄越してくれなかった、佐伯くんだったから。
「お、おはよう……」
それでもなんとか挨拶を返してから、わたしは教室を見渡した。
やっぱりおかしい。昨日まで無視してた人たちが、チラチラとこっちを見ていた。それも見下すような視線とかじゃなくて、どこか好意の感じられる視線だった。
でもその理由を誰かに質す間もなく、チャイムが鳴って先生がやってきた。
下駄箱に入っていた手紙は全部、正真正銘のラブレターだった。中にはちょっと気持ち悪いのもあったけど、常識の範疇だった。
嫌がらせは一気に減った。たまに女の子がわざと肩をぶつけてきたりすることはあったけど、その時は、近くにいた男の子が助けてくれたりもした。
話しかけても無視されない。机に落書きされないし、変な物を入れられたりもしない。水をかけられない。体操服がなくならない。黒板の前に出てもクスクス笑いが聞こえない。
まるで夢の中にいるみたいだった。でも夢じゃなかった。
どうして急にイジメがなくなったのか。気になって同じクラスの何人かの人に訊いてみたりもした。だけど知ってそうな人たちは言葉を濁すだけで、はっきりとは答えてくれなかった。
こんな学校生活を望んでた。不満はない。不満はないけど、不安が募っていく。
何か理由があるはず。その理由を突き止めるまでは、わたしは安心できないような気がした。
クラスメイトに訊いても、何も教えてくれない。でもわたしには、心当たりがあった。わたしの身の回りに起きたことの全てを知っていそうな人。その心当たりが。
* *
「す、すみません。小熊先輩、呼んでもらえますか?」
「小熊?」
昼休み。わたしは小熊先輩のクラスへ来ていた。学年が一つ上のクラスへ来るのは怖かったけど、今だけは勇気を振り絞った。
わたしが声をかけた優しそうな先輩が、教室の中に声をかけた。それに応えて、小熊先輩がこっちへとやってくる。
小熊先輩は、今朝にも増してやつれているように見えた。
今朝会った時は、やつれていても笑顔を見せてくれていた。でも今は、まるで戦争に行く前の兵隊のような、覚悟したみたいな顔だった。
「こんにちは、くるるちゃん」
「あ、あの、先輩……」
「訊きたいことがある、でしょ?」
まるでわたしの心を見透かしたような小熊先輩の言葉に、わたしは頷いた。
「はい、そうです」
「屋上に行こうか」
先輩に促されて、わたしたちは屋上へ行った。先輩の足取りは、今朝と違ってふらついたりなんかしていなかった。
屋上に着いた。
先輩はフェンスの前まで行くと、そこで振り向いてわたしを見た。その目はわたしを見ているようでいて、わたし以外の何かを見ているような気もした。
「それで、」
先輩は、フェンスにもたれながら言った。古びたフェンスが、軋んだ音を立てる。
「訊きたいことは、イジメがなくなった理由かな?」
わたしの目の前にいるのは、本当に小熊先輩? 小熊先輩は、こんなキザなしゃべり方をする人だったっけ?
「どうなの?」
押して訊かれて、わたしはハッと気がついた。そうだ、わたしが呼び出したんだから、わたしが話さなくちゃ。
「はい、そうです。わたし……」
そこでわたしは、もう一つ気がついた。今のわたしが訊きたいのは、本当にイジメのこと?
…………ううん、違う。
「いいえ、違います」
先輩が驚いた顔を見せた。でもわたし自身も驚いていた。学校にいる時のわたしが、まさかこんな強気な態度に出るなんて。
そうだ。これも、小熊先輩のおかげだった。小熊先輩と一緒にいると、わたしは強くなれるんだ。小熊先輩の傍に居ると、勇気が湧いてくるんだ。
「確かにさっきまでは、そのことを訊こうと思ってました。でも今、先輩と会って、質問が変わりました」
わたしはまっすぐに、臆せずに先輩の顔を見る。強い意思を込めて。先輩に強くしてもらったわたしを、誰よりも先輩自身に見て欲しくって。
「どうして先輩は、そんなに辛そうにしてるんですか? どうしてそのことをわたしに話してくれないんですか? わたしはそんなに頼りないんですか?」
最後は、少しだけ涙声になった。でも気合いを入れて、涙を引っ込める。今だけは、泣かない。
「くるるちゃんは……優しいね」
先輩は初めて会った時と同じ口調で、その言葉を言った。でもそこに込められた意味は、あの時と大分違っているような気がした。
「わかったよ、くるるちゃんの思いは。でも、その質問に答えるにしてもイジメのことは話さないといけないから……。先にそっちから話してもいいかな?」
わたしは、首で肯定した。それを受けて、先輩がゆっくりと語り出す。
「くるるちゃんは、椚山シスターズ研究会って知ってるかな?」
「………………え?」
疑問の声を出したわたしに、先輩は笑いかけた。
「ああ、ごめん。知ってるわけないよね。逆に知ってたらおかしいし。椚山シスターズ研究会、略してシス研。これはね、この椚山高校の女の子たちの可愛さ、美しさ、素晴らしさを語り合い、研究する為に作られたサイトの名前だよ」
「そのサイトが……どうかしたんですか?」
ちっとも話が見えてこない。そのエッチなサイトが、イジメとどう関係してくるの?
「単なるサイトと侮るなかれ。このサイトには、この椚山高校の男子の約八割が入会していると噂されている」
大仰な口ぶりとは裏腹に、先輩は全く身体を動かしていない。フェンスにもたれかかったままだ。
「一部の人間の間では、そのサイトが有する権力はこの学校の番長すら凌駕するのではないかと言われるほどだ」
「ですから、それがなんなんですか?」
どうしたんだろう、小熊先輩は。頭がおかしくなっちゃったのかな。
「昨日の夜、そのサイトのトップ記事に、くるるちゃんが載った。大量の写真と共にね」
「え……。わたし……?」
そう君だ、と先輩が頷く。
「補足しておくと、シス研のトップ記事が更新されるのは通常なら週に一度。毎週土曜日の夜だ。更にその内容は、事前に何人かの主要メンバーで話し合い、厳正且つ公平に決められる。言うまでもなく、昨日は月曜日で、更新がされる予定はなかった。しかもくるるちゃんの内容に偏った記事が、主幹者会議で通るはずがない」
「ええっと……それってつまり……」
だんだん話についていけない。
「つまり、シス研の管理者権限を持った者、シス研会長一人の暴走だってことだよ」
「暴走? どうしてそんなこと……」
「さあ、どうしてだと思う?」
先輩のらしくない問い掛けに、わたしは必死になって考えた。
ええっと、トップ記事にわたしが載って、それをしたのは会長さんで、それでそれは悪いことで、そこまでしてわたしを載せたかった理由は……。
「まさか……イジメを止める為、ですか?」
「その通り」
先輩がニヤリと笑う。
「くるるちゃんのトップ記事は、日頃のトップ記事なんて比べものにならないほどに作り込まれたものだった。無理に押し付けようとせず、それでいて心から離れないように細部まで気を遣って作り上げた。シス研会長としての今までの経験を十全に活かしたその記事は、椚山高校生男子の幅広い趣味嗜好を超越して、完全に全員の心を掴んだ。今月の椚山クイーンは、もうくるるちゃんで間違いない。もちろん、暴走した会長は糾弾されるだろう。どころか、会の存続自体が危うい。だけどそれとくるるちゃんは関係ない。くるるちゃんの人気には、全く支障がない」
自分に酔っているみたいに話し続ける先輩。だけどわたしは、一つの単語が気にかかった。
「『作り上げた』……?」
「おっと、口がすべったね。その通り、シス研会長は、僕だ」
あっさりと告げられたその事実に、わたしは混乱する。先輩を信じようとするわたしと、この先の真相を予想してしまったわたしが、わたしの心の中で攻めぎ合っていた。
信じようとするわたしが、言う。
「そ、それじゃあ、先輩がわたしを助けてくれたんですよね? 自分の地位を棒に振るってまで、わたしのイジメをなくしてくれたんですよね?」
「当たり前だよ。僕以外に誰がいる? くるるちゃんのことを大事に想っていて、くるるちゃんのことを知り尽くしている人間が……そう!」
そこで初めて先輩が、フェンスから背中を離した。
「僕ほどくるるちゃんのことを知り尽くしている人間は、この私立椚山高校にはいない」
「え……? で、でもわたしたちまだ会ってからそんなに……」
もう自分が、どっちの自分だかわからなかい。先輩を信じている自分か、疑っている自分か。ごちゃごちゃで、何もわからない。
「違う。会ったのは確かについ最近だけど、僕はそのずっと前から、くるるちゃんのことを知っていた」
先輩がわたしを見た。その深い闇のような瞳で。
「なぜなら、僕はストーカーだから」
ストーカー。
「それもそんじょそこらのストーカーとはワケが違う。この年にしてストーカー歴十年。筋金入りのストーカーと言っていい」
ストーカーストーカーストーカー。
「僕は誇り高きストーカーだ。女の子を愛し、女の子を見守り続けることを自分の使命と信じて疑わない。紛うことなきストーカーだ」
ストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカー。
「なぜ僕がストーカーになったのか、かい? そんな質問には全く意味がないよ。僕は僕だからストーカーなのであって、その背景にもっともらしい理由や、お涙頂戴のエピソードがあるわけじゃない」
ストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカーストーカー。
「僕がくるるちゃんの名前を知っていたのも、家を知っていたのも、そしてサイトに掲載した数多くの写真を持っていたのも、全てはそう! 僕が……」
ストーカーだからだ。
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「わかったかい? くるるちゃん」
かろうじて繋ぎとめていた意識の中でわたしは、先輩がこっちに歩いてくるのを見た。でもその姿は、もう小熊先輩じゃなかった。
ストーカー。
数年前に襲われた時のストーカーの姿が、小熊先輩に重なる。そしてわたしは、そのストーカーがわたしのところまで来た時に何が起こるのかを知っている。
あの時のわたしは、警戒なんて全然してなかった。ただ何事もなく、通り過ぎようとした。だけどすれ違う瞬間、その人の服からガムテープが出てきて、それでわたしは声を上げることもできずに……。
「いやああああああああ!!」
逃げた。今のわたしは一目散に逃げた。ストーカーのいる屋上から。振り返ることもせずに。無我夢中だった。
とりあえず教室まで逃げて、席に座り、息を整える。
「は、は、はぁ、はあ、……」
「大丈夫?」
クラスの男の子が声をかけてきた。
そう、クラスの男の子。名前は佐伯くん……。頭ではそれとわかるのに、目が、耳が、ストーカーの顔を、ストーカーの声を、見て、聞いて……。
「本当に大丈夫? 顔色が「あああ! あ! あぁあぎやあああ!!」
幻想からの逃げ場はなかった。教室から飛び出したわたしは、しばらくトイレにこもって、それからひっそりと家に帰った。
* *
…………。
わたし、なにしてるんだったっけ……?
ここは……、いつも通る通学路?
そっか。家に帰ろうとしてたんだ。
そうだ、思い出した。友達と遊ぶ約束してたんだ。早く帰らなきゃ。
わたしは走る。細くて、薄暗い路地を走る。走る。走る。
…………。
……あれ?
わたし、なんで走ってるんだったっけ……?
お母さんには、この道は危ないから走っちゃダメって言われてるのに。
そっか。人がいないからだ。だから走ってるんだ。人がいなかったらぶつかることなんてないから。
わたしは走る。細くて、薄暗い路地を走る。走る。走……。
あ。
人だ。
歩かないと。
わたしは歩く。
走りたい。早く行かないと、友達を待たせちゃう。
あのお兄さんとすれ違ったら、すぐに走ろう。それで家に帰って服着替えて……。
それにしても、変なお兄さん。なんかわたしのほう、じろじろ見てるみたい。
怖いなあ。
わたしは小走りで、お兄さんの横を通り過ぎる。
腕をつかまれた。
あれ? わたし、なにか悪いことしたかな?
口になにか貼られた。これは……ガムテープ?
これって……。
痴漢?
やだ、逃げないと。
手を振り払おうとしたけど、その手はわたしから離れない。食い込むぐらい強く握られた腕が痛くて、涙が出る。
羽交い絞めにされて、腕と足を縛られた。それからその人の肩に載せられて、運ばれる。
なに? これ。ほんとに痴漢? それとも誘拐? 冗談とかじゃなくて?
そうだよ、冗談だよ。この人はきっと友達のお兄さんか何かで、これから友達の家に連れてかれて、『びっくりした?』とか言われるんだ。
でも、腕が痛い。
わたし、これからどうなるの?
もう家に帰れないの?
お願い助けて、お父さん、お母さん……!
すぐそこにあったアパートに連れて行かれたわたしは、肩に担がれたまま、その中の部屋に入った。部屋の中は薄暗かった。雨の日の洗濯物みたいな、嫌な匂いがした。
汚れた布団の上に丁寧に置かれたわたしは、男の人が玄関のほうに行ってる間に、部屋の中を見た。見てるうちに、この部屋がただの汚い部屋じゃないことがわかった。
ずっと前になくしたと思ってた、わたしの体操服があった。
友達と遊びに行った帰り道で、いけないと思いながら買って飲んだジュースの空き缶があった。
噛んだ後のガムが、包み紙と一緒に大事そうに置かれていた。
ふと頭の後ろの壁に、何かが貼られているのに気付いて、おそるおそる振り返った。そこには……、
学校のプールで、水着姿のわたし。
あられもないパジャマ姿のわたし。
地面から撮ったスカートのわたし。
そして……、トイレの……。
――ッ!!
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いいやだいやだいやだいやだいやだ助けて誰かお父さん誰かいやだ怖い怖い怖い誰か誰か誰か誰か誰かッ! いやだいやいやいやああアアーーッ!!
鍵のかかる音がした怖い玄関から男の人が歩いていやだ男の人怖いどこにでもいるような普通の人怖いなのに怖い怖い怖い怖い怖い怖い男の人の手が怖い服にかかってやめてゆっくりと怖いその手が怖いわたしの怖いやめてやめてやめていやいや助けていやだ あ、ああ、あ……
「いやあああああああ!!」
自分の悲鳴で目が覚めた。
すぐに周りを見回して、ここが自分の家ってことを確認する。
「…………。はあ……」
思わずため息が出た。全身が汗びっしょりだ。これは夏とか、冷房がついてないとかのせいで出た汗じゃないと思う。
「どうしたの……?」
お母さんが目を覚ました。すぐ隣で寝てるんだから当然かもしれない。むしろ、起きないかるたときららのほうがすごい。
「ううん、なんでもない。ちょっと怖い夢見ちゃって」
「……またあの夢?」
「うん……。そうだけど、本当に大丈夫だから」
「……ならいいけど」
そう言って、あっさり眠ってしまった。
わたしが大丈夫って言ったんだけど、それにしても図太いって言うか……。
薄情な母親にちょっと呆れつつ、わたしは台所に立って水を飲んだ。汗で張り付いた服が気持ち悪かったけど、わざわざ替えるのも面倒だから、そのまま横になって布団をかぶる。
あの悪夢の後、すぐに警察が駆け付けてくれて、大事には至らなかった。どうも近所の人で目撃者がいたらしい。
大事には至らなかったとは言え、わたしはしばらくあの悪夢にうなされることになった。それでも、ここ最近は見ることもなかったのに……。
この三日間は、ずっと見続けてる。しかも昨日なんて、ストーカーの顔が小熊先輩だった。
二日前……ううん、もう三日前か。三日前に先輩からあのことを告げられてから、わたしは先輩と顔を合わせていない。合わせようとすらしていない。
心のどこかでは、あれは先輩の嘘だというのを願ってる自分がいる。でも同じように心のどこかでは、あれは本当の話だってことを理解してる自分がいる。
実際、つじつまは合ってた。別の真相を考えようとしてみたけど、うまくいかなかった。
もし今の状態で先輩と顔を合わせたら、わたしはきっとまた逃げ出してしまうと思う。クラスメイトとは顔が合わせられるようになったけど、小熊先輩は、多分無理だ。
でも、小熊先輩と会いたい。会って、小熊先輩はやっぱり小熊先輩なんだって安心したい。
でも、あの人はストーカーなんだ。ストーカーなのにいい人の振りをして、わたしを騙してたんだ。
でも、助けてくれたのは小熊先輩で、そのおかげでわたしは今も学校に通えてて……。
でも結局、イジメがなくなったのも一時的だった。今じゃ女の子がわたしのことを嫌うようになって、陰からイジメてくるようになった。
わたし、なんで学校に通ってるんだろう。今は小熊先輩にも会えないし、女の子にイジメられるのに、どうして通ってるんだろう。前にお母さんが言ってたように、やめてしまってもいいような気がする。
でも、やめてしまったらもう先輩に会えない。もう仲直りもできない。
仲直りしたい? ストーカーと? いやだ、そんなの。
もう自分がどうしたいのか、小熊先輩とどうなりたいのか、わからなくなってきた……。
* *
朝。
待ち合わせの時間に待ち合わせのT字路に行っても、小熊先輩はいない。昨日も、一昨日もそうだった。それを確認する度にわたしは、寂しいような、それでいて少し安心したような気持ちになる。
会いたい。でも会うのが怖い。小熊先輩がここにいてくれたら、勇気が出るかもしれないのに……。
違う。小熊先輩のせいじゃない。わたしが臆病なのがいけないんだ。
自己嫌悪に陥りながら、今日もわたしは一人で学校に行く。
小熊先輩に会う決心も、学校をやめる決心もつかないままで。
学校に着いて、自分の教室に入った。誰も挨拶はしない。何人かの男の子がこっちを見たけど、わたしはその視線から逃げ出すように自分の席についた。
昨日までは、挨拶してくれる男の子もいた。でもその度に、わたしの中であの悪夢が蘇る。
男の子に話し掛けられるだけで、男の子とすれ違うだけで、ラブレターを見るだけで、あのストーカーの顔が頭をよぎる。叫んで逃げ出すことはもうなかったし、挨拶もちゃんと返したんだけど、それでもわたしが怖がってるのは伝わってしまったみたいで、今では男の子も遠巻きに見てくるだけになった。
そういえば、あの時もそうだったっけ。
ストーカーに襲われた時。わたしはしばらくの間、お父さんと顔を合わすことすらできなかった。男の人を見ただけで、反射的に逃げ出すようになってしまった。あの時に比べれば今はマシだけど、今はそれとは別のことも心にかかっていた。
みんな、わたしを見て何を考えてるんだろう。
わたしを見てるってことは、先輩の言ってたシス研っていうサイトを見たんだと思う。
先輩は、そこにたくさんのわたしの写真を載せたって言ってた。だけど先輩は、わたしの前でカメラを構えたことなんて一度もなかった。だったらその写真は、隠し撮りしかありえない。
あのストーカーが持ってたようなひどい写真は、まさか載せてないと思う。それぐらいは先輩のことを信じてる。
でもいやらしい写真がなかったとも思えない。男の子が興味のありそうな写真を、何枚も載せたんだと思う。それが学校中の男の子に見られたなんて……。
恥ずかしい。みんなどんな写真を見たんだろう。確認したいけど、わたしの携帯じゃ見られないし、誰かに借りて見る勇気もない。
その写真のおかげでイジメがなくなったんだけど、それでもやっぱり辛い。さすがにイジメられてる時のほうが良かった、なんてことはないけど、でもたまにそんな風に考えてしまう。
服を着替える時に、誰かが覗いてるんじゃないかって心配になる。
トイレに行くのが怖くて、暑いのに水を飲むのを我慢する。
そんな生活が、昨日、一昨日と続いていた。そして今日も、多分そうだと思う。
早く終われ、と思う。
こんな辛い日は早く終わってほしいと、心の底から思う。
辛い一日がなんとか終わって、下校時間になった。イジメがあった時なら、これから掃除をしないといけないんだけど、今は自分が当番の日だけでいい。佐伯くんなんて、『今まで押し付けてた分、代わりにやらせてほしい』って言ってきたけど、さすがに申し訳ないから丁寧に断った。
今日は当番じゃないから、わたしは鞄に教科書を入れて帰り支度をする。
「くるくるー」
そこへ、長崎さんがやってきた。今日授業以外で人に話し掛けられたのは、これが初めてだった。
「はい、なんですか?」
「だから言ってるでしょー? 敬語やめなって。私たちがイジメてるみたいじゃない」
「あ、ご、ごめんなさい!」
急いで謝った。
長崎さんの後ろには、井上さんと黒阪さんもいる。
「まー、いいけど。それよりくるくる、バレー部入んない?」
「ば、バレー部、ですか?」
「うん、そう。バレー部」
まさかの部活勧誘だった。
「で、でもわたし、背、低いし……」
わたしがそう言うと、井上さんが長崎さんを押しのけるようにして前に出てきた。
「だいじょぶだって! もしセぇ高くてもくるくるトロいから、どっちみち使えないって!」
フォローになってない……。
さらに黒阪さんが、にこやかな笑顔で付け足す。
「後片付けをがんばってくれればいぃんだよね」
「あんたらねー。んなこと言ったら入ってくんなくなるでしょーが」
呆れたように長崎さんが言った。それからわたしに向き直って、軽く笑う。
「ま、そーいうワケ。一年生が少ないから、別にバレーできなくてもいいの。くるくるが忙しくなければ、だけど」
「でも、わたし……」
「くるくるさ」
長崎さんの雰囲気が変わった。先週の休みの日に会った時みたいな、ちょっと尖ったような声で言う。
「最近元気ないでしょ、イジメひどかった時よりも。そういう時は、なんか気が紛れるようなことやったほうがいいよ。別にバレーじゃなくても、なんでもいいから」
「長崎さん……」
嬉しかった。思わず涙がこぼれそうだった。
長崎さんがわたしのことをそんなに気にかけてくれてるなんて……。この一言だけで、すごく元気になれた気がした。
「おーおー、うまいねぇカナ。そうやって落としたオトコは数知れずってヤツ?」
「かなちゃん、かっこいぃね」
「……っ」
あ、長崎さんの顔が固まった。こ、怖い……。
「あー、もう! あんたらのせいで台なしじゃない! やっぱ連れてくんじゃなかった!」
「キャーっ、カナが怒った。にげろー」
「私はかっこいぃって言っただけだよぅ」
逃げ出す二人と、それを追いかける長崎さん。
行っちゃった……。と、思ってたら、長崎さんが戻ってきて、扉から顔だけ出した。
「さっきの話、考えといてね。じゃ」
わたしが返事をするよりも早く、今度こそ長崎さんも行ってしまった。すごい、嵐みたいだ。三人とも、仲いいなあ。わたしもあんな風になりたいなあ。
羨ましく思いながら、わたしは鞄を持って、教室を出た。
教室を出たわたしは、小熊先輩に会いに行くかどうかで悩んだ。長崎さんに元気をもらったけど、まだ小熊先輩に会うほどの勇気は出ない。
「……どうしよう」
悩みながら歩く内に、校門まで来てしまった。
しょうがない。今日は帰ろう。
そんな風に問題を先伸ばしにして、わたしは家に帰ることにした。
「……。情けないなあ……」
自分自身にぼやきながら、それでも思い直すことはなく、校門に向かう。
「月城ォーっ!」
そこを呼び止められて、わたしは振り返った。聞き慣れないけど、どこかで聞いたような声。見てみると、走ってくるのはピアスをつけた不良みたいな人だった。
そうだ、思い出した。小熊先輩にストーカーのことを告白をされた日の朝、ちょうどこんな風に走ってきた人だ。
「ど、どうしたんですか?」
その人は相当慌てて走ってきたらしくて、かなり息が切れていた。その息を整えようともせずに、話し始める。
「ハ、ハ、つき、月城、ハァ、すぐに来い。小熊がやられてる」
「小熊先輩が……? やられてるって……?」
どういうこと? まさか……。
「三年が、倉庫裏で寄ってたかってリンチしてるんだ。報復だとか言ってな」
「そ、そんな……」
三年生と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、一週間前、河原で殴られそうになったことだ。確かあの時、あの三年生は助けてくれた小熊先輩に『これだけで済むと思うな』とか言ってたような気がする。
もしあの人だとしたら、原因はわたしだ。なんとかしなくちゃ。
「月城なら多分止められる。早く行ってやってくれ」
「はい!」
返事と共に、わたしは走り出した。
大変だ! 小熊先輩が、小熊先輩が、わたしのせいで……。
小熊、先輩……。
小熊先輩の顔が頭に浮かぶ。その顔と一緒に、屋上であの言葉が頭をよぎる。
――僕はストーカーだ。
「……」
「おい、どうした!」
「え、あ! すみません……」
いつの間にかわたしは足を止めていた。謝って走り出そうとしたけど、どうしても足が進まない。
「月城!」
「いえ、あの……」
どうしよう。助けてあげたい。でも……。
やっぱり……。
「……行きません」
「なにィ?」
ピアスの人が怒ってる。後ろにいるから見えないけど、声でわかる。怖かったけど、わたしはそれでも強く言い張った。
「わたし、あんなストーカーで変態な人を助ける筋合いなんてありません!」
ガ、と肩をつかまれた。グイ、と引っ張られて後ろを向かされた。そう気付いた時には、思いっきり後ろに吹き飛んでいた。
頬が熱い。殴られたんだってことが、しばらくしてからわかった。
「筋合いならあるだらあが。あいつがどんだけ必死になってお前を助けたと思ってんだ?」
「おいお前、何やってるんだ!」
たまたま通りかかった知らない男の人が、ピアスの人を咎めた。
「女の子を殴るなんて、なに考えてるんだ! しかもその子は、くるるちゃんじゃないか!」
「うるせえ。すっこんでろ」
「そうはいかな……」
「いいえ」
わたしは、わたしを助けてくれた人の声を遮った。ここでこの人に助けてもらったら、わたしの負けになる。
負けない。もう二度と、暴力なんかに負けてたまるか。
「ありがとうございます。でも、いいんです」
「いいって……」
「帰ってください。これは、わたしたちの問題です」
わたしの強気な口調を受けても、その人はまだ迷ってたみたいだけど、その内に渋々帰っていった。
それからわたしは、ピアスの人に向き直る。目の前に鬼みたいな怖い顔があって、助けを拒んでしまったことを後悔しそうになる。そんな弱気を振り払って、わたしは言った。
「さっき、小熊先輩がわたしを助けたって言いましたよね? でも、そっちは助けたつもりかもしれませんけど、わたしは全然助かってません」
そこまで言うと、もう止まらなかった。今まで抱えていた思いが、関を切ったように溢れ出る。
「イジメだってなくならないし、それに、変なサイトに変な写真をばらまかれて感謝する人なんて、いるわけないじゃないですか。もしイジメのことがなければ、警察に訴えてるところです。なんでこんなので感謝しないといけないんですか? わたしの為にしてくれたんだから、ストーカーも許さないといけないんですか? そんなの……、そんなの間違ってます!」
言葉にしてみて、初めてわかった。わたし、こんなに辛かったんだ。信頼してた小熊先輩に裏切られて、それで、全部が怖くなって。
もういやだ。恥ずかしい。消えてしまいたい。
これもみんな、先輩のせいだ。変態で、エッチで、いやらしい先輩が悪いんだ。
「お前の言ってる変な写真ってのは、これか?」
気がつくと、ピアスの人がわたしに携帯の画面を見せていた。
一番上に〈椚山シスターズ研究会〉のロゴ。そしてその下にあったのは……。
「え……?」
生まれてから一度も見たことのないような、とびっきりの笑顔を浮かべる自分がいた。いやらしいところなんて一つもない。それでいて、自分で見ても引き付けられるような笑顔。
思わず携帯を受け取って、画面をスクロールする。
何枚も自分の写真が出てきた。そのどれもが笑顔を浮かべていた。下着が見えそうになってる写真とか、水着姿の写真なんて、一つもなかった。あるのはただ、笑顔、笑顔、笑顔。
「そんな……」
信じられなかった。あの変態の先輩が、どうして……。
ピアスさんが、ふん、と鼻を鳴らした。
「俺自身、あいつがシス研会長だって知ったのはつい最近なんだよ。だけど多分そうだらあなっていう予想は前々からあった。会長とあいつは、主義が同じだったからな。『絶対に女の子を傷つけない』って主義が」
「女の子を……傷つけない……」
「そう。あいつは確かに変態でスケベでむっつりだけど、その欲望で人を傷つけることだけは絶対にない。女の子の笑顔が好きだって、真顔で言えるようなやつなんだ」
ピアスさんがわたしの手の中から携帯を取って、ポケットにしまった。
「あいつがストーカーだあ? だったらなんだってんだよ。それであいつがお前に迷惑かけたのか? かけてねえだら。その辺のストーカーと、あいつを一緒にするんじゃねえよ」
わたしがこの三日間悩み続けたことを、まるで些細なことのように言って退けるピアスさん。その言葉の一つ一つで、わたしの心が晴れていくのを感じた。
「あいつはあいつだ。肩書きに騙されるな。あいつが大統領になったって、悪の大王になったって、きっとあいつはお前の味方だ」
「わ……た、し……」
目頭が熱くなった。
わたし、今まで何を悩んでたんだろう。先輩に会って確かめたい、だなんて。
会わなくてもわかってたはずなのに。先輩が優しくて、どれだけ優しくて、どれだけわたしに尽くしてくれたか。
それをたった一度の、あの屋上での言葉だけで台なしにするなんて。まだ恩返しもしてないのに、わたしのほうから逃げ出すなんて。
「泣いてる暇はねえ。お前もあいつの味方なら、今すぐ倉庫裏に行ってやれ」
強引に向きを変えられて、ほら、と背中を叩かれた。
今度は足が動いた。足が自然と、小熊先輩のところへ向かっていく。一歩、二歩、三歩と。
わたしはそこで振り返って、大きな声で言った。
「あの、ありがとうございましたー!」
早く行け、と手を振ったピアスさんにわたしは笑いかけて、今度こそ小熊先輩のところへと走っていった。