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1話③ 淡い期待を胸に

 楓の大学は自転車で十分ほどの場所で、ぎりぎり合格したと思われる第一志望校だった。志望動機は、家から近くてぎりぎりまで寝ていられるからだ。


 一限は4号棟の大教室1で、楓は授業開始直前の時間に入室した。五百人程度を収容できるこの講義室で、今日は全体の九割ほどが埋まっていた。楓は皆の背中をきょろきょろと見渡し、おおよその目星をつけながら通路を進んでいく。右端の、真ん中より少し後ろ。いつもの背中がそこにあった。


「二人ともおはようー!」


「あ、やっと来た」


 楓は列を横歩きし、青山望実あおやまのぞみに近づく。


「おはよう楓ちゃん」


 永田優香ながたゆうかも気づいて、望実越しに手を振っている。


「また寝坊したのかなって話してたとこだったんだよー」


 望実が言うと楓はあははと笑い、今日はセーフだよっ、とわざとらしくどすんっと座ってみせた。


「楓ちゃん、レポート完成した?」


 優香が心配そうに眉を下げる。


「それがねぇ……」


 楓は勿体ぶって下を向く。


「だめだった……?」


 優香が悲しげに楓を見つめる。


「じゃん!」


 楓は刷りたてほやほやの用紙を取り出す。適当に詰めたせいでさっそく紙にしわができている。


「お、できたんだ!」


 望実は少し驚いて背筋を伸ばした。優香は良かったねー、と小さく手を叩いた。


「英語のテストも大丈夫そ?」


 望実が立て続けに涼しい顔をして聞いてくる。


「え?」


 楓が固まる。


「んー?」


 優香もその様子にきょとんとしている。


「今日英語、前期末テストだよ。まさか楓……」


 楓が急に頭を抱えて青ざめていく。


「わ、わ、忘れてたー!」


 始業のチャイムが鳴り響く。


「はい、皆さんおはようございます。授業開始します。静かにお願いします」


 教授はじろりと楓の方を一瞥し、ハンドマイクを握って話し始めた。


 楓はその授業のほとんどを英語の勉強に充てた。しかし残念ながら二限のテストは、おそらく再試験が確定してしまったのであった。




「楓ちゃん、元気出して」


 優香はオムライスを食べながら、楓を励ます。


「再試験に受かれば単位落ちないんでしょ? ちゃんと勉強したら大丈夫だって」


 望実も言い聞かせるが、楓は大好きな唐揚げ定食を前に箸が進まないでいる。


「あーあ、何で私ってこんなだめなんだろ」


 そう言って、小さい衣のかすをいじくり、大皿の端に寄せている。


「そんなことないよ! たまたま忘れちゃってただけだよ」


 優香はかばうが、望実は少々冷たい視線を向ける。


「まあ寝坊したり、筆記用具忘れてきたり、いつもピンチに陥ってるけどね……」


「すいません……」


 賑やかな食堂の中で、楓はいつになく静かだ。


「それに、優香に何回もノート見せてもらったり、遅刻誤魔化してもらったり、助けてもらいすぎ!」


 さすがに優香も苦笑いして、望実と目を合わす。


「ごめんなさい……」


 大学に入学してから出会い、三人は仲良くなったが、だんだん楓が二人に差をつけられていることは明らかだった。そもそも同じ土俵にいなかったのかもしれない。楓もそれは薄々自覚があったが、しっかりした二人とは対照的な自分をなかなか直視できていなかった。


「あ、清澄さん」


 少し気まずくなった雰囲気に、涼風を吹かせたのは白川凛都しらかわりんとだった。


「あ、白川先輩。お疲れ様です」


 凛都は食堂の四角いトレーを持って、すらっと立っていた。楓は大学内で話しかけられたことが初めてで、思わず首を傾げていた。


「食事中にごめんね。バイトのことで相談したいことあってさ。今日の五限終わり空いてる?」


「はい、空いてます」


「良かった。じゃあ詳しいことは後でメッセージする。じゃ!」


 爽やかに望実と優香の背後を過ぎ去っていく。三人はぼーっと凛都が遠ざかっていくのを眺め、やがて優香が目を輝かせた。


「ねえ、あれがバイト先のイケメン先輩?」


「あ、そうそう。白川先輩」


 望実は身を乗り出し、今日一番の笑顔を楓に向ける。


「楓やるじゃん」


 風通しの良くなった三人は、食べ終わるまで凛都の話で盛り上がった。望実と優香は以前から遠巻きで凛都を見かける機会はあったが、こんなに近くで見るのは初めてだった。楓がアルバイト先にイケメンがいるとたびたび繰り返し話していたため、二人も凛都に興味があったのだ。そのイケメンというハードルを軽く飛び越えてくるような、端正な顔立ち。申し分ない身長、体格で、どう考えても女性に人気がある風貌であった。


 しかし楓はイケメンだとは思いつつ、自分の人生と彼の人生が深く交わることなど絶対にないと思っていた。目の保養程度に考えておこう。そういう腹積もりだった。


 それが、どういうことだろう。向こうから誘いが来るなんて。淡い期待を胸に、きれいに平らげた唐揚げ定食のプレートを返却した。


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