八、地球の死が見える少女
最終話ですが、設定がほとんどギャグです。多少のグロはありますが、おそらく全く怖くないと思います。
一
その少女は、たわむ枝のような力強いお下げ髪をピンクのリボンで結わえ、大きな目で私をじっと見つめている。瞳はいっけん暗く虚ろだが、よく見るとその奥に、あわい敵意の炎が、風を受ける穂のように静かにゆらめいている。
小柄な背、紺のセーラー服。たった今、学校から出てきたようにカバンを両手でさげ、板張りの床に踏ん張るように、両足をひらいて立っている。
あたりは夕闇がおち、不意に近所の犬の悲しい遠吠えが空へ糸を引いた。こんな時刻に、この少女はいきなり戸をあけて飛び込んできたかと思うと、今のように私を見つめ、人形のように微動だにしないのだ。
やや面食らい、卓の座布団に座って書き物をしていた手にペンを握ったまま固まっていると、彼女は口をひらいた。
「星野……小百合さん、ですね?」
かわいらしい顔に合う、ふわりと軽い声だが、言い方にどこかトゲがある。
「この千早寺で尼さんをしてらっしゃる、霊能者の星野小百合さんですよね?」
「ええ、そうですけど、あなたは……」
聞こうとすると、少女はいきなり話を変えた。
「髪が長いんですね、尼さんなのに。浄土真宗だからですか?」
「えっ? ああ、これね」と触る。「剃髪は出家のときにすれば、あとは自由だから。
それで、どうし……」
「その様子だと、知らないみたいですね……」
急に眉を寄せて困惑の顔になり、すぐに厳しい表情に変わる。なんのことやら分からない。こっちこそ困惑である。
「えっ、なにを?」
「地球が……」
刺すように見すえ、重々しく言う。
「あさって、消えることを、です……!」
唐突な言葉に、しばしあっけにとられた。
が、そんな私にかまわず、少女は話し続けた。
それは、あまりにも途方も無い話だった。
「地球に生命が誕生して、四十億年になります。最初は海でバクテリアが生まれ、それが長い年月をかけて進化し、植物から動物へ、そして人類になって、こんにちまで続いています。
これが、何を意味するか分かりますか?」
「えっ、なにって……」
なにったって、なにだかさっぱり分からない。
彼女は私の要領を得なさに眉を寄せる。声色にも若干イライラがにじんできたが、キレたりすることなく、続けた。
「生命と、単なる物質の最大の違いは、なんでしょう? 生きて、死ぬことです。生きるものは、必ず死ぬんです。
生物がこの星に生まれて、もう四十億年たった。ということは、四十億年分の生物が生まれ、そして同じ数が死んできたわけです」
確かに、生きとし生けるものは、確実に死ぬ。それは、死者と縁あるなりわいをする自分にとって、無関係ではない。
だが、それが、いったい?
「つまり」
彼女はいったん息を吸うと、いきなり火の玉でも吐くように、言葉を一息にぶっ放した。実際、それは炎だった。受けた私を、火傷を負ったように驚かせた、という意味において。
「この四十億年間に死んできた、あらゆる種類の生物の霊魂が、この星に今も存在している、ということです! 今までに死んだ全ての生命が、一つ残らず霊になって、この地球上にずーっと溜まっているのです!
そして、そして……」
次の瞬間、火の玉は爆発になり、この寺中に飛散した。反響する甲高い声が、天井の梁をかすかに揺らし、屋根裏のネズミが驚いて振りむく気配がした。
「それがついに、限界に達したのです!」
そして目を閉じ、
「膨大な霊の重みに耐え切れず、地球はあさって、」
ゆっくりとこっちを見て、押し殺すように、ぽつり。
「潰れます……!」
あまりに荒唐無稽な話に目をぱちくりしたが、少しの沈黙の末、ようやく口をひらくことができた。
「ええと、要するにあなたは……
今までに死んだ生物の霊が、全てこの世に残っている、と。そして、それが、限界に達して地球を押し潰す、と。
こう、言いたいわけね……」
「まったくその通りです」
「えっとね……。
私は、この世にさ迷っている霊を祈祷して、成仏させる仕事をしているの」
話がなんとなく飲み込めたので、いったん浮いた尻を座布団に落いて座りなおしてから、続けた。
「なんの問題もなく死んだ人の魂は、そのまま、すーっと極楽浄土へ行けるの。もしも殺人みたいな酷い悪さをしていた場合は、地獄になるけどね。
とにかく、普通は死んだものは地獄、極楽のどちらかへ行くんだけど、この世に未練や強い恨みを残して死んだ場合は、あの世へいけず、ここに足止めされて、とどまることになる。これが霊とか、幽霊と言われるものね。で、それを、私のような霊能力を持った者が浄霊して、あの世に送っている。
つまり、この世に霊がいるというのは、元来、おかしいわけ。例外なの。
あなたのお話だと、死んだものの魂全てが、この世にとどまっているようだけど……」
「ちがいます」
いきなり眉を吊り上げて口を挟む。
「あの世など、存在しません」
「へ?」
「さっき先生は『あの世に送っている』などと言いましたが、ないところへ送ることは、できません」
なにを言い出すかと思ったが、抑えて反論する。
「でも私は、もう何度も迷える霊や悪霊を浄化して、天へ送っていますよ。同業の人がそうしているところも何度も見たし、そういう人を、他に何人も知っているし。
死者の方が、満足の笑みを浮かべて天へ昇るのを、この肌で感じましたよ?」
「それは錯覚です」
「さ、錯覚?」
「はい。
確かに、悪霊だった人が満足げに笑って消えたら、いかにも成仏したのかな、と思うでしょう。でも、そう見えただけで、実は消えていないんです。
魂が空へ、ひょいーっと上がっただけで、どうして、それがあの世へ行った、などと分かるんですか? 普通に死のうが、恨みを残そうが、人だろうが、バイキンだろうが、死んだものの魂は、どこへも行きはしません。
全て溜まっているんです、この地球に……」
急に悲しげな顔になり、床に目を落とす。
「残念です。先生は他のインチキ霊能者とは違って、本物だと思ったのに。やっぱり見えないんですね、あなたには。
この膨大な霊の山が……」
周りを見渡す少女。本当に見えている目をするので、ちょっとぞっとした。
「あなたには、見えているの……?」
「いつもではありませんが、時々です。ちらりと見えることもあるし、はっきり見えて、霊の山に自分が埋もれて、倒れそうになることもあります。
感覚もあります。冷えたような、暗い、薄ら寒い感じで、いつもは微かですが、急に強くなることもあります。
星野先生、本当に感じないんですか……?」
上目遣いに聞かれ、返答に困った。最初の高圧的な態度が一変し、消え入るように弱気になったので、なにかかわいそうになった。
だが、嘘を言うわけにはいかない。
それで、なるたけ優しく言った。
「悪いけど、この部屋の中にも、寺の外にも、霊の存在は感じられない。私は、まだまだ未熟だし、そのせいもあると思うけれど……」
「そんなこと、ないですっ!」
不意に叫んで顔を振る。
「先生、有名な霊能者もさじを投げた数々の難事件を解決してるじゃありませんか!」
「師匠がいいからですよ。難しい事件は、ほとんど師匠のお力添えです」
「そんなご謙遜なさって……」
真顔で言う。なので、お世辞には見えない。
「私、調べたんですよ、詳しく。そちらの世界でも評判じゃないですか。星野先生に助けられなかった霊はない、と」
「い、いや、そこまでは」
急にほめ殺しになって、どぎまぎした。ほめられるのは苦手だ。まあ得意な人も、そういないだろうが。
ところが、少女はいきなりニッと、小悪魔のような意地の悪い笑みを浮かべた。
「でも、このごろは散々ですよね。未解決だらけじゃないですか」
叫んだとたんに真顔で人を誉めたかと思えば、今度は嘲笑う。本当にくるくる変わる娘だ。
思わず眉が寄った。
だが、事実だから仕方がない。
確かに、ここ数ヶ月は最悪だった。スランプだろうかと思った。
いやむしろ、今までが上手くいきすぎたのだ。霊能者としては、このくらいが普通なんじゃないか。そう考え直している矢先だった。もちろん、クライアントの皆さんには申し訳ないことをしたと反省している。
「おかしいと思いませんか?」と少女。「敏腕だった腕が急に落ちるなんて。なにか原因があるはずです」
「いや、それは単にスランプで……」
「いいえ、なにか巨大な波動が出ていて、その影響だと思うんです」
「それって、あの、まさか、さっきの話の、全ての霊が溜まってるっていう……」
「はい、それです」
再び、ここに入ってきたときの仰々しい様子に戻った。
「周りに見える霊の壁の色が、このごろ、妙に濃くなっているんです。積み重なる霊たちの顔も……もともと圧迫されているから苦しげではあったんですが……ひどく引きつったようになって、特に下のほうなんてもう、霊だからこう言うと変ですが、死体のように目を閉じて、押されすぎて小さく縮んで、色もくすんでしまっているんです。それにさっきも言いましたが、霊の力が先生でも手に負えないほど強くなってきている。
これらはみんな、地球消滅の兆候だと思うんです。異常気象も最近、増えてますよね。どのみち、誰にもこれを止められません」
そして決意のように、上目できっぱりと言う。
「あさって、地球は消滅します」
最初はかなり頭が混乱したが、次第に整理がついてきた。
そこで私は、なるべく穏やかに言った。
「話は、だいたい分かったわ。
要するに、今までに死んだ全ての生命の霊が、あの世にもどこへも行かずに、この地球に堆積していて、あさって、それがついに限界に達して、地球が潰れると。で、その膨大な霊の山は、今のところ、あなただけにしか見えていない、と」
「そうです」
「そうなると……私たちが見ている霊は、なに?」
「ものすごい量になって、今やアルプスをはるか越えるほど高く積まれている霊たちの、ほんの一部です。みなさんには、そこまでしか見えていないんです」
「じゃあ、私たち生きているものは、本当はうずたかく堆積した霊の山の中を歩いて、生活しているってことなの?」
「そうです。見えておらず、気づかないだけで、たとえばこのお寺も、実際には霊魂の奥深くに埋没しているんです。
今や、霊に触れずにいるのは、上空五千メートルを飛ぶ旅客機ぐらいです。その下は、はるか深い谷底まで、ぎっしり霊が詰まって、層になっているんですから」
「それが見えて、感じとっているあなたは、大丈夫なの?」
「はい、見えるといっても、体が触れられるところまでは行きませんから」
妄想だとしたら、とんでもないスケールだが、こんな荒唐無稽な話を聞いても、笑い飛ばせず、押し黙ってしまう自分がいた。
確かにこのところ、気温の上昇や多発するハリケーン、地震の頻発など、世界各地で異常気象が続いている。そして妙な感じもいだいている。自分の仕事の失敗だけでなく、私の所属する霊能者の協会とほかの会員たちも、「なにか今年はおかしい」と口々に言っている。
私の恩師である橘師匠も、ついこのあいだ、「なにかが起きるかもしれん。警戒を怠らぬように」と、不吉なことを言っていた。困ったことに、彼の不吉な予感は、たいてい当たる。
ただ、霊が発する波動というのがあり、大気のように全国に広がっているのだが、それが著しく乱れているという話は聞かないし、自分も特に感じない。
また、霊の通り道である霊道というのがあり、たとえば四辻のような道の交わる部分を通って霊界から悪霊が現れ、人に災いをなすような、そんな目に見えない「道」が日本中にあり、あまりに酷いところは地主や国の要請で霊能者によって管理されているのだが、そこからも特に変わった報告はない。なのに、ただ全国の霊能者が一様に「妙な予感」のみをいだいている。
実は協会の知り合いに頼んで調べてみたところ、これは日本だけではなく、世界中の霊の専門家がいだいている感覚でもあるらしい。
これは、ちょっと、おかしいのではないか。やはり我々の能力を超えた何かが、今、この星に起きつつあるのではないか。
しかし、そうは思っても、この娘の言う「四十億年分の魂の堆積」という話は、あまりに極端すぎて、にわかには信じられなかった。しかもこれを信じるということは、我々霊能者のやってきたこと全ての否定に繋がるのである。我々が、時に命をかけて浄霊させてきたと思っていた無数の魂が、実は全てこの世にとどまっていて、成仏などしていない、というのだ。
だが待てよ。
そうなると……
「ひとつ聞いていい? 私たちが霊を成仏させたと思っていたのは、ただの勘違いだ、って言ったわね。でも、たとえば私が悪霊を綺麗にして天へ向かわせると、今までそこで起きていた祟りとか、交通事故みたいな霊障が収まるのよ。
これは、どうしてなの?」
「埋没するんですよ、悪霊が」
「埋没? どこに?」
「溜まっている霊の山に、です。
心霊現象が起きる、というのは、新たに死んだ人の霊が、霊の山に飲み込まれる前に、一時的に生きている人の前に姿を現すことです。
私たちに霊障を及ぼす悪霊は、実はまだ半分しか死んでいないんです。恨みや未練が足を引っ張って、半分は生者の世界にいるんです。
先生方のやってるのは、それを神通力で完全に殺し、地球に溜まっている霊の山に突っ込むことなんです。完全に死ねば、霊障も収まります。
だから、霊が極楽へ行かなくても、みなさんのしていることは別に無駄ではないんですよ。
いや、『無駄ではなかった』と言うべきでしょうが……」
ああ、そういうことか、なるほど。
これで、この話を協会に持っていっても、そう嫌がられることはなさそうだ。
しかし、彼女のあきらめに満ちた顔を見ると、そうのんきなことは言っていられないと思った。
もう、最初に見たドヤ顔は影もない。まるで死を決意した末期患者のそれだ。
少しの沈黙ののち、私がおもむろに口をあけた。
「……『あさって』って、どうして、あさってなの?」
「私、数学と物理はてんでダメですが、私なりに計算したんです。今まで地球上に、どれだけの量の生命が生まれたか、いろいろ調べて、あとは最近の、徐々に高まっている気象や霊などの現象と照らし合わせ、それから私自身の感覚で判断した結果、タイムリミットはあさってぐらいだろう、と思ったんです。
笑っていいですよ」
「笑わないよ。本物の霊能者は、人を決して笑わない」
私の中に、どこか彼女への同情が芽生えていたのか、親しみを感じ、安堵していた。「これ、師匠の受け売りだけどね」と、口元さえゆるんだ。
「もちろん、計算が間違って期日が延びれば、こんなに嬉しいことはないです。でも星野先生、」
「先生はやめて。さん付けとかでいいよ」
「じゃあ星野さん」
暗い上目遣いで続ける。
「あさって助かろうが、近いうちに必ず地球は滅びます。これは避けられないことです。
……私のこと、おかしいと思ってるんでしょう?」
「さっきも言ったでしょ。霊能者は、どんな人もおかしいとは思わない。
とても大事な話を、ありがとう。すぐに霊能協会に相談するわ。
ええと、あなたのお名前は?」
「これです」
メモを差し出すと、戸口から飛び出すように行ってしまった。紙には名前と住所、電話番号が丸文字で書いてあった。
「……金井善子、か」
また遠くで犬の声が闇を裂いた。
これは、えらいことになってきたな。
二
霊能協会は、私が所属する霊能者の団体で、日本各地に支部を持ち、一般人から依頼された霊的事件の解決をなりわいとする。
その日のうちに、都心にある橘師匠の寺へ行った。一部始終を話すと、師匠は堀の深い顔をうつむけ、しばらく黙った。初老の男性だが、数多くの事件をこなしてきたからか、老獪の貫禄がある。
「小百合君、これは我々の遭遇したこともない大事件かもしれんぞ。なんせ我々には感じ取れない、というのだから。それでいて、ある不吉な感じだけは、おそらく我々全員が感じている」
私はうなずいた。
「はい、協会にも通しやすいでしょう。ただ我々としては、気象などの状況証拠から推測するしかありません」
「確かに、対策の取りようがないかもしれん。が、できることはあるはずだ。さっそく会長に電話しよう。遅ければ遅いほど、まずい」
ところが、金井善子に渡されたメモにある番号に電話しても、出ない。住所に行くと、そこは湖のど真ん中で、家などない。あらゆる手段を用いて調べても、金井善子という名の女性が、その付近に住んでいるという情報は出なかった。同姓同名の女性は都内に何人か見つかったが、私が直接会ってみても、全て別人だった。では東京ではなく、他の県にいるのか。
こうなると「いたずらだったのでは」という憶測が浮かんだが、同時に絶対にそんなことはない、とも思った。なにかの理由があって見つからないのだ、きっと。
最初はそう思っていたが、彼女に会った翌日を丸ごとつぶして探し回ってもダメで、さすがに疲れ果てた。その晩おそく、布団に入る頃には、私は闇に浮かぶ電灯を見つめて考えた。
(本当に、担がれただけ、だったかもしれないな……)
いや、それならなにも心配いらないわけだから、万万歳なのだが。
ところが、そうはいかなかった。
不意にスマホが鳴った。
出ると聞いたような少女の声がした。
「白井のの、といいます」
いきなり声は言った。言い方がかなり切迫し、声はおののくように震えている。私は緊張した。が、聞き覚えのない名前だ。
「どちらさまですか」
「あ、あのう、私……」
声はしどろになって、次の瞬間、はっきりと言った。それを聞き、私の目は見開いた。
「金井善子、です」
いったいどういうことか、いまどこにいるのか、などと思うまもなく、その白井ののは、まくしたてるように続けた。
「偽の名前をお渡ししたのは、あなたが予想外にいい人だったので、急に巻き込みたくなくなったからです。はなから私を信じないで笑ったら、そうするつもりだったのに、あなたはこんな私を信じてくれました。それで逆に、本当の名前と住所を教えたくなくなったのです。すみません。
私いま、ニューヨークにいます」
「ニューヨーク?!」
「はい。ここに私と同じ体験をした人がいると聞いて。でも嘘でした。ジョークだったと笑われて。
それで帰ろうと思って、いま空港の前なんですが、その、急に、急に……」
泣きそうになったので、あわてた。
「しっかりして、だいじょうぶ、聞いてるから。どうしたの?」
「あ、あれが、あれがいま、急に、はっきりと……」
はっと分かった。
あれ、とは、彼女の話していた、「あれ」のことなのだ。
「霊ね。霊がはっきり見えてきたのね?!」
すると、いきなり聞いていない感じになり、電話口で身を震わせているようだった。
「空がいま、まっくらです」
こっちは夜だから、向こうは朝のはずだ。スマホから、人の叫びやクラクションなど、物凄い喧騒が伝わってくる。earthquake! という言葉が聞き取れた。
「大騒ぎです。足元がゆれてる。みんな逃げ回ってます。私の計算ちがいでした。今日だったんです。地球の死は、あしたじゃない、いま起きるんです。
あれが、あれが、目の前に、壁になって……いいや、壁じゃない、海です、津波です。ものすごくでかい。でかい、でかすぎです」
あわててリモコンでテレビをつけると、ニューヨークで大地震、というニュースをやっている。本物だ。彼女の妄想じゃない。現実におきていることだ。
「白井ののちゃん、聞いて! とにかく、すぐ逃げなさい!」
そう言うしかない。はるか海の向こうからなのに、すぐ間近のような、とんでもない霊気の束がここまで発せられている。こんなのは初めてだ。
「こ、子供の頃から、」
鼻声で、押し殺したように言う。
「ずっとおぼろげに見えたり消えたりしてた、あの霊たちが……! 人だけじゃない、動物、植物、微生物……!」
声は叫びになった。
「ち、地球が出来てから、生まれて死んだものたち全てが、ああ目の前に! 津波になって押し寄せてくる!
たすけて、こわい! 星野せんせええええ!」
「ののちゃん! なにがなんでも今すぐ行くから! だから……」
スマホがぶつっと切れた。
三(この章にふさわしいBGM HAWKWIND「Void of Golden Light」)
テレビがぱちん、と消えた。停電だ。
窓から外を見ると、空は夜中だというのに、どんよりした紅色に染まっている。
不意に何かを感じ、数珠を固く握る。
この気配。
霊には違いないが、今まで感じたこともない重苦しさと、粘った想念の渦が、周りから波のように押し寄せてくる。上から下から、あらゆる方角から、それは私を包むように迫ってくる。津波の押し寄せる海のど真ん中に飛び込んだようだ。
いや、津波も全方位からは来まい。
またスマホが鳴った。出ると師匠だった。
「小百合君、感じたか。今、私も気づいた。霊の山だよ。どうして今まで気づかなかったのか」
白井ののから電話があったことを伝えた。
「彼女の言ったとおりです。我々の目にはいっさい見えなかった大量の霊が、地球全体に詰まっていたんです。いまや終わりのときが近づいたので、私たちにも見えるようになったのでしょう」
「小百合君、落ち着いて、出来ることをしよう」
師匠の声は震えてはいるが、上ずったりはせず、肝がすわっているように思えた。
「協会だけでなく、世界中の霊能者に連絡が行った。彼らも、霊の層の存在を感知しているそうだ。この星の霊能者全員で、この膨大な霊を浄化するのだ」
「しかし、それでどうなるのです? 私たちが成仏させたと思っていた方々も、実はこの世に縛り付けられていたのでしょう?
いったい、極楽というものは、本当にあるのですか?」
「分からん」
師匠は、はっきりと言った。
「それを、これから証明するのだ。あの世が本当にあるか、ないか。我々の命を賭けて、な。小百合君、やってくれるな?」
「分かりました」
意を決した。
「全力を尽くします」
「最後まであきらめるなよ」
むろん、全世界の何千何万もの霊能者が束になって祈祷しても、四十億年分の途方もない量の霊を浄霊するのは、ほとんど不可能だろう。数にしたら、兆はおろか、京をはるかに越えているかもしれない。
むろん霊が等身大のままなら、とうに大気圏外を越えて、今ごろ地球は数倍以上の直径を持つ惑星に膨れ上がっているはずだ。白井ののの話だと、霊の山の高さは地上五千メートルくらいだというから、個々の霊はかなり小さく凝縮されているのだろう。
しかし、死後、他の霊の束に押されてつぶれかかるとは、いったいどんな気持ちだろう。極楽浄土へ行くことを断念し、悪霊になってさ迷うことを覚悟のうえで命を絶ったというのに、いざ死んでみれば、他のおびただしい数の霊に挟まれて、身動きすらできないとは。いかほどの絶望だろうか。
それを想像するだけで身がすくむ思いをしたが、恐れている暇などない。確かに、やっても無駄だろう。しばらく持ちこたえるくらいしか出来ないだろう。
それでもやるしかない。
出来ることをせよ。
それが橘師匠の教えだった。
霊たちの叫びは、いまやはっきり聞こえた。それは人間の怒号だった。苦痛と悲しみに満ちていた。はるか太古から存在し、一度たりともこの世を去らなかった霊たちの顔が、私にもおぼろげに見えてきた。私が担当して浄霊し、成仏させたと勘違いした方々も、中にはいよう。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
(本当にすみません)
(いま一度、祈らせてください……)
手をあわせ数珠をこすり、周りの全てに向かって必死に己の霊力を放出する。
無数の目鼻と思しき形が目の前に星のように立ち並んで見えたとき、空が血のように真っ赤になっているのに気づいた。そして次の瞬間、足元が一気に下がった。大地は無く、私ははるか暗黒の谷間へ落ちていった。周りをおびただしい霊の顔が過ぎ、激しい苦悶、嗚咽、慟こくに満ちた目が、ビルから落ちる人の見る無数の窓のように、くるくると私を見つめる。
そのうち落ちる速度が遅まり、ほとんど浮いたようになった。周りは真っ暗で誰もおらず、私は本気で死んだと思った。
が。
「そんなことはない」
しわがれた声がした。
振り向けば、白いひげをたくわえた老人の顔があった。頭だけで、下の体はひょろっとした人魂の尻尾だ。完全に霊である。
だが、どこかで見たような。
「それはそうだ」
聞こえたように、彼はしわくちゃの頬を動かして言った。
「わしは、おぬしの四十代前に死んだ、おぬしの先祖だ」
「私の先祖?!」
がく然とした。
「や、やはり、極楽へは行っておられなかったのですね……」
「うむ」
私のご先祖の霊は、おごそかだが、秋空のように澄み切った、静かな声で話し始めた。
「地獄極楽、あの世なるものがあるのか、ないのか、未だに知るものは誰もおらん。死しても、この現世にとどまるのみ。おぬしらが、わしらの墓標に手をあわせてくれるのを見ると、いささか心苦しく思う。
じゃがな、気に病むでない」
はるか遠いひいひいお爺さまは、そう言って目を細めた。
「この現世で、ずっとおぬしら孫たちの近くにいられることは、わしらの何よりの喜びなのじゃ。小百合よ、どんなことがあっても絶望するでない。わしを含む四十人もの守護霊が、いつもおぬしのことを見守っているのだ」
頬が熱くなり、涙がとめどなくあふれた。
思えば、この霊が見える特異体質を幼少の頃から気味悪がられ、物陰で一人泣いていたときも、ご先祖さまたちが、ちゃんとそばで見ていてくだすったのだ。
だが、知りたいことは山ほどある。
私は泣きながら、子供に帰ったように、ひいお爺さんの優しさにすがった。
「で、でも、救ったと思った人たちが、みんな、実はなんにも、救えてなくて……」
「ああ、おぬしが浄霊した者たちのことか。
確かに、悪霊となって人々に害をなしていた者が、ぬしのような僧侶の祈祷を受け、これで天へ召されるはず、と期待したことは、いくらもある。最初はみな絶望し、ぬしらを恨みさえするが。
しかし、な。
己が去ったおかげで、災いが消えて喜び、ついには己の墓に手をあわせる人々の幸福を見るうち、その者からは自然に恨みが消え、ついには幸せすら感じるようになるのだよ」
「ほ、本当ですか?」
「うむ。ぬしらのやってきたこと、なに一つ無駄ではない。極楽へは行かずとも、わしらは幸せじゃった。
ところが、じゃ……」
ひいお爺さまの顔に暗い陰がさした。
「わしが死んだ頃は、まだ人や動物や植物の霊がそこら中におっても、空を飛びまわるくらいは出来た。じゃが、人や動物らの魂の数は次第に増え、二十世紀とやらに入ると、互いに身動きも出来んほどひしめいてきた。そして、とうとう、今のようにあらゆる霊が積み重なり、地球をつぶすほどになってしもうたのじゃ」
「そ、それを止める方法は?」
「残念じゃが、誰にも分からん。
ぬしも知っておろうが、わしらを感じ取ってくれた者は、この四十億年で、たった一人しかおらなんだ」
(白井のの……!)
やはり、あの娘のことを、霊たちの方も知っていたのだ。そして、霊たちの本当の居場所を知る能力を備えた者は、人類史上、あの娘ただ一人だけだったのだ。
「そう、あの娘じゃ。
じゃがの、やはりあの娘にも、この事態をどうこうすることはできんかった。
ただ、生きているものの中で、たとえたった一人でも、見て、感じてくれる誰かがいたことは、わしらには大きな慰めになったのじゃよ。あの娘のほうこそ、次第に圧迫されて苦しむわしらの姿を、なにも出来ずただ眺めるのは、本当に辛かったと思う。
じゃが、それも、もう終わる。全てが消えてなくなるのだからの。
すまんな、可愛いひい孫にそんな顔をさせて。
ただな、
わしらには希望がある。押し潰されて圧迫される苦痛から解放され、今度こそ、誰も見たことのない本物のあの世に行けるのではないか、という希望じゃ。ぬしたち、まだ生きていけるはずの者までが道連れになるのは、本当に本意でないし、悲しい。それだけが、わしらの大きな心残りなのじゃ。
すまん小百合、守護霊のくせに、なんの力にもなれんで……」
話が終わる前に、私はもう祈祷を始めていた。再び霊たちの怒号が響きだし、ひいお爺さまの霊が闇に落ちていき、私も暗い深淵に飲まれていったからだ。
もう涙は乾いていた。
絶望のどん底なのに、不思議と、全身に力がみなぎっていた。
(そうだ、やれ。もう迷うな)
(お前のやるべきことを、やれ)
(最後まで……!)
ふと、どこからか、霊の叫びに混じり、くぐもった声が聞こえてきた。呪文だ。地から鳴り響く霊たちの絶叫を、それは切り裂き、掻い潜るようにして、私の耳に入ってきた。それは日本語のみならず、あらゆる言語が幾重にも層をなす重厚な調べだった。そして、その中に確かに、橘師匠の低く力強い声を聞いた。
(世界中の同志たちが、今、心を一つにして戦っている……!)
私の心は炎のように猛り狂った。いまや私は何千、何万という仲間たちと共に、数珠をこすり合わせて激しく祈祷した。むろん、私の霊力だけでは周りの分厚い霊の壁はびくともしないが、構わない。それでも目の前の何人かは、苦痛にゆがむ目がわずかに緩んだように見える。
だがそのとき、全身がすさまじい恐怖に襲われて凍りついた。目の前にそびえる分厚い壁が、はっきり見えてきた。それはどんな台風や竜巻よりも巨大な、宇宙の最期のような恐るべき腐敗物のうねりだった。白井ののが見たという、今までに地球で死んだすべての生物の霊体の塊という、人間の想像を絶する無限の怪物とは、まさにこれか。こんなものをもろに見たら、誰でも気が狂う。だが目を閉じれない。
霊の怒涛が私に倒れてくる。飲み込まれる。気が遠くなる。
ジ・エンド。
地球はいま、潰れて終わる。
驚いた。
霊の倒壊がスローになっている。
どこからか祈りが聞こえる。
ひいひいお爺さまの声がする。
「みなのもの、いまこそ我々意識を持つ人間の霊が、この星を救うべく祈るのだ。生まれ、生きて、死んでいったあらゆる人間たちの力で、迫り来る動植物たちの霊を押しとどめようではないか。
霊力により、我々を救おうと尽力してくれた無数の人々。そして、我々を唯一感じてくれたもの、我々に情けをかけ、慈悲深い心をかけてくれた、この宇宙でただ一人の人間、白井ののを、今こそ助けるのだ。全身全霊をこめ、この無慈悲なる圧力へ立ち向かおうではないか!」
地球の底から、すさまじい念の嵐が沸き起こり、ぐるぐるとこの惑星を回り席巻するのを感じた。倒壊する霊の壁が完全にストップし、やがてゆっくりと音もなく空へと押し戻されていくのが見えた。
私が気を失う寸前まで、この星に生まれ生き、死んだすべての人間のおびただしい霊の祈りが、この耳にいつまでも聞こえ続けた。
目がひらく。手足が動き、身を起こす。
周りには懐かしい地面があったが、どこも荒れ狂う海のように波打ち、ところどころ大きく隆起している。あるいは長々と裂け、真っ黒な深淵が口をあけている。
目を上げると、寺の軒がある。
ここは……庭だ。うちの庭だ。
地はこれほどまでに荒れ果てているのに、寺はそのまま何事もなく残っているように見えた。
いったいこれは、どうしたのだろう。
とりあえず、ここがあの世でないことは確かのようだが。
不意に門の向こうに、黒い車が激しい音を立てて停まり、誰かが飛び出してきた。それを見て、あまりの安堵に腰が抜け、また気が遠くなりかけた。
袈裟に身を包む年配の僧侶。世界一、尊敬するお方だ。
「小百合君! 小百合君! 大丈夫だ!」
橘師匠は、今までに見たこともないほどに興奮し、凱旋の叫びをあげて走ってきた。
「助かったぞ! 地球は、元のままだ!」
四
世界中の大地が地震で荒れたが、建物は全て無傷だった。ビルや民家が建っている地だけが、なぜか奇跡のようにそのまま残った。あれだけゆれたのに、被害者はほぼゼロだった。まるで地震が人間だけを避けてくれたかのように。
そして、あれほどまでに、膨大すぎるほどに溜まりに溜まっていた霊たちは、すべて残らず姿を消した。
帰国した白井ののちゃんとは、のちに再会した。彼女もあのときアメリカで、私と同じく霊のうねりに飲まれそうになったが、無数の人間の霊たちの祈りにより、その場で気絶しただけで助かったのだった。
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私の寺から少し行ったところにある、八王子駅近くのおしゃれカフェで、ののちゃんと霊たちがいったいどこへ行ったのかを話しあった。
彼女はミルクティのカップをすすってから言った。
「バカバカしいことなんで、笑ってください。全てがいったんリセットされたんじゃないでしょうか?
地球には……いえもしかしたら、この宇宙には……生物の魂が限界まで溜まると、どこかへ……それがどこだか分かりませんが……あるいは私たちの思う『あの世』かもしれません」
そこでカップに口をつけ、また続ける。
「その、『あの世』みたいな場所に霊がいったん全て吐き出されて、また一から生命の歴史が始まる。そういった循環の機能が、自然を持つ惑星にはあるのかもしれない」
あくまでも仮説で、彼女的にはそれぐらいしか考えられない、と言うが、私は案外そうかもしれない、と思った。
窓から見える桜の白を眺める。
確かなのは、とりあえず我々は助かり、また以前と同じ日常が返ってきたことだ。
師匠はこの件について「お手上げだ」と言った。このことは、人間には永久に分からないかもしれない。
「師匠、いったい極楽って、あるんでしょうか?」
寺に来た彼にうつむいて聞くと、彼はちょっと考えてから言った。
「私も分からんが……。
あの霊たちも、我々のご先祖も、みんな極楽へ行ったのだと思うよ。いいや、あの世はきっとある。そう思うからこそ、我々は浄霊をするのだからね」
「そうですね」
私は顔を上げた。
やはり師匠は偉大だ。彼の楽観に、今までどれほど救われてきたか分からない。
白井ののちゃんとは、この事件をきっかけに交流するようになったが、彼女はもう以前のように、私などには見えない霊までは感じとれなくなっている。並みの霊能者ほどの霊感に落ちているが、本人は、そのことがまったく残念でないらしい。
「もう、あそこまで苦労しないですみますから」
そう言って、彼女は花のようにさわやかに笑った。(「エスカレーター 星野小百合の心霊事件簿」終)