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とても遠くて、あり得ないほど近くに

 彼女を殺さなければならない。


 そう決意したのは五限目の授業中のことだった。

 気怠い午後の弛緩した空気。

 基礎を理解しないまま応用へ進んだ数学の授業は先生の平坦な語り口と相まって眠気を誘う。

 頭から抜け落ちた二次方程式を復習することを心のメモに書き込んだ。


 隣で大欠伸をする征人。

 外の風景も見飽きたのか、不意にこちらに顔を向けた。

 横目で様子を伺っていたことに気づいて笑顔を見せる。

 虫も殺さないような優しげな表情の彼が全ての元凶だとは彼女も思うまい。

 僕は内心の嫌悪感を表に出さないように表情を整えた。


 黙っていれば僕の見目はなかなかいい。

 誰も大それたことを考えているなどとは思いもよらないだろう。

 それはクラスでもイケメンと評される征人を見ていればわかる。

 付き合っていた先輩を中絶させたとの噂が立っても彼の立場は盤石だった。


 僕たちの認識は視覚からの情報に依るところが大きい。

 整えられた髪型と眉、つるんとした卵のような肌、清潔感のある服装。

 加えて精悍な顔つきに憂いを帯びた瞳。

 成績こそそこそこだが、サッカー部では不動のレギュラーだ。

 征人に話しかけられただけでクラスの女子が色めき立つのも無理のないことだろう。


 その征人が彼女に話しかけるようになったのは席替えで隣り合わせになってからだ。

 これまで彼女は恵まれた容姿を持ってはいても、おどおどした態度と拭いきれない雰囲気の暗さからクラスの中でも浮いた存在だった。

 家族以外でCHAINに登録されたIDは授業の発表グループのメンバーだけ。

 誰も積極的に彼女に関わろうとしなかった。

 彼女自身もクラスメイトとの距離を測りかねていた。


 そこに颯爽と現れた白馬の王子様が征人だ。

 彼女の反応が鈍くとも挨拶を欠かさず、毎日のように優しく話しかける。

 目敏くスマホの壁紙から好きなアーティストを知ると、すぐに全ての曲をダウンロードして話題を提供した。

 彼のコミュ力の前に貧弱な対人バリアなどないも同然。

 まして異性に対する免疫がこれっぽっちもない彼女が相手では、赤子の手を捻るようなものだ。


 彼女は餌に食いついた。

 他人との他愛のない会話に飢えていたからだ。

 釣り堀の魚のように入れ食いで身構えていた彼にとっては幾分肩透かしだったかもしれない。

 そして当然のように彼女は恋に落ちた。


 クラスの女子はさぞ羨んでいるに違いない。

 運良く征人と付き合い始めた彼女のことを。

 でも、それが長くは続かないことを僕は知っていた。

 噂が上書きされるまでの僅かな時間だ。

 すぐに溜飲を下げることになるだろう。


 征人の目的は彼女の心を奪うことではなかった。

 女に飢えているわけでも彼女の魅力に惹かれているわけでもない。

 友達との賭けに勝つことだ。


 クラスのちょっと変わった女を落とせるか。

 それが賭けの対象だった。

 教室の外まで聞こえてくるような大声。

 それを聞いた。

 聞いてしまった。

 嘲るような言葉の奔流。

 耳を塞いでも頭の中に流れ込んできた。

 不快な音は心をざわつかせ、落ち着かない気分にさせる。

 僕は扉の前でただ立ち尽くすしかなかった。


 何度も彼女を止めようとした。

 征人は見た目通りの男ではないと。

 だけど、僕では止められなかった。

 彼女にとって僕は守護天使のようなもの。

 見守っているだけで存在しないも同然だ。

 彼女に宛てたメッセージは不審がられるだけですぐにゴミ箱に捨てられた。

 僕の声は彼女に届かない。

 僕の手は彼女を抱けない。


 彼女と征人の関係は順調に進展した。

 春の柔らかな日差しでも夏の照りつけるような暑さでもない。

 初々しさと狂おしさのちょうど真ん中。

 自分からは積極的になれないくせに恋に対する好奇心は抑えきれなかった。


 この分では賭けは征人のひとり勝ち。

 行きがけの駄賃に彼女の身体もいただければ、ボーナスステージだ。

 そんな彼の計画に暗雲が立ち込めたのは、付き合い始めて一ヶ月が過ぎた頃。

 初めて彼女が誘いを断ってからだった。


 キスまでは受け入れた彼女も最後の一線は譲らず、征人の計画は足踏みを余儀なくされた。

 彼女の貞操観念が特別強いわけではない。

 現に求められるがまま唇を許した。

 自己評価の低い彼女が関心を引くために差し出せるものなどたかがしれている。

 それなのに彼が焦れた態度を見せてもその先に進むことは頑なに拒んだ。


 その原因が彼女の身体にあることを僕は知っていた。

 怖いのだ。

 恐ろしいのだ。

 征人に拒絶されるかもしれないと考えることが。

 体育の授業をことごとく欠席し、夏でも半袖を着ない理由。

 それは白い肌に残る蛸の吸盤のような無数の印。

 タバコを押し付けられてできたケロイドの火傷跡だった。


 母親はひとりで彼女を育てたが、男を見る目はまるでなかった。

 内縁の夫は幼い女の子を虐待して憂さを晴らすどうしようもない(クズ)でパチンコに負ける度、彼女の身体に火傷跡が増えた。


「おい、タコ! 家で大人しくしてろって言ったよな? なあ、聞いてるか? なあ? ふらふら出歩きやがってよぉ!」

「あっ、や、やめて、叩かないで!」

「このタコが!? 悪い子はどうなるか教えたよなあ? 忘れたのか? この頭は飾り物か?」

「ごめんなさい、ごめんなさい。お腹が空いていたの。もう、勝手に外に出ないから」

「言ってもわからない悪い子はお仕置きだよなあ。これは躾だから仕方ないよなあ?」

「い、いや、いやあああっ!?」


 いつも泣き叫んでいた幼い彼女もやがてそれが男の嗜虐心を満足させるだけの行為だと理解し、心に鍵をかけることを学んだ。

 嵐が過ぎ去るまで。

 頭を低くして。

 心をどこかに逃がせばいい。

 気付いた頃には何もかもが終わっている。


 彼女は辛い現実に立ち向かう勇気がなかった。

 当たり前のことだ。

 親の庇護もなく、成功体験もなく、希望を抱くこともない。

 水脈のない場所から泉は湧き出さないのだ。


 彼女が中学生となったある嵐の晩、男がふらりと姿を消して虐待は唐突に終わりを迎えた。

 母親も積極的に行方を探そうとしなかった。

 毎日のように遊ぶ金をせびる男に辟易していたのだ。

 部屋に残された僅かな荷物が捨てられて、その記憶も心の奥底へ封印された。


 母親は相変わらず彼女に無関心な一方で、仕事にのめり込んで家に帰るのも稀な有様。

 それでも凪のように訪れた静かで退屈な日々を彼女は楽しんだ。

 奪われることのなくなった生活費からマンガを買ってみたり、少しオシャレをしてみたり。

 その頃の僕といえば、ほとんど外に出ることもなく、一日中動画を見るように彼女の様子を眺めて過ごした。

 微かな満足感を胸に抱いて。


 しかし、そんな平穏な時間も終わりを告げる。

 このまま彼女が征人に手酷く捨てられるとどうなるか。

 僕には容易に想像がついた。

 征人という希望を失った彼女の心は粉々に砕け散り、生きる気力を失ってしまうだろう。


 そして自ら死を選ぶに違いない――。


 征人と付き合う前なら、彼女はまた自分の殻に閉じこもるだけだった。

 希望を知らなければ、絶望を知ることもない。

 心の拠り所となっている最後の糸が切れたとき、落ちる先は地獄だ。


 彼女を救うため、僕に何ができるか。

 このところ頭に浮かぶのは、その命題ばかりだ。

 解けないパズルを渡されたように、思考は同じ場所をぐるぐる回っていた。

 どこにもたどり着かないメリーゴーランド。

 息苦しさだけが加速する。


 征人の考えを変えさせることは僕には無理だろう。

 僕と彼との接点は彼女を通した細い糸でしかない。

 それに偽りから始まった恋をひっくり返せるほど駆け引きに長けているわけでもなかった。

 何もかもぶち壊すことはできる。

 だけど、その先はどうか。

 彼女の気持ちが晴れるのならまだしも、結果は何ひとつ変わらないだろう。


 彼女を救うためなら征人の命を奪うことさえ厭わない覚悟はあった。

 彼に捨てられるよりは幾分マシな結果かもしれない。

 ただ、相手は高校生だ。

 理由もなく姿を消したり、不審な死が明らかになったりすれば、捜査はかなり厳しいものとなるだろう。

 僕は自分の力を過信しても警察の力を甘くも見ていなかった。


 彼女が逃げてくれれば、救いようもある。

 そんな都合のいい道を選んでくれないことはわかっていた。

 彼女の一番の理解者である僕だから。

 僕と彼女は一連托生。

 彼女が死ねば、僕も死ぬ。

 それは逃れようのない運命だ。


 だけど僕は生きたい。

 生きていたかった。

 何の因果かこうしてこの世に生まれ落ちてから僕はまだ何も成していない。

 ほんの十六歳の 子供(ガキ)なのだ。

 明るい未来を信じるほど楽天的ではなかったが、もっと世の中を知りたいという欲求を常に小脇に抱えていた。

 彼女に死を選ばせてはいけない。

 僕が生きるために。

 何もかも吹き飛ばすような嵐の中での軟着陸が必要だった。


 周りがまったく見えなくなるほど真っ暗な絶望であってはならない。

 整えられた程良い強さの痛みを。

 その引き金を引くのは僕だ。

 僕が彼女を殺すのだ。

 夜明け前の薄暗闇の中で、彼女が息絶える様を見届けなければならない。



「ねえ、妙子。今日さあ、帰りにカラオケ行こうよ。シルドレの新曲が入ったんだ。もちろん二人だけで、いいよね?」


 征人が顔を寄せて僕の耳元でそう囁いた。

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