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第三章 いつか訪れる別れの時

 「おはようございます、先輩」

 「おはよう、くるるちゃん」

 いつもと同じ待ち合わせ場所。いつもと同じ朝の挨拶。だけどいつもと違うことが一つある。服装だ。

 今日は、僕もくるるちゃんも私服だった。僕はTシャツにジーパン。くるるちゃんは、短いズボンに前開きのワンピースみたいな服を羽織って、ちょっとやんちゃな女の子って感じだった。その服装自体は可愛いんだけど、かぶった帽子に長い髪の毛を全部入れてしまってるのが、少し見栄えが悪くて残念だ。女の子のファッションセンスに口出しするのもどうかと思うから、なにも言わないけど。

 今日僕たちが私服なのは、今日が土曜日で学校は休みだからだ。

 休みの日に待ち合わせしている理由は、もちろんデート……とかだったら嬉しいんだけど、残念ながらそうじゃない。

 「猫の飼い主、見つかるといいね」

 「はい。がんばって探しましょう」

 そう、河原の猫を貰ってくれる人を見つける為だ。

 僕は、くるるちゃんと並んで歩きながら、昨日の朝の会話を思い返した。

 

         * *

 

 それは、朝いつものT字路で会ってから、猫のいる河原に着くまでの間の会話だった。

 「くるるちゃん、昨日の映画、観た?」

 「いえ、ごめんなさい。観てないです」

 「いや、謝らなくても……。そっかー、観てないか。すごく良かったんだけどな」

 「どんな映画だったんですか?」

 「アクション映画かな。女優の七峰美姫がすごく可愛かったんだ」

 「む。そうですか」

 そこで僕は、くるるちゃんが不満そうにしているのが分かった。これはマズイ、と慌ててフォローに入った、が、慌ててたのがいけなかった。

 「あ、いや、男優の乾琢磨も格好良かったよ」

 自分でもワケのわからないことを口走ってしまった。

 「そうですか」

 「いや、そうじゃなくて、あの……」

 案の定、くるるちゃんの不満は拭えない。余計に慌てる僕。そこにくるるちゃんが口を挟んだ。

 「わたしは……」

 「え?」

 「どんな男優よりも、小熊先輩のほうが格好いいと思います」

 「え? え? あ、ありがとう」

 なんで突然そんなことを言い出したのかわからなかったけど、とりあえずお礼を言った。そこへくるるちゃんが、責めるように言い立ててくる。

 「先輩は?」

 「え?」

 「先輩はどうですか?」

 ここへ来て、ようやく合点がいった。なるほど、そういうことか。それならここで僕が言うべき一言は決まってる。

 「あ、僕も、どんな男優よりも僕のほうが格好いいと思う」

 「そうじゃなくて!」

 「うん、ごめん、冗談。僕も、どんな女優よりくるるちゃんのほうが可愛いよ」

 「そうですか」

 くるるちゃんはそれだけ言うと、顔を背けて先に歩いていってしまった。ちょっと素っ気ないような仕草だけど、僕にはわかる。あれは照れ隠しだ。

 「くるるちゃん、嬉しい?」

 なんかその仕草があまりにも可愛かったので、おちょくってみた。ここで、「べ、別に嬉しくなんかないです!」的なのを僕は期待してたんだけど……、

 「嬉しいに決まってます。半分無理矢理に言わせたとは言え、憧れの先輩にそんな風に言ってもらえたんですから」

 「…………」

 くるるちゃんにツンデレ属性はなかったらしい。ここまでまっすぐに感情表現されると、訊いたほうまで照れてしまう。

 「もう、言わせないでくださいよ……」

 「ご、ごめん」

 「もう……」

 二人して気まずくなる。その空気を吹き飛ばす為、僕は無理矢理に話題を切り替えた。

 「そ、そうだくるるちゃん。明日、猫の飼い主を探しに行かない? いつまでも捨て猫のままじゃかわいそうだし」

 「あ、そうですね。行きましょう行きましょう」

 こうして、二人の約束は取り付けられた。

 

         * *

 

 にしても、こういう会話を思い返してみるに、くるるちゃんの僕に対する好感度はかなり高くなってるみたいだ。出会ってからたったの三日で、ここまで好かれるとは思わなかった。出会った当初から高かった気もしないでもないけど。

 あー、まずいな。これはもう好かれない努力だけじゃなくて、嫌われる努力をした方がいいかもしれない。よし、早速やってみよう。

 「今日も暑くなりそうだね、くるるちゃん」

 「そうですね」

 「こういう日は女の子が薄着になるから、僕としては大歓迎なんだけどね」(←本音)

 「そ、そうですか」

 お、ちょっと引いてる。エロい会話で嫌われる作戦、大成功だ。よし、もう一押し。

 「汗で服が透けてくれたら、もう何も言うことはない」

 「えーっと……」

 「ただ単に下着が見えたらいいってわけじゃないんだ。透けるっていう、この見えるか見えないかの瀬戸際がいいんだよ。本来なら清楚な印象を与える白ブラウスが、その時だけ蠱惑的でエロティックな衣服に変化する。そのギャップが更に萌えるんだ。そう、ギャップ萌えっていうのは服装にだって存在する。深窓の令嬢が、実は黒い下着を身につけていたとかいうのもイイよね。その子がどんな思いでその下着を選んだのかとか考えると、妄想は無限大に拡がるんだ。ただここで間違って欲しくないのは、全部が全部予想を裏切れば良いわけじゃないってことだよ。期待通り、イメージ通りも、決して悪くない。お嬢様が純白の下着を身につけていても、それはそれで萌えるってことだよ。つまりはシチュエーションと、見る人間の好みだ。モコモコパンツに萌えるって人もいるかもしれないし、実際僕も、モコモコパンツは世間で言われるほど悪くないと思っているからね。なぜならモコモコパンツを穿くということは、つまりそれだけ純真無垢ってことだ。いや何も僕はモコモコパンツが世界で一番好きだと言っているんじゃない。捉え方一つで萌えることができるという例を出したまでだ。僕の好みとしては、それはもちろんモコモコパンツよりも柔らかなシルクで出来た下着とかの方が好きだ。その辺はノーマルだから、安心して欲しい」

 「全然安心できないです」

 「……………………………………………………ハッ!」

 しまった!

 一押しのはずが十押しぐらいしてしまった! くるるちゃんがドン引きを超えて無表情になってる。これは嫌われるどころじゃ済まないんじゃ……。

 「やっぱり、先輩もそういうことを考えるんですね」

 「いやいや! さっきのは冗談だよ」

 「冗談には聞こえなかったです」

 「いや、その……」

 言葉に詰まる僕に、くるるちゃんは慈悲深い天使の微笑みを向けてきた。

 「大丈夫です。わたしは先輩が思ってるほど純真無垢じゃないですから。年頃の男の子が日がな一日いやらしいことを考えてるっていうのも、ちゃんとわかってます」

 「さすがにその決め付けは、世界中の男の子に失礼なんじゃないかな」

 「そうなんですか? でもすみちゃんが……あ、いえ、友達がそう言ってたんですけど」

 「友達の言うことをそのまま鵜呑みにしてしまう辺りが、純真無垢だと思う」

 菫ちゃん、くるるちゃんに何てことを吹き込むんだ。

 「む。わたしの友達は、嘘つくような人じゃないです」

 「そのすみちゃん自身が、間違った知識を持ってたのかもしれないよ?」

 もしくは、嘘も方便ってやつかも。無垢なくるるちゃんが悪い男に騙されないようにね。

 「でも、実際に先輩はエッチなことばかり考えてるみたいです。これは男の子がエッチなことばかり考えてるってことになりますよね?」

 「僕を全国高校生男子代表みたいに言われても困るけど」

 「それじゃあ先輩は、普通の男の子よりもエッチなんですか?」

 「うーん……」

 実はその通りなんだけど、できれば認めたくない。悩んだ末に僕は……。

 「うん、やっぱり、その子の言う通りだよ。世界中の男の子は、二四時間三六五日いやらしいことを考えてるんだ」

 名誉の為に世界中の男の子を犠牲にした。世界中の男の子、ごめんなさい。

 「ほら、やっぱりすみちゃんが合ってたんだ」と言いながら、嬉しそうに先を歩くくるるちゃん。

 くるるちゃんの間違った知識を正すどころか、助長させてしまった。これでいいんだろうか。もしかしてくるるちゃんは、無知故にイジメられてるんじゃないだろうか。イジメをなくす為にも、くるるちゃんに正しい知識を教えてあげたほうが……。

 いや、でもこの天然なところは、くるるちゃんの萌えポイントなんだ。ここを矯正してしまったら、くるるちゃんがくるるちゃんじゃなくなる。

 自分を納得させている内に、くるるちゃんが先に行ってしまっていた。見通しのいい土手の上のこと。見失ったりはしないけど、せっかく一緒にいるのに、距離が離れてしまうのは寂しい。急いで追いかけた。

 でも追いかけるまでもなく、くるるちゃんが立ち止まった。と思ったら今度は、土手から降りて、河原の草むらへと分け入っていく。

 そうだ。子猫がいるのは、この辺りだったっけ。この三日いつも来てる場所なのに、未だに覚えられない。だってここの土手を歩いてると、ずっと同じ場所を歩いてるみたいになってくるんだもん。

 くるるちゃんの後を追って草むらに入ると、段ボールの中に入った猫を撫でている姿が目に入った。この猫、どういうわけか、自分から段ボールの外に出ようとはしない。いつも寝ているか、段ボールの中でおとなしくしている。人に飼われてた名残か、それともまだ小さいからか。

 「あ、ごめんなさい先輩。先に行ってしまって」

 「別にいいよ」

 僕は、くるるちゃんの手に甘えるようにしてじゃれつく猫を見た。その毛の色は、外側は少し黄ばんだ白だけど、よく内側の毛を見ると、同じ白でも目の冴える雪のような白だ。

 「ねえ、提案なんだけど。引き取ってくれる人を探しにいく前に、その猫きれいにしてあげた方がいいんじゃないかな」

 「あ、そうですね。きれいなほうが、貰う人も嬉しいですもんね」

 ちょうどすぐ近くに川があるので、そこで洗うことにした。

 「どうしましょう。わたし、タオルとか持ってないんですけど」

 「夏だし、動物だから、濡れたままでも風邪とかはひかないと思うよ?」

 「ふふっ、猫にキュウリを食べさせようとする人が言っても、ぜんぜん説得力ないです」

 「ぐっ……」

 くるるちゃんが笑顔で辛辣だ。顔と台詞が合ってない。やっぱりさっきのエロ話で嫌われたんだろうか。

 精神的ダメージに苦しむ僕を余所に、くるるちゃんは「ふむ」と頷いた。

 「でも確かに、大丈夫かも知れません。今から家までタオルを取りに行く時間も惜しいですし、洗うだけ洗ってしまいましょう。昨日の時点で気付いてたら良かったんですけどね」

 「ごめんよ……。どうせ今日になってから気付いた僕が悪かったんだよ。だからそんな風に言わないでくれよ……」

 「あ、ご、ごめんなさいっ。決してそんなつもりで言ったわけじゃ……。それに、わたしも気付かなかったんですしっ」

 おや? 慌ててる様子を見ると、今度の毒舌はどうもわざとじゃなかったらしい。わざとじゃない毒舌で相手が凹むとこうなるのか。

 ……なんか面白くなってきた。

 「ああ、僕はもう駄目だ。くるるちゃんにそこまで言われたら……。もう死にたくなってきた」

 「ええっ! そ、そんなにですか。ご、ごめんなさい。本当にごめんなさいっ」

 「お、ちょうどいい所に川がある。よし、ここで凍死しよう」

 「だ、だ、だめですぅー!!」

 ふらふらと川に歩いていく僕を、くるるちゃんが必死で抱き留める。と。

 ふに、と背中にやわらかい感触がした。その瞬間、僕の身体に電撃が走る。これは……!

 「先輩が死んでしまったらわたしはどうしたらいいんですかっ。絶対に死なせません! どうしてもというなら、わたしを倒してからにして下さい!」

 どこの正義の味方だ。と、普段の僕ならツッコんでいるところだろうけど、今はそれどころじゃなかった。

 む、胸が……。

 くるるちゃんの胸が僕の背中に当たってる。当たってるどころか、ぐいぐい押し付けられてる感じだ(くるるちゃん自身は引き止めてるつもりなんだろうけど)。くるるちゃんはペッタンコだと思ってたのに、この感触からすると皆無ってわけじゃなかったらしい。

 ヤバい、川よりもこっちのほうが死にそう。

 胸だけじゃなくて、腕とか、足とか、全身が密着してる。背中全体からくるるちゃんのふわふわした体温が伝わってきて、それが僕の全身を駆け巡る。思わず身震いしてしまいそうになる。

 理性が『今すぐ離れてもらうべきだ』と主張する。本能が『もうしばらくこうしていたい』と駄々をこねる。

 「せんぱい……?」

 動きを止めた僕を不思議に思ったのか、くるるちゃんの力が緩んだ。

 僕はカラクリ人形のようにギ、ギ、ギと首を動かして、くるるちゃんのほうを見た。

 ――ッ! 近っ!

 少し垂れ目で、だけどパッチリしたくるるちゃんの目がすぐ近くにあった。潤んだ瞳で見上げてくる顔が、すごく可愛い。

 『いっそ振り返って、こっちからも抱き着いてやれ!』と、本能が雄叫びをあげる。

 いやだめだ! そんなことをしたら嫌われてしまう。

 『嫌われたいんだろ? ちょうどいいじゃないか』

 それはそうだけど、そんなやり方は本意じゃない!

 『ごちゃごちゃうるさいやつめ。なら、俺がお前の身体を乗っ取ってやる!』

 ぎゃあー! や、やめろー!

 「自殺するの、やめてくれたんですか?」

 くるるちゃんの声! 今だ。今なら話の流れで、簡単に離れてもらえる。

 「う、うん……」

 パァーッていう音が聴こえてきそうなほど、くるるちゃんの顔に笑みが溢れた。

 「良かった」

 つぶやきながら、くるるちゃんが離れる。

 『くそぅ、余計なことを。せっかくのチャンスだったのに……』

 本能が残念そうにしながら、力を失っていく。

 はあ、良かった。これ以上さっきの姿勢のままだったら、自分を抑え切れなかった。

 離れたあと、くるるちゃんは身を縮こませながら頬を赤く染めた。とっさに抱き着いてしまったことを恥ずかしがってるみたいだ。その仕種は眼福だけど、原因が自分だと思うといたたまれない。

 「……気を取り直して、猫、洗おっか」

 「……はい」

 まるで眠ってる赤ん坊がすぐそこにいるみたいな小さい声で会話して、僕たちは猫の水風呂を始めた。くるるちゃんと一緒にいると、よくこういう気まずい空気になる。こういうのをラブコメってると言うのだろうか。アニメとかを見てる時は憧れたものだけど、いざ自分が体験してみるとひたすらにムズ痒い。

 くるるちゃんが水につけると、猫はミギャーミギャーと暴れた。「こぉら、だめだよ」なんて言いながら身体を優しく撫でるくるるちゃん。気まずかった空気が、少しずつほぐれていくのがわかる。

 「そういえば」

 ふと思いついたように、くるるちゃんが言った。

 「今は夏だから、川に入っても凍死できないですよね」

 ……いまさらそれを蒸し返すのか。

 ツッコむなら、それを言ったその時にして欲しかった。それともこれは、ツッコミに見せかけたボケなんだろうか。だとしても微妙すぎてツッコめない。

 くるるちゃんは笑いながら続けた。

 「そんなことに気付かないなんて、先輩も結構天然さんですね」

 「くるるちゃんには言われたくないよ!」

 これはツッコんだ。さすがに。

 「え? きゃっ!」

 くるるちゃんが僕のツッコミに気を取られたのと同時、猫が大きく暴れた。猫はくるるちゃんの手から、川に向かって飛び込むようにして離れていく。

 くるるちゃんが慌てて手を伸ばす。その手はなんとか猫に届いたけど……。

 「危ない!」

 身を乗り出したくるるちゃんがバランスを崩した。今度は僕が手を伸ばしてくるるちゃんをつかむにっ。

 ゲ……。この手の感触は……。

 いや、でもこれは僕は悪くないっ! 助ける為に仕方なかったんだし! もしこうしなかったら、水で濡れたすけすけくるるちゃんでもっと大変なことになってたわけだし! 悪いのは、そう、神様だ! こんな偶然を仕組んだ神様が悪いんだ! 神様グッジョブ! いやいやそうじゃなくてっ!

 「あ、あ、あり、ありありあが、ががり、が、ガガガピーーーぷしゅー……」

 おお、くるるちゃんがフリーズした。それでも猫を手放さないあたりは、さすがと言えようか。

 僕は、思いっきりわしづかみにしてしまった胸の感触を、堪能、じゃなかった、味わい、でもない、なるべく気にしないようにしつつ、くるるちゃんを抱き寄せた。

 布でできたお人形みたいに軽いくるるちゃんを、川から離れたところに移動する。その後で気付いたけど、さっきくるるちゃんを掴んだ拍子に川に足を突っ込んでしまったみたいだ。水の染み込んだ靴の感触が気持ち悪い。でもその何倍も気持ちいい感触を味わえたから、僕は満足だ。いやだから不可抗力だって。

 目を開けたまま固まってしまっているくるるちゃんを草の上に座らせて、顔の前で手を振ってみた。全然反応しない。

 次は、ぷくぷくの頬っぺたをつついてみた。……て、ぅおわー、やらけー。人間の頬っぺたってこんなにやわらかかったっけ? 試しに自分のも触ってみた。やっぱり違う。いったいどうやったらこんなやわらかい頬っぺたになるんだろう。もし世界中の女の子がこんな頬っぺたになったら、頬っぺたフェチとかができても不思議じゃない。いや、もしかしたら今でもいるのかな?

 にしてもやらけー。ちょっとつまんでもいいかな? うん、どうせ気絶してるし、いいよね。

 つまむ。なんでかわかんないけど、ドキドキする。

 ちょっと引っ張る。おー、のびるのびる。つきたてのお餅みたいだ。

 くるるちゃんが瞬きした。

 ……しまった。

 固まる僕。見つめるくるるちゃん。こんな時なのに、くるるちゃんの目ってキレイだなあとか思った。

 「わ、わたし、なにか悪いことしました?」

 僕のしていることを、何かのお仕置きと勘違いしたらしい。

 「いや、ごめん。僕のほうが悪いことしたんだ」

 素直に謝って、手を離す。頬っぺたを引っ張ったのは、ちょっとやり過ぎた。

 するとどういうわけか、急にくるるちゃんがわたわたしだした。

 「え? え? わ、悪いことってなんですか? わたしが寝てる間になにしたんですか?」

 悪いことの意味を、盛大に勘違いしてるみたいだ。

 その時僕に、いたずら心が芽生えた。騙されやすいくるるちゃんを、ちょっとからかって遊んでみよう。素直な分、誤解を解くのも簡単だし。

 「ふっふっふ。それは教えられないなあ。言葉にするには恥ずかしくて」

 「ふぇ~。そ、そんな……」

 耳まで真っ赤にしたくるるちゃんは、今にも泣き出しそうな潤んだ瞳になった。

 ヤバ、ちょっとからかいすぎたか。泣かれたら敵わないので、僕はネタばらしすることにした。

 「いや、実は」「責任、とってください……」

 「せき……? いや、だから」「わたし、初めてだったんですよ?」

 「何が? じゃなくて」「ふつつか者ですけど、よろしくお願いし」「だから!」

 僕は声を張り上げた。

 「何もしてないってば! からかっただけだよ!」

 「…………。なんだ。そうだったんですか」

 ほっと軽く息を吐いたくるるちゃんが、少し残念そうに見えた。

 いや、僕の願望でそう見えただけかな? 確認する為に覗きこもうとしたけど、

 「可愛いですねー子猫ちゃんは」

 くるるちゃんが唐突に猫を構い始めたので、見ることは叶わなかった。

 「そう、だね……」

 仕方なく猫を見ることにしたけど、猫がくるるちゃんの感情を推し量ることができるはずもなく。どころか、自分がホームレスであるという現状すらわかっていなさそうな呑気な鳴き声を聞いて、ただただ脱力するばかりだった。

 

  * *

 

 「うちは結構です」

 猫の引き取り手を探し始めてから、大体三時間。いったいこのセリフを何回聞いただろう。さすがにうんざりしてきた。

 まあ、こう言ってくれる家はまだマシだ。ひどい家は、ろくに話も聞かずに追い返される。僕たちは途方に暮れて、次第に口数も少なくなっていた。

 「次の家……、いきましょう」

 くるるちゃんの声にも、最初ほどの覇気がない。それでも僕たちは次の家のチャイムを鳴らす。猫を貰ってくれる人が見つかるまでは、絶対にあきらめない。

 知らない人の家を訪ねるのは、最初こそ勇気のいる行為だったけど、三軒も経験するとすっかり慣れてしまった。今ではくるるちゃんも、躊躇せずにチャイムを押せるようになっている。

 「……あ」

 はずなんだけど。

 チャイムに伸ばしたくるるちゃんの手が止まった。見るとくるるちゃんの視線は、この家の標札のほうに向いている。そこに書かれた名前は〈長崎〉。僕は知らない名前だ。

 「どうしたの? くるるちゃん」

 「え? いえ、なんでもないです」

 口ではそう言ってるけど、どう見てもなんでもない様子じゃない。チャイムを押す手が進むどころか、下がってしまっている。

 「押さないの?」

 「あ、はい、いえ、えーと……。あ、そうだ! お昼、お昼にしませんか?」

 逃げる口実なのがモロバレだ。だけど何か言いたくない事情があるんだろうと察して、指摘しないことにした。

 「そうだね、ご飯にしよっか」

 僕の言葉に安心したのか、くるるちゃんは笑顔でこくんと頷いた。

 その笑顔のままで、元来た道を歩き出す。

 「わたし、お弁当作ってきたんです。さっきの公園で……あっ」

 いつも通りの会話を再開しようとしたくるるちゃんが、またもや固まる。今、その視線の先にあるのは……、

 「くるくる……?」

 ちょうど僕たちの行く手を遮るような位置にいる人物。三日前の放課後、雑巾がけしていたくるるちゃんを後ろから蹴り飛ばした女生徒。茶髪だ。

 ショートの茶髪に紺色の髪留めをつけたくるるちゃんの敵が、カジュアルな私服姿で目の前に立っていた。なぜ茶髪がここに、と思ってたら、くるるちゃんの口からその答えとなる言葉が発せられた。

 「長崎さん……」

 そうか。さっきチャイムを押そうとしていた家が、この茶髪の家だったんだ。くるるちゃんはそのことに気付いて、チャイムを押さなかったんだ。でもその甲斐なく、当人が帰ってきてしまったってわけか。

 「なに? あたしに何か用?」

 茶髪は、学校にいる時のようなおちゃらけた雰囲気はなく、少しツンツンした喋り方をしていた。

 「いえ……なんでもないです」

 「なんでもない、ねぇ」

 くるるちゃんに訝しむような視線を送る茶髪。

 「なんでもないなんでもないなんでもないなんでもない。いっつもそう。ちょっと都合が悪くなると、そうやって逃げて。アンタ、人のことナメてんじゃない?」

 「そ、それは……」

 怯えて一歩後ずさったくるるちゃん。それに代わって、僕が一歩前に出た。

 「そんなわけないだろ」

 「……。なによ、アンタ」

 「友達だよ、くるるちゃんの」

 友達。

 その言葉を自分で口にしながら、身体に緊張が走るのを感じた。僕は本当に、くるるちゃんの友達を名乗っていいんだろうか。自分の正体を隠したままで。ストーカーの分際で。

 くるるちゃんのほうが何を感じているのかはわからなかったけど、、微かな震えが背中越しに伝わってきた。

 「で、その友達が何の用? あたし今、くるくると喋ってんだけど」

 相変わらず刺々しい口調の茶髪に、僕は言い返す。

 「友達がイジメられてるのを、黙って見過ごせるわけないじゃないか」

 「イジメ?」

 茶髪が、心外だと言わんばかりに目を見開いた。

 「別にイジメてるわけじゃないし。ただこのままだとくるくるが困るから、注意してあげてるだけでしょ?」

 「そのセリフ、イジメる人間の常套区だよね。イジメられる原因がくるるちゃんにあるって言いたいの?」

 「イジメるほうも悪いと思うけどね」

 暗に僕の問いを肯定された。

 イジメるほうも悪いだって? 君がそのイジメてる人間だろうに。

 「くるるちゃんの何がいけないのさ。この子は優しくて大人しい、いい子じゃないか」

 「大人しすぎるのよ。人の顔色伺ってばっかで、自分の意見を出そうとしない。心の中で何考えてんだか、さっぱりわかんない。事勿れ主義も大概にしろってのよ」

 違う、それはくるるちゃんの美点なんだ。自分よりも人のことを優先して考えられるんだから。ただ、疑心暗鬼の強い人間には、それが何かを企んでるように見えるだけだ。

 「今だってそう。あたしが何の用か訊いてるのに、『なんでもない』だなんて。言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいのに」

 僕は言葉に詰まった。くるるちゃんの気持ちはよくわかる。茶髪の気持ちも少しはわかる。でもどうしたら、茶髪にくるるちゃんの良さを伝えられるんだろう。

 悩んでるうちに、茶髪がこっちに近づいてきた。

 「もういいわよ。とにかくあたしは家に帰りたいの。そこどいて」

 「……」

 僕はしぶしぶ道を開ける。

 茶髪は、ふん、と鼻を鳴らして通りすぎていった。そのまま家の中へと、入っていく。

 「待ってください!」

 それを、くるるちゃんが呼び止めた。

 「なによ」

 「あ、あの」

 くるるちゃんが、おそるおそる歩み寄っていく。勇気を振り絞っているのが、後ろから見ていてもよくわかる。

 がんばれ、くるるちゃん。

 「……」

 くるるちゃんが、無言で猫を差し出した。茶髪に見えやすいように、斜め上に上げて。

 「だから、なによ」

 「こ、この猫、もらってくれませんか?」

 茶髪が睨みつけるように猫を見る。そのまま何も話さない。

 くるるちゃんが、言葉を継ぎ足した。

 「この子、河原に捨てられてたんです。小さいし、このままじゃ死んじゃうから、飼ってくれる人を探してたんです。でも、なかなか見つからなくて、それで、たくさんの家を廻ってて……」

 「偶然あたしのうちに来たってことね」

 途切れそうになった言葉を、茶髪がつないだ。その手が、猫の頭を優しく撫でる。らしくない仕種に、僕は少しばかり面食らった。

 「あたしの母親のことだから、丁寧に断られたんでしょ?」

 「あ、あの、それは」

 茶髪を避けて訪問しなかったことが後ろめたいんだろう。くるるちゃんが言葉に詰まった。だけど茶髪のほうは、別に答えを求めて質問したわけではなかったらしく、勝手に話を続けた。

 「母親は、ペットとか飼うの大反対なの。別に嫌いってわけじゃなくて、何て言うのかな……。ま、どうでもいっか。そういうわけだから、ゴメンね」

 またもや僕は面食らった。よもや茶髪から『ゴメン』なんて殊勝な言葉が出されるなんて。くるるちゃんも似たような心境だったのか、しばらく放心していた。

 茶髪が自宅のドアを開けたところで、くるるちゃんは、はっと我にかえった。

 「あ、ありがとうございました!」

 いつものように、腰を折ったお辞儀をするくるるちゃん。

 チラッとこっちを見た茶髪が、ぼそっと呟いた。

 「……別に、お礼言われるようなことしてないし」

 ドアがゆっくりと閉められる。閉まり切る直前、ドアで顔を隠した茶髪から、聞こえるか聞こえないかというような小さい声があった。

 「くるくるも、やればできんじゃん」

 今度こそ、完全にドアが閉められた。

 

   * *

 

 公園でお弁当を食べている間、くるるちゃんは浮かれっぱなしだった。

 最初は一緒になって喜んでいた僕も、さすがに途中からは付き合いきれなくなってきた。

 「ああ、どうしよう、すごく嬉しいです。長崎さんに褒めてもらえるなんて。身体がどこかに飛んでっちゃいそうな気分です」

 「そう。それより、お弁当食べない?」

 「あ、そうですね。はい、どうぞ。……わたし、あんな風に褒めてもらったの初めてなんです」

 「そりゃあ、普通あんなツンデレな褒め方しないよね。お箸どこ?」

 「あ、ここです。ふふっ、これで今度から仲良くなれるかな……? あ、そんな高望みしちゃだめですよね。ああでも月曜日はどんな風に挨拶すればいいんだろ」

 「挨拶しなくていいと思うよ。向こうが照れるだけだろうし。この卵焼き、おいしいね」

 「そうですね。わたしなんかが挨拶したら迷惑ですよね。ああ、でもやっぱり嬉しい。これもこの子猫ちゃんのおかげかなぁ。まだ助けてもいないのに、恩返しされちゃったよぉ」

 「……もぐもぐ」

 僕が褒めた時でも、ここまで喜んでなかった気がする。これがツンデレ効果か。くそぅ、思いの強さなら絶対に負けないのに。

 僕のジェラシーは、どうも顔に出ていたらしい。不意に目が合うと、くるるちゃんがオドオドしだした。

 「あ、ご、ごめんなさい、はしゃぎすぎました。うっとうしかったですか?」

 「いや、全然?」

 [本音を話す]→[僕のくるるちゃんに対する好意がバレる]→[好感度アップ]という図式が見えていた僕は、適当にはぐらかした。

 とは言え、僕が不機嫌なことはくるるちゃんの目から見ても明らかだったようで、それ以降くるるちゃんがその話題を口に上せることはほとんどなかった。くるるちゃんに気を遣わせてしまったことを悔いる半面、これは不可抗力だというような気もした。

 

 夕方まで歩き続けたけど、結局猫の引き取り手は見つからなかった。だけどくるるちゃんが嬉しそうなのを見ていると、決して無駄な一日じゃなかったと思える。

 明日の朝も今日と同じ時間に集まる約束をして、くるるちゃんと別れた。

 一人で歩く帰り道。僕の頭に浮かぶのは、昼間の茶髪とのやり取りだった。

 茶髪は、思ったよりもいい奴みたいだった。くるるちゃんを蹴り飛ばしたのは許せないけど、あれはきっと学校の悪い空気に流されたんだろう。

 くるるちゃんをイジメてる奴の中には、茶髪の他にも話せばわかる人がいるかも知れない。今日みたいに個人個人で話していけば、くるるちゃんのイジメられっ子のイメージを払拭できるかも知れない。

 明日、猫の引き取り手を探してる時に、そういう人に出会えたらいいなと思う。くるるちゃんは嫌がるかも知れないけど、今日みたいに話して、上手くいけば、考えていたよりも早く解決するかも知れない。そういう意味じゃ、あの猫がいてくれて良かった。

 イジメがなくなれば、あとは僕がくるるちゃんから離れるだけだ。

 くるるちゃんとの別れが刻一刻と迫っていることに一抹の寂しさを覚えつつも、それに勝る喜びが僕の中に溢れていた。やっぱり、好きな子が嬉しそうにしていると、それだけで僕も嬉しくなってくる。

 いつの間にか写されてしまったらしいくるるちゃんの浮かれ気分は、いつまでも僕の心を暖めてくれていた。家に着いてからも、ご飯を食べている時も、ネットをしている時も、夜寝る時も。

 

 翌朝、河原で猫のいなくなった空の段ボール箱を見るまでは。

 

   * *

 

 「え、あれ? 猫ちゃん、どこ? あれ?」

 段ボール箱の前で戸惑っているくるるちゃん。

 一方、僕には心当たりがあった。

 「まさか……」

 ここに来るまでの間のことを必死で思い返す。

 待ち合わせ場所に着く前、僕は偶然出くわしていた。四日前、くるるちゃんに暴力を振るおうとしていた男の片割れ、角刈りと。

 先に相手の存在に気付いた僕は、持ち前のストーカースキルを駆使して、素早く風景に溶け込んだ。危ないところだったけど、なんとか気付かれずに済んだ。

 物陰から伺った角刈りの様子は、ひどく慌てているようだった。何をそんなに慌てているんだろうと気になって、よく目を凝らしてみると、角刈りの服が汚れているのがわかった。そしてその汚れの正体は……。

 血、

 だった。

 流血沙汰にそれほど遭ったことのない僕でも、直感的にわかった。あれは角刈りの血じゃない。あれは返り血だ。

 さらに角刈りは、服の中に何かを隠し持っているみたいだった。腹の辺りが不自然に膨らんでいた。中身が気になったけど、厄介事に関わりたくなかったので、僕はそのまま角刈りを見送ることにした。

 あれがもし生首だったら嫌だなとか、角刈りはそこまでヤバい不良だったのかなとか、あの時は適当なことを考えていたものだけど……。いま思い返してみると、あれは。あの中身は。

 猫だったんじゃないだろうか。

 そうだ。生首にしては少し小さいと思ったんだ。あの大きさは、そのまま胸のほうに上げれば巨乳に見えるくらいの大きさだった。子猫が入るにはちょうどいい。

 とすれば、あの返り血はまさか……。

 言いようのない不安に駆られて、僕はズボンのポケットから携帯を取り出した。アドレスから、光輝を呼び出す。

 くるるちゃんのほうは、どうやら猫を探しているらしい。茂みをガサガサと掻き分けていた。

 『――なんだ? おっさん』

 電話が繋がった。

 「頼みがある」

 僕は単刀直入に切り込んだ。

 「光輝の部活の先輩で、角刈り頭のがいるだろ? チャラい大阪弁の男と仲良さそうなやつだよ。そいつの電番か、住所を教えてくれ」

 他人の個人情報を、明らかに敵対してそうな人間に教えることは、普通なら絶対にしてはいけない。漏らしたのがバレたら自分の立場が危うくなるとかそういうの以前に、人間としてのモラルの問題だ。

 だけどそれを承知の上で、僕は訊いた。

 『お前……、ガンガン首突っ込んでんだな。縁切れってあれほど言ってやったのに』

 呆れたようなその言葉に、僕は取り合わない。今はお説教を聞いてる暇はない。

 「頼む、教えてくれ」

 僕はただただ懇願した。

 それに対して光輝は、申し訳なさそうな声で、それでいて偉そうな口調で言った。

 『悪いけどな、知らねえよ。同じ部活ったって全員のアドレス知ってるわけじゃねえ。それにあの二人はあんま顔出さないって、前にも言っただら?』

 「……ああ」

 『そういうわけだ。悪いな』

 プツッと電話が切れた。

 「くそっ!」

 僕は悪態をつきながら、もう一人の知ってそうな人間に電話をかけた。できればこっちには頼りたくなかったけど、この際だから仕方ない。

 ふと目をやると、くるるちゃんが期待のこもったうるんだ眼差しでこちらを見ている。やはり猫は、この辺にはいなかったらしい。

 「大丈夫だよくるるちゃん。大丈夫」

 僕は不安そうなくるるちゃんを安心させてやりたくて、根拠のない言葉をかけた。

 「はい……」

 でもそんな言葉じゃ、くるるちゃんの不安を拭えそうにない。僕はなんとしても猫を助け出すことを心に誓って、相手が電話に出るのを待った。

 『――何の用だ? 小熊』

 声変わり前の少年みたいな声に、気取った少年みたいな口調。だけどその実、正真正銘の女の子。最近はめっきり会う機会も減ったけど、互いの電話番号とアドレスぐらいは今でも知っている、僕の幼なじみ、唯だ。

 「唯、頼みがあるんだ。何でも一つ言うこと聞くから、僕の頼みを聞いてくれ」

 『ボクにその条件を出すということは、それなりの覚悟があるんだろうね?』

 「もちろんだ」

 即答した。迷わない。どんな無理難題でも、くるるちゃんの笑顔の為なら受け入れる。

 『用件はなんだい?』

 「ある男子の電話番号を教えてほしいんだ」

 僕は、角刈りについて知っていることを全て話した。そして最後に一つ、付け加える。

 「……あと、多分不良だと思う」

 『何故そう思うんだ?』

 そこだけ言葉を濁したせいか、唯が突っ込んで訊いてきた。

 「実は、その二人が女の子を殴ろうとしてるのを見たんだよ」

 『だから不良だって?』

 「う、うん」

 唯にこういう風に訊き返されると、後ろめたいことがなくても、なんだかそういう気分にさせられる。

 『人を殴ろうとしていたから不良、か。そもそも不良の定義というのが曖昧だけれど、今はそのことについては言及しないことにしよう』

 「回りくどいよ」

 『これがボクの素だからね。そして君は、ボクが素の性格で接する事の出来る数少ない人間だ』

 だから我慢してくれたまえ、と仰々しい口調で宣う唯。思うところがないでもないけど、今はそれどころじゃないのでスルーした。

 『それでさっきの話だけれど、君も知っての通り、うちの高校ではいじめが活発だ。以前の君のようないじめに関わっていない人間というのは、かなり稀少なのだよ。関わっている人間の中には、いじめられている人間もいるが、それよりもいじめる側の方が圧倒的に多い。いじめる人間が少なければ、いじめは成立しないからね。何が言いたいのかと言うと、不良でもなんでもないその辺の一般生徒がいじめる側に回っていたとしても、なんら不自然ではないということだよ。それに君の話では、その暴力は二対一で行われたのだろう? 集団リンチとは言い難い』

 「だけど、いじめられてたのは女の子だよ?」

 『君のそのフェミニズムな思考は、ボクとしてはあまり感心しないな……』

 少しウンザリしたような声を出す唯。

 「それより、電話番号は?」

 『まあ待ちたまえよ。少し調べる時間をくれ。長くて十分と言ったところか。わかり次第、メールで連絡するよ』

 それじゃ、と言って、唯は電話を切った。僕は時間を確認してから、携帯をしまう。

 十分間。短いようでいて、ただ待つだけの身にしてみればとてつもなく長い。

 「どう、でしたか?」

 くるるちゃんが縋るように訊いてきた。僕は無理矢理に笑顔を作って、それに答える。

 「うん。なんとか手がかりが掴めそうだよ。しばらく連絡が来るのを待とう」

 「はい……。あの、その手がかりって……?」

 おそるおそるという感じで訊いてきたくるるちゃん。その心境は多分、訊いていいことかどうか自信がないけど、気になって仕方がないといったところか。

 「実は今朝、くるるちゃんに会う前、小さい何かを服の中に隠し持った男とすれ違ったんだ。その男ってのはあの……ほら、四日前にくるるちゃんをイジメてた二人組の背の高いほうだよ。今、そいつの電話番号を調べてもらってるんだ」

 返り血云々の話はしなかった。今その話をしても、余計にくるるちゃんを不安にさせるだけだから。

 「その人が、あの子を連れていったんでしょうか? でもどうして……」

 「わからない。まだ本当にあいつが持ってたのが猫かどうかもわからないんだ」

 「……」

 くるるちゃんは、その小さい顎に軽く握りこぶしを当てて、悩ましげな顔をした。そのまま川の方を向いて、砂利の上にすとんと腰を下ろす。僕も一緒に、横に腰を下ろした。

 「……わたし、思うんです」

 くるるちゃんがぽつりと呟いた。

 「あの子は、一人で段ボール箱の外に出たりしないって。だっていつ見ても、箱の中で寝てるか、みーみー鳴いてるだけだったから。あの箱はそんなに大きくないから、出ようと思えば出られるはずなのに、そんなことしようともしなかった。……もしかしたら、動物にやられたのかもしれませんけど、それならもっと……、何て言うか、あとが残ってると思うんです」

 あとって言うのは多分、死骸のことだ。確かに犯人がカラスとかなら、多少は食べ残しがあるはずだ。

 「連れていったのは、多分人です。その人が猫が欲しくて、可哀相なあの子を拾ってくれたなら、それでいいんです。でも、もし……、あの子まで、わたしみたいに……イジメられてたら……」

 その先は言葉にならなかった。くるるちゃんが泣いてしまったからだ。

 「大丈夫だよ、くるるちゃん」

 震える背中をさすりながら、言葉をかける。こんな陳腐な言葉しかかけられない自分が情けない。角刈りのことなんて、話さなければ良かった。

 たった四日間面倒を見ただけの猫の為に、ここまで真剣になれるくるるちゃんはすごいと思う。尊敬できる。だけどその優しさは、同時に傷つきやすいということでもある。誰かが支えてあげないと、きっとくるるちゃんは、くるるちゃんのままで生きていけない。

 僕はいつかくるるちゃんの傍から離れないといけない人間だ。でも今は、ここにいる。くるるちゃんの傍に、僕はいる。だから今だけでも、僕がくるるちゃんを支えていたい。

 「僕が絶対に、猫を助ける。君をこれ以上哀しませたりしない」

 その時、僕のポケットからメールの着信音が聞こえた。慌てて携帯を取り出すと、やはり唯からだった。十一桁の番号に、『僕が教えたという事は他言しないように』と書き添えてあった。

 僕はすぐにその番号へ電話をかけた。コール音が流れ、身体に緊張が走る。

 『――もしもし、どちら様ですか?』

 低い声に似合わない丁寧な口調で、角刈りが出た。

 「二年の小熊だ。四日前の河原で会った。覚えてるだろ?」

 『……。……ああ』

 憎まれ口の一つも覚悟していた僕は、その素っ気ない感じに拍子抜けした。こいつ、本当に覚えてるのか? 僕はあの時、首筋に思いっきり蹴りをかましたんだぞ?

 『何の用だ?』

 角刈りの問いに、僕は内心の動揺を押し殺して、言葉を取り繕った。

 「とぼけるな。わかってるんだ、君が猫を連れていったのは。返してもらう」

 嘘だ。確証は全くない。これは単なるハッタリだ。

 『……俺が返せないと言ったら、お前は俺の家まで乗り込んでくるんだろうな』

 「当たり前だ」

 はあ、とため息をつくのが聞こえた。だけどこれは電話だ。わざと聞かせたに決まってる。

 『なら、猫のいる場所を教えてやる。だが、行かないほうがいいとだけ言っておいてやろう。猫がいるのは……』

 角刈りがスウ、と息を吸った。

 

 『公園の木の下、土の中だ』

 

 僕はとっさにくるるちゃんのほうを見た。やはり電話に耳を澄ませていたらしく、ショックに目を見開いていた。

 「こ、の……! よくも……」

 『その公園の名前は知らないが、坂を上ったところに景色を見渡せる広い公園があるだろう。小さいドームのような遊具がある公園だ。その公園の端の、一番大きな木の下に、あの猫は居る』

 あくまでも淡々と話す角刈りに、僕は怒りが募っていった。

 「なんでだ! なんでそんなこと!」

 『俺がしたわけじゃない。交通事故だ』

 「嘘つけ! 段ボールから出ようとしない猫が、どうやって交通事故に遭うっていうんだ!」

 はあ、というため息が再度聞こえてきた。こいつ、僕を怒らせたいのか?

 「おい……!」

 『わかった。本当のことを言ってやろう。猫を殺した理由はな、月城だ』

 「な、何をワケのわからない……」

 こいつ、何を言うつもりだ。くるるちゃんにこれ以上辛い話を聞かせるな。もうやめろ……!

 だけど僕のそんな願いも虚しく、角刈りは話し続ける。

 『そもそもいじめられている人間が、周りにあるものを助けようとする時点で思い上がりも甚だしい。自分に関わったものは、全て不幸になるんだということを身に染みて体感しておくべきだ。それが例え猫であってもな』

 「そんなことで……、あの子を殺したのか?」

 僕のその言葉を、角刈りは鼻で笑った。

 『大袈裟だな。たかが猫だぞ』

 

 ぷちん。

 

   * *

 

 気がつけば、僕たちは公園に向かって走っていた。

 電話の途中から記憶がはっきりしない。どうも怒りに我を忘れてしまったらしい。でもそれを言うなら今だって、身体が勝手に動いているような、妙な感覚が付き纏っていた。

 河原から公園までは、結構な距離がある。道だって上り坂だ。なのに僕は、辛いとか苦しいとか、そういうことは一切思わなかった。少しでも早く行けば、猫を助けられるかも知れない。ただそれだけを思って、走っていた。

 公園に着いた。日曜日だからか、結構たくさんの人がいる。

 「木は……」

 「あれです!」

 くるるちゃんの指差した方向に、一際立派な木があった。僕はすぐさまそっちへ走る。くるるちゃんは僕の後ろではなく、横を走っていた。

 木の下の地面が一箇所だけ、ぽっこりと膨らんでいた。それが何を意味するかは考えるまでもない。

 「猫ちゃん……!」

 しゃがみ込んで掘り始めたのは、くるるちゃんのほうが早かった。僕もすぐに向かいにしゃがんで掘り始める。僕らは二人で、争うようにして地面を掘った。

 土は軟らかかった。一度掘って埋めたんだとしたら、それも当たり前だ。二人がかりだったのもあって、すぐに結構な深さまで掘れた。僕も、くるるちゃんも、掘っている間は無言だった。

 ――ずぐ。

 僕の右手の先に、土とは違う感触があった。土を掘る為に力を込めていた手は、土を掘る時以上に奥深くへと入り込んでいた。

 粘つくような、絡み付くような、何とも例えようのない感触。その感触に体温と呼べるような温かさが全くないことを、心のどこかで冷静に確認している僕がいた。僕が手を止めたことに気付いて、くるるちゃんも手を止めてこっちを見た。

 僕はゆっくりと、手を引き抜いた。くるるちゃんは、僕の右手を見ていた。

 僕の右手についていたのは――

 

 「ひぃやああああああぁぁあああっ!!」

 

 絶叫と共に失神したくるるちゃんを、僕はかろうじて抱き留めた。手を拭う余裕もなかったので、汚れがくるるちゃんの洋服についてしまった。

 汚れ……。

 「くそ……」

 これを汚れと思ってしまう自分が、なんだか酷い人間に思えた。

 ひとまずくるるちゃんを木にもたれさせてから、僕は土を戻した。

 その後くるるちゃんを横抱きして移動し、ベンチに寝かせてから、その横に座った。土のついた手を、なんだか今すぐには洗い流したくなかった。これを洗い流すと、完全に猫とお別れしないといけない気がしたから。少しでもいいから、感傷に浸る時間が欲しかった。

 ぼーっと両手を見ながら、僕は思い返す。

 

 ――おはよう、子猫ちゃん。ご飯持ってきたよ。

 ――あーあ、まだ寝てるよ。本当にぐうたらな猫だなあ。

 ――違いますよ、まだ子猫だから仕方ないんです。ね、子猫ちゃん?

 ――ねえ、くるるちゃん。

 ――はい?

 ――その猫に、名前つけてあげたら? いつまでも子猫ちゃんじゃ、呼びにくいでしょ?

 ――あ、確かにそうですけど……、でも……。

 ――どうしたの?

 ――名前をつけたりしたら、きっと今よりももっと可愛がってしまうと思うんです。

 ――いいんじゃないの? それで。

 ――でも、そしたら引き取ってくれる人が見つかった時に、お別れするのが辛くなっちゃいます。お別れする時は、笑顔でいたいから。悲しいお別れなんて嫌だから、あんまり可愛がっちゃいけないと思うんです。だから……、名前は付けません。

 ――そっか……。

 ――おかしい、ですか?

 ――いや、気持ちはすごくわかるよ。でも……。

 ――でも?

 ――もう、手遅れだと思う。

 ――ふふふっ。やっぱりそうですか? だって、この子が可愛いすぎるのがいけないんですよっ。…………

 

 いつか訪れる別れの時。

 でもその別れは、こんな悲しい別れじゃなくても良かったはずだ。もっと幸せな別れもありえたはずだ。

 何がいけなかった? 何が原因でこんなことになった?

 『殺した理由はな、月城だ』

 違う、くるるちゃんじゃない。くるるちゃんが悪いわけない。

 じゃあ角刈りが悪いのか? もちろんあいつも悪いだろう。今すぐ走っていってその顔面が真っ赤に腫れ上がるまでぶん殴ってやりたい。

 でもそうじゃない。それで解決する問題じゃない。悪いのは、角刈りだけじゃない。悪いのはそう、

 イジメだ。

 イジメさえなくなれば、猫は殺されずに済んだ。

 イジメさえなくなれば、くるるちゃんは悲しまなくて済んだ。

 今までだってわかってたことだ。でも今まではわかってなかった。

 こんな悲しいことは、今すぐに、何が何でも、終わらせないといけない。

 もう手段は選んでられない。

 イジメを終わらせる。

 何としても。

 絶対に。

 僕は固く拳を握りしめた。土にまみれた、その拳を。

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