1話① 『誕生』
ドッペルゲンガー
――自分と姿形が瓜二つの存在。幻覚の一種。または心霊、都市伝説。
満月が煌々と輝く九月。その光は、空き地のすすきに色濃い影を立てた。
大学生の清澄楓は窓から差し込む一筋と、ブルーライトに照らされながら、今日締め切りを迎えるレポートに四苦八苦していた。
「だめだ。ちょっと仮眠しようかな……」
時刻はすでに深夜二時を回っていた。今すぐベッドに飛び込みたい楓だったが、このレポートを明日の一限までに終わらせられなければ単位を貰えない。これを落とすと二年生までこの科目はお預けになり、再履修しなければならない。知らない一年生たちとまた同じつまらない授業を受けるなど、楓は考えるだけでぞっとした。
終わらせなければ余計に面倒なことになる。しかしそれを終わらすための頭が回らない。葛藤の末、楓はいったん立ち上がってみることにした。凝り固まった身体。ぼんやりする頭。まだ終わる気配のないレポート。ため息交じりにふと窓の方を見る。
今日は月明りがやけに強くて、薄い青のベールが、雑然とした部屋をどこか幻想的に見せている。吸い込まれるように窓際へ歩き、そして開け放つ。涼しい夜風が楓の身体を撫でた。
「あ、満月だ」
ネットニュースで今日は”何とかムーン”だと紹介されていたことを思い出す。バイト帰りは疲労と、レポートのことで身体が重く、満月に気づく余裕がなかったのだ。もちろん本当は今もそんな余裕はない。
「何か……綺麗……」
普段は雪月花になど興味のない楓だったが、今夜の月は一味違うようだ。
「お月様、面倒なこと全部代わりにやってくれませんか? もう私うんざりです。何もかも」
そんなことをつぶやいて、数十秒のあいだ月を眺めていたが当然、月に変化はない。
「あーあ!」
ばかばかしくなってわざとらしく嘆く。まるで月のせいにするように。
成り立たない対話を終了して窓を閉めようとしたその時、弓矢のごとく鋭い突風が吹いた。ショートヘアがぶわっと後ろに流れ、思わず後ずさりする。
「もう、何!」
何となく月に怒られたような気分になって、急いで窓をスライドする。やらなくちゃ、と再び勉強机に目をやる。
気を取り直して座ってからどれくらいの時間が経っただろう。楓はとうとう睡魔に負けて眠っていた。机に突っ伏して、苦しそうな寝息とパソコンのファンの音だけが続く。
デスクライトとディスプレイによって浮かぶ楓の濃い影とは別に、外の明るさでほんのり出現しているもう一つの影があった。疲れ果てて平たくなっているその影は、楓が動かない限りもちろん動かない。それが自然な影だ。しかしこの満月の夜、その常識は通用しない。
影は、鳥の雛が卵をつつくように隆起し始めたのだ。むくむくと、着実に、影の殻は割れていった。そして赤ん坊の手が出るくらいの穴が開いたその時、中から新たな影がもわもわと漏れ出てきた。
やがてその新しい影は、楓の後方で姿形をあっという間に変えて、人間の風貌となった。
元の影はというと、何事もなかったかのように元の形に戻ってうずくまっている。
新しい影は、楓を模倣していた。まだ風呂に入っていないぼさぼさの髪。毛玉のできた上下のスウェット。華奢な腕に、首元のほくろまで。そして影は目覚める気配のない楓の耳元に近づき、こっそりつぶやいた。
「おやすみ、楓」




