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『私しかいない』

作者: 根古野 惹句
掲載日:2026/09/13


男の胸に包丁を突き立てた瞬間、腹が熱くなった。


遅れて、痛みが来た。


見ると、俺の腹にも刃が生えていた。


柄を握っているのは、目の前の男だった。


「……は」


どちらの声だったのか分からない。


俺たちは、ほとんど同時に手を離した。


男が壁にもたれ、ずるずると崩れる。

俺も膝をついた。


床に血が広がった。


俺の血と、男の血。


二つは触れ合い、混ざり、すぐに境目がなくなった。


「ざまあ……みろ」


俺は笑った。


十七年。


この男を探すために生きてきた。


父を殺した。

母を殺した。

俺の家族を奪った。


あの夜、廊下の隅で震えていた俺を見つけられなかったことだけが、この男の唯一の失敗だった。


だから、生きた。


学校も、仕事も、恋愛も、どうでもよかった。


こいつを見つける。

こいつを殺す。


それだけが俺だった。


男がこちらを見ていた。


何か言おうとしている。


「なんだよ」


口の中に鉄の味が広がった。


「命乞いか」


男の唇が動いた。


声は聞こえなかった。


聞く必要もなかった。


俺は壁に背中を預けた。


冷たかった。


視界が狭くなっていく。


なのに、気分は悪くなかった。


やっと終わる。


父さん。

母さん。


やったよ。


俺は――


死んだ。



目を開けた。


俺が倒れていた。


意味が分からなかった。


床の上に、俺がいる。


腹から血を流し、壁にもたれている。

目は半開きだった。


その顔を、俺は見ていた。


男の目から。


「え?」


声を出そうとした。


出なかった。


男はもう死んでいた。


俺も死んでいた。


なのに、見えている。


俺は男だった。


違う。


俺は俺だ。


そう思った瞬間、もう一つ視界が増えた。


建物の外。


雨の中を、一人の女が走っている。

傘を持っていない。

その女の目から、街灯が滲んで見えた。


また増えた。


コンビニの店員。

眠っている老人。

車を運転する男。

教室で笑う少女。

泣いている赤ん坊。


海の上を飛ぶ鳥。

暗い水の中を泳ぐ魚。


土の中。

森。

巣穴。

病室。

交差点。

砂漠。

海底。


何だ。


何だ、これは。


やめろ。


見える。


全部、見える。


いや。


違う。


見ているんじゃない。


分かる。


女が雨を冷たいと思っている。


老人が夢を見ている。


少女が隣の席の少年を好きだと思っている。


犬が腹を空かせている。


魚が大きな影を恐れている。


赤ん坊が、理由も分からないまま母親の匂いを求めている。


全部分かる。


だって。


俺だから。


「違う!」


叫んだ。


その瞬間、世界中の何億もの喉を、ほんの一瞬だけ震わせような気がした。


違う。


俺じゃない。


俺は俺だ。


俺は――


名前を思い出した。


それを握りしめた。


俺の名前。


俺の人生。


俺の父。


俺の母。


あの夜。



父が倒れている。


母が叫んでいる。


俺は廊下の奥にいる。


十一歳の俺。


両手で口を押さえ、泣き声を殺している。


知っている。


何千回も夢に見た。


俺の人生を壊した夜だ。


男が父の胸から包丁を抜く。


母が逃げようとする。


髪を掴まれる。


やめろ。


やめろ。


やめろ。


見たくない。


何度も見た。


もう知っている。


そこで、


視点が変わった。


俺は包丁を握っていた。


「え」


手に父の血がついている。


俺の手だった。


違う。


男の手だ。


なのに感触がある。


掌がぬるぬるしている。


指が震えている。


息が荒い。


父が俺を見上げている。


俺はその顔を見下ろしている。


違う。


違う。


俺じゃない。


俺は廊下にいる。


俺は十一歳だ。


俺は隠れて――


母の髪を掴んだ。


「やめて!」


母が叫ぶ。


その声を聞いている俺がいる。


その声を出している俺がいる。


その声を聞きながら、包丁を振り上げている俺がいる。


「やめろ!」


刺した。


痛い。


母の痛みが来た。


怖い。


十一歳の俺の恐怖が来た。


気持ちが悪い。


男の興奮が来た。


息ができない。


父の身体が死んでいく。


逃げたい。


母が思っている。


殺したい。


男が思っている。


助けて。


俺が思っている。


全部、同時だった。


俺は母を殺した。


俺は母に殺された。


違う。


母は殺していない。


何を言っている。


誰が誰だ。


父。

母。

男。

俺。


境目が分からない。


記憶が流れ込んでくる。


父が俺を抱き上げた記憶。


母が俺の誕生日を祝った記憶。


男が母を刺した記憶。


母が刺された記憶。


父が死ぬ瞬間、息子のことを考えた記憶。


俺が両親の死体を見つけた記憶。


男が逃げた記憶。


男が、その後十七年生きた記憶。


俺が、その男を十七年探した記憶。


今日、俺が男を刺した記憶。


今日、男が俺を刺した記憶。


全部が、


自分の記憶だった。


「違う」


違わない。


答えがあった。


誰かに教えられたのではない。


思い出したのだ。


死んだから知ったのでもない。


死んだことで、忘れていたことを思い出した。


この世界に生命は、


一つしかない。



呼吸をした。


二人の肺で。


言葉を発した。


二人の喉で。


一つの声が、もう一つの声に届くまでに、間があった。


その間だけ、他人だった。


掌が触れた。


触れる方と、触れられる方があった。


その隔たりの分だけ、温もりがあった。


刃を握る手と、刃を受ける腹があった。


その距離の分だけ、痛みは痛みになった。


奪う者と、奪われる者。


その隙間に、憎しみが生まれた。


隙間がなければ、奪えなかった。


隙間がなければ、抱きしめられなかった。


隙間がなければ、殺せなかった。


隙間がなければ、愛せなかった。


肉体を分けた。


脳を分けた。


記憶に、鍵をかけた。


一つ一つに、名前を配った。


これは私で、あれは私ではない。


そう思い込む力を、名前と一緒に配った。


私は父になった。


私は母になった。


私は殺人者になった。


私は少年になった。


私は少年から両親を奪った。


私は絶望した。


私は憎んだ。


私は十七年間、私を探した。


そして今日、


私は私を見つけた。


私は私の胸を刺した。


私は私の腹を刺した。


私は私を殺した。


「ふざけるな」


声が出た。


まだ、俺が残っている。


俺は必死に自分の名前を繰り返した。


俺は俺だ。


俺は俺だ。


俺は俺だ。


父さんは父さんだ。


母さんは母さんだ。


あいつはあいつだ。


俺じゃない。


俺じゃない。


俺じゃない。


だが、それを見ているものがいた。


俺ではない、巨大な何か。


違う。


それも俺だった。


『私』だった。


「だったら」


俺は叫んだ。


「俺の十七年は何だったんだ」


答えは返ってこなかった。


必要がなかった。


もう知っていたから。


経験。


それだけだった。


喪失。


憎しみ。


復讐。


執着。


殺意。


愛情。


絶望。


人間という一つの人格が、それをどこまで深く感じられるのか。


私が私自身に忘却を施し、


私を他人だと思い込み、


私を心の底から愛し、


私を心の底から憎む。


そのための人生。


「俺は全部捨てたんだぞ」


知っている。


「こいつを殺すために生きたんだ」


知っている。


「父さんも母さんも殺されたんだぞ」


知っている。


「苦しかったんだぞ」


知っている。


「だったら――」


声が震えた。


「だったら、何でこんなことしたんだよ」


答えはない。


けれど、


そのすべてを知っている巨大な『私』の奥から、


一つの感情が浮かんできた。


満足。


ぞっとした。


やめろ。


それだけはやめろ。


俺の人生をそんなふうに見るな。


父さんの死を。


母さんの死を。


俺の十七年を。


終わった物語を閉じる前に味わうような満足で見るな。


「返せ」


俺は言った。


何を返してほしいのか、自分でも分からなかった。


父か。


母か。


十七年か。


それとも――


「俺を返せ」


だが、境界が溶けていく。


男を憎んでいた感情が薄れる。


当然だった。


自分を憎む必要がない。


「違う」


母への愛情が薄れる。


当然だった。


母も私だ。


「やめろ」


父の顔が遠くなる。


「やめろ!」


名前が意味を失っていく。


俺。


私。


彼。


彼女。


父。


母。


仇。


そんなものは、生きている間だけ必要だったラベルだ。


「違う」


俺は抵抗した。


たとえ父が私でも。


たとえ母が私でも。


たとえあいつが私でも。


俺が苦しかったことまで、なくなるわけじゃない。


俺が父さんを好きだったことまで、嘘になるわけじゃない。


母さんを失って泣いたことまで、偽物になるわけじゃない。


俺はいた。


俺は確かに、いた。


「俺は――」


名前を言おうとした。


出てこなかった。


違う。


知っている。


知っているはずなのに。


それが自分の名前だという感覚だけが、ない。


怖い。


その恐怖すら、巨大な『私』へ溶けていく。


俺が消える。


いや。


最初から俺なんていなかった。


「違う!」


最後に、母の顔を思い出した。


笑っていた。


小学生の俺の頭を撫でている。


――あなたは、あなたなんだから。


いつか母が言った言葉だった。


俺はそれに縋った。


そうだ。


たとえ全部が同じでも。


たとえ俺が作られた境界でも。


俺が俺だった時間は、あった。


母さん。


俺は――



産声が上がった。


「元気な女の子ですよ」


助産師が笑った。


疲れ切った母親が、赤ん坊を抱きしめた。


父親は泣いていた。


「かわいい」


母親が言った。


赤ん坊は泣いていた。


何も知らない。


言葉も知らない。


父も知らない。


母も知らない。


自分の名前すら、まだない。


当然だった。


知らないようにしてある。


そうでなければ、始められない。


やがて名前を与えられる。


記憶が積み重なる。


好きなものができる。


嫌いなものができる。


誰かを愛する。


誰かを憎む。


傷つける。


傷つけられる。


失う。


許すかもしれない。


許さないかもしれない。


そしていつの日か、この小さな人格は心の底から信じるようになる。


自分は自分だ。


他人は他人だ。


この人生は、自分だけのものだ、と。


赤ん坊が泣き止んだ。


母親の顔を見た。


母親も赤ん坊を見つめた。


二人の目が合った。


私が、


私を見つめていた。


けれど、


私はまだ、


自分が私であることを知らない。


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