4話① 『侵食』
待ち受け画面には”15:18”と表示されている。楓は老婆の家の前に到着していた。
楓は目覚めると便座に座ったまま両腕を広げ、天を仰ぐような格好だった。長い間、悪夢を見ていたような気がした。しかし床に落ちていた携帯電話を拾うと時間は”14:49”。まもなくチャイムが鳴ったが、授業などもうお構いなしに至急、財布を取り出した。
夢だったのか定かではない不思議な感覚に見舞われたが、右の人差し指の痛みと腫れだけがあまりに現実味を帯びていて、楓はおちおち休む暇もない。
「すいませーん」
老婆の家にインターフォンはついていなかった。楓は引き戸の隙間から家の中を覗いて声をかけた。
玄関は整然としていて広く、奥へと廊下が続く。老婆がこちらに向かってくるような物音がしなかったので、楓はさらに引き戸を大きく開け、一歩踏み出してみる。
「すいませーん!」
声が響く。耳がよほど遠くない限り、家の隅まで聞こえる声量のはずだった。敷居を跨いで身を全て中に入れる。古い木板の匂いと、線香のような香りがした。
電話番号は固定電話のものと思われるため、当然在宅しているはずだった。楓は騙されたような気持ちになったが、ここで帰ってしまうわけにはいかない。藁にもすがる思いだった。
「すいませーん!」
さらに声を張る。
「あら」
後ろだった。
「わっ」
振り返ると、例の老婆が立っていた。
「ごめんなさいねー。庭の手入れしてたのよー」
外から現れるとは思っておらず、楓は気が動転した。一つ一つの事象に敏感になっている時に、このような登場は心底やめて欲しかったが、いちいち怒っている場合でもない。
「どうぞ座ってください」
居間に案内され、こたつテーブルの前にくたびれた座布団が敷かれた。老婆は茶を準備しに台所へ向かった。これと言って目を引くものはなかったが、押入れの横にある仏壇だけが存在感を放っていた。
線香をあげたばかりなのか、小さな煙が気流に乗って時折見えた。
「どうぞどうぞ」
やがて老婆が戻って来て、丸いおぼんに乗った湯呑みが置かれた。温かく、身体に染みた。そういえば水分を全く取っていなかった。
「それで、やっぱり何か困ったことが起きてるの?」
老婆の最初の質問を皮切りに、楓はこれまでの経緯を話した。特に最近の散々なエピソードには言葉が詰まった。そして先ほど起こったトイレでの体験はおぞましく、また身体が震えた。
老婆は急かすことなく、穏やかに耳を傾けた。
「それは辛かったねー」
ちょっとした共感が今は救いになった。
「私ね、あなたに似た症状を抱えてる人、知ってるの」
「ほんとですか?」
「ちょっと待っててね。見せたいものがあるから」
そう言うと老婆は膝をかばうようにゆっくり立ち上がり、どこか別の部屋に行った。よいしょ、よいしょと掛け声と共に重そうな板を持ってきたので楓も手伝った。表を見るとそれは鏡だった。そして鏡を立てる木製のスタンド、両手に収まるサイズの水晶玉のような物が運ばれ、こたつテーブルの上に置かれた。
「私ね、母が霊媒師してたのよ。子供の頃よく家に霊障に遭ってる人たちが来ててね。その時に多かったのが、自分がもう一人いる気がするっていう相談だったのよ。その時にね、母がやっていた対処法を教えてもらったことがあってね」
楓が不安そうに話を聞くので、老婆は静かに笑った。
「大丈夫よ。大したことじゃないの。何の霊感のない私にもできるんだから。おまじないみたいなものよ。でもね、効果はすごいのよ。ほんとに悪いことが起こらなくなるんだから」
そうして楓は水晶玉を両手で抱え、自分と玉が映るように鏡の前で正座した。目が腫れて、不安げで、酷い顔をしていた。
「あなたは鏡に映る自分の目を見つめてるだけでいいからね。できそう?」
正直、楓の中で怪しさと怖さは拭いきれなかったが、これで何も起こらなくなるのなら、実践する他なかった。
「大丈夫です。お願いします」
老婆は楓の反対側、元の位置に座った。楓からはちょうど鏡で顔が見えない。
「じゃあ始めるよ。自分をしっかり持って」
そう言うと、老婆は楓が聞いたことのない呪文を唱え始めた。その言葉は四字熟語のような、お経のような。おまじないとは言っていたものの、思っていたよりずっと本格的に感じられた。その長い文をしっかり記憶してある所を見るに、人生の中でたびたびこれを唱えてきたのではないかと思われる。
呪文を聞いていると、不安がだんだん溶けていくように肩の力が抜けていった。それと同時に異変も起こり始めた。鏡の中の自分が二重になってぼやけるのだ。度重なる疲労から目もおかしくなっているのか、はたまた眠気が襲ってきているのか。楓は何度もまばたきして焦点を合わせようとしたが、どうにも上手く自分の像が、輪郭が、瞳が、一点に定まらない。
怖くなって老婆に声をかけようかとも考えたが、この詠唱を中断してはいけない気がして耐え忍んだ。
異変はそれだけではなかった。




