氷の華
「やあ、おはよう。昨晩はよく眠れたかな?」
「…………」
翌朝、朝食の後に地下牢へ行けば、ベッドの上に腰掛けた彼女が舌打ちと共に出迎えてくれた。
こんなに薄暗くてはハッキリと顔色も窺えないが、明らかに歓迎されていないのはわかる。やはり俺のことを信用して貰う為にはもう少し時間がかかりそうだった。
「朝食は……やっぱり食べていないんだね。昨日、一昨日と何も口にしていないと聞いているよ。警戒する気持ちはわかるが、何か食べなくては身体が保たないよ?」
牢の中に備え付けてあるテーブルに置かれた手付かずの料理をチラリと見て、いかにも心配していますという表情を作る。
正直本当に心配はしている。
水さえ飲んでくれていないのだ。フロスター対策の開発をする前に身体を壊されてしまってはこちらが困る。
そんな俺の心情など露知らず(知られても困るが)、彼女はハッと嘲るように笑った。
「こんな朝っぱらから地下牢に来て、わざわざ罪人の食事チェックか……“王太子殿下”っていうのは案外暇なんだね」
わかりやすい皮肉だ。
そんな子供のお遊びみたいな嫌味に、一々感情を表に出す程俺は馬鹿ではない。
ニコリと女が好きそうな微笑みを浮かべると「例え忙しくても、好きな人に会う為なら何だってするさ」と言ってやった。
「近くにいるなら尚更、ずっと一緒にいたいと思うのは当然のことだよ。だって好きなんだから」
「……好き……ねぇ……」
彼女が小さく呟く。
心なしか寒気がするのは気のせいだろうか。
鳥肌が立つ感覚に首を傾げていると、いつの間にか彼女はベッドから立ち上がり格子の近くまで来ていた。照明に近くなったお陰で、彼女の目の下に薄ら隈ができていることに気付く。
「ねぇ、ソレ本気で言ってんの?」
彼女が冷たい目線でこちらを見上げて来た。その視線にゾッとする。
ソレとは“好き”のことだろう。
異様な寒気は気になるが、ここで「否嘘です。好きではありません」などと言う選択肢は当然ない。
「勿論、君を本気で愛しているよ」
戸惑いが表情に出ないよう、笑顔の仮面を貼り付けながら返すと、彼女は嘲笑の笑みを浮かべた。格子の隙間から陶器のように真っ白な手を伸ばして俺の頬をするりと撫でると、少しだけ肌に爪を立てる。
その手はゾクリと身震いする程冷たかった。
「どうし……」
「本当に好きなら、私のこと怖くないってことだよね?」
俺の言葉を遮って、彼女が首を小さく傾げる。
その目は明確な敵意を宿していた。微塵もこちらを信じていない目に、何を言っても無駄だと悟る。
それでも答える選択肢は一つしかないので、仮面のまま口を開いた。
「勿論。怖くなんてないさ。君がどんな人であっても、私にとっては可愛くて愛しい唯一の女性だ」
返事と一緒に口説き文句を加える。
口説き文句は嘘八百もいいとこだが、怖いか怖くないかで言えば、結論として本当に怖くはなかった。
そもそも罪人と言えど、相手は自分より歳下であろう少女。しかも、フィオーレの国境に攻め入る時も、他のデゼールの幹部達と違って、彼女はフロスターばかりに闘わせて自分で戦闘をしたことはなかった。開発班のエースということは、恐らく体術などは不得手なのだろう。
ましてや今は格子越しの牢の中。確かに手錠や鎖は付いていないが、檻の中に入ったか弱い少女に恐怖心を持てという方が無理がある。
だが彼女はフッと鼻で笑うと、ニヤリと八重歯を覗かせた。
「へぇ……これでも?」
瞬間、一気に目が醒めるような冷気が身体を吹き抜ける。
「!?」
「ッ!殿下ッ!!!」
ハクの叫び声と同時に地下牢に響いたのは一つの金属音。
自分の首元には、氷でできた蓮の葉が後一歩というところまで迫ってきていた。その鋭利な葉は、ハクの剣が受け止めてくれている。
もしハクの反応が遅れていれば、自分の首は刎ねられていたかもしれない。
まさかこんなところで命を狙われるとは思っておらず、思考がフリーズする中、命を狙ってきた張本人である彼女は非常にあっけらかんとしていた。
「へぇ〜、別に当てる気は端から無かったけど、アレに反応できるんだ。ただの側近だと思ってたけど、まぁまぁやるじゃん、君」
「い、一体何を……」
冷や汗を掻きながら、ハクが彼女に僅かな恐怖を映した目を向ける。もう既に蓮の葉は消えていたが、ハクは剣を下ろそうとはしなかった。
そんなハクの様子に満足したのか、彼女は見せびらかすように手の平を天井に向けると、小さく口を開いた。
「“グラースローズ”」
「「!!?」」
呪文に合わせるように、彼女の手の平から氷でできた薔薇の花が浮かび上がる。
信じられない光景に演技も忘れて目を見開くが、すぐに我に帰った。
「……デゼールの呪いの力かい?」
「さあ?一つ言えるとすれば、フラワーガーディアンの力で浄化することはできない、生まれ付きの力ってことかな」
彼女が意外にも素直に答えてくれる。
つまり呪いの類ではないらしい。
フラワーガーディアンの力は呪いの力を浄化できる。それができないとなると、どちらかと言えば“奇跡の力”に近い力なのだろう。もしかしなくともフロスターの冷気の元は彼女のこの力なのだろうか。
どうやってフラワーガーディアンの奇跡の力を超える呪いを生み出したのかと思えば、どうやらあの氷は彼女本来の持って生まれた、簡単に言えば特異体質……突然変異の力だったらしい。
道理で対策がないわけだ。
「薔薇の花……さっきは蓮の葉だったけど、どんな花の氷も生み出せるのかい?」
「……まあね。ちなみに私の氷でできた花粉を吸い込めば、肺が凍り付いて一瞬で死ぬよ?まあ、吸い込まなくても当たっただけで氷漬けだけど」
「へぇ、凄い力だね」
「…………さっきから、その余裕そうな表情ムカつくんだけど。何?脳みそ足りてないから、私の力の恐ろしさがわかってないの?」
ジト目で彼女が睨んでくる。どうやら俺のことを怖がらせたかったらしい。その反応には気分が良くなるが、それはそうとしてカチンとくる言われ様だ。
勿論、彼女の説明が全て本当なら、今すぐにでも断頭台に送った方が良い程の脅威であるということは俺もわかっている。
花粉は意識せずとも勝手に空気と共に身体の中に入ってくるものだ。そんな目に見えない小さなものに、当たっただけで死んでしまうなど厄介極まりない。
だが、脅威であることに変わりはないが、彼女が今までその力を一切使ってこなかったのもまた事実だった。
「酷いな、勿論理解しているよ。さっきも流石に死んでしまったかもと肝を冷やしたからね。でも、人は誰しも誰かを傷つける力を持っているものだ、大なり小なりね。それを使うか否かは自分次第。君は今までその力を一回も使ったことはないだろう?なら、怖がる必要はないよ。当てるつもりはなかったと君が言ったんじゃないか。私は君を信じているよ」
小さく微笑み返すと、俺は彼女の手を取った。相手に信用して貰う為には、まず自分が相手を信じているとアピールするのが手っ取り早い。
だが彼女は思いきり手を振り払うと、舌打ちを溢し、馬鹿にするように口角を上げた。
「ハッ!おめでたい奴だな。当てるつもりがなかったのは善意じゃない。殺す価値もなかったからだ!良いか?君らが私を捕まえてるんじゃない。私がお前達の命の手綱を握ってるんだ!私がその気になれば、城内にいる全員、今すぐ氷のオブジェにできるんだから、態度には気をつけろ!」
胸ぐらを掴まれ思いきり引っ張られると、先程彼女が出した薔薇の花を髪に挿される。
一瞬凍ってしまうのではと危惧したが、どうやら花粉以外には当たっても大丈夫らしい。
自身の命の安全を確認したところで、今彼女が怒った原因を考える。
彼女と話すのは本日で二回目だが、本気で怒っているのを見るのは初めてだった。大抵人を馬鹿にするように笑っているか、不機嫌そうにムスッとしているかのどちらかだというのに、今の彼女は格子が無ければこちらに殴りかかってきそうな程、目に見えて怒っている。
流石にこれはマズい。
この態度のデカい無礼な女を自分の言葉で苛つかせるのは快感だが、本来の目的を考えると怒らせて嫌われてしまうわけにはいかない。怒らせた原因を早急に改善して、この女に好かれなくてはならないのだ。
「ごめんね。怒らせるつもりはなかったんだ。ただ君に私は敵ではないと……君の味方だと信じて貰いたくて……不躾だったね。心から謝るよ。お詫びに……」
「これを」と言って渡したのは、ガラス細工の薔薇だ。別にお詫びの品として用意してきた訳ではなかったが、わざわざ職人に作らせた世界にたった一つの代物だった。
しかし、予想通りと言うか何と言うか、彼女は薔薇を横目で見ただけで受け取ろうとはしなかった。
「そんなもの要らない。謝罪もクソ喰らえだ。自分は私の味方だって?何で信じて貰えると思ってるんだ?自分の立場を考えてみろ。お前は誰だ?ロゼ・フィオーレ王太子殿下だ。私は誰だ?デゼール帝国幹部“フローズ”だ。フィオーレとデゼールは相入れない。子供だって知ってる」
「……確かにそうだね。でも私の名はロゼ・フィオーレだけど、君の本名は別にあるだろ?調べきれてないから知らないけど、もう君は“フローズ”ではない筈だ。デゼールの人間じゃない。……良ければ、君の本当の名前を教えて貰えるかい?」
心の中で彼女の言葉に「正論だな」と苦笑いを溢しつつ、表情だけは取り繕う。
まだまだ彼女については知らないことが多いが、“フローズ”というのはデゼールに入った時に与えられた名で、本名ではないらしい。フィオーレの捕虜となった今、もう“フローズ”を名乗る必要はない筈だ。
「……名前……そんなのあると思う?」
怒りが落ち着いて冷静になってきたのか、いつも通り嘲るように彼女が笑う。けれども、その嘲笑は俺に対してというより自分に対して向けているように見えた。
「……名前がないのかい?」
聞きながら、そんな馬鹿なと思った。
名前のない人間がこの世に居るとは思えなかった。
恐らくはフィオーレを捨てた時に同じく名前も捨てたのだろう。それとも“フローズ”という名を捨てられない程、身も心もデゼールに堕ちてしまったか。でなければ、既に本名そのものを忘れてしまったか。
どちらにせよ、彼女に本名を聞くことは難しそうだ。
「別に……名前なんてたかだが個体識別番号だろ。好きに呼びなよ。罪人Aでも、Bでも……まあ応えてやるかは別だけど。それよりもう帰れ。昨日も言っただろ?くだらないお喋りは嫌いなんだ」
「……」
そっぽを向いてしまった彼女を見て、これはここで引いた方が良いなと見極める。どんな時でも引き際は肝心だ。
「そうか、わかったよ。さっきは本当にすまなかった。受け取ってくれなくても良いよ。これは私のエゴだから……でも、せめてここには置かせてくれ。それじゃあ、また来るよ」
それだけ告げると、俺はガラス細工の薔薇を格子の前にソッと置いた。
手を伸ばせば拾える距離だ。受け取る気があれば、拾ってくれるだろう。まあ、その可能性は限りなく低そうだが……。
まだまだ口説き落とすには時間がかかるなと苦笑したところで、俺は地下牢から出て行った。
* * *
自室に戻れば、すぐに髪に挿された氷の薔薇を引き抜く。そして、すぐ後ろで控えているハクにそのままそれを投げ渡した。
「この薔薇はどうしますか?」
「花粉が出ないように細工しろ。折角のプレゼントだ。これからはその花を身につけて会いに行ってやるさ」
「………口説き落とす為ですか?」
少し間が空いて、ハクから言い辛そうに尋ねられる。
「当然だろ?国を救う為には絶対にあの女の頭脳と技術が必要なんだ」
何を今更と言わんばかりに言い切れば、能面なハクが珍しく哀しげな表情を浮かべた。
「では普通に取引すれば良いでしょう?彼女が死のうが生きようがどうでも良いなら、罪の減刑でも何でもしてあげれば良いじゃないですか。正直愛で釣って、利用するだけ利用したあげく処刑だなんて、あまりにも非道です。国民や臣下への印象も悪くなりますよ」
「民には情報を提示しなければ良いだけのことだ。臣下には、フラワーガーディアンの意見を尊重したとでも言えば良い。アリシア殿はまだ彼女を生かすことに納得し切ってないだろしな」
それでもまだ納得できないのか、ハクが何か言いたげに視線を真っ直ぐこちらに向けて来る。
仕方なく溜め息を一つ吐くと、俺は椅子に座って腕を組んだ。
「良いか、彼女の力は脅威だ。氷の力も含めて、彼女の頭脳と技術……全てが国の存亡に関わる。仮に取引をして一時的に味方になったとしても、取引が終わればあの女は敵に戻る可能性が高い。そうなったら?敵に戻った彼女が再びデゼールに力を与えたら?もう打つ手が無くなるかもしれないんだぞ。確かに個人的にあの女の生死はどうでも良いが、王太子としてあの女に生きててもらっては困るんだ」
* * *
『……用が済めば、あの女には死んでもらう』
少しのノイズと共に思った通りの言葉が直接耳に入ってくる。
先程殿下が置いていったガラス製の薔薇を手で触りながら、フッと小さく笑った。
……何が「本当に愛してる」だ……。
声には出さず、この国の浅はか過ぎる王太子に呆れた。
こんなちゃちな策略に気付けないと思われているのも腹立たしいが……それよりも……。
……『フローズ、君を愛してくれる人間など居ない。だから、私の為だけに働きなさい』
昔かけられた言葉が脳内で再生される。
そんなこと一々思い出さなくたって、骨の髄まで染み込んでいる。
「……知ってるよ。どうせ、誰も私のことなんか――……」
手の中では凍り付いたガラス細工に大きな罅が入っていた。