5話①
「おはよう……」
楓は枯れた声でリビングに下りてきた。
「おはよう。大丈夫?」
母が心配したが、楓は黙ってうなづくだけだった。
「バイト、休んでもいいんじゃない?」
「いや……。日曜は急に休めないよ」
酷く重い気分で、頭も喉も痛んだが、わずかに残った気力で支度をする。
食欲はなかったので、温かい牛乳だけ飲んで家を出ることになった。
「お姉ちゃん」
楓が座ってスニーカーを履いていると、二階から寝起きの星良が下りてきた。
「だいじょぶそ?」
「大丈夫ではないけどさ」
そう言って立ち上がり、振り向かないまま家を出ようとするので、星良は続ける。
「あのさ、星良もあれ夢じゃないと思う」
「え? あぁ、そう?」
「お姉ちゃんが叫ぶ前、星良もちょっと起きてて、何か音聞こえたよ」
「音?」
「うん、何かチーンって仏壇みたいな音」
「あぁ、鳴ってた気する」
「お姉ちゃんの見た夢がほんとに全部夢なら、星良にはあんな音聞こえないでしょ?」
「そうだね。じゃあほんとに鳴ってたんだと思う」
他人ごとのようにテンションの低い楓に、星良は苛立ちを覚えたがぐっと飲み込んだ。
「ほんとに、何かやばいことあったら相談してよ?」
「うん。ありがとう。ごめん、時間ないから行く」
カラメリでは新商品の売れ行きが好調で、人が波のように押し寄せていた。
心を無にして働く楓だったが、元気がないのは明らかであった。凛都もそれに気づいていたが、昨日の出来事の気まずさから、そのことに触れはしなかった。
「お疲れさーん。人すごいなー」
昼休み、バックヤードで座っていると住吉が入ってきた。
「あ、お疲れ様です」
「今日は忙しいでしょー。日曜勤務は気が滅入るねー」
住吉は自分のロッカーからくたびれたエプロンを取り出す。
「あれ、今日は芽さんじゃないんですか?」
「いやー、朝方に連絡あって、何か身内に不幸事があったみたいよ? それで急遽、俺が出勤ってわけ」
「不幸事? 誰か亡くなったんですか?」
「祖母って言ってたかな。一週間は休むんじゃない? 忌引きってやつ」
祖母という響きを聞いて、老婆の顔、そして深夜の悪夢を連想してしまった。楓はそれらを振り切るように立ち上がり、表に戻ろうとする。それを引き止めるかのように携帯電話が振動した。
望実、優香との三人グループからの通知だった。
”楓ー 優香と昼からエイトーモール行くんだけどいかない?”
“ごめん 今日夕方までバイト! また今度!”
いつの間にそんな予定が立っていたのだろう。少し気になったが、些細なことだったので楓は働いているうちにすぐ忘れた。
午後には腹も減ってきて、あちこちの痛みは消えなかったが気分はましだった。終業したら即刻帰宅するつもりだったが、やはり老婆のことが気になった。
重いペダルを踏んで向かってみると、どうも辺りが騒がしい。
角を曲がって、老婆の古い平屋が見えた。警察車両が二台。玄関前には規制線が張られ、恰幅の良い警察官が門番のようにして立っている。
近づくと、怪しむように睨まれた。
「何か、あったんですか?」
「ここに住んでたお婆さんが亡くなったんだよ。君、ここに関係ある人?」
「え……嘘……。いや……知り合いで……」
楓の表情に偽りはないと思ったのか、警察官はいくつか情報を提供した。
昨晩急死したこと。今朝、牛乳配達員が第一発見者だったこと。事件性はないこと。
楓が老婆以外の身内の連絡先を知らないと伝えると、警察官は再び鋭い目つきをした。
「最後に会ったのいつ?」
「先週の、たしか火曜日で」
「時間あるかな? ちょっと署で話聞かせてもらえる?」
事件性はないというのにもかかわらず、楓は任意同行することになった。体調の悪さと疲労から断ることもできたが、老婆の身辺を知りたい気持ちが湧いてきたのだ。
一方その頃、望実たちはエイトーモールでの買い物を終え、間もなく解散しようとしていた。
「やばーい、いっぱい買っちゃった―」
優香は大荷物だが、顔に嬉しさが滲んでいる。
「まじセールって罠だよねー」
優香ほどではないが、望実もアパレルブランドの紙袋をいくつか握っていた。
「楓は何も買わなくて良かったの?」
「今月ピーンチだから節約だよー。もっとバイト入らないとねー」
三人の歩く影が後ろに伸びていた。楓の影の薄まりに気づく者は、まだいなかった。




