4話②
部屋の中がわずかに振動しているのだ。きっと立って動いていれば気づかない程度の揺れである。
楓も揺れに気づいたのは音がしたからだった。仏壇に置かれた仏具がカタカタと物音を立てている。気になったが、滲む自分の姿から目を離すことはできない。
詠唱は数分に及んだ。老婆もだんだん熱がこもってきていて語気が強くなる。微振動は続き、心なしか手に触れている水晶の表面も熱く感じられた。いつの間にか線香の匂いもしなくなっている。
まるで乱視にでもなったかのようにぼやける自分の様相はますます悪化した。いよいよ歪んで見える視界に気分も悪くなってきた頃、仏壇の中の方で何か小さな板のようなものが倒れた。振動で落ちてしまったのだろうか。遠くの工事現場が少しずつこちらに近づいてくるかのように、揺れも大きくなっている。
その時、楓は鼻の下辺りに違和感を感じた。急に鼻水が垂れたと思って焦ったが、このさらさらと流れる感覚は鼻血だとすぐに理解した。しかしおかしい。鏡に映る楓は平気な顔をしていて、鼻血など流していないのだ。
口に垂れてきて、一瞬だけ舌を出してみるとやはり血の味がした。鏡の自分も同じように舌を出している。それでもやはり、血は流していない。
両方の鼻から、激しく雨漏りするように流れた。顎を伝って落ちてズボンへ染みるのを感じた。さすがに危険を感じ視線を外しかけた。
「集中!」
老婆が今までにない強い口調で楓に叫んだ。ぼんやり弛んでいた意識がはっきりし、焦点も元に戻り始めた。変性意識のような状態から現実に引き戻された感覚になり、楓は自分が自分であることを改めて自覚させられるようだった。
鼻血も止まり始めた感覚があり、このまま収束へと向かうかと思ったが一筋縄ではいかない。鏡に小さなひびが生じ始めた。それはあっという間に広がり、鋭い破壊音と共に楓の顔の欠片は無残に散った。
同じくして老婆の詠唱が止んだ。揺れも静まっている。沈黙の後、老婆が終わりだよ、と告げ、無事におまじないと呼ばれるものは終了した。楓からしてみればこれは十分危ない儀式であった。
「ずいぶん手ごわかったねー」
そう言う老婆の額には汗が流れていた。老婆は楓の顔を見るなり慌ててティッシュを取りに行った。何重にも見える割れた鏡にはたしかに鮮血が映っていたが、膝の上は思ったよりは汚れていなかった。
――血を流していなかった鏡の中の自分はやっぱり……
「症状が軽ければこんなことも起きないんだけどね~」
楓は顔を拭い、老婆は雑巾で掃除した。
「私、大丈夫なんですか?」
「普通は一回で終わりなの。一回これをやればみんな嘘みたいに治るのよ。ただあなたの場合は……。来週、もう一度来てくれるかしら?」
楓は立ち上がろうとするとふらついた。その様子を見て老婆がもう一杯の茶とようかんを用意した。
「あの、携帯とか持ってないですよね?」
楓はスプーンでようかんを切りながら尋ねる。
「持ってないのよー」
「ですよね。何かあった時にすぐ連絡できたら心強いなと思ったんですが……」
「だいたい家にいるから、困ったらうちの固定電話に遠慮なくかけてもらえればいいからね」
そう言って老婆は乱れた仏壇の上を片付けている。どうやら灰が飛び散っていたようで、ウェットティッシュを用いて拭いている。
「携帯もあれば便利なのは分かるんだけどねー。でも何でもかんでもデジタルなっちゃうのがどうもね」
「デジタルは嫌ですか?」
「便利ってことは、私たちってだんだん何もしなくなるじゃない? 頭も身体も使わなくてよくなっちゃう。年寄りがそんなことしたらますますぼけるじゃない」
そう言って笑う老婆の横顔はなぜか美しくみえた。
居心地の良さから一通りくつろいでしまった楓は、仏壇に手を合わせてから帰ることにした。遺影額縁には老婆の夫であろう人物と、その隣にはおまじない中に倒れたであろう写真立てがあって、母親らしき人物が屈託のない笑みを浮かべていた。
外に出ると夕陽が顔を出していた。いくらか身体も軽い。
来週もここにやって来てちゃんとおまじないを受ければ、ドッペルゲンガーから、この悪夢から、きっと逃れられる。楓はそう信じて老婆の家をあとにした。




