2話① 『暗雲』
不安に思いつつも、その日はもうクローゼットから変な音はしなかった。疲れていたことと、少し安心したことで楓は死んだように眠ってしまった。
そして、寝坊した。
「うわああああああ!」
八時二十分。
「何で起こしてくれないのぉ!?」
楓はばたばたと家中を駆け回る。父と星良はとっくに家を出ている。
「あら、起きてこないから今日は二限からかと思ってたわ~」
「そんなわけないでしょー!」
「もう大学生なんだから、自分で起きれるようになりなさーい」
母のごもっともな言葉を背に、急いで家を出る。使いこんだ自転車で大学へと激走する楓。いつもの光景である。
しかし今日はなぜか自転車の進みが良い。風を切りながら、タイヤの硬さが違うのだと気づいた。空気を全然入れていなくてゴムが柔らかくなっていたのを思い出す。鈍い走行音と、段差での不快な揺れが嘘のようになくなっている。父が気づいて空気を入れてくれたのだろう。楓は特に気に留めなかった。
「あぁ、あなたは――」
交差点の信号待ちでイライラしていたら、腰の曲がった老婆が楓のそばでつぶやいた。
「昨日助けてくれた」
信号を待っているのは楓とその老婆のみで、どうも老婆は楓に話しかけているようだった。
「ありがとうね~」
面識のないその老婆は、古びたキャリーバッグの取っ手を両手で掴んで楓の方を見ていた。楓がよそよそしく振り返ると、老婆はにっこり笑った。
「おかげで助かったのよ~」
信号が青に変わった。楓は軽く会釈だけして大学へと再び漕ぎ始めた。誰かと勘違いしているのだろう。昨日老婆を助けた記憶はない。きっと老婆からすれば楓の態度が冷たく感じられただろうが、楓にも何かを尋ね返す余裕はなかった。
今日も何か不思議なことが起こる。そんな予感が楓の頭によぎって消えなかった。




