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銀杏玲の冒険(The Adventures of Toru Icho)

通り過ぎる男

作者: 銀杏玲
掲載日:2026/03/01

『iのレーゾンデートル』の一件で、宇佐美と学生結婚をした銀杏は、夏休みに大学図書館で彼女の卒業論文の文献サーベイに付き合っていた。そんな折、静寂な大学図書館で淡々と文献を読み進める銀杏は、妻である宇佐美から、いつも彼女の横を通り過ぎる男についての相談を受ける。

一 卒業論文


 彼女と結婚してからも、僕たちは相変わらずの平凡な学生生活を過ごしていた。そんなイベリスの一件後の随分と平穏な毎日は、僕の新作エッセイの投稿を滞らせていたのだが、最近になって、またひとつ、黒木の解釈を絡めれば、作品になりそうな“日常”に出くわしていたのである。

 「銀杏君も、後、2年もしたら、卒業論文書かないといけないんだから、テーマくらい考えておいた方がいいよ。あと、指導教官選びもしておかないと」

 最近、卒業論文の執筆のために、クーラーの効いた大学図書館にこもり、文献サーベイを行っている僕の彼女、いや、妻に付き合って、僕もまた妻と机越しに向かい合いながら、彼女の研究するフランス民法典に関する古典文献とは打って変わって、フランスの監査制度に関するサーベイ論文を興味深く精読していた。というのも、僕は、フランス語を第二外国語として選択してしまったこともあって、今流行りの“コンテン・ラーメン”の研究には、足を踏み入れることすらできず、監査論の先生には申し訳ないが、逃げの選択として、監査制度を卒業研究の対象にしようと考えていたからである。

 「僕は、このとおり、フランスの監査制度をテーマにしようと思っているよ。さすがにフランス語文献を精読するのは難しいから、日本語文献を当たろうと思うけどね」

 夏休みの大学図書館は、細い息にのせた声で話す僕たちの会話すら、耳をすませば聞こえてしまうような静寂さに包まれていた。

 「ところで、銀杏君さぁ」

 彼女は机に少し身を乗り出して、真正面に座る僕に顔を近づけながら、小声で話を始めた。

 「最近、『iのレーゾンデートル』以来っていうか、私と結婚してから、文芸誌に作品投稿してないでしょ。話になるかわからないけど、私、ちょっとしたネタ持っているから、提供してあげよっか?」

 いたずらっ子のような、笑みを浮かべた彼女の顔を見て、少々照れながら

 「えっ、いや、それはありがたいけど、どんなネタ?」とひとまず彼女の話を訊くことにした。

 「私の後ろの『返却棚A-1』向いの窓側の角席に座っている男の子いるでしょ。彼、多分、読んでいるのが、1年で使っている法学基礎の教科書だから企業法学科の1年生だと思うんだけど、何かね、私の横をいつも通り過ぎるの。その、たまたま出くわすとかじゃなくて、私の思い込みかもしれないんだけど、あえて私の横を通り過ぎているような気がするの。これって、何かこれから事件が起きる前兆だと思わない?」

 彼女の肩越しに遠目ながら、彼女の言うとおり、たしかに、それらしき教科書を読んでいる男子学生がそこに座っているのを認識した。運動サークル帰りでもなさそうで、ただ、勉学に励んでいる洒落っ気のない小柄な眼鏡男子。女っけもなさそうな雰囲気から、僕はすぐに、おそらく彼が彼女に好意をよせて、会話をするタイミングを見計らっているのだろうと察した。

 「それは、事件の前兆じゃなくて、恋の前兆だよ。あの子が宇佐美さんに好意を持っていて、会話するタイミングでも見計らっているだけ。ちゃんと、結婚指輪をしないから、こういうことになるんだよ」

 お互いに現役学生でかつ、彼女が手にアクセサリーを付けるのが、趣味ではないこともあり、僕と彼女は共に結婚指輪をしていなかったのである。

 「そういうことじゃないの、銀杏君。いつも私の横を通り過ぎるときに、ちらっと足元を必ず見て、通り過ぎるの」

 「足元?」

 僕は頭を横にして机の下を覗き込み、彼女の足元を見た。

 「ちょっと時代を感じるけど、ビンテージもの?」

 「ビンテージものかどうかは分からないけど、大学前の古着ショップに寄ったときに、一目見て惹かれて買ったの」

 彼女のスニーカーを見て、すぐにピンときた。

 「宇佐美さん、わかったよ。あの子は宇佐美さんに好意があって近寄ってきているんじゃなくて、そのスニーカーをじっくり見たくて、何気なく宇佐美さんの横を通り過ぎているだけなんだよ。間違いないね」

 いつものように黒木の頭を借りるまでもなく、何の謎でもないような振る舞いを見せた僕だったが、彼女はどうやら僕とあの男の“競”演を待ち望んでいる様子であった。

 「ちょっとさぁ、黒木君も呼んでみようよ」

 黒木の登場を楽しみそうに笑顔を見せる彼女につい嫉妬していたが、僕もまた、自分の考えに正解を与えてほしいという欲求も少なからずあったので「しょうがないなぁ、会計学院棟のレファレンススペースでぼーっと文献でも読みふけっているだろうから、呼んでくるよ」と言って、僕は、黒木を回収しに、会計学院棟まで走って行った。


二 ベルギーの骨董品


 「おはよう…」

 会計学院棟のワンフロア、蔵書でとっ散らかっている共用のレファレンススペースで居眠りしている黒木に、バクバク鼓動する心臓で、息を切らしながら、声をかけた。

 「おぉ…なんだ銀杏か…」と面倒くさそうな反応だったが、僕が「久しぶりに、『通り過ぎる男』の謎について相談にのってほしい、というか君の見解を聞かせてほしい」というと、怪訝そうな顔をして、「うーん、なるほど、それはいい」と重い腰を上げた。

 「ところで、その『通り過ぎる男』の案件は、銀杏の持ち込みか、それとも、君の…」と言いかけたところで僕はすかさず、「宇佐美さんの持ち込みだよ、ただ、この案件はもう答えが分かっている。あくまでその答え合わせを黒木にお願いしたい」と言って、黒木をなかば強引に図書館へ連行した。

 図書館の入り口から見える彼女は、淡々と文献を読み込んでいる様子だったが、黒木の姿に気づくと、読んでいた文献を閉じて、僕と黒木を手招きし、同じ机の席に座らせた。黒木が席に座ると間髪を入れずに、僕は、事の発端と顛末を説明した。

 「もうこの案件は、答えが出ているから手短に話そう。宇佐美さんの後ろの『返却棚A-1』向いの窓側の角席に座っている男子学生がいるだろ。どうやら、彼がいつも宇佐美さんの横を好き好んで通り過ぎるらしい。それが何かの事件の前兆なのではないかというのが宇佐美さんからの相談だ。たしかにその事実だけに目を向けると、気味が悪い事象だろう。ただ、彼は宇佐美さんに好意を抱いているわけではない。というのは、あの彼が、宇佐美さんの横を通り過ぎるとき、必ず、彼女の足元、すなわち、彼女の履いているビンテージもののスニーカーを見るからだ。おそらく、彼が宇佐美さんの横を通り過ぎるのは、彼がスニーカーのマニアで、彼女の履いている洒落たスニーカーをじっくり見たいという欲求によるものだ。人を見かけで判断するのがよくないことを承知のうえで言えば、彼はパッと見、内向的で、女性と自らコミュニケーションを取りにいくタイプでもなさそうだしね。まぁ、そういう話だよ黒木。君の見解を“一応”聞かせてほしいというのが、宇佐美さんのオーダーだ」

 「ほう、うん、なるほどね」そう言いながら、黒木は、机の下へ、顔を覗き込み、顔をヒョイと上げるやいなや、「たしかにビンテージもののスニーカーのようだ。このスニーカーはどこで?」と彼女に訊いた。

 「大学前の古着ショップに寄ったときに、一目見て惹かれて買ったの。あまりビンテージものとは意識してなかったけどね」

 彼女がそう言うと、唐突に「まぁ、たしかにじっくり見たくはなりますね。ちょっと脱いでもらえますか?」と彼女に促した。

 「ここで!?、黒木君、変な人に思われちゃうよ」そう言いながらも彼女は、紐をほどいて履いていたスニーカーを脱ぎ、机の下で黒木の方へ手渡した。黒木は机の下から、そのスニーカーを手に取って、まじまじと観察し始めた。

 「西欧、ベルギーの製造ですね。『BEL』と書いてある。というか、これはイナバルン社が製造している“イナバルンシューズ”のA0モデルだ。随分と高価なものですよ。スニーカーにしては、珍しい厚底が特徴でね。1,000足しか製造されていない代物だ。遊び心のある造りが何ともいえない」

 大人げないが僕は、相変わらずの黒木の博学ぶりを「よくもまぁ、相変わらずなんでも知っているね」と皮肉った。

 「いや、これは受け売りだよ。そこの喫茶店、ほら君も知っているだろ、『金ベルトの腕時計の男』の件の。あそこのマスターと、古着ショップのマスターは顔馴染みでね。よく喫茶店にも油を売りに来るんだが、そのとき、たまたま“イナバルンシューズ”を仕入れた話を耳にしてね。よくあの古着屋のマスターは仕入れた商品の自慢話をしに喫茶店に来るんだよ。地縁というやつだね」

 「へぇ、そういうつながりもあるんだ、あのマスター…」と感心したが、僕も早く黒木の意見を聞きたいので、「どうだい、僕の見立ては、妥当でしょ?」と差し迫った。すると、黒木は落ち着いた様子で答えた。

 「うん、見立てとしては自然だと思うが、本当に彼女ではなく、スニーカーに興味関心があることは確認しなければならないだろうね」そう言って、黒木は、手に持っていた彼女のスニーカーを僕に手渡し、「これを君が履いて、あそこの彼が、宇佐美さんの足元ではなく、君の足元を見たら、間違いなく、このスニーカーに関心があると言えるよ」とスニーカーを履くよう促した。

 「いや、僕はいいけど…」とためらっていると、彼女がすかさず「大丈夫よ、銀杏君が嫌じゃなければ」と言ったので、僕も「いや、その僕も宇佐美さんが良ければ」とスニーカーを履く決心をした。

 黒木は「ではさっそく、サイズも大丈夫だろう。EU42だと、26.5cmから27cmだ。まぁ、物は試しに」とスニーカーを履いた僕を通路側の席に座らせて、彼が来るのをじっと待っていた。


三 フェイクと愛


 本を手に取って読み始めてからの集中力の持続は人によって異なるものの、本はやはりその人の集中力を引き出す効果を秘めているのだろう。僕がスニーカーを履き始めてから、かれこれ、1時間半が経過しようとしていた。

 「これいつまで待つんだよ」と小声で黒木に投げかけたその時、ようやく彼が立ち上がりこちらへ向かって歩き始めた。徐々に距離が縮むにつれて、答えが分かる楽しみから心拍数が上がっていく。本を読みながら、彼が僕たちの机の横を通り過ぎようとしたその時、一瞬彼は、彼女の足元に目を向けた。彼の瞳は驚きを映し出したもののようにうかがえたが、一方、僕が履いている彼女のスニーカーには見向きもしなかったのである。

 「これで、この高価なスニーカーには、関心がないことが分かった。そして、全容も明らかになったが、これらの一件は、謎というほどのものでもないだろう。これは、フェイクと青春が交じり合ったお話だからね」

 僕は、あの彼の関心がスニーカーではなかったことにいまだ驚きを隠せずにいた。

 「これはどういうことなんだい?」そう問いかけると黒木は、事のからくりを話し始めた。

 「この件は、二つの全く異なるものが、あたかも関係のあるがごとく結び付けられてしまっている。すなわち、このベルギーのスニーカーの件と、あの通り過ぎる彼の件は、まったくの別件ということだ。まず、この“イナバルンシューズ”の方だが、このスニーカーに関しては、俺と宇佐美さんしか知らないことが一つだけある」

 僕と彼女は、ぐっと黒木の話に引き込まれていった。

 「何?黒木君と私しか知らないことって?」彼女がそういうと黒木は、言葉を続けた。

 「この“イナバルンシューズ”に関しては、さっき『遊び心のある造りが』と喫茶店で耳にした話をした。そこで耳にした話には続きがあって、その遊び心ゆえ、限定製造1,000足の“A0”モデルには、うち、10足にのみ、スニーカー厚底内に当時のベルギー金貨が埋め込まれているようで、その金貨は現在の価値にすれば、100万円はくだらないものらしい。この話は宇佐美さんもご存知ですよね?随分とマスターも自慢されていて『商科大の女の子に“イナバルンシューズ”の魅力を説明したら、面白がって買っていってくれた』と言っていましたよ」

 「えっ、このスニーカーの諸々の経緯を知っていたの?」僕は驚きを隠せず、彼女の方を向くと、「ごめん!悪気があったわけじゃないの銀杏君。私から説明するね黒木君」そう言って僕に、事の経緯を説明し始めた。

 「黒木君が言ったとおり、このスニーカーは、あの店のマスターのセールスで買って、”A0”モデルの遊び心として、10足にのみベルギー金貨が入っているっていう話も聞いていたの。ただ、そのベルギー金貨入りの10足はインソールの裏に刻印があるようなんだけど、このスニーカーがそれではないこともまた、事前にマスターから教えてもらったうえで、安く購入したの」

 「ちょっと待って。まだ理解できないよ。僕には何がなんだか…」

 僕はいまだに事の経緯を理解できずにいたので、黒木に説明を求めた。

 「つまり、おそらくこういうことだ。間違っていたら、訂正してください宇佐美さん。金貨入りの10足が存在する“イナバルンシューズ”を買って、そのスニーカーを履いていたところ、とある学生がその靴をまじまじと見てくることに気づいた。そこで宇佐美さんはこう思ったに違いない。『この学生も“イナバルンシューズ”の価値と、“A0”モデルに存在する10足のベルギー金貨の件も知っている』と。そこで宇佐美さんは考えた。『この件をいつも私の横を“通り過ぎる男”の存在、そして謎として、筆が止まっていた銀杏に推理させよう』と。そうですよね?」

 「そぅ…」彼女は小さい声で呟いた。

 僕もどこかそんな気を遣わせてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 「そんな…気を遣って…。でも、待って、あの彼の関心はスニーカーではなかったんじゃ?!」

 「そう、それは宇佐美さんも驚いたことでしょう。宇佐美さん自身、あの彼の関心は、このスニーカーにあると確信のうえで、その後追いを我々にさせようとしていたわけですからね」黒木は続けた。

 「でも、真相は違いました。あの彼の関心は、足にあった」

 「え?!足?!」僕と彼女は声を上げて驚いた。

 「そう不可解なことではない。これはいわゆるフェチといわれるものだ。例えば、女性であれば、男性の筋肉であったり、血管の浮き出るゴツゴツした手であったり、逆に男性らしくないしなやかな細く長い指先であったりに魅力を感じるし、男性であれば、女性の綺麗な手であったり、声であったり、脚などに魅力を感じる。その対象は人それぞれだが、あの彼は、その対象が足だったと、そういうことでしょう。たしかに、宇佐美さんは、女性にしては珍しく身長が高い。しっかりとした骨格のスタイルがゆえに、足も日本人の平均女性よりは大きい。そんな足に魅力を感じる男性がいてもおかしくはないでしょうから」

 「そんな…結末って…」彼女が残念そうな顔をしているのとは裏腹に、僕は「じゃあ、宇佐美さんの思い込みのストーリーと、あの彼の単なるフェチに振り回されていたってこと?」と落胆したのだった。

 そんな僕を見て、黒木は静寂な図書館で声高らかに「いやぁ、これは傑作だ!銀杏。ぜひとも、ここまでの落ちを含め、さらに君の脚色で花を咲かせて、奇怪なミステリーエッセイ作品に仕上げてほしいものだ。タイトルは…そうだな、『彼女の愛と、あの彼の愛の交錯』。うん、事の顛末をよく表現したタイトルだと思うね」

 「そんな馬鹿にしないでよ」僕は続けて言った。

 「今回の件は、宇佐美さんの責任が大きいんだから、せめて、今回の話をまとめて作品にしたときは、気の利いたタイトルを命名してくださいね」

 彼女は顔をほころばせながら答えた。「本当に今回はごめんね。タイトルね…そうね。私なら、これまでの銀杏君の作品タイトルっぽく、もっとシンプルに奇怪さを想像させるものがいいなと思う。例えば…うーん…、『通り過ぎる男』とかね。フフフ…」


※昭和五十七年九月、銀杏玲著『通り過ぎる男』は北城商科大学文芸サークル同人誌に掲載された。


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