4話⑥
楓は夜中にはっと目が覚めた。ちょっとした仮眠の後の寝覚めのように、鮮明な覚醒だった。
数十秒の間、次の眠気を待って天井をぼんやり眺めていると、部屋の外で物音がした。一階だ。夜中の二時を過ぎてうろうろしているのは、せいぜいトイレのために起きた父か、後はテスト期間に切羽詰まっている星良だ。
一階の扉の開閉や、水が流れる音は聞こえないまま、誰かが階段を上がってくる。トイレに行ったのではなかったらしい。足音が少し大きいのが父。小さめなのが母。小さくて速いのは星良。一緒に暮らしていれば今誰が階段を通っているかくらいは分かる。
トン
トン
その足音は父と母の中間のような音の大きさで、しかもそれはじれったいほどに遅かった。
――誰? 何?
不安が募り始める。何とか楽観的に考えたかった。寝ぼけている父の姿や、夢遊病になっている星良を想像してみるがどうもしっくりこない。
二分ほどかけていよいよ足音は近づき、階段を上り切ったようだ。
大丈夫。おまじないは終わっている。少なくとも自分に害をなすものは現れない。楓はそう言い聞かせた。その気持ちとは裏腹にじっとりと身体に汗が染みる。
主寝室も星良の部屋も通り越して、向かうはやはり楓の部屋だった。ところが足音は楓の部屋の前で止まると、そこからぴたりと存在感がなくなった。
扉をきちんと閉めていて良かった。しかしまだ怖くて身体は動かせない。
数分経っても何もないので、緊張も解けてきた。徐々に深い呼吸をする。目はまだ開けていない。このまま寝られれば良かったのだが、残念ながら意識はいつまでもはっきりしたままだった。
薄目を開けてみる。
馴染みのある白い天井が見えるだけで、特に異変はない。
安心して、もう少し見開いてみる。
どうやら恐怖は過ぎ去ったらしい。もしかしたら扉の前で何かが立ち往生しているのかもしれない。このまま朝になって消え散ればいい、と楓は心の中で勝ち誇った。おまじないをした事実そのものが心強いお守りになっているようだった。
目を閉じ、深呼吸する。明日はアルバイトだ。楓は凛都とも勤務時間が被っている。寝不足で酷い顔を見せるわけにはいかない。
寝返りを打とうと不意に目を開けると、その異変に即座に気づいた。さっきまで白かった天井に人の顔の大きさほどの黒いしみがあるのだ。
「え?」
楓は愕然とした。ちょうど顔の正面、真上にあるそのしみは、だんだん大きく、というより立体的に見えるようだった。
しみから小さな唸り声が聞こえた。平仮名に濁点をたくさんつけたような、喉の詰まった苦しそうな唸りだった。
部屋全体が微振動し始めたことを楓は察知した。ほぼ同時に嗅覚が、線香の匂いを捉えた。一気に老婆と過ごしたあの家の空気感を思い出す。
ぅ゛ぅ゛ぅ゛と唸り声が続く。
鼻、口、額、目、骨格、髪。
黒い立体物は顔をかたどっていた。髪だけが薄暗い細い白になっていて、それが誰の顔であるかは見当がついた。
――何で?
自分の影に苦しめられるならまだしも、なぜあの老婆がこのような姿で自分の前に現れているのか、楓には分からなかった。呼吸が荒くなって、いつの間にか生温い涙が零れていた。
唸り声と振動は大きくなるばかりだった。目玉のない黒いマネキンのようだが、造形は老婆そのものになっている。
楓の身体は動かなかった。声も出ない。ただ、恐怖と悲しみが心を支配して縛りつけた。
――やめて
――やめて!
心の声を振り絞って訴えていると、突然、黒い老婆の唸りが止まった。
静けさも束の間、老婆から仏壇の鈴の音が鳴った。その音と共に、グチャッと汚らしい音で黒い老婆に眼球がつく。白目とのコントラストでこちらを見ているのがすぐ分かった。そして目が合う。
全身の身の毛がよだった。
さらに顔はその重量に負けるかのように勢いよく落下してきたのだ。楓にぶつかる目前、わずか数センチの所まで迫って停止。天井から見えない緒で繋がっているようだった。
そして接近したその顔は老婆のあのしわがれた声で喋った。
「自分をしっかり持って」
言い終わると黄色い歯を見せ、ヘヘヘへへと笑った。天井の根本から分離して溶けるように、ゆっくり後ろに一回転し、楓の胸元に落ちた。
人の首の重みを体感し、楓はようやく出るようになった声で精一杯絶叫した。




