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1話⑥ やっぱり、何かいる。

 一方、楓は結局カレーの具材を買ったのが誰か分からないまま、凛都の元へ戻ることになった。


「すいません、待たせちゃって」


 ナポリタンとサラダが既にテーブルに置かれていた。凛都の前にはハンバーグ定食が並べられていた。


「そういえば、バイトのことで相談って何だったんですか?」


 カレーの話は適当に済ませ、やっと今日の本題に入ろうとした。すると凛都は控えめに笑った。


「それは清澄さんを誘うための口実でさ」


「えぇ?」


 凛都の真意が汲み取れず、楓はまごつく。


「次の日曜空いてるかな? 清澄さんと、もっと仲良くなりたくて……」


「えっ」


 思ってもみない返答に、楓は眉間にしわを寄せた。


「嫌だった?」


「いやいやいやいや、まさか! ぜひ、ぜひお願いします」


「あー良かった」


 それってデート? 私がデートに誘われた? あの、白川先輩に? 楓の頭の中はいっぱいいっぱいで、ナポリタンはいつの間にか食べ終わっていた。忘れていて残ってしまったサラダをかきこんで、その日はバタバタと解散することになった。


 日曜の昼、十五時にエイトーモールに集合。滅多に使わないカレンダーアプリに予定を登録し、楓は興奮気味に帰宅した。




 凛都との約束は楓にとって衝撃をもたらしたが、もちろんカレーの件も忘れていない。自転車を止めて家に入る頃には、すっかり不可解な一連の出来事が頭の中を占有していた。


「ただいまー」


 父のビジネスシューズ、母のパンプス、星良のローファー、楓のスニーカー。四足が並んだ。


「楓ー」


 名前を呼びながら素早く駆けつけたのは母だった。


「カレーの件なんだけど」


 囁き声で例の件に触れてきた。


「やっぱり誰が買ってきたか分かんないの。星良にはママの勘違いって言ってあるから、怖がらせないようにしてあげて」


「分かった……」


「カレー、楓の分も取ってあるから、明日にでも食べて」


 誰が買ってきたかも分からないカレーの具材。そんなものをよく食べたな、と楓は思いつつ平気な様子だったのでもうそれ以上は踏み込まなかった。言葉にすることで、何かの曰くを自分で引き寄せてしまうような気がしたからだ。


 楓はリュックを置くために自室へ向かう。母は何もなかったと言っていたがやはり気がかりである。階段を上り終えるなり、廊下の電気を全てつける。すると、楓の部屋だけ扉が中途半端に開いていた。変な虫が入ると嫌だから閉めてほしいと母にいつも言っているが、今日部屋を確認した時に閉め忘れたのだろうと思った。


 やれやれ、と一歩踏み出したその時、二の腕が寒さを感じて鳥肌を立てた。何か冷たい風が吹いたのだ。目をやると楓の部屋の扉がわずかに閉じ始めた。


 やっぱり、何かいる。


 意を決して廊下を歩く。自分の存在を知らしめるように、わざと足を強く踏みつけた。扉の前に立つ。ここで立ち止まったら恐怖に負ける。左手で思いっきり扉を突いた。


 真っ先に目に飛び込んできたのはカーテン越しに見える誰かの足だった。楓は声も出ないまま後ずさりする。窓が開いているようで、カーテンはなびき、楓の恐怖心を煽るように冷風が絶え間なく吹きつける。


「誰?」


 すぐさま逃げるつもりだったが、一割の好奇心で尋ねた。


「あぁ」


 返事が帰ってきた。


「おかえり楓」


 低い声だった。


 それは聞き慣れた声で、一気に緊張が解けた。


「パパ! 何してんの!?」


「いやぁ、楓の部屋が一番月が綺麗に見えるからさ。ちょっと眺めてたんだ」


 楓の父、秋慶あきよしが呑気に答える。


「まじでびっくりしたんだけど! やめてよー」


 楓の反応にあはは、と笑い、父は楓を自分の元へ手招く。


「満月は終わっちゃったけど、今日も大きくて綺麗だよ」


 楓は隣に並んで月に顔を向ける。


「ほんとだ。ちょっと欠けてる」


「月見でもしたかったんだけどなぁ。仕事が忙しくてそれどころじゃなかったな」


 そう言って父は黒縁眼鏡を外して、親指と人差し指で両目の瞼を押した。


「大変なんだね」


「楓は大学楽しいかい?」


「うん、まあね。今はレポートとかテストに追われてちょっと大変かも」


 少しの間、楓は父と雑談した。久しぶりにきちんと話す父は疲れているようだったが、あいかわらず楓の悩みを引き出すのは上手かった。凛都とのことは話さないでおいた。


「さっ、下へ戻ろう。月は見すぎると良くないって言うしね」


「そうなの?」


 ガタガタとクローゼットの中で物音がしたのはその時だった。


「うわ、何だ?」


 二人は驚いて目を合わす。


「怖いんだけど」


「何か落ちたみたいだね」


 父が明かりをつけてクローゼットを開ける。しかし、特に変わったことはない。ぎっしり詰められた服や雑貨、高校生までの思い出の品がいつも通りコンテナに入ってそこにあった。


「うーん、分からないな。箱の中で何か動いたのかも」


「触ってないのにそんなことある?」


 楓は今日起きた一連の出来事によって、こういった物音が怪異に思えて仕方なかった。


「まあ、もうちょっと整理することだね。さっ、そろそろ下に戻ろう。楓はお風呂かな?」


 楓は階段で父の背中をまじまじと見て、あの物音がした時に父がいて良かったと心底思った。今日は自分の部屋で寝るのが少しだけ怖い。変なことがもう起きませんように。そうして、楓の奇妙な一日は終わろうとしていた。


 階段を下りる楓の背中をまじまじと見ていたのは、もう一人の”楓”だった。楓を見届け終わると、それは不敵に笑って楓の部屋に帰っていった。


 突如として現れたその一滴は、大きな波紋となって月をいとも簡単に歪ませる。


 それが人生に暗い影を落とすことになるなど、まだ楓は知る由もない。


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