21:仕組まれていたのか
義行の電話から二時間余り、沙絵子は一人事務所でテレビにかじりついていた。湊斗の住む都営団地の事件現場が、上空や地上から様々な角度で映し出され、不安をかき立てるようにアナウンサーがまくし立てている。未成年の凶悪事件はいつ収束を迎えるのかだの、まだ犯人らしき少年の確保に至っていないだの、それは事務所に取り残された彼女の心をかき乱すには十分すぎた。
現場に駆けつけ、一緒に湊斗を探したいと沙絵子が思っても、それは警察が許さないだろう。これ以上の混乱を避けるため、関係者はむしろこうして連絡を待つしかない。
途中、水田から連絡があり、湊斗が現場からいなくなっていること、彼の母親が担架で運び出されたことを聞く。恐ろしいことが起きていると思った直後、今度は柳澤生体研究所から電話が入り、電話やメールではお伝えできないことがありますので、至急社長さんをこちらに寄越してくださいと言われる。
そこまで立て続けに事態が変化していくと、沙絵子の頭はどうしようでいっぱいになった。事務所で一人、誰も彼女の状況を理解してくれる人はいない。
困り果てている彼女の目に、窓ガラスに反射したパトランプの赤色が見えたのは、勇造の携帯にメールを打ってから三十分以上経過した頃だった。
彼女ははやる胸を押さえ、建て付けの悪いアルミの引き戸を力一杯開けた。事務所に向け走ってくるパトカーに、両手を大きく振る。急停車したパトカーに駆け寄ると、水田が後部座席から窓を開けて声を出していた。
「沙絵ちゃん、沙絵ちゃんゴメン、このまま待機」
運転手は沢口だ。こくりと一回軽く挨拶した後で水田に駆け寄る。
「え、何、聞こえない」
「だから待機だよ。このまま事務所で待ってて」
水田の声がよく聞こえないのは、車のエンジン音と車内から漏れる警察無線のせいだ。
自分の言葉が伝わってないのに苛々し、水田は後部座席の窓から半身乗り出して沙絵子の耳元に寄った。
「今、警察無線で連絡があって。事件に巻き込まれたらしい少年が、近くの公園で保護されたって。その少年が湊斗の行き先を知ってるかも知れないらしいから、そっちに一緒に向かうよ。悪いけど、今晩ずっと、事務所で待機しててくれるかな。勇造や香澄、警察からも連絡入るだろうし。俺も携帯持ってるが、錯綜しすぎててちゃんと連絡しきれないかも知れない。沙絵ちゃんが事務所にいてくれると助かるんだ。色々気になることもあるだろうけど、そういうわけでよろしく頼むね」
面食らい言葉の出ない沙絵子の頭を一回優しく撫でつけ、水田は身体を引っ込めた。
無線連絡を終えた沢口が運転席の窓を開け、いつもの優しいシワだらけの笑顔を見せる。
「一ノ瀬の嫁さん、すまんがそういうわけで」
沙絵子の返事も聞かぬ間に、パトカーはグンと勢い付けてUターン、そのまま来た進路を引き返して行った。
*
「駆除用ナノマシンは、体内に残留しているナノマシンを体内から追い出すとともに、排出されないナノマシンの働きを相殺させるものです。ナノマシンでの治療を止めたい患者のために、実際使われているシステムなんですよ。戦闘用ナノでもこれは有効だと、私は考えているんです」
柳澤はようやく勇造を呼び出した本当の目的について話し始めた。
薄暗い応接間、夜になって活発になった動物たちの声が廊下に響き渡る。おどろおどろしくも悲しげにも聞こえる彼らの声に鳥肌を立て、勇造はブルッと一つ身震いした。
「駆除用のを使えば、少年たちの身体から戦闘用ナノを排除できるわけですか」
メモをとれないのがよほど不服なのか、川嶋はいつもの癖でペンを走らせるような仕草をする。その手元に何もないことを確認した後、柳澤はそうですと答えた。
「ただ、途方もない作業であることは理解いただきたい。戦闘用ナノの保有者が全国にどれくらい存在するのか、実際血液検査に協力しなかった少年たちの中に、どれくらい保有者が隠れているのか、実数を掴まないことには話は進まないでしょう。相当の時間と金が必要になる。その費用を誰が負担するのか。国費だけでまかなえるのか。そして一番問題なのは、このナノだけが世に広まっているのかという点と、真相が暴かれたとき、それによって起きる混乱をどうやって沈静させるのかということです。恐らく政府と警察はそこで考えあぐねているんだと思いますよ」
「しかし、かといって国民をいつまでも騙しておけるとは思えません。所長だって、そこはわかってるんでしょう」
「じゃあ聞きますが、経済日報さん、あなたの所の記事が原因で日本が内乱状態になった場合、社は責任を負いますか。それとも政府や警察に責任を押しつけますか。まさか田村一人に責任を負わせるとでも? デリケートな問題なんですよ。本当に、現実がわかってますか」
蔑むような目で川嶋を見下す柳澤。彼の言い分は尤もで、誰も反論できない。
「ひとつ、初歩的な質問をしてもいいですか」
勇造が話の流れを絶つように声を出す。
コーヒーを味わっていた柳澤は、ゆっくりカップをローテーブルに置き、姿勢を正して勇造に向き直った。
「戦闘用ナノをその田村という男が広めたのには何の意味があるのか。それがわからんのですが。日本中を混乱させて、彼に何の得が。何の罪もない子供たちに、生まれてまもなくナノ感染させたのはどうして。それがわからなきゃ、何も解決しないような気がするんです。もしかして所長は、そういうことを全部ご存じなのでは。我々一般人が知らないところで、一体何が行われているんです」
「――それは、高度に国際的な問題が絡んできますから、お答えしかねます」
柳澤はピシャリと言い放った。あまりにも気持ちのいい返事に、勇造は目を丸くする。
「言ったでしょう。内乱を続ける国々の実態。ヒントはそこにあるんですよ。私の口からはこれ以上言えません。あんまり言い過ぎると、我々も危ないのでね」
そう言って外を気にする柳澤の態度からして、この研究所で行われている実験の目的が何となく察知できる。つまり、ここも戦闘用ナノの開発に一役……。そこまで考えて、勇造はこれ以上深入りするのをやめる。なるほど、警察が出入りするには都合の悪い施設なわけだ。
「ところで夕方から、また都内で少年たちによる事件が起きているようですね。テレビはそれで持ちきりでしたよ。先ほど事務所に電話したら奥様しかいらっしゃらなかった。なんだか酷くおどおどしたような妙な様子でしたが、もしかして、あの湊斗君、事件に巻き込まれていませんよね」
これ以上言及されてはまずいと思ったのか、柳澤は無理矢理話題を変えた。それは勇造らを一気に現実へと引き戻した。
「その、まさかですよ。事件を起こして行方不明になってるのは、ウチの湊斗です。夕方自宅に戻ったと思ったら、連絡が入りましてね。事件現場は、まさに湊斗の自宅なんです。――恐らく、ナノが原因ではないかと踏んでます。ちょっとしたことがきっかけで、どうも『キレた』らしくて」
「私からも、一つ訊いていいですか」
今度は柳澤が勇造に質問してきた。
「午前中会ったとき、湊斗君の肌が少し浅黒かったのが気になったんですよ。彼、もしかして両親のどちらかが外国人じゃないですか」
「ええ、母親が確かフィリピン人だと聞いてます。夜の仕事をしてるとか。それが何か」
「いや、少し、気になってね」
柳澤はまた少し、思案しながらコーヒーをひと含みした。
「件の田村と最後に会った十数年前、彼は妙なことを言ってましてね。もし、意図的に人間を狂わせるとして、戦闘用ナノの使用でそれが可能かどうか実験をしているのだと。人間の出生や家庭環境の変化が人格形成に大きく影響するように、その対象人物の生き様によって戦闘用ナノのスイッチの入り方に変化が出るのかどうか。よくよく考えれば恐ろしいことです。彼はその時既に小児科医として働いていたんですから。私は単に、ナノの研究所を開こうとしていた私に彼が話を合わせただけだと思っていました。医師をしながら子供相手にそんな恐ろしいことを考えているはずはない、ただのネタ話に違いないと。しかし、今になって彼の在籍していた病院で診察を受けた患者らが次々に発症しているとなると、経済日報さんのおっしゃる通り、実際そう言うことが行われていたと考えるしかない。そしてもし、それらの仮定が全て事実で、私の記憶に間違いがないとすれば、彼は当時フィリピン人の女性と結婚し一児をもうけていたはずだ。確か男の子、名前は忘れたが、今年十六歳の誕生日を迎えているはずなんだ」