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第一章 出会って膝枕

 その日最後の授業が終わり、部活に入っている者は部活へ、帰宅部の人間は自宅へ、それぞれ向かおうとしていた。バラバラと教室から出てくる生徒たちが廊下の人口密度を上げ、人混みとはいかないまでも、まっすぐには歩けないぐらいの混雑した廊下ができあがる。

 その中に、ぽっかりと開けた空間があった。誰もがそこを避けて通り、決して注視しようとはしない空間が。

 そしてその中心に、彼女はいた。

 長いツインテールを引きずっているのを気にも止めずに、きれいな唇を固く引き絞って、潤んだ瞳を床のタイルに向けながら、よつんばいになって雑巾で拭き掃除をする、彼女の姿が。

 彼女の名前は、月城くるる。この春入学した、一‐Aの女子生徒だ。

 身長一三六センチ、体重二八キロという、高校生としてはありえない体格をしており、僕のようなロリコン男からすれば、むしゃぶりつきたくなるぐらい魅力的な女の子だ。

 しかし今、その魅力に気付いている生徒は僕ぐらいのものだろう。

 なぜならくるるちゃんは、イジメのターゲットにされているから。ターゲットを異性として見る人間は、この学校にはまず居ないだろう。

 くるるちゃんがターゲットにされ始めたのは、つい最近だ。最初のターゲットが登校拒否になり、その友達だったくるるちゃんが次のターゲットにされた。それでもくるるちゃんは、めげずに登校し続けている。

 くるるちゃんの後ろから、一人の女生徒が近付いてきた。雑巾がけをしているくるるちゃんは、それに気付かない。

 近付いた女生徒が、くるるちゃんのお尻を思い切り蹴り飛ばした。

 「きゃっ!」

 たまらずくるるちゃんは頭から地面に突っ伏して、その拍子に、一人の男子生徒の脚にぶつかった。そいつは、まるで汚い物でも見るような目でくるるちゃんのことを一瞥し、無言で蹴り返した。

 そこまで酷い仕打ちをされても、くるるちゃんは怒らない。ただその男子生徒に「ごめんなさいっ」と謝って、地面に頭をこすりつけた。男子生徒は最後まで無言で、廊下を歩き去っていった。

 起き上がったくるるちゃんは、振り返って、自分を蹴り飛ばした相手を確認する。そして、おそらくは同級生であろうその子に、敬語で疑問を投げかけた。

 「ど、どうして、蹴るんですか?」

 「邪魔だから」

 にべもない答えを返す女生徒。ショートカットの茶髪を手で梳いて、いかにも偉そうにくるるちゃんを見下しながら言う。

 「ていうかさー。こんな時間にこんなとこで拭き掃除してたら邪魔でしょー? そんなこともわかんないの? なに? 慈善事業のつもり?」

 「……だって、雑巾がけでもしてろって言われたから」

 「なに? ちょっと聞こえないんだけど」

 「ご、ごめんなさいっ」

 「ちょっとー、謝んないでよー。あたしがイジメてるみたいじゃない」

 「…………」

 何も言えなくなったくるるちゃんは、雑巾を握り締めて押し黙ってしまう。

 そこへ、茶髪の友達と思しき女生徒が二人やってきた。

 「ねえカナぁ。くるくるなんかほっときなって。バカがうつるよ」

 「えー? だって目障りじゃん。見てらんないってゆーかさー」

 「そういうとこ、かなちゃん優しぃよね」

 「ちょ、ちょっと。そんなんじゃないってばー。誰がくるくるなんかに……」

 くるるちゃんをいびるような会話は、その後もしばらく続いた。その間、くるるちゃんは床の上にお尻を付けたまま、怯えるように雑巾を握り続けていた。

 

         * *

 

 「……はぁ」

 帰り道、河原沿いの土手を歩いているくるるちゃんの口から、ため息が洩れた。その顔は憂鬱そうで、楽しさなどカケラも見出だせない。

 彼女はどうして学校に通い続けるんだろう?

 見た感じは決して気が強そうではないし、実際にそうなんだろう。なのに彼女は、めげずに登校し続けている。早退も欠席もしない。

 帰宅部なので、部活に燃えているということはない。と来れば、授業を受ける為に来ているとしか考えられないわけだけど、今時そんな勤勉な子がいるんだろうか。……なんてのは、勉強が苦手な僕だから思うことなんだろうか。

 もしかしたら、何か将来の夢でもあるのかも知れない。その為には良い大学に進まなくてはならなくて、それで仕方なく登校している、とか。

 やがてくるるちゃんは、橋の近くまでやってきた。そこまではほとんど顔を上げずに、地面ばかり見ながら歩いてたけど、そこで何かに気付いたように顔を上げた。

 何度かキョロキョロと辺りを見回したくるるちゃんは、何かを探すそぶりをしながら、道を離れて川の方へと歩いていく。

 そうしてくるるちゃんが見つけたのは、一匹の猫だった。ベタなことに段ボール箱に入れられたその猫は、まだ捨てられたばかりらしく、割と小奇麗で元気そうにしていた。

 しゃがみ込んだくるるちゃんが、優しく猫の頭を撫でた。猫は少しこそばゆそうにしながら、みー、と鳴いた。

 くるるちゃんの顔から笑みが零れる。決して華やかな笑みではないけれど、見る者の心を温かくする、ほのぼのとした笑みだった。自然と穏やかな空気が作られ、しばらく猫とくるるちゃんだけの時間が流れる。

 しかし、そこへ無粋な乱入者が現れた。

 「なあ、あれ一年のくるくるなんちゃん?」

 「知らん」

 「なにやってんやアレ? あ、ちょうどいいやん。あいつに金借りよ」

 「返さんだろうが、お前は」

 「ま、いいやん、いいやん」

 いかにもチャラ男な奴と、少し筋肉質な角刈りの二人組が、ブラブラとくるるちゃんの方に近づいていく。

 「おーい、くるくる。なにやってんの? ってか金貸してくれへん?」

 「脈絡なしか」

 「いいやんけ別に」

 そこでくるるちゃんも、ようやく漫才コンビのような二人組に気がついた。

 「あ、こ、こんにちは……」

 「こんちわー。ってかもう夕方やけどなー」

 「時間的には、まだ昼間だ」

 「うっさいわ勇也は。ってかどっちでもいいし。くるくる、金貸してくれへん? 一万ぐらいでいいから」

 「え、あ、でも、あたし今」

 「持ってへんかったら千円でもいいって。持ってるやろ? それぐらい」

 「あ、う、あの……」

 うろたえるくるるちゃんに、チャラ男が少しずつ詰め寄っていく。と、

 「ん? それもしかして猫?」

 チャラ男が猫に気付いた。

 くるるちゃんが一瞬固まる。その隙に、チャラ男はサッとくるるちゃんの脇を抜けて、ヒョイっと猫を持ち上げた。

 「やっぱ猫やん。ふーん、これ見てたんや」

 「あ、あの、やめて……」

 「んー? 返して欲しい?」

 くるるちゃんが怯えながらも、こくんと頷く。

 「それやったら、金貸して」

 「や、でも、それは……」

 「はよせんと、猫に何かすんで?」

 「あ、あ……」

 追い詰められたくるるちゃん。ついに諦めてお金を出すかと思いきや、そんなことはしなかった。泣きそうな顔から一転、口をぎゅっと引き締め、瞳に決意を宿した。

 「えいっ!」

 「おわ!?」

 不意をついてチャラ男に体当たり。さらにどさくさに紛れて、猫を奪い取った。いや、助けたと言うべきか。可愛い顔して、抜け目ない。そのまま走って逃げようとしたくるるちゃんだったが……。

 「ひゃんっ」

 角刈りに足を引っかけられ、あえなく転んでしまう。

 廊下で茶髪に蹴られた時と同じく、またもや地面に頭から突っ込んでしまうくるるちゃん。それでも腕の中の猫はしっかりと庇っていた。

 「いったー。何すんよいきなり。金貸してって言っただけやん」

 転んだくるるちゃんに立ちはだかるような位置に移動したチャラ男。その表情は先と変わっていないものの、どこか険悪な雰囲気が漂っている。

 「あーあ。ほんまは女子なんか殴りたくないんやけどな。やけど、くるくるにそこまでされといて、このままハイサヨナラってわけにはいかんしな」

 拳をぽきぽき鳴らしながら、一歩一歩くるるちゃんに近づいていくチャラ男。

 座ったまま、震える身体を引きずって逃れようとするくるるちゃん。しかし途中で背後にいる角刈りの存在を思い出して、それすらもできなくなる。

 くるるちゃんの腕から地面に飛び降りた猫が、呑気にも、みー、と鳴いた。それでも緊迫した空気は全く緩まない。

 ついにどうしようもないほど追い詰められたくるるちゃん。絶体絶命のピンチ。と、そこへ……、

 「ぅおりゃあぁあぁっ!」

 ついに満を持して、僕の登場だ。

 チャラ男にも角刈りにも見えにくい真横の茂みから飛び出した僕は、雄叫びと共に角刈りに跳び蹴りをかました。ほとんど捨て身にも近い僕の蹴り。それを首筋に喰らって、角刈りは呻き声も出さずに意識を落とした。

 「な、勇也!?」

 突然の登場にチャラ男が驚いてる隙に、僕は立ち上がり、くるるちゃんとチャラ男の間に移動する。くるるちゃんからふんわりと甘い香りがして、僕の「守りたい!」という思いが強化される。

 「ガキが……。やってくれるやんけ……!」

 チャラ男が歯ぎしりする。憤怒の表情に、わずかながら気圧される。

 大丈夫だ。冷静になれ、僕。こんな時の為に、日頃から訓練してきたんじゃないか。自分の部屋で筋トレしたり、格闘技のテレビを見て勉強してきた日々は、決して無駄じゃなかったはずだ。

 落ち着いて、呼吸を整える。その間も、目はチャラ男から離さない。そして……。

 ――来る!

 息を止める。

 チャラ男の雑なパンチを、手の平で弾く。予想を超える衝撃だったが、それに戸惑っている余裕はない。

 チャラ男が体勢を整える前に、幾度となくサンドバッグ(古い布団を巻いた物)に叩き込んできた必殺の蹴りを放つ。

 「はん」

 しかし、チャラ男はやすやすと右手一本で受け止めてしまう。どころか、そのまま腕を絡めて足を拘束されてしまった。

 「死ねぇ!」

 チャラ男の左拳が、僕のみぞおちを穿たんとする勢いで迫る。

 だが。

 「ぅあああぁあァあぁぁ!」

 抑えられた左足はそのままに、残された右足の膝蹴りで、相手のパンチを相殺した。もちろん身体は宙に浮く形になるが、片足をチャラ男が持ってくれている間は問題ない。

 さらに右足を伸ばして、チャラ男の顎を狙う。

 「ぐがっ」

 入った。だが甘い。拳を蹴った時に勢いが殺されたせいだ。

 しかし、拘束されていた左足から力を緩めさせる程度には効いたようだ。足を離されて背中からモロに落ちそうになるところを、何とか身体を捻って、受けらしきものをとる。

 次なる攻撃に備えて即座に起き上がったが、それはすぐにはやってこなかった。

 見るとチャラ男は、蹴られた顎を手でさすっている。

 「わいの顔を蹴り飛ばすか。いい度胸しとんな、二年坊」

 「いえいえ、女の子殴ろうとしてた先輩ほどじゃあないですよ」

 皮肉に皮肉で返すと、チャラ男の顔が怒りに歪んだ。僕、明日から登校できるかなあ……。

 「僕のこと知ってるんですか?」

 「あァん?」

 「いや、さっき二年坊って……」

 「アホか。名札見たらわかるやろ、アホう」

 アホって二回言った……。アホっていう方がアホなんですーって言い返してやりたい気分だったけど、それじゃあ子供みたいなのでやめておく。

 確かに僕はアホだけどさ。アホじゃなきゃ、こんなことに首突っ込んだりはしないだろうし。

 「てーかなんなんやあんたは。いきなりしゃしゃり出てきて正義のヒーロー気取りか」

 「否定はしないですけど、それだけでもないです。性分でして。女の子がイジメられてるのが見てられないんスよ」

 「うっわ、きっしょ」

 チャラ男は全身で引いていた。だけどお互い様だ。

 僕からすれば、女の子を殴れる男こそドン引きモノだ。

 「ま、いいわ。あんたのキモさと度胸に免じて、特別にくるくるを殴んのだけは勘弁したるわ。今日んとこはな。やけど……」

 そこでチャラ男は、僕をギロリと睨みつけてきた。

 「わいと相棒を足蹴にした、そのオトシマエはつけてもらうで」

 「……いいですよ」

 ふ、マヌケが。そのセリフが負けフラグだということに、なぜ気付かないのか。これで勝ちはもらったも同然だ。

 僕は心に絶対の自信を抱きながら、拳を握り締める。

 「あ、あの……」

 そこで怖ず怖ずと、後ろから声を掛けられた。くるるちゃんだ。その甘い声を聞くだけで、不思議と力が湧いてくる。

 僕は視界にチャラ男を収めたまま、くるるちゃんに優しい笑みを投げかける。

 「大丈夫だよ。くるるちゃんは下がっていて」

 「え、なんで……」

 「なあ、もういいか?」

 チャラ男がイラついたような声を出す。ちょっとぐらい待てないのか。せっかくの愛の語らいなのに。

 まあ、仕方ないか。ケリを付けてから、ゆっくりじっくりのんびり語らうとしよう。

 「はい、いいっスよ」

 「おっし行くで……ゥオラァ!」

 時空を飛んだんじゃないかってぐらいに、瞬時に間合いを詰めてきたチャラ男。そして僕の顔面へとストレートで放たれる拳。僕はそれを迎え撃つように、自らも前へ進み、右ストレートを放つ。

 二つの拳が二人の中心でぶつかり、双方押し合う。それが一瞬、拮抗するかに見えた。

 が。

 「……え?」

 僕の拳はいとも簡単に弾かれ、チャラ男の拳に身体ごと吹き飛ばされる。

 な、なんで? 僕の勝ちパターンじゃないの?

 吹き飛ばされ地面に倒れ伏す僕の耳に、まずくるるちゃんの悲鳴が聞こえた。そして次に聞こえたのは、チャラ男の声だった。

 「ハ、ヒーロー気取りも大したことないんやな。言っとくけど、これだけで済むって思っとったら大間違いやで。これからのあんたの学校生活は……」

 立てた親指を、くいっと下に向けるジェスチャー。

 「地獄や」

 そう言ったあと、彼は相棒を起こして、二人でどこかへと歩き去っていった。せっかく決めゼリフを言ったのに、なかなか相棒が起きなくて少し居心地悪そうにしていたのが印象的だった。

 

         * *

 

 「ごめんなさい……。わたしの為に、こんな……」

 「君が気にすることはないよ。僕は僕の為にやったことだから」

 チャラ男と角刈りのコンビが去ってから数分後。

 僕はまだ、地面の上に仰向けに転がっていた。くるるちゃんは僕の横にしゃがんで、申し訳なさそうにうなだれている。

 負けてしまってすぐは、あまりの格好悪さに穴があったら入りたいどころか、穴を掘ってでも入りたいぐらいの気分だった。だけど改めてこの状況を考えると、そう悪くないのかも知れない。

 カッコよく敵に勝つよりも、負けて落ち込んでる時の方が、女心を掴みやすいはずだ。それに今なら、長年待ち望んだあのイベントを体験できるかも知れない。

 「ところでくるるちゃん。僕、まだしばらく起き上がれそうにないんだけど」

 「ああ、本当にごめんなさい」

 「いやいや、それはいいんだ、ほんとに。だけどさ、ここの地面って、石がゴツゴツしてて、痛いんだよね。特に頭が」

 最後の部分を強調して言ってみたけど、くるるちゃんはよくわからないという風に、しばらくぽやっとしていた。こういう天然なところが可愛いんだけど、せめてここは察してくれないと困る。

 やがてくるるちゃんは何かに気付いて、近くに落ちていた自分の学生鞄を拾いに行った。中身を地面の上にぶちまけ、いくらか戻して高さを調整すると、僕の頭の下に敷いてくれた。

 「ど、どうですか?」

 「……うん。ちょうどいいよ。ありがとう」

 えへへ、と照れたように笑うくるるちゃん。

 くそう、やはり天然か。そして何という自己犠牲愛なんだ。その可愛い笑顔が心に染みるゼ。

 あまり長時間仮病をしているのも気が引けるし、そのうちに虫が身体を這い上がってきたので、僕は身体を起こした。気遣ってくれるくるるちゃんに、「大丈夫だから」と言って安心させてから、二人でくるるちゃんの鞄に物を入れ直す。

 それが終わると、僕は茂みにほったらかしの自分の鞄を持った。

 「それじゃ」

 それだけ言って、自宅への道を歩き始める。

 すると、後ろからくるるちゃんが声をかけてきた。

 「あの、わたし……」

 「ん? 何?」

 とか言いつつ、実は声をかけられることは想定内だったりする。

 「わたし、先輩をおうちまでお送りしましょうか?」

 「いやいや、女の子にそんなことをしてもらうわけにはいかないよ」

 これは本心だ。いくらケガをしてるとは言え、男が女の子に送ってもらってどうする。普通逆だろう。

 「ご迷惑……ですか?」

 「そ、んなことは、ない、けど……」

 く……、なるほど。これがリアル上目遣いか。まさかこれほどの威力を持っていようとは。この顔でお願いされたら、例えそのお願いが「一緒にアフリカのサバンナに移住してください」とかでも頷いてしまいそうだ。

 「……どうしてもって言うなら、帰り道が同じところまで送ってくれると嬉しいかな」

 「先輩がそう言うなら……」

 言うまでもなく、それこそが僕の望みだ。彼女と一緒に、おしゃべりしながら歩くこと。これに勝る幸福はない。

 そして僕らは、二人で夕焼けが照らす土手を歩き出した。

 「ねえ、くるるちゃん」

 「はいっ、なんでしょう」

 なぜか力んでいる様子が、何とも言えず微笑ましい。

 「いや、そんな固くならなくてもいいよ」

 「す、すみません」

 微笑を浮かべつつ、僕は問う。

 「くるるちゃんは、ひょっとしてイジメられてるの?」

 核心に迫る問いに、くるるちゃんの肩がピクッと揺れた。俯いた顔がすごく後ろめたそうで、なんだか申し訳なくなってくる。初めからこの話題はキツかったかな。

 僕は慌てて付け加えた。

 「くるるちゃんがそんな顔することないよ。君は悪くないんだから」

 くるるちゃんが僕の顔を見た。自信なさそうに、悪く言えば僕を疑うように、捨てられた仔犬のような瞳で僕を見つめる。

 「どうして、そう思うんですか?」

 「どうしてもこうしてもない。イジメられてる側が悪いわけないじゃないか。イジメられる方に原因があるなんて言う人もいるけど、あんなのはイジメる人間の言い訳だ」

 「本当にそう思いますか?」

 「当たり前じゃないか」

 僕は自信たっぷりにそう答えた。それを聞いたくるるちゃんが、安心したように身体の力を抜く。

 「ありがとうございます。でもやっぱり、わたしも悪いんだと思います」

 「そんなことない。くるるちゃんは悪くないよ」

 「そう……でしょうか……」

 くるるちゃんは基本的に押しが弱い。それは人をかばう時や、良いことをしようとしてる時でもそうだ。その気弱さが、くるるちゃんの優しさとかを隠してしまう。

 だけど間違いなく、くるるちゃんはいい子なんだ。自信を持って、もっと前に出るべきなんだ。

 だから僕はその思いを言葉に込めて、くるるちゃんにぶつける。

 「くるるちゃんほど優しい子は、そう居ないよ。さっきだって、子猫をかばったせいでイジメられたんだろ? って、あれ? そういえば子猫はどうしたの?」

 「あ、あの子なら、最初に入っていたダンボールの中にもう一度入ってもらいました。かわいそうですけど、残念ながらわたしの家では飼えないので……」

 「あ、そうなんだ」

 「はい。また明日、何か食べ物を持っていってあげます」

 「うん、僕も何か持ってくるよ」

 「ありがとうございます」

 律儀に腰を折った礼をするくるるちゃん。それを見た僕の口から、思わず笑いが洩れる。

顔を上げたくるるちゃんが、僕が笑っているのに気付いて不思議そうな顔をした。

 「? どうかしました?」

 「いや、くるるちゃんの猫でもないのに、そこまで丁寧にお礼言われるのもなんか変だなあと思ってさ」

 そう言うと、くるるちゃんは照れたように笑った。

 「えへへ、そうですよね。早く飼い主を見つけてあげないと」

 「くるるちゃんは、やっぱり優しい子だね」

 「え? あ……ありがとう、ございます」

 もう一度腰を折ってお辞儀するくるるちゃん。ああ、なんて可愛いんだろう。あまりの可愛さに、僕の心がとろけてしまいそうだ。そしてそのくるるちゃんと普通に会話できている僕は、なんという幸せ者なんだろう。きっと今までの僕の人生は、今日というこの日の為にあったに違いない。

 そう思うほどに、僕の心は満たされていた。チャラ男に殴られた痛みなんて忘れてしまうほど、くるるちゃんの笑顔と声には癒しのオーラがあった。

 だけどそんな楽しい時間も、いつしか終わりが訪れる。いや、楽しい時間であるほど、普段の時間より短く感じられるものだ。

 だから、くるるちゃんの家に向かう道と、僕の家に向かう道に分かれるT字路に差し掛かるまでの時間は、僕にとってはあっという間だった。

 「ここでお別れだね」

 「え? どうして……」

 疑問を唱えるくるるちゃんに、僕は片方の道を指し示しながら答える。

 「僕の家はこっちだからさ」

 「え? あの……」

 何かを言いたそうに口ごもるくるるちゃん。もしかして、僕を呼び止める言葉でも探しているんだろうか。そうだといいな。

 でも、仮にそうだったとしても、ずっとこうしてはいられない。早く帰らないと、姉さんが心配するから。だから僕は、心が引き裂かれるような思いで、片手を振って、自宅へと向かう。

 「じゃあね、くるるちゃん」

 「あ、待ってください、先輩」

 呼び止められて、僕は足を止める。振り返ると、くるるちゃんが僕の方へ駆けてきていた。

 「先輩」

 「何? くるるちゃん」

 「あの……、先輩の名前、教えてくれませんか?」

 「ああ、そういえば言ってなかったっけ。小熊だよ、小熊」

 「小熊さん……。あの、下の名前は?」

 「いやあ、ごめんね、言うの忘れてて。気まずい思いさせちゃったね」

 「いえ、ですから、下の名前は……」

 「じゃ、今度こそ、さよなら」

 「え……? あの……」

 戸惑うくるるちゃん。少しばかり可哀相だけど、どうしてもその質問だけは答えられない。断固無視。

 「待ってください! もう一つだけ……」

 「なに?」

 「下の……じゃないです! 明日!」

 僕が質問の途中で帰ろうとしたら、くるるちゃんは慌てて質問を変えた。

 「明日、また会ってもらえますか? 恩返しがしたいんです」

 まるで愛の告白でもしているかのような切実な様子に、僕は胸が締め付けられるような思いを感じた。

 「恩返しなんて、大袈裟だよ」

 「いえ、そんなことないです! で、でも……、ご迷惑なら……」

 自信なさそうにするくるるちゃんに、僕は慌てて答えを返した。

 「ううん、迷惑なんかじゃない。それに僕としても、もう少し君と話したいかなと思うし」

 「ほ、本当ですか?」

 くるるちゃんが、ぱあっと花が咲くように笑みを浮かべた。すごく嬉しそうだ。でも僕だって、負けず劣らず嬉しい。念願のくるるちゃんと仲良くなれるチャンスなんだから。

 「それじゃ、また明日」

 「はい、よろしくお願いします!」

 よほど嬉しかったのか、別れ際にそんなことを言われた。何をよろしくお願いするんだか……。少し呆れながらも、そんなおっちょこちょいのくるるちゃんが可愛くて、顔がついついにやけてしまう。そのことを悟られないように、わざと顔を背けて家に帰る。内心はもう一度振り返って、くるるちゃんの姿を確認したかったけど、未練タラタラだと、やっぱり男らしくないしね。

 そうしてしばらく歩いた時、

 「せんぱーいっ」

 後ろからまた呼び止められた。

 振り返る言い訳ができたことを喜びながらも、表面上は「やれやれ、何回呼び止めるんだ?」とでも言いたそうなニヒルな態度をとる。

 「ごめんなさーいっ。でもっ、どうしても言っておきたいことがあってー!」

 必要以上に声を張り上げるくるるちゃん。その必死さがなんとも、男心を刺激する。守りたくなるっていうか。

 「今日は、助けてくださって、本当に、ありがとうございましたー!」

 例によって、腰を折ったお辞儀をした。

 そうか、お礼を言う為に呼び止めたのか。明日恩返ししてくれるなら、その時でもいいだろうに、なんて律儀ないい子なんだろう。

 今度は、内心の喜びを抑えきれなかった。きっと自分はだらしない顔をしているんだろうなと思いながら、僕もくるるちゃんに倣って声を張り上げる。

 「どういたしましてー! また明日―!」

 「はいっ。また明日ー!」

 また明日、か。なんていい響きなんだろう。また明日くるるちゃんとこんな風に話せるのかと思うと、明日は何があろうと登校したい。

 お互いに見えなくなるまで手を振り合う。曲がり角を曲がって、姿が見えなくなる。振っていた手を下ろして、前を向き、歩く。

 歩く。

 歩く。

 歩くうちに、僕の中に何かがふつふつと沸き上がってくる。この感情は――そう、喜びだ。

 僕はたまらず、走り出していた。

 やった!

 まさか僕がくるるちゃんとこんな風に話せるなんて! あんな近い距離で一緒に歩けるなんて! 夢にも思わなかった……いや、夢でなら何度も、それこそ数え切れないくらい見たけど、それがまさかリアルで実現するなんて……。ほんとに夢じゃないだろうか。マンガじゃあるまいし自分の頬をつねったりはしないけれど、未だに信じられない。

 ドッキリとかじゃないよね? もしそうだったら、僕百回ぐらい死んじゃうよ?

 ああ、幸せだ。ストーカーしてて良かった……!

 

 ――そう、僕はストーカーだ。

 

 それもそんじょそこらにいるストーカーとはワケが違う。この年にしてストーカー歴十年。筋金入りのストーカーと言っていい。

 なぜ僕がストーカーをしているのか。

 誰かがそんなことを訊いてきたとしたら、僕は、「ストーカーだから」と答えるしかない。例えばそこら辺にいる人が、「あなたはなぜ人間なんですか?」と訊かれたとして、とっさに答えられる人はどれだけいるだろう。

 「地球はどうして丸いんですか?」「カラスはどうして黒いんですか?」「車はなぜ車と呼ぶんですか?」

 頭がいい人なら答えられるだろう。やたらと長ったらしい雑学を聞かせてくれる人もいるかもしれない。でもこれらの問いに対しては、そんなややこしい答えよりも、もっと簡単な一言で済ませることができる。そう、「そういうものだから」。

 つまりはそういうことだ。僕がストーカーなのは、ストーカーだからストーカーなのであって、その背景になにかお涙頂戴のエピソードがあるわけじゃない。

 子供の頃はいい子だったのに、悲しい事件があってストーカーを始めた……なんて、そんなこと言う奴がいたとしたら、そしてその話に感動でもした日には、それは間違いなくそいつに騙されている。そんなエピソードがある奴は、ストーカーなんてさっさとやめてしまえ。言い訳しながらストーカーするんじゃない。そんなのは、世界中のストーカーに対する冒涜だ。

 改めて言おう。

 僕はストーカーだ。

 誇り高きストーカーだ。

 女の子を愛し、女の子を見守り続けることを自分の使命と信じて疑わない、紛うことなきストーカーだ。

 僕の全てを知れば、世の多くの人は僕のことを変態と呼ぶだろう。犯罪者と罵る人もいるかも知れない。

 しかしそれは、僕の全てを知ればの話だ。

 僕はストーカー歴十年。いまさら尻尾をつかませるようなことはしない。つまり僕がストーカーだと知っている人間は、この世にはいない。もちろん、あの世にもいない。

 全ては僕の中の秘密であり、墓まで持っていく秘密だ。ストーキングして得た情報をひけらかすとか、女の子を怖がらせて愉悦に浸るとか、そういう趣味は持ち合わせていない。

 だって僕は、女の子という存在を愛してるんだから。怖がらせて何が楽しいんだ。僕は女の子が笑ってる顔を見るのが好きなんだ。泣いてる顔もときたまキュンと来るけど、やっぱり笑った顔が一番だ。

 そんな僕だけど、くるるちゃんのストーカーを始めたのは実はつい最近。くるるちゃんがこの学校に入学してからのことだ。

 一目見た時からその愛らしさに惹かれて、ストーカーを始めてからはそのおっちょこちょいなところに魅力を感じて、今ではその聖母のような優しさの虜になっている。

 さっき、くるるちゃんがチャラ男に絡まれていたことや、学校の廊下で茶髪たちにイジメられていたのを、あたかも見て、聞いて、知っているが如くに語れるのは、間違いなく見て、聞いて、知っているからだ。授業が終わってすぐくるるちゃんの教室に向かって、そこからずっとストーキングしていた。

 イジメられているのを黙って見過ごすのは、本当に辛かった。あの時に握りしめた両掌には、くっきりと爪の跡が残っている。

 でも僕はストーカーだから……。

 ストーカーは、絶対に相手と接触してはいけない。なぜなら大抵の場合、女の子を傷付ける結果に終わるから。

 仮にその女の子と上手く接触して、仲良くなったとしても、その間柄には、常に秘密が付き纏う。自分がストーカーだったことがバレれば、一00%破局。更に女の子の心には、一生消えない傷が残る。

 秘密を隠し通したとしても、どこかにぎこちなさが残り、すれ違って、最後には破局してしまうだろう。

 だからストーカーは、相手と接触してはいけない。

 「だけど……」

 僕は足を止めた。

 浮かれていた気分が、いつの間にかすっかり萎えてしまっている。

 さっきは、どうしても止めに入るしかなかった。

 くるるちゃんが殴られそうになった時、僕の頭の中で二週間前の記憶がフラッシュバックした。

 

         * *

 

 ――二週間前。

 僕はくるるちゃんとは別の子をストーキングしていた。

 彼女の名前は上村菫ちゃん。身長一四六センチ、体重三五キロ。くるるちゃんと一緒にいたら大きく見えるけれど、同年代である高校一年生女子の中ではどちらかというと小さい方に入る。髪の長いくるるちゃんとは対照的な短いショートカットが、見る人にさっぱりした印象を与える。

 だけどその見た目に反して、性格の大人しい、悪く言えば暗くて無口な女の子だった。

 その頃から、僕はくるるちゃんのことが好きだったけど、二人はまるでセットみたいにいつも一緒にいたから、僕はその日の気分次第で、くるるちゃんか、菫ちゃんか、どっちを優先してストーキングするか決めていた。

 そしてその日は、気分以前に菫ちゃんしか見つからなかった。

 菫ちゃんは園芸委員だ。だから放課後は、しょっちゅう花壇の世話をしていた。くるるちゃんも付き合って一緒にやってることが多かったけど、その日は何か用事でもあったのか、菫ちゃん一人だった。

 菫ちゃんは草花が好きだ。だから水やりをする時は、幸せそうに鼻歌を歌っているのが常だった。人と話す時はいつも無表情で口数も少ない菫ちゃんが、その時だけは微笑みを見せる。そんな菫ちゃんは、菫というよりも、まるで向日葵のようだった。そして僕は、その笑顔が大好きだった。

 だけどその日、菫ちゃんは笑っていなかった。その理由は、すぐに察しがついた。

 僕は知っていたから。菫ちゃんがイジメを受けていることを。

 くるるちゃんの前のターゲット――今の一年生が入学して最初のターゲットが、菫ちゃんだったんだ。

 きっと、酷いイジメに遭ったんだろう。それで楽しい水やりの時間にまで、そのことを引きずってしまっているんだろうと思った。

 僕は憤った。

 どうしてこんな可愛い子をイジメるんだろう。可愛いからいけないのか? 嫉妬しているのか? だからってそんなのは、イジメていい理由にはならない。そもそもイジメていい理由なんか、この世には存在しない。

 内心の怒りを押し隠しながら、僕はストーカーを続けた。時には茂みに身を隠しながら、時には通行人を装いながら、僕は菫ちゃんを見守り続けた。

 もうすぐ水やりが終わるという頃になって、何人かの男女のグループが、菫ちゃんに近付いていった。

 その時に、嫌な予感はしたんだ。そいつらの下卑た笑いを見て、菫ちゃんが危ないって思ったんだ。でも僕には、止める術がなかった。

 その後は、さっきのくるるちゃんとほとんど同じだった。大きな違いとしては、菫ちゃんのところにヒーローは現れなかったことだ。

 そいつらが、何か言い掛かりをつけた。菫ちゃんが、言葉少なに返答した。更に言い掛かりをつけられた。菫ちゃんは何も言えなくなって、固まった。

 一人の女子が、菫ちゃんを突き飛ばした。菫ちゃんが倒れた。倒れる時に、花がいくつか下敷きになった。菫ちゃんはそのことにショックを受けた様子だった。ショックを受けていたせいで、その時に話しかけてきた男に返事ができなかった。

 それを無視されていると勘違いした男が、菫ちゃんを蹴った。それをきっかけにして、リンチが始まった。菫ちゃんは、されるがままだった。そして僕は、歯を食いしばって見てるだけだった。

 そして、次の日。

 菫ちゃんは登校しなかった。

 次の日も、その次の日も、そのまた次の日も。一週間経っても、二週間経っても、菫ちゃんは登校して来なかった。

 僕は激しく後悔した。どうしてあの時、止めに入らなかったんだろう。

 止める術がなかった? 違う。止めることはできた。ただやろうとしなかっただけだ。ストーカーという制約なんか無視して、止めに入るべきだったんだ。

 何度やり直したいと思っただろう。何度夢に見ただろう。だけどいくら願っても、いくら夢に見ても、過去は変えられない。僕は菫ちゃんを見捨てた。その過去は絶対に変えられない。

 だからこそ僕は、今度は躊躇わなかった。くるるちゃんのピンチに、迷いなく飛び出すことができた。そのことに後悔はない。

 

         * *

 

 「だけど……」

 僕はもう一度呟いた。

 ストーカーの制約。それを破ってしまった。

 仕方なかったとは言え、これからどうすればいいんだろう。

 くるるちゃんと話せた、やったー、なんて浮かれてる場合じゃないんだ。これからくるるちゃんと、どう接していけばいいんだろう。

 「はぁ……」

 重いため息をつきながら、僕は家の玄関をくぐった。

 「お帰りっ、ごんちゃん!」

 途端に、エプロン姿の姉に抱き着かれた。

 「な、た、な、」

 突然の出来事に上手く言葉が発せない。そんな僕に、抱き着いたまま頬擦りをしてくる姉さん。

 「心配したよぅ。帰るの遅いんだもん。どうしたの?」

 「いや、遅いったって。心配するほどじゃ……。まだ五時半だし」

 「いつも五時には帰ってくるじゃない」

 こ、細かい。

 どう言い訳したものか考えていると、やっと姉さんが頬擦りから解放してくれた。

 「あ」

 「な、何? 今度は」

 僕の顔を見た姉さんが、何かを探るようにじーっと見詰めてくる。あまりの顔の近さに、気恥ずかしさが増していく。

 「な、なんだよ」

 それを隠す為に、わざと怒った風を装いながら、視線を逸らす。

 しかし姉さんの手が素早く僕の顔に伸びて、無理矢理に真っ正面から見つめ合うような向きにされる。

 「……う、」

 姉さんの大きくて綺麗な瞳が、しっかりと僕の顔を捕らえる。目線だけでも逸らせればいいんだけど、一度捕まった目線を外すのは気持ち的に難しい。

 「……ごんちゃん、怪我してる」

 「え? ぅわっ!」

 何かボソッと呟いたかと思うと、急に手を引かれて、居間へと強制連行された。

 「ちょ、だから、何だよいきなり!」

 されるがままっていうのも悔しいので(これが反抗期?)、少し荒っぽく手を振り払った。だけど姉さんはそんな僕の行動に動じることなく、医療セットの入った引き出しを開けた。

 「あ、そっか」

 それを見て、僕はようやく気付いた。チャラ男に殴られて、僕は顔に痣ができてるんだろう。くるるちゃんのことで頭がいっぱいで、すっかり忘れてた。

 あー、どうしよ。まさか心配性の姉さんに「喧嘩した」なんて言えないし……。

 「あ、あの。これはさ……」

 「言い訳はあとでいいの。今は手当てが先」

 「はい……」

 結局は言いなりの僕。我ながら、弱すぎる。

 台所を往復して氷嚢を作ってきた姉さんは、エプロンを外すと、畳の上に置かれた座布団に正座した。

 「はい、ごんちゃん。寝転んで」

 言いながら自分の膝をぽんぽんと叩く姉さん。

 「…………」

 僕はくるるちゃんほど鈍くない。

 だけど敢えてわからないふりをして、何もない畳の上に寝転んだ。

 そんな抵抗も空しく、座布団ごと擦り寄ってきた姉さんに頭を持ち上げられ、膝枕される。

 くるるちゃんにして欲しかったはずのイベントを、まさか姉さんにしてもらうことになるとは……。でも姉さんには今までにも何度かしてもらってるから、あんまり嬉しくないし、ドキドキもしない。……いや、ゴメン、嘘。

 甘い匂いとか、柔らかい膝の感触とか、下から見上げる風景とか、何回やってもまじドキドキです、はい。

 

 * *

 

 少し話すのが遅くなったけど、ここで僕の家庭環境について。

 僕の家には両親がいない。姉弟二人だけで暮らしている。

 と言っても、決して僕が幼い頃に交通事故で死んでしまったとか、僕は橋の下で拾った捨て子だったとか、そういうことじゃない。僕の両親は、三年ぐらい前から仕事の為に海外へ行っているんだ。なんか宣伝の仕事とか言ってた気がするけど、僕にはよくわからない。

 両親が外国に行った時、、僕は中学一年。姉の木実は、高校三年だった。

 当時姉さんが通っていたのは、僕が今通ってる椚山高校だ。ラインギリギリで、運良く受かったような僕とは違い、姉さんはトップクラスの成績で合格した。

 設立当初からエリートの通う高校として評判の高かった椚山高校は、残念なことに、実家から遠く離れた位置にあった。姉さんは高校の近くに家を借りて、そこで一人暮らしをしていた。

 一方、僕が通っていた中学校は、どこにでもある平凡な中学校。姉さんと違って転校は楽だったし、転校を引き止めようとする友情に熱い友達も恋人も、僕には存在しなかった。

 必然、実家を引き払って、僕が姉さんの家に住むことになった。それがいつ決まったのか、僕は知らない。少なくとも、僕が外国行きのことを知った時点で、既に決まってたような気がする。

 「他になんかないの?」

 転校の手続きとかがぽんぽん進んでいく中で、僕は両親に訊いた。姉さんの家に住む以外に、僕に選択肢はないのか、と。別に深い意味があったわけじゃない。姉さんと一緒に住むのが嫌だったわけでもない。ただ、親の言う通りにするのが嫌だっていう、反抗期的な思考から来た言葉だった。

 それに対する両親の言葉は、本当にひどかった。

 「なんかってなんだ? ちゃんと考えてから喋れ」

 「一人暮らしでもするっての? 部屋の掃除もろくにできないあんたが? 向こうからじゃ、朝起こしにも来てあげられないのよ?」

 正論だ。反論のしようもなかった。でも、そこまで言わなくてもいいじゃないか。

 家の中での僕の扱いは、往々にしてこんなものだった。あの両親から、あの優しい天使のような姉さんが生まれたことが僕には不思議でならない。姉さんこそ、どこかで拾われてきた子なんじゃないだろうか。

 まあそんなわけで、僕は否応なしに姉さんの家に引っ越すことになった。二年以上別居していた姉さんと二人っきりという環境に、最初は少し戸惑ったけど、そのうちに慣れた。しかも今では、自然に膝枕もしてもらえるようになっている。

 いや、知ってるさ。膝枕する姉弟が自然じゃないってことぐらい、僕だって知ってるさ。でも姉さんのほうから無理矢理してくるんだから、仕方ないじゃないか! 別に僕だって、好きでしてもらってるわけじゃ(以下略)

 

 * *

 

 「――そう、転んだの」

 「はい……、転んだのです」

 膝枕で氷嚢を当てられながら、姉さんに痣の理由を訊かれた僕。こういう時にべたな嘘しか思い付かない自分が憎い。

 姉さんは、それ以上は追及して来なかった。ただ……、

 「まぁいいけど……。本当に困った時は、お姉ちゃんに話してね。何もできないかも知れないけど、相談ぐらいなら乗ってあげれるから」

 全然信じてなかったけど。ま、信じろって方が無理あるか。

 「心配しなくても大丈夫だよ、姉さん」

 「ならいいけど……」

 左手で氷嚢を当てながら、右手で優しく頭を撫でられる。いつもなら「くすぐったいよ」とか言いながら嫌がるところだけど、今日は大人しくされておくことにした。

 「そうだ。明日のお弁当、ごんちゃんの好きなハンバーグにしよっか?」

 「僕の好きなって……。別にそこまで好きじゃないし」

 「あれ? そうなんだ」

 嘘だ。かなり好き。でも僕がハンバーグを好きだってこと、姉さんに言った覚えはない。なんでわかるんだろう?

 「じゃあ、ごんちゃんは何が好き?」

 「うーん、お刺身かな」

 もちろん、お弁当にお刺身が入れられないことぐらいわかってる。僕は具なしの袋ラーメンぐらいしか料理のできない男だけど、お弁当にお刺身を入れるとどうなるかは知っている。小学校時代の夏の遠足で体験したからだ。

 遠足と聞けば、大抵の人は楽しかった思い出を思い出すのだろうけど、僕の場合は違う。僕が真っ先に思い出すのは、糸引く刺身のお弁当だ。おかげで僕は、刺身をお弁当に入れられないということを知っている。失敗は成功の母と言うけれど、僕の成功の母は、母の失敗だ。

 そんな僕が姉さんにお弁当のおかずのリクエストを訊かれて「お刺身」と答えたのは、単なるイジワルだ。ちょっと姉さんを困らせてみようと思って、

 「わかった。お刺身だね」

 「え」

 困らせてみようと思ったんだけど……。

 「任せて! すっごくおいしいお弁当作るからっ」

 「姉さん……?」

 にこやかな笑顔で了承されてしまった。

 「なんのお刺身にしよっかな~。マグロかな? カツオかな?」

 「いや、ちょっと待って」

 脳裏に――いや舌の上に、遠足で食べた刺身の味が蘇った。僕は、姉さんを止めた。

 「ゴメン嘘なんだ。僕の好物が刺身っていうのは嘘で、お弁当に刺身はダメで、しかも今は夏で、とにかく頼むから弁当に刺身はやめて!」

 僕の必死の懇願に、姉さんは、

 「……ふふっ」

 「え?」

 笑った。さっきよりも楽しそうに。堪えきれないというように。

 「あはははは、だまされたー。ごんちゃんがだーまさーれたー。あはははっ」

 「え? なに?」

 「弁当にお刺身なんて、入れるわけないじゃない」

 「あ……」

 そうか。母さんと違って料理の上手な姉さんが、そんな間抜けなことするわけない。つまり僕はからかわれてたのか。

 あれ? じゃ、もしかして、ハンバーグが好物じゃないって嘘ついた時点でバレてたってこと?

 え? え……?

 「あーくそっ! やられたっ」

 「ふふ、まだまだお姉ちゃんに勝つには、修行が足りないね」

 笑いながら、姉さんは僕の頭から氷嚢を外した。冷たさに慣れた頭皮が、空気を暑く感じる。

 じっと見詰めたあと、姉さんが軽く患部を撫でた。チクっとした痛みが走ったけど、顔をしかめるほどでもなかった。

 「腫れもひいたみたいだね。あとは、湿布貼って良しとしよっか」

 「ごめんね、姉さん」

 「そういう時は、『ごめん』じゃなくて『ありがとう』のほうがいいかも」

 「……うん。ありがとう、姉さん」

 「どういたしまして。ご飯にしよっか」

 「うん」

 立ち上がって、台所兼食堂へと向かう。

 いつの間にか、くるるちゃんのことで落ち込んでいた心がすっかり軽くなっていた。悩みが解決したんじゃないとは言え、こういう時に明るい家族がいてくれるのはありがたいな、と思った。

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