第五章 ずっと一緒に
僕の幼なじみ、唯は、空手四段だ。マンガでよく見るような瓦割りも、朝飯前でやってのける。
そのくせ怒ると、すぐに殴る。僕を。他の人間は殴らない。いつか訴えてやろうと思うんだけど、それが日常茶飯事になってしまうとどうも踏ん切りがつかない。慣れっておそろしいね。
でも今思うと、普段唯が殴る時は、かなり手加減されてたんだと思う。あるいは、わざと痛くないところを殴ってたのか。なぜそう思うのかと言うと……、
「ぐがっ!」
今五人の男に袋だたきされてるほうが、全然痛いから。こいつら全員が空手有段者というのは、まずありえないし。
なんで僕がこんな状況になってるのか。殴られながら考えてみた。
チャラ男の報復っていうのは、あくまでもいくつかある理由の一つに過ぎないと思う。だって河原でくるるちゃんを助けたのは、もうかれこれ一週間以上前の話なんだから。
他に理由――しかも最近起こったことと言えば、やっぱりシス研だろうか。
僕がシス研をぶち壊したのは、つい三日前のことだ。いくら自分で作ったサイトとは言え、あれだけ大々的にやってたことを個人的な都合でめちゃくちゃにされたら、腹を立てる人も多いだろう。
そこに、チャラ男が呼び掛けた。
『俺はシス研会長に心当たりがある。一緒に制裁しないか』
こんなところかな。
頭の回る光輝はともかく、こんなやつにまで僕の正体がバレるなんて……。
ま、どうでもいっか。早く殴り飽きてくれないかなあ。それか、僕の意識がなくなればいいのに。
「気にいらんな」
途切れそうになる意識の中で、チャラ男の声を聞いた。
「……な、にが……?」
「あんたのその腹立つツラのことや。なんなんよその顔は。もっと苦しそうにしとけよ」
…………苦しそうに、ね。
「……ふふ」
「ん?」
「それは無理だよ。だって今の僕は、サイッコーに幸せだから」
それを聞いたチャラ男が、気持ち悪いものを見る目になる。
「殴られて幸せ……? あんたまさか……」
「いや、そういう意味じゃないよ。たださ、僕は今、くるるちゃんの身代わりに殴られてる。僕が殴られた分だけくるるちゃんが普通の学校生活を送れるんだと思うと、これほど幸せなことはないよね」
「何ソレ。あんた、頭狂っとるやろ?」
「まあ、そう思ってくれても構わないけどね」
「……ッ! コイツ!」
切れたチャラ男が、僕の腹に蹴りを入れた。そのつま先は、しっかりと僕のみぞおちに入る。
「ぐがあぁっ! ……あ、あ、ふ、ふふふふ」
でも僕は笑うのをやめない。
「くそったれ! コイツ、完璧に脳みそイっとるわ!」
苛立たしそうに、チャラ男が倉庫の壁を蹴った。そのあと、倉庫を睨みつけながら、ぶつぶつと独り言を言う。
「……どうしたらいいんや? こいつ苦しめるには、どうしたら……」
僕はそんなチャラ男に、余裕の笑みを向けてやる。
「無駄だよ。どんなことされたって、僕は笑って受け流してやる」
「お前、ちょお黙っ……」
「先輩!」
その時聞こえてきたのは、この状況で一番聞きたくない声だった。
声の主が誰なのかは、見なくてもわかる。わかるけど、それでも僕は、目で確認せずにはいられなかった。
「くるるちゃん……?」
校舎の角から、荒く息を弾ませたくるるちゃんが姿を見せていた。ストレートに下ろした髪が、ボサボサに乱れている。
どうしてここに来たんだ。なんでこの場所がわかった? そもそも今の僕はくるるちゃんに嫌われているんだ。僕がリンチされているのを知ったところで、くるるちゃんがここに来る理由はないはずなのに。
「大丈夫ですか先輩!」
大声で叫びながら、男たちの間を掻き分けて、くるるちゃんがやってくる。先輩って誰のことだ。僕か? それともこの中に、僕以外でくるるちゃんの知り合いがいるのか?
違った。先輩はやっぱり僕だった。くるるちゃんが駆け寄ってきたのは、僕のところだった。地面の上に尻餅をついた僕の前にくるるちゃんが両膝をついて、気遣う言葉をかけてくる。「ひどい……」「大丈夫ですか?」「ごめんなさい」その声は聞こえているけど、言葉として理解できない。理解する余裕がない。
どうしたらいい? 考えろ、考えろ。
とりあえず、くるるちゃんがここに来た理由は今はどうでもいい。くるるちゃんをここから離れさせることが、何よりも最優先だ。そうしないと、くるるちゃんがチャラ男の奴に……。
「そうか、その手があったな」
チャラ男が小さく呟いたのが聞こえた。まずい。これは、まずい。まずいぞ……!
「あんたら、そのアマ縛れ」
「お前……!」
四人の男たちへ指示を出したチャラ男に、僕は思わず全力で叫んでいた。
「くるるちゃんには手を出すな! もしなんかしたら、お前を殺してやる!」
だけどチャラ男は、全く動じた様子がない。むしろ愉悦の表情を浮かべた。
「そうや。その顔が見たかったんや。ハハハ」
くそ! まさかこうなるとは……。どうする? なんとかくるるちゃんだけでも助けられないか?
「ほら、はよせいって」
チャラ男に急き立てられて、男の一人がこっちにやって来た。いや、二人か。後ろにもう一人、長身の男がついてきている。二人が来るまで、もう間がない。くそ、くそ……。
何もできない僕の前で、長身の男が、もう一人の男の襟首をつかんだ。そのまま後ろに引っ張って、腹に拳を入れる。
「――え?」
殴られた男は、小さく呻き声を上げながら、地面の上に倒れた。
目の前で起こった出来事を、俄には理解できなかった。もう一度、頭の中で再現してみる。
僕とくるるちゃんが襲われそうになったところで、長身の男が、仲間を殴った。
え? これって、つまりどういうこと?
「何やってんや! 裏切る気ィか!」
チャラ男のその言葉で、やっと理解する。そうだ、これは裏切りだ。でもどうして?
長身の男が、チッチッチッと指を振る。
「違うっつの。オレッチが裏切ったんじゃなくて、お前がオレッチを裏切ったんだゼ」
その声は、明らかにこの状況を楽しんでいる声だった。
「オレッチはさ、『シス研会長を殴りてえ奴は来い』って言われたから来ただけだゼ。ここまでするなんて聞いてないっつの。ある程度は脇役らしく場の空気に流されてやろうと思ったが、ヒロインも登場して、このままじゃオレッチのほうが悪役だゼ。そんなの御免だっつの」
僕は、長身の話し方に聞き覚えがあるような気がした。
でも、そんなことはありえない。僕はこんな低くて渋い声は聞いたことがないし、そもそも顔も見たことのない男なのに、声だけ聞いたことがあるなんて、ありえない。いや、最近はネットとかで、顔は知らないけど友達なんて話もあるけど……。
ネット? そうだ、ネットだ。
シス研で見たことがあるんだ、この喋り方を。聞き覚えがあるんじゃない。見覚えがあるんだ。この喋り方をするのは確か……。
「……サスケさん?」
頭に過ぎったハンドルネームを小さな声で口にすると、長身の男がちらっとこっちを見た。その顔は、少し笑っているようだった。
そこでチャラ男が、苛立ったように声を荒げた。
「ゴチャゴチャうっさいわ! 文句あるんやったら、今すぐこっから出てけ!」
「そうもいかねっつの。オレッチは正義の味方だゼ? 目の前の横暴を、そう易々とは見逃せねえっつの」
恥ずかしげもなく、そんなセリフを言えることに、少しばかり感心する。僕もそれぐらい言えたらいいのに。
だけど僕を感心させたそのセリフは、チャラ男には癪に障ったらしい。ブチィ、と血管の切れる音が聞こえた気がした。
「だぁー! ホンッッマうっといわ!! あんたらァ! このうっとい奴痛めつけたれ!」
チャラ男に言われて、二人の男が前に出た。さっきサスケさんに殴られた男も、腹を押さえながら立ち上がってくる。
「いいゼ、三対一。ヒーローなら、悪の戦闘員三人ぐらい瞬殺だゼ」
言いながら、サスケさんは拳をポキポキと鳴らした。その気迫に、三人は少したじろいだが、人数で勝っているからか、下がろうとはしない。
「いくゼ!」
「「「うぉぉぉ!!」」」
壮絶な乱闘が始まった。折り重なるように襲いかかる三人の男を、サスケさんが躱し、弾き、いなす。大口叩くだけあって、サスケさんは強かった。だけど多勢に無勢だ。三人がかりの連続攻撃に、サスケさんは反撃に移る間もない。あれで本当に勝てるんだろうか。
心配ではあるけれど、僕が助けに入るわけにはいかない。僕には他に、すべきことがある。
僕とチャラ男は、どちらからともなく横に移動し、乱闘から離れていった。その間、僕はチャラ男を睨み、チャラ男は僕を睨んでいた。口にするまでもない。僕とチャラ男の決闘は、必至だった。
チャラ男と対峙していて、後ろにはくるるちゃんがいる。一週間前、河原の時と同じ立ち位置だ。でも、
「先輩、やめてください……! わたしの為に、そんな……」
あの時は、くるるちゃんはただのか弱い女の子だった。自分の思いを、しっかり人に伝えることもできなかった。今は違う。前よりもはっきりと喋ってくれるし、男たちに囲まれている今の状況でも、物怖じせずに立ち向かってる。
「くるるちゃんは、下がってるんだ」
僕はそれだけしか言わなかった。くるるちゃんを説き伏せようとは思わなかった。説き伏せられるとも思わなかったし、今その必要があるとも思わなかった。くるるちゃんが納得できなくたって、有無を言わせずに決闘を始めればいい。
緊張感が高まる。神経が研ぎ澄まされる。すぐ隣の乱闘が、遠く離れていくような錯覚に囚われる。
「ぅおりゃああ!」
気合いの掛け声と共に、蹴りを放つ。チャラ男の腹を狙った、横なぎの蹴りを。
以前片手でやすやすと受け止められた蹴りだ。きっと受け止められるだろう。だけど受け止められた後のことは考えてある。
その時、チャラ男が笑った。その笑いの中に、僕はチャラ男の声を聞いた気がした。
『そうはいかへんで』
「なっ!?」
次の瞬間には、チャラ男の顔が目の前にあった。鼻と鼻が触れ合うほどの至近距離。
そうか。この距離なら、 わざわざ受け止めなくても僕の蹴りは当たらない。
僕に近づいてきた勢いのままに、チャラ男の額が僕の鼻っ柱に打ち込まれる。
「ぐっ!」
鼻の奥が熱い。脳天に響く衝撃に、たまらず僕はのけぞった。そんな僕の腹へ、槍のようにチャラ男の蹴りが放たれる。
両腕でガードして、なんとか直撃は免れた。でも体勢が悪かったせいで衝撃は殺しきれず、地面に背中をつけてしまう。
「ぅオラ!」
そこに再度、チャラ男の蹴り。僕は吹き飛ばされて地面を転がった。
「く、そ……」
「おーい、そんなもんなんかぁ? 愛しのくるるちゃんがどうなってもいいんかぁ?」
馬鹿にしたように笑うチャラ男を、僕は睨みつけた。
「はン、最初っからそういう顔しといたらいいんよ。で、どうするん? なんか卑怯な手ェでも使うか?」
僕は左手で地面に爪を立てながら、悔しさに歯を食いしばる。
「……ても……」
「あン?」
「卑怯な手なんか使わなくても、お前になんか負けない! 女の子を人質にするような男のクズなんかに!」
「……………………ぷっちーん」
わざわざ口で血管の切れる音を出したチャラ男は、事実そんな顔をしていた。
「もう、どうなっても知らんからな……!」
恐ろしい形相。空気さえ歪んで見えそうな怒りと共に、チャラ男が近づいてくる。僕はそれに気圧されないように、左手を強く握りしめて自分自身を奮い立たせた。
まだ。
あと少し。
もうちょっと。
……今だ!
「くらえ!」
「な、ば!」
僕の投げた砂が、チャラ男の目に入った。いける!
「砂で目潰しやと……! 卑怯な手は使わへんって言ったやろ!」
「人質使うような奴に、卑怯とか言われたくない!」
僕の反撃が始まった。
右手、左手、右足、左足。四つの肢体で、続けざまに攻撃する。少しずつチャラ男を押していく。
「僕は、負けない! くるるちゃんの、為に、何が、あっても、どんな、汚い手を、使って、でも、絶対に、負けないんだ!」
一言ごとに蹴りを放ち、拳を放つ。チャラ男の顔が苦渋に染まり、僕は勝利を確信した。
「クソォーッ!!」
よし、とどめだ……!
――と、
闇雲に振るったチャラ男の拳が、偶然僕の顔に当たった。
「え……?」
その一撃で、急に身体の力が抜けた。チャラ男がゆがんで……違う、僕の視界がゆがんでるんだ。
地面に膝を付いた。まるで身体の中から、大事な歯車が一つ抜け落ちたような気分だった。手を付くことすらできずに、僕は無様に倒れ込んだ。痛みはなかった。ただ、身体が鉛のように重かった。
身体は全く動かない。目だけをなんとか動かして、チャラ男のほうを見た。口が動いてて、何か喋っているみたいだったけど、よく聞きとれなかった。肩で息をしながら、獲物を捉えた獣のような、にやついた目をしている。
そう、チャラ男は笑っていた。その笑いを見て、僕は「やばいな」と思った。このままじゃまずいってこともわかった。なのに、どうがんばっても身体は動いてくれない。
どうしよう、どうしたらいい? 気持ちが焦るばかりで、どうにもならない。
「先輩!」
駆け寄ってきたくるるちゃんが、僕のことを助け起こしてくれた。なぜかくるるちゃんの声だけは、聞こえていた。
くるるちゃん。
そうだ、僕は君を助けたい。何が何でも、君を助けたいんだ。その為なら、僕はどんな犠牲でも払おうと思った。君に嫌われたっていいと思った。
だから、シス研に君の記事を載せた。あんなことをすれば、僕がストーカーだということが君にバレてしまうとわかっていた。それでも、君をこれ以上酷い目に遭わせたくなかったんだ。
ああ、だけど。本当は嫌われたくなんかなかったさ。あの日、屋上で全てを打ち明けた時に、「それでもわたしは先輩が好きです」と君が言ってくれることを、心のどこかで期待していた。怯えて後退る君を見た時、僕は自分で予想していたよりも、深く、深く、傷ついた。裏切られたような気持ちになったし、君のことを恨んだりもした。
でも後悔はなかった。どんなに恨んでも、やっぱり僕は君のことが好きだから。
――くるるちゃん。
支えてくれるその細い腕から、言葉では表現できない何かが流れ込んでくる。
なんだろう、これは。流れ込んできて、僕の全身を駆け巡る。さっきまで少しも動かなかった身体が、少しずつ力を取り戻していく。
僕は、くるるちゃんの二の腕を掴んだ。動いた、身体が。まだまだ、どんどん力が湧いてくる。
何でもできる。そんな気分にさせてくれる。
――ありがとう。
口には出さずに、心の中だけでお礼を言って、僕は立ち上がった。
足には限界が来ている。フラフラで、満足に歩くこともできそうにない。なのに不思議と、負ける気がしなかった。
チャラ男が走り込んでくる。何かを叫んでいる。でもやっぱり聞こえない。
チャラ男が拳を繰り出す。動きがスローに見える。僕はチャラ男の動きに釣られるようにして、自分の拳を構えた。
僕の拳と、チャラ男の拳が、真ん中で激しくぶつかり合う。
チャラ男が驚愕に目を見開く。奇しくも、いつか僕が負けた時と同じ状況だった。
だけど前とは違う。
今の僕は、くるるちゃんの為に闘ってる。そうだ。くるるちゃんの為に闘ってる僕が、自分の為に闘ってるチャラ男なんかに負けるわけがないんだ。
思い返すと、前にチャラ男に負けた時、その直前にチャラ男はこう言った。『くるくるは勘弁してやる』と。
つまりあの時、僕が闘ってたのはくるるちゃんの為じゃなかった。だから僕は力が入らなくて、押し負けたんだ。でも、くるるちゃんが懸かってるこの勝負なら、負けない。負けるわけがない。
「――――――――」
喉が震える。身体が熱い。
まるで自分が、右腕一本の存在になってしまったみたいだ。身体は、右腕になった僕を押し出す為の発射台だ。僕は、くるるちゃんから受け取った力をその身に集中させて、ゆっくりと前進する。そして……、
チャラ男の拳を押し返し、はじき飛ばした。
ゆっくりと前進しているつもりだったけど、実際の時間で言えば一瞬だったのかもしれない。チャラ男が勢い良く後ろに吹き飛んでいく。
やがて音を立てて、チャラ男が地面に落下した。
その瞬間、いつもの感覚が戻ってきた。時間が戻り、音が流れ、意識が右腕から帰ってくる。
「ハア、ハア、」
息が切れる。マラソンを走ったあとみたいに、全身がぐったりしている。僕は思わず、膝をついた。
僕は……、勝ったのか?
「せ、先輩!」
くるるちゃんが、僕の胸へと飛び込んできた。
「よかった……! 本当によかった」
喜びが胸に湧き踊る。ようやく実感できた。僕は勝ったんだ。くるるちゃんを守りきったんだ。
すぐにでもくるるちゃんを抱きしめたい衝動に駆られたけど、それを何とか抑えつけて、僕はさっきから気になっていたことを訊ねた。
「くるるちゃん、どうしてここに?」
「ピアスの人に呼ばれて……。そんなことより、けがは大丈夫ですか?」
ピアス……光輝か。チャラ男に呼び出し食らった時すぐ隣にいたから、不思議じゃないけど。あいつ、くるるちゃんに来させるぐらいなら自分が来いよな、まったく。
「うん、なんとか大丈夫」
「本当にごめんなさい。わたしのせいでこんな……」
いや、待て。まだ納得できないことがある。
僕は屋上での告白以来、くるるちゃんには嫌われてたはずだ。なんでこんな風に前と変わらない態度で接してくれているのか、わからない。
これを訊くことは、もしかして地雷を踏む行為になるんだろうか。訊いたせいで、また前みたいに怯えられて、逃げられてしまうんだろうか。怖かったけど、訊かずにはいられなかった。
「くるるちゃん? あの、僕はストーカーで……」
「はい、前に聞きました」
怯える様子のないはっきりとした返答に、僕は安堵する。僕の不安は、どうやら杞憂だったらしい。でもそうなると、余計にその理由が気になった。
「じゃあ、なんで?」
「…………」
くるるちゃんはしばらく、答えに迷ってるみたいだった。目を伏せて、思案顔をする。
そしてそっと目を上げて、その綺麗な瞳で僕を見つめて、言った。
「いつか、先輩言ってましたよね……。『僕は僕だから、君は君だから、僕は君を守りたい』って」
「あ、いや……」
確かに言ったような気がする。でも改めて自分の台詞を聞かされると、恥ずかしいことこの上ない。
「わたしも同じです。先輩は先輩だから、そして、わたしはわたしだから、先輩を助けに来たんです。先輩がストーカーだとか、そんなのは関係ありません」
「くるるちゃん……」
くるるちゃんは、優しく微笑んでいた。今までに見たどんな笑顔よりも優しく、今まで撮ったどの写真よりも綺麗な笑顔を浮かべていた。
その笑顔を見れたことが幸せで、その笑顔で全てが報われたような気がして、胸に詰まった思いが、涙になって溢れ出しそうだった。
でも僕は涙じゃなく、言葉でその思いを伝えたくて、震える唇を動かす。
「ありがとう、くるるちゃん」
「いえ、わたしこそ、本当にすみませんでした」
僕はくるるちゃんを見つめる。くるるちゃんも僕を見つめる。しばらくは、そんな穏やかな時間が流れた。
何秒ぐらいそうしていただろうか。ふと、サスケさんのことを思い出して、僕はくるるちゃんから視線を逸らした
サスケさんのほうを見てみると、そちらも既に終わったみたいだった。戦意を喪失したように座り込む三人と、その前に立つサスケさんの姿があった。
僕の視線に気付くと、サスケさんが軽く手を上げた。
「よう、こっちは終わったゼ」
「ああ、こっちも……」
終わった、と言おうとしたところで、その言葉を後ろから遮られた。
「まだ終わってへんで」
この声は……!
「お前……!」
チャラ男だ。僕が振り返ると、チャラ男は地面に仰向けに倒れたまま、粘つく視線だけを僕のほうに送ってきていた。
「まだやる気か。まだ負けを認めないのかよ」
「いやいや、負けや負け。わいの負け。それは認めたるわ」
降参、と言うかのように、チャラ男が右手を振った。だけどその仕草は、見方によっては人を小馬鹿にしているかのようだった。
「じゃあ……」
「わいは負けたけどなあ、まだ終わってへんのよ、くるくるのイジメはなァ。あんたかて、ホンマは気付いてんやろ? あんなしょっぼいサイトで、イジメなくすのは土台無理な話なんやって。イジメはまっだまだ残っとる。それをわいが煽ったるわ。腹いせにな」
ヒ、ヒ、ヒ、と引きつったように笑うチャラ男。その顔が、堪らなく憎らしく見えてくる。
イジメがなくなっていないことに対する憤りとか、自分自身の不甲斐なさとかも一緒に溢れてきて、それを全部コイツにぶつけてやりたくなる。殴っても解決しない。多分コイツは止められない。頭ではわかってるのに、どうしても殴りたい。握った拳を、顔面にブチ込みたい。手の震えが止まらない。
そんな僕の手を、そっと優しく包む小さな手があった。
「くるるちゃん……?」
「先輩、大丈夫です」
大丈夫? 何が大丈夫なんだろう。イジメられるのはくるるちゃんなんだ。そのくるるちゃんが大丈夫なんて言っても、僕には強がりにしか聞こえなかった。
「大丈夫です。わたしはもう、イジメられても大丈夫なんです」
それでもくるるちゃんは、大丈夫と繰り返す。
「長崎さんが教えてくれました。わたしがイジメられてたのは、学校のせいじゃなくて、わたしの弱さのせいなんです」
「そんなことは……」
「いいえ、そうなんです。でももう大丈夫です。先輩が、わたしに強さをくれたから……。ううん、今も貰ってます。先輩がいてくれれば、わたしは強くなれるんです。だから、もうわたしはイジメられたって大丈夫です。サイトだけじゃない。先輩の存在に、わたしは助けられたんです」
「くるるちゃん……」
本当に大丈夫なのか? 何とかしたほうが……。いや、何もできない。僕にはもう打つ手がないんだ。くるるちゃんのこの言葉を信じるしかないんだ。
僕は渋々頷いた。
「わかった。くるるちゃんの言葉を信じるよ」
「ありがとうございます」
腰を折ったお辞儀をするくるるちゃん。なんだか久しぶりに見た気がして、思わず唇がほころぶ。
「アホか。そんなん気ィ遣って言ってるに決まってるやん。大丈夫なワケないやろ」
「お前は少し黙ってろっつの」
後ろから、人を殴る鈍い音と、チャラ男の短い呻き声が聞こえた。振り向くと、ぐったりしたチャラ男をサスケさんが担いでいるところだった。
「オレッチはコイツをどっかに捨てて、そのままずらかるゼ。会長も、先公が来る前にここから離れろよ」
「あ、あの、サスケさん……」
「オレッチのことはいいから、会長は月島のことだけ見てやれっつの」
そう言うと、サスケさんは校門のほうへ去っていった。颯爽と歩いていくサスケさんの後ろ姿を見ながら、僕は心の中でお礼を言った。
サスケさんに釣られるようにして、三人の取り巻きたちも散っていく。そうして残ったのは、僕とくるるちゃんの二人だけだった。僕はくるるちゃんに向き直って、掛けるべき言葉を探した。
さっきくるるちゃんは、僕の存在に助けられた、と言ってくれた。くるるちゃんのその言葉が本当だとすると、結局は姉さんの言った通りだったってことになる。僕はくるるちゃんの傍にいるだけで良い、それだけでくるるちゃんは助かるっていう姉さんの言葉。それが本当に正しかったのかどうかは、今でもよくわからない。
だけど、助けられたのはくるるちゃんだけじゃない。
「……助けられたのは、僕のほうだよ」
そう言うと、くるるちゃんが顔を上げた。
「くるるちゃんが来てくれたおかげで助かった。光輝の奴がくるるちゃんをよこした理由が、今わかったよ」
「え? でも、わたし何も……」
「ううん、違うんだ」
僕はくるるちゃんの髪を撫でた。さらさらの髪が、手の平を滑るように流れる。
「くるるちゃんが来てくれたら、急に力が湧いてきた。くるるちゃんが居てくれたから、僕は強くなれたんだ」
その言葉を聞くと、くるるちゃんは顔を赤くして唇を尖らせた。
「わたしの、真似ですか?」
どうもからかわれてると思ったらしい。
「違うよ、本心だ。くるるちゃんのおかげで、あいつに勝てたんだよ」
僕がそう言っても、まだくるるちゃんは少しすねたような顔をしてたけど、でも、どこか嬉しそうだった。
しばらくして、僕はくるるちゃんを撫でていた手を下ろした。それでもまだ、もう一つ言いたいことがあって、僕はそのままの位置でくるるちゃんと向き合っていた。くるるちゃんも、動こうとはしなかった。
「先輩」
「なに?」
「わたしさっき、イジメに立ち向かえるって言いましたけど、それは先輩が傍に居てくれればってことなんです。だから……」
くるるちゃんの目には、しっかりとした光が宿っていた。僕がくるるちゃんのストーカーをしていた頃、僕らが出会う前には、なかった光だ。
強くなった。本当にそう思う、さっきは口だけで信じるって言ったけど、本当に信じてもいい気がしてきた。
「これからもずっと、わたしと一緒に居てください」
くるるちゃんが、右手を差し出した。僕に手の平を向けるように。
くるるちゃんと初めて一緒に登校した時、僕は幸せだと感じた。でもあの時の幸せは、いつか終わってしまう幸せで、少し長い夢のようなものだった。ちょっとした拍子に消える、幻想のようなものだった。
でも今、僕の目の前にあるものは違う。今ここで僕がこの手を握れば、それだけで、幻じゃない、本当の幸せが手に入る。くるるちゃんをこれ以上傷つけることもない。
だけど、いいのか? 本当に僕は幸せになっていいのか? くるるちゃんを助ける為に仕方なかったとは言え、くるるちゃんの心を傷つけた僕が、幸せになってしまっていいのか? くるるちゃんを助ける為に椚山シスターズ研究会を利用した僕が、ぬけぬけと自分だけ幸せになっていいのか?
「くるるちゃん、僕は……ストーカーなんだ」
絞り出すようにその一言を口にすると、くるるちゃんは嫌がるでもなく、驚くでもなく、ただ微笑んだ。
「これ、小熊先輩の友達が言ってたことなんですけど……」
わずかな間を空けて、くるるちゃんは噛み締めるように言った。
「先輩がたとえ世界の敵でも、サイボーグに改造されちゃったとしても、先輩は先輩です。わたしは先輩が好きです。ストーカーでも、好きなんです」
身体が震えた。
自分のしたこととか、罪とか、報いとか、そんなことを全部忘れて、くるるちゃんを受け入れてしまいたい。この子なら、僕の欲しいものを全部くれる。この子なら、僕の全てを認めてくれる。この子なら、許してくれる。そう、この子なら……。
震える右手を、上げる。くるるちゃんが差し出した右手に向かって、ゆっくりと伸ばす。
この手が届けば、もう戻れない。
怖い。でも、それでも僕は、
「あ、」
最後の決心をする前に、僕の右手は握られていた。一歩近づいてきたくるるちゃんの右手に。
何も言わずに、手を握り合う。
言葉もなく、ただ握り合う。
くるるちゃんの目から、涙がこぼれた。それを見た時、怖かったのは僕だけじゃなかったんだとわかった。いや、くるるちゃんのほうが、きっと僕よりも怖かったんだろう。女の子にここまでさせてしまったことを、少し後悔した。
せめて最後ぐらいは、僕のほうから言おう。
「くるるちゃん」
「はい」
「一緒に、帰ろう」