3話⑥ 代わってよ
いつものように、楓、望実、優香の三人は次の授業に向かうため廊下を歩いていた。あまり相手にされないので二人にドッペルゲンガーのことを深刻に話すのはやめた。そして二人もあまり興味がないのか何も聞いてこない。
「あっ、そう言えば楓、後期の履修登録終わった?」
楓は望実に言われるまで忘れていた。
「やば! 忘れてた!」
「あれ金曜までだよ。組み終わったら見せてよ」
焦ってメールアプリを開くと、登録期日のお知らせと共にURLが送られていた。
「あれ?」
驚いて立ち止まる。URLを確認すると月曜から金曜までの時間割表が表示され、なぜか既に授業で埋まっていた。
「ん? もう登録終わってるじゃん!」
「楓ちゃん、登録したのを忘れてたの?」
優香がぽかんとして尋ねるので、楓は苦笑いした。
「そうかも~。また忘れてたー」
無理に笑顔を作るが、心の中は動揺していた。またやられた! ありがたいというより、悔しかった。何もかも先を越される。自分より優秀な自分の影。
「ヘイガールズ」
どんな授業を登録したのか話し込んでいると、渡り廊下で英語の講師に話しかけられた。
「あ、大門先生。こんにちは」
望実が挨拶し、楓と優香もそれに続く。
「こないだのペーパーテスト、あなたたちグレートな評価ついてるわよー」
「ほんとですか? 良かったです」
望実が明るく返し、そして優香に微笑みかける。楓だけは目を合わせられなかった。とても合格しているとは思えないからだ。
「ノゾミとユウカはもちろんパスしてるんだけど」
再試験の案内をされると思い、身体を硬くする。
「今回サプライズだったのはカエデ! 結構心配してたけど頑張ったねー!」
楓が顔を上げると、大門は親指を力強く向けていた。
「え? 合格、ですか?」
「オフコース。詳しい成績は授業の時にフィードバックするけど、カエデとユウカはA。ノゾミはS! コングラッチュレーションズ!」
大門は一通り早口で喋り終わると去って行った。楓は首を傾げる。
「良かったじゃん!」
望実が肩を叩く。
「楓ちゃん、これで安心だね」
「う、うん……」
二人は喜んでいるが、楓の表情は浮かない。
「絶対落ちたとか言ってたけど、ほんとはちゃんと勉強してたんじゃないの?」
望実の言葉に、試験対策の勉強をした記憶を思い出そうとするが、もちろんそんな事実は存在しない。
――また、ドッペルゲンガーが何かした?
因果関係のおかしいものはまずこれを疑う。
――でも明らかに悪いテストの点数にA評価がつくとか、どうやったって……
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる。先行ってて」
楓は混乱し、一人走り出す。
状況が悪化している。そう感じた。良いことが立て続けに起こっているとも捉えられるが、頻繁に、過剰に、何者かが作為的にこういった結果をもたらしている。ラッキーの範疇はとっくに超えている。
楓はリュックを肩から下ろし、壁面のフックにかける。便座に座り、深く呼吸をしてみる。息を吸うと咳が出た。いつの間にか、朝より顔が熱っぽい気がする。
授業開始まで残り五分。トイレには誰もおらず静かだった。とにかく心を落ち着かせたかった。
――何か最近、困ったことがあるんじゃない? 助けが必要になったら連絡してちょうだい
老婆の言葉を思い出す。
どういう助けが得られるのか理屈は分からないが、楓の心は次第にその言葉を受け容れ始めている。
それから一分ほど経つと、トイレに誰かが入ってきた。タイルを数歩、ゆっくり進んでこちらに向かってくる。楓が耳を澄ますと足音は止まった。入り口辺りの洗面所に立っているとも考えられるが、それにしては歩きすぎていると感じられた。
もっと近く。トイレの真ん中辺りでなぜか立っている。
携帯電話を触るならトイレに入ればいい。ましてや授業前。なぜそこに悠長に突っ立っているのか、音だけでは把握に限界があった。
楓の心拍数が上がる。最悪な予想が頭をよぎって消えない。
ここでトイレを出る勇気はなかった。そして、物音を立てることさえできない。息をひそめて、早くこの時が過ぎるのを待つだけだった。
やがてまた一歩、タンッと床が踏まれる。後退ではない。こちらへ前進してきている。楓の個室は奥から数えて二番目。もう四番辺りまで来ている音だ。
気まぐれに一歩ずつ進むなど、正気の人間がすることではない。
そこからは一瞬だった。タンッタンッタンッと一気に進んできて、案の定、楓の扉の前で止まってしまった。
もうだめだ。気持ちの整理がつく前に、その者はさらに畳みかけてくる。わざと怖がらせるかのように、ゆっくりゆっくりノックしてくるのだ。
楓は覚悟を決めて声を出してみる。
「入って、ます」
その存在感とは対照的に、楓の声は消え入りそうだった。
トン
トン
ノックは止まない。
「入ってます……」
対抗するようにもう一度言ってみる。しかしまるで呼応するかのようにその応酬は続いた。
「やめてください」
楓の願いは届かない。
トン トン トン トン
だんだんノックが早くなってきた。
「やめて……」
望実も、優香も、先生も、誰も助けに来ない。異常に長い五分。チャイムにすら見捨てられたようで、その時間は永遠に感じられた。
トントントントントントントントントントントントントン
「やめて! もうやめて!」
片手のノックではない。骨が折れてもおかしくないような強さで連打されている。
「いやだ! ごめんなさい、ごめんなさい。もうやめてください」
祈った。とにかく何をしてでもこの状況を鎮めたかった。
その気持ちが届いたのか何なのかは分からないが、突然扉の殴打が収まった。静まり返ったトイレ内。
「……代わってよ」
打撃音で耳がおかしくなりそうになっていたが、扉の向こうで聞こえた声は間違いなく今そう言った。
「代わってよ」
今度は顔を側面にべったりつけているような音量だ。
「嫌だ」
楓は思わず反論する。
「代わってよ」
もうその何者かが誰なのかは分かっていた。声が、楓と同じなのだ。
「代わらない。あなたの居場所なんかないよ」
恐怖心は飽和し、怒りへと転化され始めている。そして明確になった正体との対話を試みる。
「代わってよ」
「絶対嫌。私は私なの!」
言葉は強く出たが、声は震えていて、顔が熱くて、いつの間にか視界は滲んでいた。
返事はなかった。
沈黙。
強い意志によって打ち消し、いなくなった。そういう推測もできたが、不思議とまだそこにいると、楓は肌感覚で分かった。
もう五分どころではない時間が流れているはずだが、トイレでも聞こえるはずのチャイムは一切聞こえない。
肩で息をする。おそるおそる楓は天井を見上げてみる。蛍光灯の明かりがついているだけで、特に変わったことはない。
そこにまだいるかどうかの判別をする方法。あとは下の隙間だけだった。
楓はふと思いついてポケットの携帯電話を取り出す。画面の時間は”14:47”を表示していた。授業まであと三分だが、どう考えても時の進みがおかしい。そして液晶の左上には”圏外”の文字。
幸いにもカメラアプリは問題なく起動し、楓のアイデアは実行できそうだった。静かに足元に右腕を伸ばす。
画面越しに白のスニーカーが見えた。楓が思った通り、やはり影はまだしぶとく扉の前に立ち続けている。
それだけでも十分絶望だったが、そのスニーカーにも見覚えがあって、楓が今履いているものと同じようだった。楓の顔をした何かではなく、もうその存在は、所持品や身につけているものまで楓そのものといっても過言ではないようだった。
微動だにしないその足。カメラを向けながらどうするか考えていると、不意に床に鈍い音が響いた。同時にカメラの映像は黒くなった。ボーリングの玉のように重い、黒い塊が落ちてきたのだ。隙間からその塊の一部が糸のようにこちらに飛び出していた。
髪だった。
鈍い音は、高い位置から勢いよく首が落ちる音だった。さっきまでそこに立っていた人の形をしたものが、あっという間に異形になっている。
呆気にとられる楓は手を引くのが遅れた。携帯電話を掴まれてしまった。取り返そうと、指をあちらの陣地に近づけたことが運の尽きだった。今度は人差し指を影に握られてしまったのだ。
強く指を引っ張られ楓は呻く。その感触から、手の平で覆うように力強く握っているのが分かった。
「あぁぁ!」
痛みでたまらず叫び声を上げる。その邪悪な手は冷たく、人の温度ではない。楓の外身をしていながら、その実態、中身はどこまでいっても人ならざるものなのだ。あまりに非道な行為に、楓は死を感じた。ここで殺されてしまう。
指がもげそうになって、気が遠くなり始めた時、足元で影は激しい口調で言い放った。
「全部叶えてあげるのに!」
その言葉を最後に、楓は意識を失った。
それからどれだけの時間が経ったのだろう。
人の時間感覚ではそれを計れない。
次に目を覚ました時、楓は迷わず老婆に連絡を取る決意をした。
曇り空の下、身体を震わせながらその住所へと足を運んだ。




