『私しかいない』
男の胸に包丁を突き立てた瞬間、腹が熱くなった。
遅れて、痛みが来た。
見ると、俺の腹にも刃が生えていた。
柄を握っているのは、目の前の男だった。
「……は」
どちらの声だったのか分からない。
俺たちは、ほとんど同時に手を離した。
男が壁にもたれ、ずるずると崩れる。
俺も膝をついた。
床に血が広がった。
俺の血と、男の血。
二つは触れ合い、混ざり、すぐに境目がなくなった。
「ざまあ……みろ」
俺は笑った。
十七年。
この男を探すために生きてきた。
父を殺した。
母を殺した。
俺の家族を奪った。
あの夜、廊下の隅で震えていた俺を見つけられなかったことだけが、この男の唯一の失敗だった。
だから、生きた。
学校も、仕事も、恋愛も、どうでもよかった。
こいつを見つける。
こいつを殺す。
それだけが俺だった。
男がこちらを見ていた。
何か言おうとしている。
「なんだよ」
口の中に鉄の味が広がった。
「命乞いか」
男の唇が動いた。
声は聞こえなかった。
聞く必要もなかった。
俺は壁に背中を預けた。
冷たかった。
視界が狭くなっていく。
なのに、気分は悪くなかった。
やっと終わる。
父さん。
母さん。
やったよ。
俺は――
死んだ。
*
目を開けた。
俺が倒れていた。
意味が分からなかった。
床の上に、俺がいる。
腹から血を流し、壁にもたれている。
目は半開きだった。
その顔を、俺は見ていた。
男の目から。
「え?」
声を出そうとした。
出なかった。
男はもう死んでいた。
俺も死んでいた。
なのに、見えている。
俺は男だった。
違う。
俺は俺だ。
そう思った瞬間、もう一つ視界が増えた。
建物の外。
雨の中を、一人の女が走っている。
傘を持っていない。
その女の目から、街灯が滲んで見えた。
また増えた。
コンビニの店員。
眠っている老人。
車を運転する男。
教室で笑う少女。
泣いている赤ん坊。
海の上を飛ぶ鳥。
暗い水の中を泳ぐ魚。
土の中。
森。
巣穴。
病室。
交差点。
砂漠。
海底。
何だ。
何だ、これは。
やめろ。
見える。
全部、見える。
いや。
違う。
見ているんじゃない。
分かる。
女が雨を冷たいと思っている。
老人が夢を見ている。
少女が隣の席の少年を好きだと思っている。
犬が腹を空かせている。
魚が大きな影を恐れている。
赤ん坊が、理由も分からないまま母親の匂いを求めている。
全部分かる。
だって。
俺だから。
「違う!」
叫んだ。
その瞬間、世界中の何億もの喉を、ほんの一瞬だけ震わせような気がした。
違う。
俺じゃない。
俺は俺だ。
俺は――
名前を思い出した。
それを握りしめた。
俺の名前。
俺の人生。
俺の父。
俺の母。
あの夜。
*
父が倒れている。
母が叫んでいる。
俺は廊下の奥にいる。
十一歳の俺。
両手で口を押さえ、泣き声を殺している。
知っている。
何千回も夢に見た。
俺の人生を壊した夜だ。
男が父の胸から包丁を抜く。
母が逃げようとする。
髪を掴まれる。
やめろ。
やめろ。
やめろ。
見たくない。
何度も見た。
もう知っている。
そこで、
視点が変わった。
俺は包丁を握っていた。
「え」
手に父の血がついている。
俺の手だった。
違う。
男の手だ。
なのに感触がある。
掌がぬるぬるしている。
指が震えている。
息が荒い。
父が俺を見上げている。
俺はその顔を見下ろしている。
違う。
違う。
俺じゃない。
俺は廊下にいる。
俺は十一歳だ。
俺は隠れて――
母の髪を掴んだ。
「やめて!」
母が叫ぶ。
その声を聞いている俺がいる。
その声を出している俺がいる。
その声を聞きながら、包丁を振り上げている俺がいる。
「やめろ!」
刺した。
痛い。
母の痛みが来た。
怖い。
十一歳の俺の恐怖が来た。
気持ちが悪い。
男の興奮が来た。
息ができない。
父の身体が死んでいく。
逃げたい。
母が思っている。
殺したい。
男が思っている。
助けて。
俺が思っている。
全部、同時だった。
俺は母を殺した。
俺は母に殺された。
違う。
母は殺していない。
何を言っている。
誰が誰だ。
父。
母。
男。
俺。
境目が分からない。
記憶が流れ込んでくる。
父が俺を抱き上げた記憶。
母が俺の誕生日を祝った記憶。
男が母を刺した記憶。
母が刺された記憶。
父が死ぬ瞬間、息子のことを考えた記憶。
俺が両親の死体を見つけた記憶。
男が逃げた記憶。
男が、その後十七年生きた記憶。
俺が、その男を十七年探した記憶。
今日、俺が男を刺した記憶。
今日、男が俺を刺した記憶。
全部が、
自分の記憶だった。
「違う」
違わない。
答えがあった。
誰かに教えられたのではない。
思い出したのだ。
死んだから知ったのでもない。
死んだことで、忘れていたことを思い出した。
この世界に生命は、
一つしかない。
*
呼吸をした。
二人の肺で。
言葉を発した。
二人の喉で。
一つの声が、もう一つの声に届くまでに、間があった。
その間だけ、他人だった。
掌が触れた。
触れる方と、触れられる方があった。
その隔たりの分だけ、温もりがあった。
刃を握る手と、刃を受ける腹があった。
その距離の分だけ、痛みは痛みになった。
奪う者と、奪われる者。
その隙間に、憎しみが生まれた。
隙間がなければ、奪えなかった。
隙間がなければ、抱きしめられなかった。
隙間がなければ、殺せなかった。
隙間がなければ、愛せなかった。
肉体を分けた。
脳を分けた。
記憶に、鍵をかけた。
一つ一つに、名前を配った。
これは私で、あれは私ではない。
そう思い込む力を、名前と一緒に配った。
私は父になった。
私は母になった。
私は殺人者になった。
私は少年になった。
私は少年から両親を奪った。
私は絶望した。
私は憎んだ。
私は十七年間、私を探した。
そして今日、
私は私を見つけた。
私は私の胸を刺した。
私は私の腹を刺した。
私は私を殺した。
「ふざけるな」
声が出た。
まだ、俺が残っている。
俺は必死に自分の名前を繰り返した。
俺は俺だ。
俺は俺だ。
俺は俺だ。
父さんは父さんだ。
母さんは母さんだ。
あいつはあいつだ。
俺じゃない。
俺じゃない。
俺じゃない。
だが、それを見ているものがいた。
俺ではない、巨大な何か。
違う。
それも俺だった。
『私』だった。
「だったら」
俺は叫んだ。
「俺の十七年は何だったんだ」
答えは返ってこなかった。
必要がなかった。
もう知っていたから。
経験。
それだけだった。
喪失。
憎しみ。
復讐。
執着。
殺意。
愛情。
絶望。
人間という一つの人格が、それをどこまで深く感じられるのか。
私が私自身に忘却を施し、
私を他人だと思い込み、
私を心の底から愛し、
私を心の底から憎む。
そのための人生。
「俺は全部捨てたんだぞ」
知っている。
「こいつを殺すために生きたんだ」
知っている。
「父さんも母さんも殺されたんだぞ」
知っている。
「苦しかったんだぞ」
知っている。
「だったら――」
声が震えた。
「だったら、何でこんなことしたんだよ」
答えはない。
けれど、
そのすべてを知っている巨大な『私』の奥から、
一つの感情が浮かんできた。
満足。
ぞっとした。
やめろ。
それだけはやめろ。
俺の人生をそんなふうに見るな。
父さんの死を。
母さんの死を。
俺の十七年を。
終わった物語を閉じる前に味わうような満足で見るな。
「返せ」
俺は言った。
何を返してほしいのか、自分でも分からなかった。
父か。
母か。
十七年か。
それとも――
「俺を返せ」
だが、境界が溶けていく。
男を憎んでいた感情が薄れる。
当然だった。
自分を憎む必要がない。
「違う」
母への愛情が薄れる。
当然だった。
母も私だ。
「やめろ」
父の顔が遠くなる。
「やめろ!」
名前が意味を失っていく。
俺。
私。
彼。
彼女。
父。
母。
仇。
そんなものは、生きている間だけ必要だったラベルだ。
「違う」
俺は抵抗した。
たとえ父が私でも。
たとえ母が私でも。
たとえあいつが私でも。
俺が苦しかったことまで、なくなるわけじゃない。
俺が父さんを好きだったことまで、嘘になるわけじゃない。
母さんを失って泣いたことまで、偽物になるわけじゃない。
俺はいた。
俺は確かに、いた。
「俺は――」
名前を言おうとした。
出てこなかった。
違う。
知っている。
知っているはずなのに。
それが自分の名前だという感覚だけが、ない。
怖い。
その恐怖すら、巨大な『私』へ溶けていく。
俺が消える。
いや。
最初から俺なんていなかった。
「違う!」
最後に、母の顔を思い出した。
笑っていた。
小学生の俺の頭を撫でている。
――あなたは、あなたなんだから。
いつか母が言った言葉だった。
俺はそれに縋った。
そうだ。
たとえ全部が同じでも。
たとえ俺が作られた境界でも。
俺が俺だった時間は、あった。
母さん。
俺は――
*
産声が上がった。
「元気な女の子ですよ」
助産師が笑った。
疲れ切った母親が、赤ん坊を抱きしめた。
父親は泣いていた。
「かわいい」
母親が言った。
赤ん坊は泣いていた。
何も知らない。
言葉も知らない。
父も知らない。
母も知らない。
自分の名前すら、まだない。
当然だった。
知らないようにしてある。
そうでなければ、始められない。
やがて名前を与えられる。
記憶が積み重なる。
好きなものができる。
嫌いなものができる。
誰かを愛する。
誰かを憎む。
傷つける。
傷つけられる。
失う。
許すかもしれない。
許さないかもしれない。
そしていつの日か、この小さな人格は心の底から信じるようになる。
自分は自分だ。
他人は他人だ。
この人生は、自分だけのものだ、と。
赤ん坊が泣き止んだ。
母親の顔を見た。
母親も赤ん坊を見つめた。
二人の目が合った。
私が、
私を見つめていた。
けれど、
私はまだ、
自分が私であることを知らない。




