3話③ 正体不明の存在
「お姉ちゃん?」
星良は楓の部屋の扉から明かりが漏れていることに気づいた。
「何ー?」
たしかに楓の声がしたので、星良は勢いよく開ける。
「いつの間に帰ってたの!?」
「んー? さっきだよー」
楓は星良に背中を向けたまま、パソコンで何やら作業をしている。
「全然気づかなかったんだけど」
「友達と電話してからじゃないの?」
そう言うと、楓は両腕を上げて背伸びした。
「冷蔵庫にアイス買ってあるよ」
くるっと振り返って、星良に笑いかける。
「え、まじ?」
「まじまじ。今から一緒に食べない?」
「えー、こんな時間に食べたら太るよー」
「たまにはいいじゃんっ」
そして楓は立ち上がると、一階へと足取り軽く下りて行った。星良は珍しく気の利く姉をわずかに疑った。何か良からぬお願いをされるのではないかと用心したが、それは杞憂に終わった。
手渡されたのは棒のついた苺の果肉入りのシャーベットアイスで、星良が一番好きなものだった。楓も同じものだった。
星良にとって楓の部屋に呼ばれ、面と向かい合うのは久しぶりのことだった。床やローテーブルの上は相変わらず散らかっていたが、転がっているキーホルダーやぬいぐるみはどれも可愛く、星良も思わず手に取っていた。
物をどけながらクッションの上に座り、二人はアイスを頬張り始める。
「見て」
楓は星良に携帯電話の画面を見せる。
「え、かわいい。どこの子?」
「バイト先の近くに住んでる子なんだー」
写真はSNSアプリ、Pictasにアップロードされたもので、毛並みの良い黒猫が窓越しにこちらを見ていた。
「てかお姉ちゃんピクタスに写真載せるの珍しくない?」
「あはは、たまには使いこなそうかなと思って」
「ふーん。見せたい人でもいるの?」
「まあねー」
「えっ、好きな人とか?」
「ま、あ、ねー!」
「だれだれ、どんな人?」
カチャン
恋愛話で盛り上がろうとしていたところだったが、一階で物音がした。二人ともその音を耳にしたので、会話は中断されて部屋は急に静かになった。
「パパかな? ちょっと見てくる」
楓がアイスを破いた袋に入れ直して、身軽に立ち上がる。
星良はおおよそ玄関から聞こえた音だと推測したが、父にしてはあまりに元気のない音だったので気になった。
そしてあのものぐさな楓が即座に立ち上がって行ってしまったことに驚いた。どうも今日のお姉ちゃんはハイになっている。そう感じられた。
星良はアイスをしゃぶって待つ。楓の足音が遠ざかり、階段を下り……。
「ん?」
楓は扉を開け放ったまま下りて行った。扉を開けていると、階段を下りていく音は最後の段まで聞こえ続ける。
トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、ト――。
それにもかかわらず、元気に下りて行った姉の足音が急に途絶えたのだ。まるで突然歩みを止めて、段の途中で片足立ちしているかのように。
静かな間が数秒あった。星良はアイスをゆっくり袋の上に置いて次の音を待つ。父の声も、楓の声も聞こえてこない。
トン
やがて新たに小さな足音が最下段の辺りで聞こえ始めた。
トン
さっきの勢いで下りて行った楓の足音ではなさそうだ。
トン
父であればもう少し重い音を立てながら堂々と上ってくるはずなので、それも違う。
トン
「誰?」
星良は思わず口にした。
トン
音が近くなるにつれ、だんだん恐怖が身体の芯から末端へと染み出した。
トン
何か、まずいものがこちらに来ている。星良の直感が告げた。どうにかしようと思っても逃げ場がない。立ち上がって向かっていくにはもう、距離が近すぎる。
トン
「お姉ちゃん?」
正体不明の存在に耐えかねて、音に向かって尋ねる。
「んー?」
返事があった。
「お姉ちゃんなの?」
「星良?」
元気のない足音が廊下へと続き、やがて音の正体は顔を見せた。
「何で私の部屋いんの?」
星良と目を合わせた、最初の一言がそれだった。
「何だーお姉ちゃんかー。何してたの? パパは?」
「パパまだ帰ってないけど……。てかまじで何してんの?」
「何って、アイス食べてたんじゃん。途中で静かになるから何かと思った」
「どゆこと? 今日疲れたからもう出て行って。てか星良、人の部屋でアイス二つも食べてんの?」
星良は眉間にしわを寄せて楓を見つめる。
「お姉ちゃん、さっきまで一緒に食べてたじゃん」
「……それ、ほんとに言ってる?」
楓の声色が変わった。
「え……そうだよ。アイス食べようって誘ってきたのお姉ちゃんだよ?」
楓はそれを聞いて、唸り声を上げながらその場で崩れるように丸まった。
「え、どうしたの? 大丈夫?」
あー、とか、もうー、とか一通り声に出して楓は頭を抱えた。
「それ私じゃないんだよー」
泣きそうにながら言う楓の言葉に、星良は背筋を凍らせた。
「は!? お姉ちゃんじゃなかったら何なの?」
「知らないよー……」
「え、怖いって」
楓が置いていった棒アイスがそのまま残っている。少し溶け始めて、中の苺の果肉が漏れ出ている。かじったところにしっかり歯形がついていた。まだ部屋に誰かがいた温かい空気を肌で感じる気がして、星良は冷たいアイスをそれ以上、口に入れることができなかった。




