五、の、り、こ……
一、
高校二年になるA子さんは、その日の学校帰り、駅前の○○デパートに寄った。エスカレーターで三階に上がり、お目当ての書店に入る前に、売り場の奥にある女子トイレに行った。中には個室が三つ並んでいて、彼女が使ったのは一番手前だった。
用を足して、さて出ようと思ったときだった。
コンッ……コンッ……コンッ……。
外からドアをノックされた。妙に力なくゆっくりした叩き方で、何か妙な違和感がする。すぐには出られないので、とりあえずコンコンと、同じように叩き返した。
だが服を直していると……。
コンッ……コンッ……コンッ……。
また力ないノック。
叩き返したのに気づかなかったのかと思い、もう一度、コンコンとやると、また相手から弱弱しく、コンッ……コンッ……とノックしてくる。
これにはむかつき、A子さんは扉の向こうに向かって、「すいません、入ってるんですけど」と、ちょっと荒っぽく言った。だが相手はそれを気にもしないように、変わらずにまた、コンッ、コンッ、とやってくる。それで黙って何もしないでいると、十秒くらいの間隔で、力ないノックをコンッ……コンッ……と延々繰り返される。
A子さんは最初はむかついたが、だんだん気持ち悪くなってきた。
これは、かなりおかしい人だ。
どうしようと思ったが、このまま待っていてもラチがあかない。もう強引に出ちまおうと思ったが、その前に、相手がどんな奴か確認しておきたい。そこでドアに顔を近づけ、ドアと壁板の細い隙間から外を覗いた。
すると驚いた。外はエナメルのような真っ赤な光があるだけで、上から下まで何も見えないのだ。赤く包装した箱かなんかを抱えてるんだろうか。A子さんはますますわけが分からなくなった。
そのまま黙っていると、また……。
コンッ……コンッ……コンッ……。
ゆっくりしたノックの音が、目の前からさらに大きく聞こえ、思わず身を引いた。
コンッ……コンッ……コンッ……。
コンッ……コンッ……コンッ……。
だんだん怖くなってきた。
そう思うあいだにも、緩やかなノックの音が、ドアの向こうから脅すように延々響き続けている。
A子さんはもう本当に嫌になり、今すぐに出てやる、と意を決し、立ち上がってドアに背を向けた。奥に荷物置き場があるので、少しかがみ、そこに置いてある学生カバンに手を伸ばした。
そのときだった。
彼女はぎょっとして、固まった。
すぐ後ろに……。
誰かいる。
今かがんでいる自分の背後、ドアと自分の足の間の狭い空間に、確実に誰かの足があり、その上にそいつの体があり、それはずっとドアの上の辺りまで伸びている。確実に気配がある。間違いない、自分の後ろに何者かが立っている。
だが、そんなことはありえない。ドアをあけずに、この個室の中へ、すっと入ってこれるわけがない。
そんなことが出来るのは……。
人間でないものだけだ。
たちまち頭の先までぞっとして、そのまま固まってしまった。
だがそのとき、さらに恐ろしいことが起きた。
いきなり背中に、氷のように冷たい感触が来たのだ。
トッ……トッ……トッ……。
思わず声が漏れそうになるのを必死にこらえた。叩いてる。そいつがドアと同じように、今自分の背中を、片手でゆっくりと弱弱しく叩いてる。
A子は泣きそうになり、その場にしゃがみこんでしまった。
すると、また背中に冷たい感覚が……。
トッ……トッ……トッ……。
(ひいいいっ……!)
恐怖に凍りついたが、相手は外にいたときと同じように、しゃがんだA子さんの背をノックするのをやめない。おそらく拳でやっているのだが、それはとても生きているとは思えないほどに冷たく、凍りついた死人の手のようだった。
だが恐怖に慄きながらも、A子さんはふと思った。
(このままじっと耐えていれば、相手はただ延々とノックするだけで、なにもされずに済むんじゃないか……?)
そうだ、待っていれば、そのうち終わる。きっとすぐに消えてくれる。そう信じて、ひたすらそのまま耐え続けた。
すると、ノックがぴたりとやんだ。
どうしたのかと思った次の瞬間、うっ! と心臓が止まりかけた。
相手の顔が、自分の頭のすぐ真後ろにある。相手もかがみ、間近で自分をじっと見下ろしているのだ。
(ひいっ……!)
(早く終わって! 終わって……!)
あまりのおぞましさに、心で念仏を唱えようとした。そのとき。
はっと息を呑んだ。
頭のすぐ後ろで、ぽつりと声がしたのだ。
「……いたね……」
「の、り、こ……!」
そのかすれた声は年配の女性のようだったが、押し殺すように低く、どこかニヤつくような、恐ろしい悪意の響きがあった。だが彼女の名前はのりこではないので、その言っている意味は分からなかった。
あまりの恐怖に全身が引きつり、手で必死に押さえる口元から、思わず叫びが漏れかかった。
そのとき。
ギイッ。
隣室のドアがあいた音だ。
とたん、背後の気配が消えた。
(そうか、隣に人が来たから)
(あいつ、消えたんだ!)
思うや、A子さんはカバンをひったくってドアをあけ、個室から飛び出した。
しかし、トイレから出る直前だった。そのまま、後ろを見なければよかったのだ。だが背後の気配に気づき、はっと振り向いてしまった。
そして彼女の目は、そのありえない「あるもの」を、確実にとらえてしまった。
たった今、自分が入っていた個室の前に、今までに見たこともない凄まじい化け物が立っていた。人の形はしているのだが、その全身が、真っ赤なゼラチンのようなぶよぶよした塊で、濡れて光沢する体は、完全に人間のそれではなかった。頭の形はあるが首はなく、両肩のあいだにドーム状の頭部が植わっている。肩の下から二本の太い腕が突き出し、腰まで帯のように一直線に垂れ下がっている。平たい胴体の下、腰の部分から二本の太い丸太のような足が出ているのが見える。どう見てもおぞましい化け物でしかないのに、それは人間の形を忌まわしく模倣しており、そのことが、いっそう気味悪く感じさせた。
頭の部分に顔はなく、のっぺらぼうで、髪の毛もなく、それは歩行者信号の『止まれ』のマークが、ボコボコに膨れあがったような感じだった。
その化け物が自分に向かって近づいてくる気がして、彼女は恐怖の叫びをあげて売り場に飛び出した。何事かとほかの客たちが振り向く中を、そのまま這うように駆け抜け、家まで逃げ帰った。
彼女がトイレのドアの隙間から見た真っ赤な光は、ドアの前に立っているそいつの、ゼラチン状の皮膚だった。A子さんは、あんなのが自分のすぐ後ろに立って自分を見下ろしていたのかと思うと、もう生きた心地もしなかった。
だが、このことは誰にも話さなかった。個室で怪物に制服を叩かれたとき、相手があれだけぐじゅぐじゅと湿ったような皮膚をしていたにもかかわらず、自分の背にはなんの痕跡も残っておらず、証拠がなかったのである。
そこで、ネットで見つけたという無名のホラー小説書きの私にメールを送り、体験の全貌を話した。そこから私は、この不気味で不可解な事件の調査を始めることになった。
二、
そのデパートを調べたところ、最近、その女子トイレから似たようなクレームが何件も出ていたことがわかった。個室に入っていると、外から何度もノックする人がいて、気持ちが悪い。いくらこっちからノックし返しても、何を言っても、相手は無視してコンコンたたき続けるという。A子さんの場合と同じである。
しかも警備員の話では、その化け物の姿を見た人がいたというのだ。それも、A子さんが見る一週間ほど前だった。
その体験者の若い女性は会社員だったが、個室のドアを何度も叩かれるところに始まり、逃げてトイレを出る間際に振り向いて、そのゼラチン状の化け物を見てしまったところまでは、A子さんとまったく同じである。
が、その続きがあった。
彼女がトイレの入り口から飛び出し、売り場に入ったと思ったら、そこはどういうわけか、さっき来たときとはまるで違う場所になっていた。デパートのホールほど広くはなく、もっとこじんまりしたビルの中のようだったが、周りは赤黒い鉄骨がむき出しで壁がなく、各部屋と思しき場所に柱が数本立っているだけで、外が丸見えだった。しかもあたりは暗く、骨だけになった天井の隙間から蒼白い月の光が差し込み、辺りをぼうっと照らしている。
足元は白いコンクリートで床がなく、砂だらけでざらざらして、うかつに歩くとローファーの靴が滑りそうだった。彼女は明らかに、真夜中の建築途中か、あるいは解体中のビルの上階にいた。
なぜ突然こんなところに出たのか、ここはいったいどこなのかと、まるでわけが分からずに混乱していると、背後から何かが近づいてくる。
ぎょっとした。周りは暗いが、差し込む白い月光で、そいつの肌はぎらぎらと黒光りし、だらりと下げた両腕を振ることもなく、幽霊のように、ただ、すうーっと移動してこっちにやってくるのだ。さっきの化け物だった。真っ赤なゼラチンの化け物が、廃墟のビルの中を滑って、自分を追ってくる。
彼女は恐怖に飛び上がって走り出したが、砂で何度も転びそうになった。振り向けば、怪物は数メートル先にまで近づいている。顔も何もない頭のぶよぶよした肌がどす黒い血の塊のようで、あまりにもおぞましかった。捕まったら命はないと確信し、必死に這うように逃げたが、怪物はついにすぐ後ろまで迫り、突然つぶやくような言葉を発した。トイレで聞いたのと同じ、年配の女のかすれた低い声だった。
「……きなさい……のりこ……の、り、こ……!」
そして、何かが後ろから襟に触った。
(もうだめだ!)
彼女が絶望の悲鳴をあげたとき、横目がある黒い空間をとらえた。とっさにそこに飛び込むと短い通路があり、そこを抜けると、周りがぱっと明るくなった。懐かしい三階の書籍コーナーだった。驚く客たちの顔を見るや、そのまま意識がなくなった。
彼女は捕まりかけたときに脇の黒い場所を見て、自分がそこを知っていると気づき、死に物狂いでダイブした。そこは彼女が前に一度だけ使ったことのある階段の通路で、三階の売り場に繋がっていた。
三、
私はその後、探偵まで雇ってそのデパートについて詳細に調べあげた。だが調べるほどに、新たな謎が次々に現れ、それらがまた新たな憶測を呼び、ついには手がつけられない状態にまでなった。まるで気味の悪い迷宮に入り込んだかのようだ。
それでも私はなんとか事実をつなぎ合わせた。そしておぼろげではあるが、一つの仮説を打ち立てた。
まず、分かったことについて、いくつか。
あのデパートは西武線○×駅の前に建ってわずか三年にしかならず、そっちの路線を使わない私も、開店当時は新聞広告などで派手な宣伝が打たれ、老若男女入り乱れた客でごった返している様子をニュースで見た記憶がある。
で、そのデパートが出来る前なのだが、その同じ場所に、一軒の古いアパートがあった。四階建てで、そう大きくはなく、今のデパートの半分以下の敷地しか使っていなかったようだ。一階隅に大家の部屋があり、最後に済んでいた住人の数は全部で三家族と少なく、それが各階にまばらに暮らしていたらしい。
その三階の一番奥の部屋に、高校生の娘と、その母親が二人で住んでいた。彼らの現在の消息については、まるで分からない。ほかの二家族と大家についても調べたが、こちらも行方を掴むことがほとんど出来なかった。
ただ、その母娘の下の階に住んでいたある家族のうち、父親についてだけは、かろうじてその居場所が分かった。彼はアパートを越したのち、妻子と別れ、西新宿のはずれにある小さなボロアパートに住んでいた。私が訪ねると、彼は病床で死の淵をさ迷っていた。がんの末期を宣告され、自室で介護を受けながらの死を選択したそうで、その顔も体も骨と皮で、しなびた蒼白い肌はか細い手足にボロ布のように張り付き、目も虚ろで、半ばあいた口から痛々しい過呼吸が静かに続き、この状態ではとてもそのアパートのことなど聞けそうにないと思った。
それで玄関にいた私が帰ろうと背を向けたとき、彼が突然、途切れ途切れに私の用件を聞いた。私が「あなたが以前住んでいたアパートについて、お聞きしたくて来ました」と言うと、彼は震える手で壁際の机を指し、そのまま目を閉じた。そして二度と目覚めなかった。私が上がりこんで机の引き出しから一冊のノートを探り出しても、彼の介護人は何も言わず、医師への連絡などの職務に没頭していた。
そのノートは日記帳だった。ひらいて最初のページを見ると、どうも三年以上前からつけているものらしい。今のところ、この事件の手がかりになる資料はこれしかなさそうだが、これを持ち帰るのは窃盗になる。しかし、私にはどうしてもこれが必要だった。そこで未だ忙しく電話している介護人の目を盗んでカバンに入れ、何食わぬ顔でその場を去った。
うちで詳細に読んでみると、この日記は彼が家族であのアパートに越してきた頃から始まり、今から三ヶ月前の日付で終わっていた。この頃には、もう重病で付けられなくなったのだろう。それまではほとんど毎日、律儀に付けていたようである。記述はどれも短く、横線で引いて作った一日の欄内に一行か二行、多くて三行という、よくある一言日記の類だったので、習慣に出来たのかもしれない。
途中、ある記述が私の目を奪った。あのアパートでの最後の日付のようだったが、それはあまりに不可解な内容だった。
以下に、その部分を記す。
「○月○日 いったい、なぜ俺たちがここを出なきゃならないのか。だが上にいるあの母親に、あんなありえない死に方をされちゃ、もうこんなところにはいられない」
日記に「あの母親」という単語が出てくるのは、この部分しかない。なんらかの要因で自分たちが迷惑をこうむったように書いてあるが、その中身に触れたり言及している部分は、その前後にも、日記帳全体の端から端まで探しても、見つからなかった。
また、異様なことが書いてあるのはこの一文だけで、ほかはどれも「今日は晴れだった」とか「今朝、奥の部屋から田中さんの奥さんが出てきて挨拶した。気持ちのいい人だ」とか、日常で起きたなんでもない事実を、ただ簡潔につづっているだけだった。
だが、この日記帳を詳細に読むと、アパートの住民の構成や、彼らの住んでいた部屋の場所はおろか、大家のいた部屋の番号まで分かるので、今私が抱えている事件の全容を掴むためには、かなり役立った。「○月○日」の日付のあとは、また相変わらず天気の話などが簡潔に続き、一週間後、いきなり「引っ越した」とあった。
「上にいるあの母親」は、明らかに三階奥にいた母娘の母親のほうだが、それが「ありえない死に方」をしたとある。この母娘についての記述は、引っ越した当時には何度か出てくるが、特に変わったところはなく、普通に女手で子供を育てるまじめな母親と、高校に通うその娘さんという感じだ。
しかしこの異様な記述が出る一ヶ月前になると、彼らのことは、ぱたりと出なくなる。彼らだけでなく、ほかの住民や大家などにいっさい言及しなくなり、内容は「子供の授業参観に行った」などの自分の家族の当たり障りのない話題か、あとは天気のことばかりだ。
またシャーペンで書いている筆跡も、以前は丁寧で綺麗だったのが、そのひと月のあいだにいきなり崩れ、「○月○日」の頃には殴り書きに近いものまで見られ、明らかに彼の精神状態の変異が分かる。「○月○日」の記述自体は逆に相当腰をすえて書いたのか筆圧が濃く、ほかの乱雑な字と比べ不自然なくらい整っており、子供が一生懸命に書いた習字などの角ばった文字を思わせた。
探偵を使った調査では、結局そのアパートから全住民が出て行き、それから一ヶ月もしないうちにアパートが取り壊されたことが分かった。まるでその建物が存在した痕跡すら消し去ろうとするかのように、性急に。
そして数年後、その敷地に今のデパートが建てられた。
さて、私が知りたい真実を得る手がかりは、やはりこの日記の「○月○日」の部分である。三階奥にいた母親の「ありえない死に方」とは、いったいなんなのか? また私の娘と会社員が聞いた「のりこ」という言葉の意味は?
残念ながら、日記には母娘のどちらの名前も苗字も出てこないので、私の推論でしかないのだが、これはおそらく娘の名前なのだ。トイレでした声が年配の女性に聞こえたというから、その声の持ち主、すなわち、あの化け物は母親で、彼女は自分の娘である「のりこ」を探していたのではなかろうか。
ここで、乏しい資料から引き出した私の、ほとんど妄想に近い推論をあえてさせてもらうと、事件の全容は、おそらくこういうことになる。
三年前、現在の○○デパートが建つ前の敷地にあったそのアパートの三階奥に、のりこという名前の女子高生が母親と二人で住んでいた。○月○日、その母親がなんらかの原因で「ありえない死に方」をし、全身が真っ赤なぶよぶよしたゼラチン状の怪物になってしまった。怪物はのりこを探しまわるが、彼女は部屋の中の自室か、あるいはトイレの中に隠れ、母親がやってきて、そのドアを力なくノックし続けた。
その後に「何か」が起こり、その二人も、他の住人も全ていなくなり、大家はアパートを直ちに取り壊し、三年後、その跡地に今のデパートが建った。
母親とのりこという名の娘が、その後どうなったかは分からない。日記を残して死んだ男性を除き、ほかの関係者の消息は全くつかめなかった。まるで煙のように消えたか、自分がこの世に存在していた証拠を、ご丁寧に残らず消し去って死んだかのようだった。
ただ私には、母親の居場所だけは、想像がつく。彼女は今も同じ場所にいて、その怪物と化した姿で、ずっと自分の娘を探し続けているのではなかろうか。
A子さんは、デパートの三階奥のトイレの個室で化け物に会った。そこが、ちょうどあのアパートの三階奥、すなわち母娘の住んでいた部屋のあった場所だったのではないだろうか? そしてA子さんが使った個室のところに、ちょうど「のりこ」という娘の部屋か、あるいはトイレがあったのかもしれない。「のりこ」は、母親の凄まじい姿におののいて、そこにこもり、母親はドアをノックし続けた。その状況が、A子さんのときに再現されたのではないだろうか?
警備員の話では、ほかにもノックされたという苦情が来ていたとのことなので、私の想像は確信に近くなっている。母親は、まだそこにいるのだ。建物が変わっても同じ場所をさ迷い、娘の「のりこ」を探し続けているのだ。
のりこだと勘違いされてドアを叩かれ続け、ついに見つかってしまったA子さんは運よく逃げられたが、もし捕まっていたら、いったいどうなっていただろうか? デパート側は、霊能者に依頼するなどして早急に調査し、対策を練らねばならない。でなければ、必ず犠牲者が出るだろう。
最後に、A子さんと同じ体験をした会社員の見た廃墟だが、あれはおそらく、解体中のアパートの姿だろう。周りがデパートより狭かったという点で、そこがあのアパートだった可能性は高い。
なぜ、そんな過去の場所に移動してしまったのかは分からない。また私の妄想に近い仮説を立てるならば、彼女にもともと強い霊感のようなものがあり、母親の持っている過去の記憶と強烈にシンクロした結果、タイムスリップのような現象が起きたのかもしれない。あるいは、彼女の体質とは無関係に、母親にあのアパートの廃墟へ人を引き込むなんらかの力があり、それを使って、彼女を過去の世界へと引きずり込んだのかもしれない。
どのみち、彼女もA子さんと同じく、偶然現在に繋がる通路のようなものを発見できたので逃げられたが、そうでなければ、怪物の餌食になるか、さもなければ、外部からの侵入者として、その不可解な場所を永遠にさ迷うことになったかもしれない。
四、
これらはあくまで私の立てた勝手な仮説でしかなく、真相は藪の中である。いまや関係者全員の消息が不明であるのみならず、ろくに交流がなかったせいか、アパートの近隣住民の証言も、「一度挨拶に来たが、礼儀正しい人だった」など、その印象にとどまるだけの当たり障りのないものばかりで、手がかりにはほど遠い。
だが一つだけ、気になるものがあった。アパートの向かいの一戸建てに住んでいた老人が、一度だけ、夜中にアパートの方から、ゴオーッという、なにか重い金属を引きずるような奇怪な響きを聞いたことがあるという。彼はその日が誕生日で、家に来た孫たちにお祝いされたので、日付を覚えていた。それは、あの○月○日の日記がつけられる、ちょうど一週間前だった。
むろん、これだけでは何も詳しいことは分からず、かえって謎が深まっただけだ。この重い金属音が、母親の豹変と何か関係している可能性はあるが、なんせこの辺り一帯は、時おり聞こえてくる駅の喧騒を除けば普段から静かで、その時期に誰かの悲鳴はおろか、なんらかの騒ぎも聞こえたことはなく、不審な音がしたという証言は、これくらいしかない。
金属音として考えられるのは列車の音だが、老人は完全に否定している。そもそも運行はとうに終わっている時間で、しかも線路はアパートの向かいにあり、彼の家をはさんでいるから、方向からして聞きちがうはずはない。
また、あの響きは車の音でもなく、工事の音ともちがう。聞いていて不安を掻き立てる、金属的でありながら、海の底から響いてくる、なにか巨大な生物の吠え声のような、非常に気味の悪いものだった、と彼は言っている。
日記には、誰かが「ありえない死に方」をした、と書いてあるが、誰かが死んだにしては当時なんの騒ぎもなく、また葬式が出たのを見た、という証言もない。誰かが死に、その処理が行われたらしいことは日記から推測できるが、全てが密かに、無音のうちに進められたのだろうか。どうにも不透明で嫌な感じだ。
とにかく、はっきり分かっているのは、このまま放置しておくことは絶対に危険だという事実である。後日、またデパートへ行って、あの警備員にも証言してもらい、店舗側に調査を勧めてみるつもりだ。もし笑い飛ばされでもしたら、私が勝手に霊能者に依頼して調べることまで考えている。本当に犠牲者が出てからでは遅いからだ。
A子さんは、あのデパートには二度と近寄らないと言っている。その気持ちは私にも分かる。初めて足を踏み入れたとき、店内に何か足元からざわざわと這い上がってくるような、言いようのない不穏さを感じ、背筋がぞっとした。霊を見たことも感じたこともない私でさえ、これである。
あそこには、確実に何かがいるのだ。
そうだ、あの怪物は、今もいる。
三階奥のトイレの中を、見るもおぞましい姿で自分の娘を探して徘徊し、人が入った個室のドアを、ぐちゃぐちゃにとろけた手で、力なくゆっくりとノックし続けている。そして、もしそいつに見つかったら、おそらくあの世のような不浄の場所へ、連れて行かれるのだ。
A子さんらのように、運よく助かるという保障は、どこにもないのである。
(これはネットの小説投稿サイトに上げられていたもので、実話と称されていた。これを上げたホラー小説書きは、後日、星野小百合氏にこのデパートの調査を依頼したが、直後、音信不通になった。デパート名が不明のため、調査は行われていない)