七、女の幽霊
(ご注意)「あまねの君」の元ネタだった話なので、既読の方にはネタばれになっています。悪しからずご了承ください。
一、
「最近、Kに悪い虫がついたみたいなのよ。ねえMちゃん、なんとか言ってやってよ」
母がうるさく言うので、私は今度帰ってきたら話す、と返事した。
Kは私の兄で、二人兄弟のうちの長男である。母はKにえらく厳しく、東京都心の大学に通うのも、自分の目が届かなくなるからと反対するほどだった。母は、Kには将来一流企業に勤めて出世してもらうと昔から決めていた。Kは幼児期から「強く」「男らしく」「立派な」男に育つよう、母から徹底して管理された。それほどまでに、母は長男であるKを立派にすることにこだわった。一方の私は次男だから、さほど厳しくされなかった。
別に家を継ぐような事情があったわけではない。ただ、母が息子の性格や心身その他、あらゆる面で強い男性であることを求めており、長男のKにはたまたま、それをかなえる義務と能力があったというだけだ。幼少に父親をなくし、それ以後、自分の母親が再婚せず父というものを知らずに育った母は、あきらかに極度のファザコンだった。
では、そこまで息子に男を求めるほどなら、彼女の方も過剰に女性的なのかというと、少なくとも私の目からはそうは見えなかった。五十代半ばになる彼女は、中背のずんぐりした体型で、刈り上げた髪のせいで、下手すると年配のプロレスラーみたいにがっしりして見えた。丸顔に植わるぎょろっとした目と大きめの鼻、突き出た分厚い唇のすべてが、その主張の激しい性格を語っていた。幼いころ母親に従順だった反動か、今はワンマンで、言動に強引さが目立ち、人にやさしくするときも押し付けがましさがあった。見た目は口うるさいオバサンの典型なのだが、この手合いによくある取り巻きのような同性の友人は一人もいなかった。付き合っても、相手がその性格の激しさに耐えられず逃げてしまうようで、誰とも関係は続かず孤立し、そのことで母の心のよりどころは、ますます家族へ、それも私の兄であるKに向かっていったようである。
Kが一人暮らしして家からいなくなると、母はとたんにそわそわして、彼にしつこく電話したり、わざわざ電車賃を使ってアパートに「偵察に」いくほどになった。そしてこのたび、ついに彼に「女の影」を見つけたのである。
同居である次男の私から、Kにひとこと言うようしつこく言われたが、彼が家に帰ってくることはめったにないので、電話するくらいだった。電話口の彼は家にいたときとは別人のように生き生きしており、家を出て本当に良かったんだな、と思った。
女について聞くと、「何も知らない、またお母さんの勝手な思い込みだろう」とすげなく言うので、けっこう驚いた。家にいたときのKは、母がどんなに厳しくしても口答えすらしない、従順すぎるほどの「良い子」だったからだ。
もしや、本当に女が出来たのかも、と思った。経験はないが、恋愛が上手くいっているせいで自信過剰になる、というのはよく聞く。だとすると、これはけっこうヤバいかもしれない。
だが母とて、Kもいつかは結婚すると分かっているだろう。もちろん自分がKにふさわしいと判断した相手でないと絶対に許さないだろうから、いまKが付き合っている女が気に入れば、問題はない。だが、そうでなかった場合は、かなり厄介なことになる。
これはKの問題で、私にはどうこうできない。彼が大人しく母の言うとおりにするか、それとも反抗して自分の恋愛を貫くかは、彼次第でしかない。
ところがある日、事態は突如、最悪の方向へシフトした。
たとえば息子や娘が、そこから大学に通っている寮やアパートなどに、教育熱心な親が予告もなく勝手に来る、というのはよくある。子の管理者として、抜き打ちで様子を見にくるわけだが、うちの母も幾度かそれをした。そしてついにある日、母はアパートのKの部屋のドアから出てくる一人の若い女を見た。
彼女は一目見て、気分がむかむかしたという。
それは、さらさらの長い髪をキンキンの金髪に染め、ケバい化粧をし、赤基調の派手な身なりで、真っ赤なヒールを履いた女だった。母は「水商売系の女」と呼んだが、見た目だけで決め付けるのはどうかと思った(もちろん話を聞いたときの私は、そう思っても黙っていたが)。顔は美人ぽかったそうだが、「そんなのは、化粧でどうとでもなる」「きっとブスだよ、あれは」などと酷い言い草だった。
だが、私にそこまで言ったのも、相手と実際に会話したうえでのことだった。
低めでセクシー系の声で、いちおう挨拶は返したものの、Kとの関係を聞かれた女は、「付き合っています」とてらいもなく言い、母が安直に「別れてくれ」と頼むと、「それは絶対に出来ません」ときっぱり断った。
まあ当然だろう。いくら相手の母親の頼みでも、恋人とそう簡単に別れるバカはいない。しかも会っていきなりである。おかしいと思われても仕方がない。
だが実際、母は普通の人間ではなかった。それからしょっちゅう出かけては、別れ話を持ちかけては断られ、帰ってから私に愚痴る、という愚行を繰り返した。
ところが、もういい加減あきらめたら、と提案しようかと思っていた矢先の夕方、帰宅した母の顔がやたら明るかった。女と話がついたというのだ。Kにそのことをこれから話すのが億劫だった私は、とりあえずほっとした。
だが、その後、話は急に不気味な方向へ進んでいった。唐突にオカルトめいた展開が、我々家族を襲ったのだ。
まず母がいきなり、「いい霊能者を知らないか」と聞いてきた。いつになく要領を得ず、なんなのかさっぱり分からないので、問いただして、やっと事実が見えた。
驚いた。
女の幽霊が出る、というのだ。
母は東京郊外に別宅を一軒持っている。多摩西部まで行かないぎりぎりのところで、それでも周りは山が多く、ただちょっと行けばすぐ駅前でロータリーも商店街もあり、住むには不自由しないくらいのところだ。なぜそんな場所に家があるかといえば、今は亡き私の父(つまり母の夫)が以前持っていた別荘を受け継いだもので、特に使う理由がなく、といって売る気にもならず、ずっとうっちゃっていたものである。
だが最近、母はそこによく行くようになっていた。言わなかったが、わけはなんとなく察しがついた。そこはKの大学とけっこう近かったからだ。いわば監視のための拠点だったのだろう。
一度だけ掃除の手伝いで見に行ったことがあったが、別荘というよりはただの掘っ立て小屋で、丸木を重ねた壁など、洋風でおしゃれ感はあるが、中はせまく、部屋の真ん中に木のテーブルをおいて、そのまわりに椅子を二つおいただけで、もう歩きづらいくらいである。丸木の壁をくりぬいた窓からの景色も、目の前を濃い木々の壁がふさいで、暗く殺風景で、住んでもあまり楽しくなさそうな別宅である。
そこは駅に近いといっても、まわりはぐるりと森が囲み、木々と土手ばかりが続く粗野な場所に、その小屋がぽつんと建っている。見たとき木こりの休憩所みたいだと思ったが、気に障ると思って黙っていた。
だが結局掃除も適当で、その後使い道もなく、じゃあなんで掃除したのかと聞くと、「なんかに使えるかもしれないだろ」といい加減な返事なので、あきれた。まあ、いつものことだが。
そして私はある日突然、そんなふうに母が長男監視のための前線基地にしていた「別荘」に、「女の幽霊が出る、なんとかしてくれ」といわれたのだった。
それは母が嬉しそうに私に「あの女と話がついたよ」と言った数日後のことだったので、私はいぶかって「幽霊って、まさかその女の?」と聞いてみた。
「そうさ」
母は、いやなことを思い出す目で言った。
「あの顔、目、鼻、化粧、体つき。そして派手なまっかっかな服。どう見ても、Kにつきまとってた、あの虫だよ」
「じゃ、そいつが死んだってこと?」
「さあね。別れるってあたしに約束してから、会ってないからね。まあ、もしかしたら、そうかもしれんわ。Kと別れたくなさに自殺とかさ」
「そんな、簡単に死ぬかな。だって、別れろってしつこく言っても、なかなか聞かなかったんでしょ?」
「わかんないわよ。あたしやKに嫌がらせのために死んだかもしれんし。そのくらいはやりそうな感じするわ。あいつの目つきったら、蛇みたいに陰険で執念深そうだったしねえ」
だが霊能者に知り合いなどいないので、あれこれ調べて、信用できそうな人を選んだ。八王子の某お寺の、星野さんという若い女性住職で、そのたぐいなき霊感によってかなりの数の事件を解決してきたベテランということなので、かなり期待できそうだった。
「生き霊の可能性もあります」
その晩、小屋に来た星野さんは、母の話を聞いて言った。さらさらした黒髪を腰まで垂らし、一見尼さんらしくなかったが、その整った面長の顔が清潔で上品な感じをあたえ、細い目は温かく優しそうだった。仕事着である袈裟を着て、若くてもベテランの風格があり、私たちは一目で安心した。彼女は弟子らしい小柄な尼さんを連れていて(こちらは剃髪していた)、いま二人はテーブルに並んで座り、母と私に対峙している。
「死んでないのに、たたることがあるんですか?」
私が聞くと、星野さんはうなずいて言った。
「はい、恨みや恋慕などの念があまりに強いと、それが体を抜け出て、相手のところへ行って害をなすことがあります。
その女性の方は、息子さんと別れたくない、と強く思ってらしたのですね?」
聞かれて母は苦い顔で答えた。
「ええ、最後にはわかったと言って帰りましたけど」
「とすれば、その方の生き霊が、ここまでやってきているかもしれません。
その霊は、そちらの窓に現れるのですか?」
住職が指すと、我々はそっちを見た。窓の外はまっくらで、墨を塗ったようになにも見えない。さっきまで月が出ていたが、雲に隠れたようだ。
「はい、その窓いっぱいに、張り付くみたいにして、こっちを覗き込むんですよ」と母。「あたしはもう、恐ろしくてテーブルの下に隠れちゃいますけどね」
そう言って顔をしかめたが、怖がっている様子はほとんどない。私は思わずため息が出た。この程度でビビるタマじゃないよな。
だが、いくらこのゴーゴンかメドゥーサみたいな母でも、超自然現象のたぐいに慣れているはずはない。きっと、ほんとは怖いのを気張って、平気なふりをしてるんだろう。気にしていなければ、こんなふうにわざわざお祓いなんて頼まないだろうし。
そして問題の午前零時になった。その窓に女の幽霊が現れる時間である。出るようになって今日で一週間で、このごろは毎日のように窓ガラスに張り付くように、ぬっと現れるという。
我々は待った。外に突然風が吹いた。ひゅーという口笛のような音が合図になり、果たして、そこにはまっかなドレスを着た化粧の濃い女がいた。母の言ったとおり、蛇のような恨みがましい目で、こっちをじっと見つめている。幽霊なんて初めて見たが、確かに生きた人間が外にいるような感じがまるでせず、ぞっとした。しかも顔が窓の上のほうにあり、立つ位置が高すぎる。宙に浮いていなければ、ありえない場所だ。
霊はそのまま窓の中を移動して消えたので、我々は外に出た。もちろん先頭は霊能者の先生お二人、その後ろを私たち親子が続く。星野さんは手に黒い数珠を握り締めている。
霊は深い森の前にある土手の上に、両足をぶらりと下げて浮いていた。スカートが長く、膝から下しか見えない。星野さんが「あなたは誰? なぜここに来ているの?」と聞くと、女はおもむろに地面のあるところを指さした。どうも、そこになにかあると言いたいらしい。
星野さんが母に聞いた。
「そこを掘ってみても、よろしいですか?」
母はなぜか嫌そうな顔だったが、すぐに「はい」と言い、私は物置からスコップを持ってきて、母以外の三人で、そこの地面を掘りはじめた。
実は掘る前から何か嫌な予感がしていた。それは地面のその部分だけ色が薄く、最近掘って、また埋めたことが見てすぐわかったからだ。こんな場所でそんなことをする者といったら、まず母だろう。
いったい、なにを埋めたのか?
母の不愉快そうな様子は、掘る承諾を求める前から、私たちが土を見たときから、いやもっと言うと、その位置にいる幽霊を見たときに、とうに母は顔が曇っていたのだ。それは、見つかって欲しくない、秘密にしているものを発見されたときの不快さに思えた。
我々が掘るあいだ、母はじっと見ていた。霊はそこから少し離れた位置で、変わらずにずっと浮いている。
掘り始めて数分で、何かに当たった。触ると、赤い布の端のようだった。破れないよう周りを掘り返して引き出し、土を落とすと、まっかな女性のワンピースだった。
「これに見覚えがありますか?」
住職が服を手に持って示しながら、母に聞いた。
「さあ、知りませんね」
母はぶっきらぼうに答えた。が、その目が一瞬わきの幽霊をちらと見たのを、住職は見逃さなかったようである。
さらに掘ると、今度は長い肩掛けひものついた小さなカバンが出た。あけると、黒い革の生徒手帳が入っていた。ひらいて、母をのぞく三人はわきの幽霊をさっと見て、目を見張った。手帳の最初のページに貼ってある女性の顔写真と、そこにいる霊の顔が、全く同じなのだ。
「はいはい、そうですよ!」
いきなり母が、もうめんどくさい、と言わんばかりに叫びだした。
「その女はねえ、私が! この私が! 殺して、埋めたんですよ!」
「な、なに言ってんの、お母さん?!」
さすがに私は目が点になって言ったが、母は開き直ったのか、まるで動じないばかりか、薄笑いまでして続けた。
「言っただろ、殺したって。Kにたかってたあのイヤらしい女を、殺してそこに埋めたのさ。そしたらこいつ、化けて出やがって。最悪だよ、まったく。
なんだよ、疑ってんのかい?」と、穴を指さす。「そいつの服と持ち物の下に、ちゃんとそいつ自身が埋まってるから、掘ってきゃ出てくるよ。まあ、とうに白骨になってるだろうがね」
「な、なんてことを」
私は腰が抜けそうになった。いくら息子のためとはいえ、殺人までするとは。兄が知ったらどうするんだ。ていうかKはこのことを知ってるのか?
頭がぐるぐるした。
が、ベテランの星野さんは冷静だった。死体とかは慣れているのだろうか。
「それが本当だとしたら……」と、母を見すえて重々しく言う。「申し訳ないですが、この霊を祓うようなことは出来ません」
「このまま、ほっとくってのかい?!」と目を見開く。「こいつ、私を憑り殺す気だよ? 霊能者ともあろうものが、悪霊をほっといて見殺しかい。お金、返しとくれ!」
「この霊は成仏させます。ただ、あなたのご協力が必要です。罪を認め、警察に自首して……」
「誰がそんなことするかい! あたしゃなにも悪くないんだよ! ぜーんぶ、悪いのはそいつさ! あたしの可愛いKに手ぇ出すから、こうなるんだよ! 当然の報いだろ!」
噛み付くばかりに怒鳴る母に、あくまで冷静に対応する先生。
「しかしですね、あなたがご自分の罪を悔いてこの方に謝罪しない限り、この方はあなたに取り憑き続けます」
「それをなんとかしてもらうために、あんたを呼んだんじゃないか! 雇ったんだから、ちゃんと仕事しろよ!」
「先生、ちょっと……」
急に背後から呼ばれ、星野さんが見ると、お弟子さんがまっかなハイヒールを持っていた。それを見て、私も星野さんも目を丸くした。
彼女はそれを取り、母に見せて聞いた。
「ちょっとお聞きしますが、その女性は、かなり大柄な方でしたか?」
「そんなこたあない。男受けする小さい女だったよ」
「ですが、このヒールは……」
見ながら、腑に落ちない様子で続ける。
「ずいぶんと大きいようですが」
確かにそれはでかかった。二十八センチはありそうで、男でも楽に履けるサイズだ。
「うるさいね。かかとがやたら高いの履くのもいるし、見得はってでかいの履くのだっているだろ」
「先生すみません、ちょっと」
また呼ばれ、今度はお弟子さんが手帳を見せた。
「この方の、お名前なんですが……」
読んで、私のほうがたまげた。そして、改めて写真と霊の顔を見比べた。
(ま、まさか、そんな……)(ありえない!)
だが、そのわずかな期待も、一瞬でついえた。
手帳を示して、星野さんが母に言う。
「この方の、お写真なんですが」
「二度と見たくないよ、そんなもん」
「女のほうじゃありません」
と、手帳から一枚の写真を取り出した。
「写真の裏に、もう一枚のお写真がありました。男のです」
見て、母は急に目を緩ませた。
「おや、Kの写真じゃない。なにが変なのさ。そりゃ、男の写真くらい手帳に入れるだろ」
「この女性が、」と今度は女の写真を、二本指ではさんで見せる。「恋人の写真を入れていた、とおっしゃるのですね?」
「あたりまえだろ」
「ちがいます」
住職は、ゆっくりとかぶりを振った。
「これは、Kさんの写真です」
「はあ?! なに言ってんだい?!」
目をむいてキレる母にまるで動じず、彼女は女性の写真を示しながら、はっきりと言った。
「これは……
Kさんが、女装している写真です」
二、
兄の女装趣味のことは、ずっと知らないつもりでいたが、じつは思い起こすと、子供のころに一度だけ見たことがあった。そのときはふざけて母のスカートをはいただけだったが、母が鬼ごとく激怒し、泣き叫んで謝る兄を何度も張り倒して、本当に恐ろしかった。
母は変ってはいても普段はいい人だった。だが男らしさには異常なほどにこだわり、女装など、男から少しでも逸脱したものを見聞きするや、烈火のごとく怒り出し、テレビにオネエキャラが出れば口汚くののしってチャンネルをかえるほどだった。
母の男性崇拝は、彼女の極度のファザコンが根底にあったと思う。母は長女で、生まれる前に父親が酒で死んだので父の顔も知らずに育った。酒癖の悪かった旦那に懲りたせいか、祖母はその後は再婚せず、貧乏家庭を女手ひとつで切り盛りし、長女である母は酷くコキ使われ、愛情をまるでもらえなかった(と後に母自身が酒のうえで私にしゃべった)。おそらくそれがトラウマになり、母の中に強く立派な父親像への異常なほどの執着が生まれたのだろう。
そのこだわりの標的はもっぱら長男である兄に向けられ、次男の私はそれほどではなかったが、それでも私が自分の部屋で、学園祭のウケ狙いで仲間と撮った女装写真を見ていたとき、入ってきてそれをひったくって見るや、たちまち顔をぐっと嫌悪にゆがめ、私を殺意むき出しの目でにらみつけ、「二度とするな」と言い捨てて引っ込んだことはある。
だが、二人目の息子だからその程度で済んだだけで、兄のほうはまさに地獄だった。「長男なんだから、私の父親くらい務まらなきゃダメだよ!」などと無理難題を押し付けられ、もちろん、なにがあっても泣くなどもってのほか、少しでも子供らしい弱音やわがままが出れば、すぐ怒鳴られては殴られ、あげくは疲れて足を組んで座っただけで、「なにセクシーぶってんだ! 女みたいなことすんな!」などと足を蹴飛ばされるなど、わけの分からない言いがかりのような仕打ちを受けたこともある。
しかし、そこまでされても兄は、なぜかグレて不良になったり、精神を病んだりはしなかった。私にも秘密だったが、おそらく隠れて女装していたので、そのせいで精神的に逃げ場があったのだと思う。記憶を思い起こせば、実はその証拠はちらほら浮かんでくる。
母にはバレずにすんだと思う。もし分かったら、どれだけ怒り狂ったか分からないが、そうなった話は聞かないからだ。母は何かあれば、同居の私にすぐに言う。
兄は東京都心の、うちから通えない距離の大学に入ったが、これは母から逃げるために絶対に必要だったと思う。一人暮らしさえ出来れば女装し放題だろうし、彼はやっと真の自由を得られるからだ。そして、それは実現した。
だが、そのことが巨大な代償を彼に払わせた。そして、それは取り返しのつかない、まさに最悪の結末だったのだ。
「女装だってええええー?!」
その言葉を聞くや、母はかつて私が聞いたことがないほどの、いかずちのような大声で怒鳴りだした。
「なにバカ言ってんだい! あの子がそんな気持ち悪い、クソみたいなことするわけないだろう! いくら坊主でも許さないよ!」
だが星野さんは、あくまで冷静に母を見すえ、手帳を手に取って最後のページをめくった。
「ここに、Kさんのお名前があります。この手帳はKさんのものです」
「名前くらい、なんぼでも捏造できんだろ!」
「そして、名刺が貼ってあります」
白いカードを見せ、読み上げる。
「『アリス・アイランド 女装の館、店長、山田アリス』
Kさんがここに通っていたのは、間違いありません。お母さん、よくごらんなさい」と、Kの女装写真を突きつける。「この目、口元、お鼻立ち。あなたの息子さんのKさんそのものです」
「おぞましいこと抜かすんじゃないよ! 目が似てるなんて、よくあることだろ!」
「では、これを見てから、もう一度、あそこの幽霊の顔を、よーく見てください」
相変わらず浮遊している霊を指すと、母もそっちを見た。霊の顔は、恐ろしかったが、どこか悲しげにも見えた。
最初は私も気づかなかったが、今はもう確信した。そうだ、この目、口元、鼻立ち。
これはKだ。
兄のKが女装している姿だ。
「お母さん、なぜ大事な息子さんを、ご長男を殺してしまったのです?」
星野さんに問い詰められ、母は逆ギレした。
「なんであたしが、愛する息子をこの手でやらなけりゃならないんだよ! さっきから言ってるだろ! あたしはKと別れようとしない女を殺して、そこに埋めただけさ! まあバレちまったもんはしゃあねえ。警察にも行くよ、行きゃいいんだろ」
「わからないんですか?」
あまりのことに、星野さんも驚いて言った。
「よく見てください。ここにいるこの幽霊は、あなたの息子さんですよ? Kさんを愛しておられるなら、認めてあげてください。でなければ、この方は永久に成仏できません」
だが、ここまで説得されても、母はますます激昂するだけだった。霊を指さし、悪鬼のごとく怒鳴り散らす。
「そんな気味の悪い、身の毛もよだつ化け物が、あたしの可愛いKなわけないじゃないか! 人を侮辱するのも、いい加減にしろ! おまえは今、Kを汚物以下のクソにおとしめたんだ! もう許さないからね!」
「化け物ではありません。あなたのお子さんです」
住職はいったん目を閉じ、憐れむような顔になった。
「お母さん、嫌なのは分かりますが、どうか、この姿のKさんを認めてあげてください。Kさんの魂を救うには、あなたの愛情が必要なんです」
「なんであたしが、そんなどこからわいて出たかも分からんクソ女に、愛情なんぞやらにゃならねんだよ!
M(私の名)、Kをここへ連れてきとくれ! ずっと連絡とれないんだよ。なんかあったかもしれない。ああKの身になにかあったら、あたしは、あたしは……」
怖いからだけでなく、なにを言っても無駄だと確信したので、私は黙っていた。
母はもう、まともではない。
が、これだけ怒鳴られても、住職は火に油を注ぐのをやめなかった。「Kを成仏させるために、Kの女装を認めろ」としつこく言うので、ついに母は完全に切れてしまった。
「おまえらみんなブッ殺してやる!」とわめいてスコップを持って振り回すので、我々三人は小屋に避難し、ドアに鍵をかけた。窓ガラスをスコップで割って中に入ろうとした母の腕を、後ろから黒いそでの手が、がっしとつかんだ。お弟子さんが、とうに警察を呼んでいたのだった。
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母の精神は完全に崩壊していた。取調べでも一貫して女性の殺害のみを認め、警察がどんなに、たとえば遺体のDNAがKのそれと一致した、などの決定的な証拠を見せようと、それを信じることはなかった。周りがグルになって嘘をついている、と決め付けた。
母にとって、Kが女装していたことを認めることは、絶対にあってはならないことであり、それをすれば、死すら招く恐ろしいダメージに繋がるのだった。Kが男らしくあることは、彼女の絶対のアイデンティティであり、生きるすべでさえあった。
アパートから女装したKが出てきたのを見た瞬間、母の脳は、彼女が致命的ダメージを受けるのを回避するべく、その情報を完全にシャットアウトした。それがKではない、全く別人の女性である、と信じ込ませた。母は女装したKを、「Kにちょっかいを出して付きまとっている不快な女」だと思い込み、そのように対応した。彼女はK本人を完全にKでない他人扱いし、「Kと別れてくれ」と頼んだのだった。
小屋で幽霊を見たとき、私はしばらくそれがKだと気がつかなかったが、それはあまりに不気味な雰囲気と恐ろしさに飲まれて、まともに顔を見れなかったからだ。じっくり見れば、すぐに彼と分かったと思う。というか手帳の女装写真を見たとき、どこかで見た顔だという気はしていた。
Kの女装は、家族や知人に完全にバレないほどには完璧ではなかった。目、鼻、口元などに、面影は充分残っているし、そればかりか、そもそも背が高くて大柄なので、彼を知らない人でも、これは男性だとすぐにわかるレベルだった。
母も初見で気づいたはずで、だからこそ、彼女の精神が、自身の受ける恐ろしい衝撃を未然に防いだのである。
Kは母が自分を他人扱いしたとき、さすがにかなり驚いたろうが、おそらく瞬時にこう解釈したに違いない。「Kと別れてくれ」ということは、つまりこれは、「女装なんかやめなさい」という意味で言ってるんだろう、と。彼女特有の厳しさの表れだと。実際、母はそのくらいのことはする人間だった。
そこで調子をあわせ、「いいえ、この趣味は自分の生きがいで、やめるわけにはいきません」というつもりで、「いいえ、別れるわけにはいきません」「私たちは、愛しあっている(これが本当に好きで、自分にとって絶対に必要なことである)からです」と主張した。
兄はおそらく、頑固な母も、こうして言い続ければ、いつかは折れて認めてくれるだろう、と思っていた。しかし母のほうは、本気で彼を見知らぬ女と信じ、何度も別れを強要していた。
そのうち、これはいくら言っても無駄だと悟った母は、ついに恐るべき計画を立てた。彼女はある日、Kに「あなたには負けたわ。いいです、Kとお付き合いなさい。お祝いにごちそうしてあげるから、うちにいらっしゃい」などと誘った。
Kは、さぞ嬉しかったろう。長年、Kが持っている、自分にとって都合の悪いところは全て否定し、ただ自分の理想の男性像のみを押し付けてきた母が、初めて本当の自分を受け入れてくれたのだから。
その晩、Kは女装姿で母の別荘を訪れた。まさか、母が自分を殺そうとしている、などとは夢にも思わずに。
Kは○×という瞬時に命を奪う猛毒が入ったシチューを食べ、すぐに血を吐いて絶命した。母は彼の服を全て脱がし、裏の土手に掘ってあった穴に、持ち物ごと全てを放り込んで、また埋めなおした。
彼女は、全裸になった息子の骨ばった男性の肉体を見ても、それが男だとはまるで気づかなかったのだから、恐ろしい。というか、完全にイカれていた母には、もはやそういう思考は出来なかった。どんなにすぐそばで見ようが、それをじかに手で触ろうがつかもうが、運ぶときに背負いまでしても、それが胸のある女性のきゃしゃな体にしか思えなかったのである。
こうして兄は、あまりに理不尽な理由で母親に殺害されたが、その無念さと怨念が彼を悪霊にした。そして前述したとおり、我々を死体まで導き、警察に逮捕させたのだった。
私はあまりのことに、その後、ショックで数日間食事がとれず、一睡もできなかった。落ち着くと、母に対する怒りがわき、また兄の受けた仕打ちの悲惨さ、無念さに泣いた。
もう彼は戻ってこない。
ただ「女の幽霊」だけが、この世に墓標のごとく佇んでいる。
精神鑑定の結果、母は責任能力なしとされ、多摩西部の山中にある閉鎖病棟に、永久的に入院することになった。治る見込みはなかった。彼女がKの殺害を認めることは、最後までなかった。ただ毎晩のように病室で「女の幽霊が来る、あいつが来る」とおびえ続けて余生を過ごした。母が逮捕され、監獄のような病院に入れられ、実質、終身刑と同じ報いを受けても、兄の魂は成仏しなかったのである。
母の気のせいではない。私が何度か面会に行ったとき、実際に母の背後に女装したKの姿がうっすら見えたのだ。Kはずっと彼女を呪い続けているのである。
私は星野さんに電話して「Kをなんとか救えないか」と何度も頼んだが、彼女は「悪霊として封印するしか出来ず、それではなんの解決にもならないし、また、そんなことは個人的に絶対にしたくないので」と拒否された。先生はこの件について、相当の不快を感じているようで、取り付く島もなかった。
母はそれから数年後、その病院で死んだ。その年齢にしてはあまりに早すぎる死だったが、衰弱死とのことだった。だが、そこはもともと評判の悪いところで、医療事故も多かったから、なんらかの不手際があった可能性もある。
だが今はもう、そのことを追求しようとは思わない。そこは母が死んで一年もしないうちに、立て続けにおきた訴訟による多額の負債であっというまに潰れ、廃病院になってしまったからだ。
それからまたしばらくして、ある噂を聞いた。
その廃病院へ探索に行った数名の廃墟好きが、病棟の中を飛び回る二体の霊を目撃した。彼らの話では、逃げる中年女性の霊を、若い女性の霊が追い回していたという。
どうやら母は死んだあとも、ずっとKを自分が殺した女性だと思いこみ、おびえ続けているようである。