死にたガール
脳裏に焼き付いた赤がある。
鉄橋の赤。
夕焼けの赤。
目蓋を透ける赤。
中学校の行く道に赤い橋があった。帰りに立ち止まっては、よく川を見下した。赤い塗料はところどころ剥げていて、触るとざらついて冷たい。公園のジャングルジムを思い出す。みんなが触る部分が剥がれて、色が減っていくのだ。
下の川は浅く、小石とゴミが光って見える。ここから落ちれば、頭を打って死ねる。打ち所が悪いと生きている可能性もある。これから冬になれば、凍死できるかもしれない。幼児が十五センチの水嵩で溺死したニュースがあった。顔をつけたままにしたら。どれも、確実に死ねる方法とは思えない。苦しむのはイヤ。痛いのもイヤ。臆病だから、いつも生き延びている。
私と一緒に帰るのは自殺願望だけだった。とくに、夕暮れどきに虚しさがこみ上げて、死にたくなる。夕日のせいなのか、面白味のない帰り道のせいなのか。対象のはっきりしない憎しみが膨れ上がって、黒い感情に染まっていく。抵抗もしないから、すでに心は真っ黒だ。
クラスで苛められているわけでもないし、家庭環境もそんなに悪くない。毎日ご飯もあって、お風呂も沸いていて、理不尽に叱られているわけでもない。不幸かと尋ねられたら、恵まれていると答える。けれど、どんなに綺麗なものを見ても、美味しいものを食べても、私の中身は空っぽのままだ。ぼんやりと十四年も過ぎてしまった。これからも、ぼんやりとこの地に身を置き続けるのだろうか。さっさとどこかに行きたい。爪先は橋からはみ出している。あと一歩踏み出せばいい。
「いつも黄昏てるよね、神田さん」
じっと川を睨んでいたら、名前を呼ばれた。目線をゆっくりと上げていく。白いスニーカーに白い靴下。私と同じ紺のセーラー服の上にある顔は見たことがあるような。ないような。
「ええと」
「西浦だよ。小学校も一緒だったじゃん」
名乗ってもらい、少しだけ記憶が巻き戻った。顔にピンと来なくても、名前は懐かしい響きを含んでいる。小学校でクラスが同じだった。
「橋って、飛び降りたくなるから」
考えなしに言葉を発してしまう。人を前にすると妙に緊張して、勢いで口が動く。自己嫌悪はその頃からより強くなっている。
「わかるよ」
西浦さんの目は憐れみや嘲りもなく、真っ直ぐにこちらを見返している。嘘ではないように思う。
「止めないの?」
「止めないよ。でも、できれば見てないときに飛んでほしい」
「見られていたら、たしかにやりにくいかも」
数秒の沈黙のあとに、二人で小さく笑った。少しだけ緊張がほぐれた。
マフラーを出すにはまだ早いけれど、首筋に当たる風はひんやりとしていた。止まっていると寒いからと西浦さんが歩き出して、私も後ろをついていく。
「私って、おかしいのかな?」
私から話し出すのは珍しいことだ。
「畳を汚したくないから、家でも死ねないんだ」
私の乗った一畳分に阻まれる程度の意思だけれど、家でも死にたいときがある。青臭くて苦ったらしい感情だという自覚はある。
「たしかに、掃除が面倒臭そうだね」
「だから、川ならいいかなって」
「川も大変だと思うよ。まだ畳の方が取り替えやすいかも」
「そっか」
私の遺体や諸々を川から取り除く大人たちを想像し、これまで練っていたプランを再度見直すことにする。他人の意見は大事だと、担任の先生もよく言っている。
「どうしたら、痛くなくて、死ねるかな?」
「私の計画を聞きたい?」
「聞いていいの?」
「参考にしてよ」
西浦さんは立ち止まって、橋の先にある、低い建物ばかりの住宅街の向こうを指差した。川底の私と違って、オレンジ色に染まる家々が見える。
「エアーズロックから飛び降りるの」
足りない頭で、観光地であることを思い出す。どうやら、夕焼けよりうんと先を示しているらしい。
「どこだっけ?」
「オーストラリア」
「ロックって岩だよね。高いの?」
「まあまあ高い岩だよ。行くために、お年玉も貯めてる」
「本当に?」
「マジマジ。今から貯めたらいけると思う」
「いいなあ」
素直に感心した。目標を持って、お金を貯めている。私はやる気があっても、実行するための計画がふわふわなのである。これでは死ねないわけだ。
「神田さんも貯めなよ」
「でも、水面より地面って痛そうだなあ」
「あれだけ高いところから飛んだら、すぐに意識もふっ飛んで、知らぬ間にどんだよ」
「知らぬ間にどん」
もう経験したかのような、自信に満ちた言い方だった。これがロックな死に方か。
橋を渡りきって、西浦さんと別れた。
家に帰り、地理の教科書からエアーズロックを探した。高さは863メートル。富士山の標高は3776メートル。比べるとあまり高くない気がしたけれど、富士山を登るより先に頂きに辿り着けるなら気持ちがいい。じゃあ、エアーズロックで死のう。
知らない土地の美しい景色を見ながら死ねる。赤色のばかでかい一枚岩の上からダイブすると、さぞかし爽快なことだろう。死んだことはないけれど、爽快だ。西浦さんの確信を私も信じたい。
その夜、部屋の飾りとなっていた豚の貯金箱に初めて百円玉を入れた。
いつのまにか貯金箱は通帳に変わり、いまだにエアーズロック貯金は続いている。給料はその口座に振り込まれている。生活費に消えることも多いけれど、ちょっと奮発したら行ける額にもなっている。私はそれだけ大人になり、またぼんやりと生きてしまった。
二〇一九年にエアーズロックの登山が禁止された。もちろん、ネットの記事のどこにも西浦さんの文字はない。それでも、私の頭には西浦さんの背中が見える。赤い岩の上、鬱陶しい砂埃、痛いほどの日差しを浴びて、西浦さんは加速する。あっという間に遠くなる。
目の前に、まだ見たことのない赤が広がっていく。
エアーズロックの赤。
にやりと笑う唇の赤。
飛び散る真っ赤な……
***
ここまで書いて、上書き保存をする。
あの橋の上で私はずっと一人だった。
語りかけてくれた西浦さんはいない。
物語のなかに、嘘と本当が混ざる。
私から抽出した本当が骨組みとなり、理想的な嘘で肉付けをして、西浦さんは血の通った人物になる。
西浦さんは真っ赤なうそ。
フィクションの世界で、私と彼女は生き続ける。(了)